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“DREAM” 夢~Hondaの歴史~語り継ぎたいこと~

「語り継ぎたいこと」は、1999年の創業50年時に作られたHondaの50年史です。

1991年8月5日、本田宗一郎は84歳でその生涯を終えた。

1.限りない夢、あふれる情熱

・Hondaの誕生

・成長への過酷な道のり

・世界への挑戦

2.Hondaのチャレンジングスピリット

・エキスパートを生み出すシステム

・ついに果たした四輪業界への進出

・世界に市場を求め、需要のある所で生産する

・展開期に向けての爽やかなバトンタッチ

・先進性・独創性にあふれた技術・商品群

・ものづくりの本質を追求するHondaの生産技術

・レースへのあくなき情熱

・アイデアを出して大いに遊ぶ

・自然と人々と社会との共生


1.限りない夢、あふれる情熱

1948年9月24日、本田宗一郎は資本金100万円で、浜松市板屋町に本田技研工業株式会社を設立した。翌年10月には、終始、最良のパートナーとして共に経営に当たった藤澤武夫が、常務取締役として入社。
創業時に2人が目指したのは、世界一のオートバイメーカーになることだった。それは、1958年8月のスーパーカブC100の発売、1959年6月のマン島TTレース出場を経、1960年4月の鈴鹿製作所の発足によって現実のものとなった。

この『世界一』という夢をひたすら追い続けた12年間は、世の中もHondaも混沌、激動の中にあった。本田・藤澤と共に、この激動の時代を、限りない夢とあふれる情熱をもって生き切った人たちの言葉に、耳を傾けてみたい。

当時を髣髴とさせる語り口の中には、期せずして、本田・藤澤の二人から受け継いだHondaイズムが息づいている。

Hondaコレクションホールのエントランスに展示されている旧陸軍6号無線機発電用小型エンジンを改造した自転車用補助エンジンを付けた自転車(1946年10月)。このエンジンが本田技研の原点であり、夢の出発点であった。
ガラス面に刻まれた『夢』の文字は、創業者・本田宗一郎の自筆である。本田は常に大きな夢を抱き、その実現に向けて果敢なチャレンジを続けた


Hondaの誕生

1948年9月24日を覚えていますか? / 1948

1948年9月24日を覚えていますか? / 1948

「記憶がありませんね。全く。ということは、いつもと同じだったんでしょう」。
その日、そこにいた河島喜好(現、最高顧問)は言う。
「仕事が変わったわけじゃないし。夕方、退社のころ、『今日から株式会社になったんだって』と、だれかに言われた気がします」。

やはり従業員だった磯部誠治(元、ホンダエンジニアリング副社長)も言う。
「全員が集って創立祝い?そんなの、ありゃしません。社長の訓示もない。工場の看板も掛け替わっていなかった。古いまんまだったと思います」。

『本田技研工業株式会社』は50年前のこの日、創立された。資本金100万円。社長の本田宗一郎以下、従業員34人。ただし、およそ創立記念日らしい雰囲気は何一つなかったという。みんな、いつもと同じように夢中で働いていたのである。昨日までの『本田技術研究所』と、仕事の上では少しも変わらなかったのだ。1948年9月24日。この時、日本はどんなだったのか。当時を生きた人たちでさえ、もはや、遠い記憶になりがちである。まして現代の若者たちが、そのころの日本の姿を実感する術はないように思える。
ここで、ちょっと半世紀をワープし、創業の日に戻ってみよう。

当日の新聞は、ない。偶然、休刊日だったからである。

翌9月25日の朝日新聞の一面トップ記事は、『日独と速やかに講和マーシャル米国務長官国連総会で強調』とある。講和条約締結以前、敗戦国の日本は、まだ連合国軍の占領下にあった。
大見出しで『10月から労務加配増量。31業種を追加』という記事がある。それは要約すれば、一定の業種、キツい労働に携わる人たちに、主食の米の配給量を増やすということなのだ。例えば、炭鉱坑内夫は1日の加配量4合5勺、自転車組立工なら1合5勺など、仕事の内容によって差が付けられている。当時の一般人の米の配給量は1人1日3食分で2合5勺。1食分が、今の炊飯器の1カップ分にも足りない量である。主食を補うサツマ芋さえまだ配給制だった。飽食の現代からはとても想像できない食料不足・飢えの時代が、このころ続いていたのだ。

2面は社会面である。目立つ囲み記事の見出しに、『世界水準に近付く日本製品』とある。『終戦後まる3年、何から何まで不足だらけの問題性に苦しみながらも、世界水準に近づく製品がボツボツ現れ始め、わずかながら再生日本に明るい希望を持たせている』との書き出しで、真空管、カメラ、ボタン、人造真珠などが世界水準の80%程度に達するまでになっていることを紹介。『いずれも資材難にさえぎられている現状である』と結ばれている。

すべてが不足していた。新聞もその証拠に、わずか1枚2ページで、朝刊のみ。夕刊はなかった。

しかし、1948年の最も素晴らしいニュースは、水泳の古橋広之進選手の世界新記録樹立だった。彼は前年の1947年から400m自由形で世界記録を連発していた。この年には第2次大戦後初のオリンピックがロンドンで開催されたが、敗戦国日本とドイツの参加は許されなかった。そのオリンピックと時を同じくして開かれた日本水泳選手権大会の1500m自由形で、ロンドンの優勝記録を40秒以上も引き離す、世界新記録を打ち立てた。彼の活躍が、敗戦ですべてに自信を失っていた日本人に、どれほど希望を持たせたことか。そして、浜松生まれの古橋と同郷の遠州人・本田も、彼の偉業に大いに感動し、やる気を触発された1人だった。

戦争直後からほぼ1年、本田が自称・人間休業を家族に宣言して仕事らしい仕事をしなかったのはよく知られている。軍需工場の多かった浜松は、繰り返し激しい空襲を受け、見渡す限りが焼け跡だった。それまで経営していた東海精機重工業の工場も、瓦礫の山と化していた。航空機、船舶、自動車の生産は止まってしまい、製品であるピストンリングの需要も激減していた。しかし、こんなことが人間休業の理由ではなかったと思われる。

「東海精機の株を、トヨタさんに全部お譲りして、無職になってしまったの。『軍がいばりくさる時代が終わってよかったなぁ。これからしばらくは何もしないよ。お母さん、当分養っとくれ』って、本当にまるで働かない。食糧難の最中でしょう、お父さんのほかに育ち盛りの子供3人、庭を耕して野菜つくったり、私の実家は農家ですからお米を分けてもらいに行ったり。あの人は庭に出ても草1本むしらない。ひがな1日、庭石に腰掛けてるだけ。ご近所で評判の”何にも仙人”でしたよ。夜になると友達を集めて、知り合いの酒屋さんに内緒で売ってもらったドラム缶1本のアルコールで酒盛り。お父さんらしいのは、アルコールに炒った麦と杉の葉を入れて、ウイスキーっぽく工夫するところ。やらされたのは私ですけどね。やれ麦が焦げ過ぎたとか、口だけはやかましく注文して。そのうち、人のウワサでは製塩機をつくったとか、アイスキャンデー製造機をつくったとか聞こえてくるけれど、本人は何も言ってくれない。塩一つまみも、アイスキャンデー1本も家に持って来ないんです」。

本田夫人・さちさんが語る、模索の季節の本田の姿である。

ほぼ1年を経て、本田は動き出す。
1946年の夏、東海精機重工業山下工場の跡地に、弟の弁二郎や元東海精機重工業の従業員数人を呼び寄せて、かき集めた材木で小さな工場を建てたのだ。繊維産業の盛んだった浜松という土地柄から、自身で考案したロータリー式織機(しょっき)をつくろうとしたが、資金不足から不成功に終わったと伝えられる。花模様入りのスリガラス製造とか、編み竹をモルタルで固める屋根板製造とかも試みるのだが、いずれも、本田らしくなく、あっさり途中であきらめているのが印象的である。
これぞという、心から打ち込める仕事を、発見できずにいたのではないだろうか。

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旧軍用放出エンジンとの出逢い / 1946

旧軍用放出エンジンとの出逢い。 『夢』と『時代の要求に応える』出発点 / 1946

1946年9月のある日、友人の犬飼兼三郎氏の家を訪れた本田は、そこで偶然、小さなエンジンに出逢う。アート商会浜松支店を経営していたころ、タクシー会社をやっていた犬飼氏とは自動車修理を通じての古くからの知り合いだった。犬飼氏が、たまたま知人から預かっていた旧陸軍の6号無線機発電用エンジン。これを見た本田の頭に、アイデアがたちまちひらめく。運命的と言うべき瞬間だった。この出逢いが、彼の向かう将来を決め、後のHondaを生むことになる決定的瞬間だった。

本田は、もともと自動車修理工である。エンジンはお手のもの、そして、発明家である。
――これを自転車用の補助動力に使おう――
と思い付くのに、時間はかからなかった。
自転車に補助エンジンを付けるというアイデアは、昔からあった。イギリスなどで製品化され、戦前の日本にも少量輸入されていた。そもそも、モーターサイクルの発祥そのものが、自転車に動力を付けることから始まったのだ。補助エンジン付き自転車は、モーターサイクルの祖型・原型に近い。しかし、あったというだけで、戦前には全く普及していない。だが、戦前より劣悪になっていた日本の交通事情の中では、大衆の足は自転車だった。山のような荷物を積んで働く運搬道具でもあった。これに補助動力が付けられたら、どんなに楽か。どれほど役に立つか。人に喜ばれて、同時に商売になるアイデアを、本田自身が最も得意とする分野の中で発見したのだ。
すぐに試作が始まった。家にあった湯たんぽを、とりあえず燃料タンクに活用したというエピソードも、この時のことである。最初の試作は、このエンジンを自転車のハンドル前部に取り付け、ゴムの摩擦ローラーで動力を前輪タイヤの側面に伝えて駆動する方式である。いみじくも、フランスのベストセラー・モペッドであるヴェロソレックスに似た発想であった。しかしこの方式は、当時の粗悪なタイヤをすぐに擦り減らしパンクを起こしやすいことや、操縦性の悪さから早々にあきらめ、オーソドックスなエンジンレイアウトのVベルトによる後輪駆動方式に改められた。
だがここで、早くも独自のアイデアが採用されていることに注目しなければなるまい。手動式のクラッチ機構兼ベルトテンショナーの取り付け方で、これは実用新案として登録されている。
戦後のこの時期、ほぼ同時発生的に自転車用補助エンジンが日本のあちこちで登場する。偶然ではなく、時代の要求から生まれた現象であった。本格的なモーターサイクルは、戦前から存在した数社がわずかながら生産を再開していたし、全く新しいタイプの2輪車として、敗戦の年の1945年に、日本製スクーターの第1号・ラビットも生まれていた。
とはいえ、それは大衆にはとても手の届かない価格だった。これに比べて、自転車用補助エンジンは、何とか買うことのできる画期的に便利な乗りものとして歓迎されたのである。
Hondaの発端となった、この2ストローク50cc改造エンジンは、その中でも最も早い時期に登場したのだ。
『昭和21年晩夏、ススキのなびく浜松市山下町30番地の焼野原に、ささやかなバラックが建てられた。中にベルト掛けの古旋盤、外に工作機が約10台ばかり並び、入口に本田技術研究所の看板が出され、社長以下12、3名の従業員が忙しく働いていた』
とは、本田技研創立7周年に刊行された社史の冒頭の一節である。社長とは、言うまでもなく本田宗一郎。晩夏とだけ書かれているが、正確には9月1日であった。自転車用補助エンジンの発売が10月であるから、本田技術研究所は、この無線機発電用エンジンとの出逢いのほんの少し前に設立されていたのである。
「このエンジンに出逢うまで、いろんなことにトライしてたわけですが、どれもいま一おやじさん(本田宗一郎のこと)はノッていなかった。でも、この時は今までとまるっきり目の色が変わっていました。ゴムローラー方式が駄目だったから、エンジンを置く位置を真ん中にしようか、後ろに付けようか、ベルト駆動にするか、チェーンにするかなどなど。3日か4日、昼夜ぶっ通しで、やっていましたよ。私も一緒に手伝ったんです。その時にはもう、本田技術研究所の看板が出ていました」
と、磯部は、本田の熱中ぶりを語る。
「『こんなのができたから、お母さん、乗って走ってみろよ』、って1台家に持って来たんです。私が自転車を漕いで、食料の買い出しに行く苦労を見かねてあれをつくったなんて、あとでカッコいいことを言ってますけど、そんな気持ちも少しはあったかも知れません。だけどそれより、女でも扱えるかどうか知りたかったのが本音だわね。私はいわば実験台。人がいっぱいの表通りを走らされるんですから、1番きれいなモンペをはいて乗りましたよ」。
Honda前史における初の女性テストライダーとなったのは、さち夫人だった。通行人は、さぞ目を見張っただろう。自転車のくせにオートバイのようなものが、女の運転で走り回っているのだ。本田の目論見には、街での話題づくりも入っていたらしい。
「ひとしきり走って戻って来たら、一張羅のモンペが油でベッタリと汚れちゃってるの。これじゃあ駄目ですよ、お父さん。買ったお客さまに叱られてしまいますよ、と言ったら、いつもの『うるさい!よけいなこと言うな!』が出ないで『うん、そうだなぁ』って珍しく素直だったわよ」。
汚れる原因は、キャブレターからの混合油の吹き返しだった。さち夫人の意見通り、市販時には汚れを防ぐ改良が、きちんとされていた。
6号無線機発電用エンジンは、キャブレターで有名な三国商工の製品だった。本田は、小田原と蒲田の三国商工の工場に残されていたすべてを、素早く買い取った。
しかし、集めた500基ほどのエンジンを、単に駆動系部品を付けるだけで市販するような安易な方法は、決して採らなかった。1基1基完全に分解し、手を加えて組み直した上、自転車に取り付けて、試走してから売っていた。今の”完成車検査”のハシリである。少なくとも本田技術研究所の名を恥しめないだけの自転車用補助エンジンに仕上げてあったのだ。
こうしてできた自転車用補助エンジンは、もっぱら口コミで、たちまち評判になった。ウワサを聞きつけて、名古屋、大阪、東京などの大都市から、買い手が浜松にやって来た。
翌1947年3月、初めての学卒エンジニアとして河島が入所する。本田の自宅で、コタツにあたりながらの就職面接を経てのことであった。
「『学校出の人に払うような給料を、今のウチでは出せないんだ』、とお父さんが言ったのに、河島さんは、『それでもいいです』、と言ってくれたんですよ」
と、さち夫人はその時のことを語る。
「うーん、はっきり言いまして昭和22年でしょ。就職難の最中。もう、いくらでもいい。とにかくエンジニアらしい仕事をさせてもらえるなら、どこでもよかった。おやじさんは浜松では有名な技術者でしたから、その人のところで働けるのならって。それに家が山下町の隣の元目町なので、歩いて5分。交通費もいらない。確かに初めは安給料で、時々遅配もありましたが、親掛かりの独身ですからまあ大丈夫。今思えば、運が良かった(笑い)」(河島)。
明日からおいで、と、簡単に就職が決まった。
「で、入って最初の仕事は無線機発電用エンジンの改造です。毎週月曜に10台ほど運び込まれるのを、発電機部分を切り離して分解する。火曜にそれをキレイに洗う。水木金と加工をしまして、土曜に組む。土曜の午後から自転車に取り付けて試運転する。試運転といったって、近所の坂道を登るだけだけど(笑い)。それが終わったころには、かつぎ屋さん、今風に言えばディーラーさん、あやしげなヤミ屋的ブローカーさんたちまでが大勢待ってて、リュックに2台くらい詰め込んで、東京や大阪や、全国に運んでっちゃう。前金を置いてね。札束が見えて、おっ、今月は給料大丈夫だ、遅配じゃないぞ、って喜んだものです。
おやじさんは、すぐに従業員を怒鳴りまくるとか、そんなのが有名だけど、本田技術研究所時代には、こういうこともありましたよ。ある日、さち夫人が山下工場の事務所に来られた。『奥さんが見えたけど、何だったの』と聞いたら、経理担当の男が『お父さんが1銭も家にお金を入れてくれない。お買い物ができないから、悪いけれどお金を貸してちょうだい』って言って来られたんですと。おやじさんにしてみれば、従業員の給料のほうが優先なんだ。女房子供なんかあと回し(笑い)。そういう人物だったんですよ」。
河島は、付け加える。
「でも、これは本田技研工業株式会社になる以前の話。株式会社になってからは、こんなことは絶対になかった。昔、アート商会浜松支店が、おやじさんの個人経営から会社組織に変わった時も、それまで散々手伝わせた奥さんに、『明日からお前には仕事は関係ない。口も顔も出すな』と、厳命したそうです。全く公私混同をしないし、させない人でした」。
商品がよく売れているころさえ、本田技術研究所の台所は決して楽ではなかった。売掛け金の未収が多かったという。こと金銭勘定は、本田の最も苦手、不得意とするところだった。
「そこが不思議なんだなぁ。製品のコストとか、工場の生産効率とか、そういうことは、だれよりも厳しく合理的に考えられる人です。ところが、営業関係でのやりとりは全然駄目でした」(河島)。
改造エンジンが、間もなく底をつくのは目に見えていた。当然、本田は、次の準備に取り掛かる。もちろん、自分たち自身のエンジンの開発、Honda製エンジンの製作だった。

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『個性のない技術は、価値が低い』 / 1947

『個性のない技術は、価値が低い』。 いきなりHondaらしさが始まった / 1947

その試作エンジン第1号が、伝説のエントツエンジンである。本田は河島を相手に、ユニーク極まる新エンジンのアイデアを思い付き、”工場の床に描いて”見せたのだ。しゃがみこんで、床にアイデアスケッチを描くのは、終生変わらなかった本田の癖である。

「商売だけ考えれば、6号無線機のエンジンをそっくりコピーすれば問題はないんです。一応は、性能が出てるんだから。ところが、もうその時から、おやじさんそのものなんだな。そのままなんてのをつくるのが、絶対に我慢できない。マネするのが嫌なわけですよ」
河島は、本田の口での説明と、大ざっぱなスケッチを基に、懸命に設計図にしていった。
後々、エンジニアたちの設計に、
「どこが新しいんだ?どこがヨソとちがうんだ?」
と、真先に聞くのが口癖だったように、本田の初作品エンジンも、通常のエンジンとは異なるものだった。
エントツのニックネームが残るように、凸型のピストンと凸型のシリンダーヘッドを持ち、中央掃気という変わった掃気方式を採る常識外れの2ストロークなのである。モーターサイクル用エンジンにこの方式が使われた例はない。
このエンジンの狙いは、2ストロークの欠点を減らすことと、性能の向上だった。すなわち燃料の節減とパワーアップである。だが、このエンジンは生産に移されないまま開発をやめる。当時の工作精度も材料もアイデアに追い付かず、トラブル続出だったという。
しかし、設計図も試作品も消失していた幻のエントツエンジンは、半世紀近く経った1996年に、よみがえった。Honda歴代製品のミュージアム、Hondaコレクションホール(以降、HCH)のために、レプリカがつくられたのだ。この計画を推進したのは、HCH設立プロジェクトのリーダーを務めた佐藤允彌(まさひろ)であった。
再生を担当した恩田隆雅(現、本田技術研究所・チーフエンジニア)によると、現代の工作技術をもってすれば、それは本田の思い入れ通り、同時代の2ストロークエンジンのレベルを越えるパフォーマンス、特に、明らかな省燃費ぶりを発揮して見せたという。
理論的には正しい方向の1つ。ただし、前衛に過ぎたがゆえの失敗。それは、この後のHondaで何度も起きる。いみじくも最初のエントツエンジンの試作が、まさにそれであった。しかし、転んでもただでは起きない。失敗の経験を、後に必ず成功の糧にしてしまうのも、Hondaだった。

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初の市販製品・Honda A型 / 1947

『同じ苦労をするなら、先にしたほうがいい』。 初の市販製品・Honda A型。 一見、普通の2ストロークエンジンに込められた想い / 1947

エントツエンジンの開発が挫折して、急いで次の方策を考えねばならなかった。それが、Honda最初のオリジナル製品として市販される、Honda A型である。飛び過ぎたエントツエンジンのユニークさに比べ、かなりオーソドックスな2ストロークエンジンに見える。

「吸気系が、ありきたりのピストンバルブではなく、ロータリーディスクバルブをクランクケース側面に付けた。ですからキャブレターも、シリンダーの横ではなくクランクケースに付いている。当時としては画期的です。ああいうアイデアを出すおやじさんは、やはりすごかった」(河島)。
さらに、特許を取ったクラッチ兼用の手動式ベルト変速装置など、Hondaらしさは十分にあった。しかし、A型エンジンは、Hondaの初作品という名誉以外、ことさら注目を集めていない。だが、観点を変えると、Hondaらしい非凡さをいきなり見せたのが、このA型なのである。
「この時からもう、言い出してたんです。『ウチはダイキャストでやる!』って。砂型鋳造と違って、ダイキャストは金型をつくらなければならない。お金がかかります。そのころ生産してた程度の台数じゃとても採算が取れないから、普通の人ならそんなことは考えもしない。砂型で済ませる。ところが、おやじさんは『何が何でもダイキャスト!』でしたね」。

A型のHondaらしさは、メカニズムよりも、つくり方にあったと河島は言う。
ダイキャスト化とは、量産化を意味する。どう見ても大量生産工場からはほど遠い粗末な町工場の中で、誇大妄想と言われそうな生産手段が、冒険を承知でスタートしていた。
本田技研7年史には、
『原材料から直ちに製品への方法として、削粉を出さず、材料も少なくて済み、工程が少なく、美観のダイキャスト鋳造が社長の持論だった』
と書かれている。
「理想は大きいが、先立つお金がない。金型屋さんに相談すると、ひと型50万円も取られる。自分たちで何とかするしかないんです。まあ、あの時分にそれがやれたのは、社長の弟の弁二郎さんをはじめ、乏しい道具で工夫して、金型を手づくりしてしまうような人が社内にいたから、できたんですね。私も一生懸命手伝いました。大手の金型メーカーさんに頼んだって、名も知られていないHondaなんか、相手にしてもらえなかったんじゃないですか」
と、磯部は当時の苦労を語る。
「初期型は、一部だけダイキャスト。徐々に変えていって、後期型は大部分がダイキャストになってます。シリンダーヘッドも、シリンダーも、クランクケースも、外から見えないけど、コンロッドもロータリーバルブのシートも、ダイキャストでやったんですよ。
『同じ苦労をするんなら、先に苦労しろ』と、おやじさんは言うんです。『資源のない国の人間が削り屑を出すような仕事をするな。苦労は前工程でやれ。後工程の加工が要らなけりゃ、資源の無駄がなくなる。ここで精度が出せれば、そのための時間も人手も機械も要らないじゃないか』と。今思えば、塑性加工全盛の現代を見通していた。こんな考え方を、50年も前から、ぼくらはみっちり、たたき込まれていたわけです」(磯部)。

1947年11月、Honda A型の生産が始まり、直ちに発売される。改造エンジンの時には、”茶筒”のあだ名で呼ばれる円筒形の燃料タンクを付けていたが、A型ではアルミ鋳物のティアドロップ型タンクに変わっていた。浜松の遠州軽合金(現、エンケイ)がつくっていたアルミ鋳造の湯たんぽにアイデアを得て、A型用のタンクをそこへ発注したのだ。燃料注入キャップのボス、取り付けブラケットなどが一体成型できるこのタンクは、茶筒型に比べれば加工の手間がぐんと減らせるはずなのである。デザインの美しさにこだわる本田のこと、ルックスのカッコよさも、大きな理由だった。
そして早くも、工場設備にも、後年のHondaを予感させる独自のアイデアが現れ始める。1948年2月に、野口町にエンジン組立工場が新設された。ここには、本田の発案による、Honda初のコンベヤーラインが登場するのである。従業員の数といい、製品数といい、ベルトコンベヤー化するほどのスケールではなかった。しかし、ダイキャスト化と同じく、Hondaの未来への夢が、この時、動き出していたのである。

しかもそれは、作業する姿勢が楽で、部品の移動距離が短く、スペースが少なくて済む組立ラインという、それまでにない概念で考えられていた。まだ素朴なものだったが、基本思想そのものは、現在のHondaの工場に通底しているのだ。
しかし、従業員は大変だった。鋳造タンクもダイキャスト部品も、初期は巣穴だらけだったからだ。仕方なく、ガソリンやオイル漏れを防ぐのに、漆を塗る対策を考えた。
「樹脂を浸透させる技術なんか、まだありません。当時は漆が安かった。タンクには表から、クランクケースには裏から、ハケで手塗りする。ノー加工を目指したのに余分な手間は増えるわ、漆かぶれでひどい目にあうわで、参りましたね」
と、磯部は笑う。

コンベヤーラインも、思うようにスムーズには流れなかった。ノー加工が目標のダイキャスト部品がぴったり組み合わず、やはり手加工せざるを得なかったからだ。だが、工場を見回りにくる本田に、そんな作業をしているのを見つかったら一大事である。
「修正するためのヤスリ掛けなんか見られたら、たちまち雷が落ちる。『何でラインが止まってんだ!そんなデキの悪いものは捨てちまえ!』と。でも、そんなことしたら全部捨てなきゃならなくなる。”昨日入った新米でもピッと組める”が、あの人の理想なんですけど、まだ到底、そんなレベルじゃない。分かっていても、目の前で見ると腹が立つんでしょうね。とばっちりは部品を外注したり管理している山下工場にも行く。『おやじさんが来たぞ』って”空襲警報”が出ると、さっとヤスリとかハンマーとかの手直し工具を見えない所に隠して、大急ぎでコンベヤーを動かしたものです」(磯部)。
本田自身は手作業の達人だった。素晴らしい職人技の持ち主だった。しかし、
「ウチの製品は、組むのに腕だのコツだのが要るようじゃ駄目なんだ。工場の従業員も、販売店の修理工も、おれみたいなやつばかりじゃない。名人芸が要るようなものはつくるな」
と、本田は口を酸っぱくして言っていた。
「これがおれの哲学だ、なんて、そんなもったいぶったセリフは、あのころのおやじさんの口から出てきやしません。ぼくらだってその時分、哲学なんて思いもせずに受け止めていた。後になって、そういえば、ああいう一つひとつがHondaの思想の基本だったんだなぁ、と思いましたが」
と、河島は述懐する。
「おやじさんの怒鳴る、ぶん殴るは、古い時代の親方の徒弟に対する感覚です。しかし、言ってることは職人気質と正反対。新し過ぎるくらい近代的な経営者の感覚なんだ。このめちゃくちゃに矛盾しているところが、良くも悪くも本田宗一郎ですよ。コンチキショウって思いながら、なるほど、と感心させられるところがある。それで、途中で辞めもせずに、後を追いかけていったんです」(河島)。

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『製品に対しては、あくまでも親切であれ』 / 1948

『製品に対しては、あくまでも親切であれ』。 最初の製品から、それは実行されていた / 1948

「『お客さんに迷惑をかけるようなものをつくるな!』は、ここへ勤めた時から、イヤというほど、おやじさんから始終聞かされていました。『モノをつくる時には、それと1番長いこと付き合わなきゃならない人のことを考えろ』と。『1番長いのは、お客さんだろ。その次は売った店の修理工だろ。その次が、ウチの工場の人間だ。つくった本人のくせに、1番短いのは設計者だ。ずっと使う人の身になって考えたら、不親切なモノなぞ設計できねえはずだ!』と、おやじさんならではの言い方でね」
と、河島はじめ、当時のだれもが口をそろえる。

エントツエンジン再生の時、姉妹エンジンであるA型を詳しく観察した恩田は言う。

「びっくりしちゃいましたよ。いろんなところに、いわゆる”親切設計”がしてあるんです。それに気付いたのは分解した時で、あれ?このエンジン、ナット外しても、どこからも部品が落っこちないぞ、おかしいなぁ?って。例えば、クランクシャフトや減速機のベアリング部ロックナット、つまり、回転体を締め付けるネジなんですが、これがもし緩んでも、すぐにはトラブルを起こさない構造にしてある。ネジが完全に脱落しないか、脱落してもすぐには壊れないような工夫がしてある。具合がおかしいぞ、と気が付く間ぐらいは保つようになってるんです。安全性への気づかいですね。あのころはネジの精度が低い時代で、ナットなんかいくら締めたって緩むものと決まってた。だから、こんな工夫をしたんでしょうね」。

メンテナンス性にも、同じように細かな心づかいがしてあった。

「今みたいに専用特殊工具が用意されてないから、修理する人が困らないように、特殊工具なしで分解・組立ができる工夫がされてる。これも結果的には、お客さんへの親切です」(恩田)。

現代にも生かすべき設計思想がA型に込められているのを再発見して、恩田は感動したという。

ともあれ、『HONDA』の名を初めてタンクに飾ったA型は、大好評で迎えられる。例によってブローカーの人たちが、出来上るのを待ち構えて買って行った。浜松の近辺では、
「これに付けてくれ」
と、お客さまが工場へ自転車を持ち込んで来たし、自転車店ではA型を自転車に組み付けして販売する店が増えてきた。中には補強した自転車フレームを自製して売ることから始まり、ついにはHondaを見習ってエンジンの製造まで始めて、メーカーになってしまうところも現れるようになる。Hondaの成功に刺激されて、浜松だけでも大小とりまぜて40余りのメーカーが出現し、浜松はたちまち日本一のポンポンメーカーの街になっていくのである。ポンポンとは、補助エンジン付き自転車の、浜松風の呼び名である。

第1作・Honda A型で波に乗った1948年9月24日、『本田技研工業株式会社』が船出した。浜松駅近くの板屋町に本社が置かれた。といっても、一部屋だけの小さな事務所である。

A型に続いて、90ccの小型3輪貨物車B型を試作するが、車体を外注しなければならない上、いわゆるオート3輪の操縦不安定性が気に入らなかった本田は、試作段階で中止してしまう。

次に、A型エンジンをベースに96ccのHonda C型を開発する。C型は、A型の1馬力から、3馬力にパワーアップした。エンジン一式で販売するだけでなく、ペダル付きながら、モーターサイクルらしい特製のフレームをつくり、組み付けて売った。とはいえ社内には製作設備がなく、やはり外注だった。パイプ溶接のそれは、製作に時間がかかり、品質も一定せず、本田をいら立たせた。

C型で特筆しておくべきは、1949年7月に丸子多摩川で行われた『日米対抗オートレース大会』にHondaとして初の公式出場を果たして、クラス優勝したことである。

しかし、しょせん、本田の求めるレベルには達しない過渡的な製品だった。エンジンだけではなく、エンジンと車体一体型のモーターサイクルづくりに挑戦する意志が高まっていた。

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成長への過酷な道のり

本格的2輪車・ドリームD型登場 / 1949

『失敗を恐れたらチャレンジはできない』。 本格的2輪車・ドリームD型登場 / 1949

Hondaのモーターサイクルの累計生産台数は、1997年10月に1億台を突破したが、その最初の1台は、1949年8月にデビューした、このD型から数えられる。ドリームという、Hondaを象徴するかのような名前を与えられたD型は、Hondaがモーターサイクルメーカーになった夢の証しだった。このネーミングの命名者は今は判然としない。

「忘れちゃったよ。今に世界のHondaになる、って、おれが夢みたいなことばかり言ってたから、だれかがドリームって言い出したんだろ」
と、後年、本田は言っている。

「おやじさんは、やっぱり、うれしかったと思いますよ。ちゃんとしたオートバイですから」(河島)。

D型エンジンの設計図も、河島が担当した。
D型はC型からの発展型だったが、外観にはもう補助エンジンの面影はなく、モーターサイクルにふさわしいデザインに進化していた。D型の組立ラインには、動力式ベルトコンベヤーも採用された。自製の独特のものだった。

「傾斜したラインで、組立工程に従って高い方から低い方へ流れるんです。作業する人間の姿勢を楽にする工夫ですよ。スイッチを押すとベルが鳴って、1工程分動くんです」
と、磯部は言う。量産体制への、さらに積極的なチャレンジが始まっていたのだ。

「けれど、前にも言ったように、部品の精度がまだまだですから、手加工修正が必要で、コンベヤーがすぐ止まっちゃう。でも、このチャレンジと経験のおかげで、組立ラインに渡すのはノー加工部品という基本思想が、みんなの心の中にしっかり染み込んだんです」。

当時、国産のモーターサイクルは、すべて鋼管フレームだった中で、ドリームD型は、鋼板をプレスしたチャンネルフレームを採用していた。しかも、2輪車は黒い塗装と相場が決まっていたこの時代に、本田の好みで美しいマルーンカラーに塗られた。D型は、道路でひときわ目立って、Hondaの名を大いにアピールした。売れ行きも、出足好調だった。

「プレス鋼板のチャンネルフレームを採用したのは、質のいい鋼管が手に入りにくいこともあったが、おやじさんの目標は、生産のスピードアップと、工程の合理化だったんです。プレス化は、ダイキャスト化と並んで、おやじさんの日ごろの掛け声であり、信念の工法でしたね。パイプに比べれば、つくる手間が全然違うし、均質化もできる。溶接箇所も少なくて済みます」
と、河島は言う。

「でも、あのフレーム形式は独創じゃないんです。1920年代以来、ドイツや欧州のいろんなメーカーで使われてたし、日本でも戦前のミヤタが同形式。先輩車を参考にすることは、さしも人マネが大嫌いなおやじさんでも、初期には結構あった。ただし、丸写しのデッドコピーは、意地でもやっていません。だからD型にも、いかにもおやじさんらしい新しいアイデアが入っている。それは画期的と言えるアイデアでした。ですが、そのせいもあって、発売当初こそよく売れましたけど、どんどん売れ行きが落ちちゃった」(河島)。

D型の発売された1949年は、アメリカ政府とGHQからのインフレ抑止の命令で、日本政府がデフレ政策を実施させられた年であった。突然、不況の嵐が吹き荒れ始めたのだ。販売不振の理由は、不景気ばかりではなかった。このころからモーターサイクルの市場は、音のカン高い2ストロークより、低音で静かな4ストローク車を選ぶ方向に変わっていた。それに加えて、D型独自のメカニズムが、かえって足を引っ張ったのである。

「おやじさんは、今までのオートバイとは違うオートバイを創りたかったんだと思う。オートバイの運転で、1番コツが要るのはクラッチ操作です。クラッチミートは、マニュアルトランスミッションの自動車も同じだけど、ヘタをすればエンストとか、ガクンと飛び出すとか、どっちにしろ、初心者には苦手ですよ。だから、それをなくしちまおうと考えた。コツや要領抜きで、だれでも簡単に扱えるオートバイにしたかったフシがある。
本格的なオートバイは今でもそうですが、クラッチミートは手動です。ハンドル左のクラッチレバーを手加減で操作する。慣れればどうってことないんだが、おやじさんの考えからすると、それでは万人向きじゃないということだったんでしょうね」
と、河島は推察する。

すなわち、ドリームD型は、操作に慣れを必要とする手でのクラッチ操作を”省こう”とした画期的なモーターサイクルであり、当時の常識への果敢なチャレンジだったのである。

D型の実車を観察すれば分かるが、通常ならクラッチレバーであるはずの左手のレバーは、何と前輪ブレーキのレバーである。右手の短いレバーは、エンジンのキック始動を楽にしたり、エンジンをストップさせる時のためのデコンプレッション(圧縮抜き)レバーになっている。つまり、クラッチレバーは付いていないのである。

だからD型のクラッチ操作は簡単だ。シフトペダルを左足のツマ先で前に踏み込めば、一速に入る。足を離せばニュートラルに戻り、ペダルをカカトで後ろに踏めば2速に入る。コーンクラッチ機構による半自動的なクラッチシステムを持つ、日本最初の2輪車だった。

「こりゃあ乗りやすいオートバイだと、最初は大した人気でした。ところがしばらくすると苦情が出てきた。D型はローとハイの2段変速。ただし、ローに入れたまま走ろうとすると、常時、ツマ先でペダルを踏んでなきゃならない機構なんですよ。だから長い坂道なんかだと、ローを”踏みっぱなし”のツマ先はくたびれてくる。クラッチ操作なしはいいが、これでは困ると。そういうわけで、売れ行きが急に下降した。お客さんにとって良かれ、という想いが先走りをし過ぎての、これまた失敗でしょうね。不景気と重なって、こりゃヤバい、です。Honda最初のピンチでした」
と、河島は苦笑する。

『だれにでもやさしいオートバイを!』の挑戦は、成功とはほど遠い結果となった。もとより、失敗を予期してつくるはずもない。お客さまを満足させるレベルに、技術が熟していなかったのである。

「それでも、おやじさんは、意気軒昂(けんこう)なんです。メゲた顔なんか、われわれには見せない。『人生、失敗なんていくらでもある。いいと思ったことをやって、しくじったのは無駄にはならん。これじゃイケネエんだってことが分かっただけでも、儲け物なんだぞ!』って。
ちょうど、ドリームD型を発売した年の8月に、古橋広之進選手がアメリカに遠征し、全米水上選手権大会の1500mでものすごい世界新記録を立てましたね。2位をプール2往復近くぶっちぎって。ラジオは珍しく深夜放送をするわ、紙不足時代なのに新聞は号外を出すわ、日本中が興奮の渦です。特に浜松は、彼の地元ですから大熱狂でしたよ。今思うと、あのあたりからです。『世界一』なんて言葉を、おやじさんが口に出し始めたのは」

河島の記憶では、それまで『世界』というセリフを一度も聞いたことはなかったという。

「『日本人はアメリカに戦争で負けて、すっかり自信をなくしてる。けど古橋コウノシン(ヒロノシンが正しいのだが、本田はこう言っていた)は裸一貫頑張った。古橋が遠州人なら、おれだって遠州人だ、やらまいか!』と、こうなったわけ。私には『河島、おまえは中学で古橋の1級上だろ、しっかりせい!』と(笑い)。そのうち、どんどん言うことが過激になってきちゃって『浜松でボソボソやってたって、たかが知れてる、東京へ出るんだ』になり、ついには『世界一でないと日本一じゃない』という、あの名文句が出てくるに至るんです。そこまで発想が飛んじゃうか、すごいオッサンだなぁ、と、あきれ半ば、でしたがね(笑い)。夢のようなでっかい目標を、まず口走ってしまう。いったん口にした以上は、いつか必ずやり遂げる。それが、おやじさんです。そう分かったのは、ずーっと後になってからですが」(河島)。

ともあれ、1949年、きわめて困難な時期に、Hondaは本格的なモーターサイクルメーカーへ踏み出した。製品も、生産体制も、これまでにない新しい概念、日本離れしたコンセプトでのチャレンジ開始だった。

しかし、Hondaに欠けているものがあった。販売体制、営業政策である。こちらは、全くの旧態依然だった。こんな時、本田は、またもや、運命的な出逢いをする。藤澤武夫との邂逅(かいこう)であった。

ここで、本田宗一郎と藤澤武夫、それぞれの、それまでの足跡をたどりたい。
Hondaの基盤を築き上げた2人の人格・思想・哲学が、いかに形成されたのかを、推察するよすがともなるからだ。

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まず、本田宗一郎。初めから『つくる喜び』の人 / 1936

まず、本田宗一郎。 初めから『つくる喜び』の人。いつも『やらまいか!』の人 / 1936

本田宗一郎は、1906年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現、天竜市)に父・本田儀平、母・みかの長男として生まれた。

儀平は腕の良い実直な鍛冶職人であった。みかも機織りの名手だった。貧しくはあったが、のびのびと育てられた。ただし、要所要所でのしつけは厳しかった。あれほど自由奔放な性格の本田が、一方では他人に迷惑をかけるのを何より嫌い、約束の時間をきちんと守った几帳面さは、父親の徹底した教えであったという。
生まれつきの手の器用さ、そして機械への好奇心の強さは、父親譲りだった。

儀平は、やがて自転車販売店を開業する。ようやく普及し始めた自転車の修理を頼まれたのが、きっかけだった。鍛冶屋のかたわら、中古自転車を持ち前の腕と研究熱心で、きちんと修理し、安く販売することから始め、近辺で評判の自転車店になっていったのである。

高等小学校の卒業が間近いころ、本田は自転車業界誌『輪業の世界』で、東京のアート商会の広告を見た。そこには自転車ではなく、”自動車・オートバイ・ガソリン機関の製作修理”とあった。幼いころ、村に初めて現れた自動車に大感激し、
「その時かいだオイルのにおいを今も忘れない」
と繰り返し語った本田が、ここで働きたい、と思ったろうことは想像に難くない。

アート商会は、自動車専門誌や自転車専門誌に広告を出すほど、東京では一流の自動車修理工場だった。徒弟の希望者はいくらでもいたはずである。本田が見たのも、求人広告ではなかった。自分で懸命に書いたという奉公依頼の手紙が、どんな文章だったか、今は知るよしもない。だが、幸運なことに、承諾の返事が届いたのである。

小学校を卒業した1922年4月、15歳の本田は、東京・本郷湯島のアート商会の丁稚(でっち)小僧になった。
これは、現代の感覚での就職とは隔絶した世界である。小僧時代は、食事と寝床、わずかな小遣いだけで、給料は出ないのだ。

アート商会での数々のエピソードは、本田の著書や伝記に書かれている。だが、重要なのは、この時期の体験が、本田のその後に大きく影響したことである。
熱中する仕事ぶり、臨機応変にきく機転、自分で考え、工夫する発想の豊かさ、勘の良さ。アート商会の主人・榊原郁三氏は、この少年の非凡な才能をすぐに見抜き、目を掛けるようになる。本田も、主人から学んだ。修理の技術だけではなく、顧客への接し方、技術者としての矜持(きょうじ)まで、榊原氏は学ぶに十分な優れたエンジニアであり、経営者だった。修理業にとどまらず、ピストンの製造までを手掛けた企業家でもあった。

本田は、
「尊敬する人物は?」
との質問に、必ず、かつての雇い主、榊原氏の名を挙げている。さらに、アート商会の修理業務には、モーターサイクルが含まれていたことも、意味深い。当時は、自動車もモーターサイクルも、限られた階層の持ち物だった。そして、そのほとんどが外国車だった。しかも、現在よりはるかに数多く存在していた世界中の大小さまざまなメーカーのクルマ、大量生産車から少量生産高級車、スポーツカー、こんなクルマまでがと驚くほどの希少車までも、日本に輸入されていた時代だった。

アート商会には多種多様なクルマが修理に持ち込まれた。貪欲なまでに知識欲旺盛な本田には、絶好の実地勉強の場所だったのだ。

「よくまあ、そんなことまで知ってるなぁとビックリするくらい、クルマのエンジニアリングの知識は広くて深かった。メカニズムには精通していました。アート商会の徒弟時代、アート商会浜松支店での経営者時代に、おやじさんは、それこそ現場・現物・現実で、それらを学んだんでしょうね。知識だけじゃなく、溶接から鋳造から、何から何まで名人級です。紙の上の学問しか知らなかった僕らじゃ、とても歯が立たなかった」
と、河島は言う。

本田をモータースポーツの世界に誘ったのも、榊原氏だった。日本のモータースポーツの発祥は、大正時代初期にまでさかのぼる。それはモーターサイクルレースから始まり、自動車レースへと広がっていった。今のわれわれが想像する以上に、1920年代の昔から、レースはかなり盛んに開催されていたのである。

そればかりではない。海外のモータースポーツの情報も、当時の自動車誌に、驚くほど詳しく紹介されているのだ。マン島TTレースが世界最高の2輪車レースであることも、自動車の最高峰レースが、ヨーロッパのGPレースであり、ルマン24時間であり、アメリカ最大のレースがインディアナポリス500マイルであることも、日本のレース愛好者たちは知っていたのだ。
もちろん、本田も知っていた。

榊原氏をリーダーに、弟の真一氏、本田たち数人の弟子が加わって、レーシングカーの製作が始まったのは1923年である。1台目が、中古のダイムラーエンジンを載せたアート・ダイムラー。2台目が、アート・カーチス。今も、Hondaコレクションホールに動態保存されている通称・カーチス号である。アメリカのカーチス”ジェニー”A1複葉機の中古航空エンジンをアメリカ車のミッチエルのシャーシに載せた、このスペシャルマシンづくりを、最も熱心に手伝ったのは本田だった。アイデアを出し、部品を器用につくり、榊原氏を感心させる。1924年11月23日の第5回日本自動車競争大会には、操縦士・榊原真一氏、同乗機関士・本田宗一郎で、カーチス号が初出場し、見事に優勝している。
17歳の少年の胸に燃えたモータースポーツへの情熱は、この後、生涯、消えなかった。

20歳の時の徴兵検査では、色盲と誤診される。おかげで、その後も軍隊生活を送らずに済んだのは、思わぬ幸運だった。

1928年の4月、徒弟奉公を終えた本田は、アート商会浜松支店を開業した。榊原氏の弟子の中でただ1人、のれん分けを許された独立である。21歳だった。
それからの本田は、若さと才能を思いきり発揮する。修理の腕の良さで評判だっただけではない。後に”浜松のエジソン”と呼ばれる発明家ぶりを存分に見せて、修理工場の域を越えた仕事を次々に創り出していったのだ。

1935年ごろ、店頭で撮った記念写真がある。そこに写っている消防車は、強力な放水ポンプを付けたアート商会浜松支店特装車である。このほかダンプトラックもつくったし、乗客数を増やすバスの改造もやった。当時の写真(下写真参照)の右端に、当時は珍しいリフト式修理台が写っているが、これも本田の発明品の1つだった。
「クルマの下にもぐり込んで作業するなんて人間の仕事じゃない」
と言いつつ、自分でつくった。左端の低いクルマは、自製のレーシングカー・ハママツ号で、その右に立つサングラスにちょび髭の人物が、本田である。
開業時には1人だった従業員は、30人余りに増えていた。この年10月に結婚したばかりのさち夫人も、住み込みの従業員の食事づくりから経理までを手伝って、一緒に働いていた。

1936年6月7日、本田は多摩川スピードウェイ(日本最初のレーシングコース)のオープニングレースに、ハママツ号で出場して、事故を起こす。突然、ピットから進路に割り込んできたクルマを避けきれず大転倒、車外に放り出される。ドライバーの本田は軽傷で済んだが、同乗メカニックの弟・弁二郎は、脊椎骨折の重傷を負ったのだ。それにもめげず10月に、もう1度だけ自動車レースに出場している。

本田自身は、
「女房が泣いて止めるんで、以後やめたんだよ」
と語っていたが、さち夫人によれば
「私が言ってやめるものですか。父親に説教されて観念したのよ」
が真相だとか。

時代も変わってきた。既に日本は軍国主義の暗い時代に入っていた。1937年に日中戦争が始まり、国家非常時の掛け声の下、レースなどもってのほかとなる。日本のモータースポーツはここでいったん消滅するのである。

同じ1936年、修理業に飽き足らなくなった本田は、製造業への転進を計画した。アート商会浜松支店は、そのころ会社組織になっていた。ピストンリング製造を始めたいという本田の希望に、出資者たちは反対した。修理で儲かっているのだから、余計な事業を始める必要はないというのだ。しかし、本田はあきらめなかった。知人の加藤七郎氏らの後援を受け、加藤氏を社長として東海精機重工業株式会社を設立する。一方ではアートピストンリング研究所の看板を掛けて、昼はアート商会で働き、夜はピストンリングの開発に、ひたすら打ち込んだ。

失敗を繰り返し悩んだあげく、冶金の知識を学ぶために浜松高等工業(現、静岡大学工学部)の聴講生になったのもこの時である。顔つきが変わってしまうほどの苦労と熱中の研究が、2年近くも続いた。ようやく試作に成功した本田は、1939年、アート商会浜松支店を弟子にあっさり譲り渡し、東海精機重工業株式会社に社長として入社する。

待望のピストンリングの生産開始だったが、困難はまだ続いた。今度は製造技術が問題だった。トヨタ自動車工業(以降、トヨタ)と契約できたものの、製品検査に出した50本の内、合格は、たった3本だった。さらに2年近くをかけ、各地の大学を尋ねたり、製鋼会社を訪れたりして、生産技術を習得し、ついにトヨタや中島飛行機を納入先にするまでの製品を量産できるようになった。従業員は、最盛期には2000人を数えた。

1941年12月8日、日本は太平洋戦争に突入する。
東海精機重工業も軍需省の管轄下に置かれるようになった。1942年にはトヨタが40%の資本参加をして、本田は社長から専務に”降格”される。男子工員は徴兵で次第にいなくなり、一般女性や女学生たちの女子挺身隊(ていしんたい)が工場で働くようになった。工作機械を自ら設計していた本田は、不慣れな彼女たちが、いかに安全・簡単に作業できるかに心を砕き、オートメーションのピストンリング製造機を、この時、考案している。
日本楽器(現、ヤマハ)社長の川上嘉市氏の依頼で、飛行機の木製プロペラ自動切削機も考案する。1週間1本の手づくりだったものが、30分で2本の能率に変わり、川上氏を感動させた。

戦火はますます激しくなり、日本の敗色は濃厚になっていた。
浜松は、たび重なる空爆で廃墟と化していった。東海精機重工業の山下工場も破壊された。さらに1945年1月13日、南海大地震が三河地方を襲い、磐田工場がこの時、倒壊した。

ついに8月15日、敗戦。日本は大きく変わった。
日本と同じように、本田宗一郎もこの時から大転換するのだ。

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本田宗一郎と藤澤武夫、意気投合する / 1949

本田宗一郎と藤澤武夫、意気投合する / 1949

そして、藤澤武夫。文学青年が、凄腕の商売人に

藤澤武夫は、1910年11月10日、東京市小石川区(現、東京都文京区)に父・秀四郎、母・ゆきの長男として生まれた。
父の秀四郎は、銀行員などいくつもの職業を転々とした後、実映社という、映画館のスライド広告を製作する宣伝会社を経営していた。

藤澤が私立京華中学1年の時、関東大震災が一家をドン底に突き落とす。会社は焼失し借金だけが残ったという。その後、映画興行で再出発を試みた秀四郎だったが、震災後の過労から病に伏せがちな身となった。教師を目指していた藤澤は、東京師範を受験するが失敗。家族を養うために、筆耕屋(ひっこうや)を仕事にする。筆耕とは、宛て名書きである。暇な時間はひたすら文学書を読んだ。後年の藤澤からは想像できないが、口下手でシャイな若者だったという。
1930年に徴兵され、1年間を軍隊で過ごした後、再び筆耕屋生活に戻る。

藤澤が初めて定職に就いたのは、1934年9月だった。23歳になっていた。勤務先は、日本橋・八丁堀の三ツ輪商会という鉄鋼材の販売店だった。小規模な工場に鉄鋼材を斡旋(あっせん)する仕事で、藤澤は売り込みに歩くセールスマンであった。人付き合いが不得意なはずの彼が、なぜこの仕事を選んだかは、
「直感で、おれの行くべき道と思った」
という言葉以外、語られていない。

しかし、隠れていた能力は一気に開花する。次々に得意先を開拓し、売り上げ成績でトップになる。得意先には誠心誠意をモットーにし、もし納品期日が遅れそうな時は、その場しのぎの言い訳をせず、正直に理由を述べて詫びた。これがかえって藤澤への信頼を高めた。詫びと同時に解決策を用意し、必ずそれを守った。
このエピソードは、印象的である。後年の藤澤を髣髴(ほうふつ)とさせるからである。

一方、値動きの激しい鉄鋼材を扱うからには、投機的な才覚も必要だった。競争の激しいこの仕事での9年に及ぶ経験で、藤澤はそれを身に付けていった。三ツ輪商会の店主が軍隊に召集された留守中は、藤澤が代わって経営を引き受けるまでになる。

やがて藤澤は、仲介商売の限界を感じ取った。三ツ輪商会の番頭役を勤めるかたわら、将来の独立を目指し、1939年、切削工具を製作する日本機工研究所を設立する。技術に素人の藤澤が苦労した末、製品化にこぎつけたのは1942年4月、3年後のことだった。ちょうど店主の町田清氏が軍隊から帰って来たのを機会に、藤澤は三ツ輪商会を辞し、独立した。この年の秋、取引先の中島飛行機から、板橋の工場へ切削工具の検査に来たのが、竹島弘である。
竹島は、やはり中島飛行機にピストンリングを納入していた東海精機重工業の本田を、よく知っていた。浜松に本田という天才技術者がいるという話を、藤澤はこの時に聞かされたという。

1945年6月、藤澤はかろうじて空襲の被害を免れた工場を、福島に疎開させる決意をする。運送貨車の許可に手間取って、機械を福島に運んだその日、戦争が終わった。

藤澤の判断は早かった。戦後の日本では切削工具より建築用木材が商売になると山林を買い、福島で製材業を始めることにした。しかし、いつかはビジネスの中心地・東京へ復帰するつもりだった。折りあるごとに上京し、チャンスをうかがっていたのである。

1948年の夏、製材所の機械部品を買いに東京へ来た藤澤は、市ケ谷の駅近くで、竹島と偶然、再会する。竹島は通産省の技官になっていた。立ち話の中で、あの浜松の本田が、自転車用補助エンジンの製造を始めたことを聞かされる。竹島は、藤澤に帰京を促した。

藤澤は、福島に戻ると日本機工研究所の機械を売り払い、製材所も閉めて帰京する。ただちに池袋で材木店を開き、まず生活の基盤を固めた。
翌年の夏、竹島から連絡があった。本田と会ってみないかという話であった。

本田と藤澤が、共通の知人・竹島の紹介で初めて対面したのは、1949年8月。Honda創立の、ほぼ1年後。ドリームD型発売直後だった。

互いに、一目で気に入ったという。
性格が全く違い、仕事の得意分野もまるで違っていた。その2人は、気の合った理由を異口同音に言う。
「こっちの持っていないものを、あっちが持っていたからだ」。

この時、本田は42歳。藤澤は38歳であった。
現代の感覚では、若いといえる年齢である。しかし、2人とも既に人生体験をたっぷり持っていた。

そして、2人とも天性の直感力、洞察力、中でも”人を見る目”を持っていた。
「たちまち、心の内を見透かされてしまう。裸にされてしまう。それは怖いほどだった」。
2人のかつての部下たち、身近に接した人たちは、だれ彼なく畏敬を込めて言う。
「見せかけのポーズ、虚勢など、この2人の前では全く通用しません。ウソがつけない。性格の違うご両人だけど、眼力のすごさは、そっくりでした」。

これは、互いの能力をしっかりと見抜き、十分に認め合う大人の意気投合であった。同時に、見果てぬ夢を本気で語り合い共有し合える、青年のごとき意気投合でもあった。これからの人生を賭けるに足る相手、信頼して悔いないパートナーを発見したのだ。

つくる人・本田宗一郎、売る人・藤澤武夫。
どちらを欠くこともできない二つの強烈なパーソナリティーが、結び付き、コンビを組んだ。これこそ、”適材適所”の極みであった。

1949年10月。藤澤は、本田技研工業株式会社の経営に常務取締役として参加した。
同年11月、相変わらず不況が続いていたが、Hondaは第1次増資を行った。資本金は倍額の200万円となった。増資分の4分の1を藤澤が出資した。

1950年3月、さらに厳しさを増す経営状態の中で、Hondaは初めて東京へ進出し、中央区京橋槙町に東京営業所を開設した。現在の八重洲富士屋ホテルの裏あたり、浜松の本社に負けず、狭くて粗末な事務所だった。ここが藤澤の本拠地となった。

『経済界は恐慌状態に陥り、オートバイの売れ行きも細まり、わが社も在庫は増え金融は逼迫(ひっぱく)、取引先の支払いも滞りがちになり、従業員の給与も分割払というありさまだった』。

本田技研7年史には、1949年から1950年前半当時がこう記されている。

「私がHondaに入社したのは3月です。縁あって日本楽器の川上嘉市社長に就職のご相談に行きますと、『本田宗一郎というバタバタ(A型のニックネーム)をつくっている会社の社長から、だれか若手で工場管理のできる人がいたら、ぜひ欲しい、という申し入れがあった。よかったら君、行ってみないか』というお話でした。川上社長が目の前で電話をかけてくださって、すぐ会いに来てくれということになった。浜松駅前のHonda本社、杉皮屋根のバラックでしたけれど、そこに本田さんがおられて、ちょっと立ち話しをしたら、『お、明日からおいでよ』で、就職が決まってしまった(笑い)。でも、翌日は彼岸の中日で休日。翌々日から出勤しましたがね。
けれどその時分、不況と、D型の思わぬ不振で、Hondaは苦しい最中。工場の連中が、『給料遅配で、先月分を分割払いでもらってる、もうすぐ潰れるだろう』と言ってるんですよ。ですが、私も若かった。よし、潰れそうならここで頑張って、もし立ち直るのに役に立てば、自分の誇りになるじゃないかと意気込んで、勤めることにしたんです。そしたら6月に朝鮮戦争が始まって、途端にいわゆる朝鮮特需で、まとまった補助エンジンの注文がきた。おかげで、とりあえず危機脱出。私が頑張る前に、一応、遅配もなくなったんです(笑い)。
だから、とにかく忙しくなった。工場責任者といっても座っていられない。資材の調達で、自転車の荷台にどっさり部品を積んで走り回るんです。ある日、踏切で転倒して足を捻挫した。それでも、ステッキをついて工場の部品調達状況や流れを見て回っていました。すると、社長が『話がある』とおっしゃる。『君の仕事ぶりを見て気に入った。Hondaで頑張る気持ちがあるなら、生きがいが持てるように、おれの株を一部わけてやるが、どうだ』と。その時のHondaの株は紙クズ同然です。家に帰って父親に話すと、おまえが本田さんにひかれて、骨を埋める覚悟があるなら金を出してやろう、と。翌日、その金を社長にお渡ししたら、すぐに株券をくださった。あの時に、迷って別の道を選んでたら、今どうなってたでしょうか(笑い)」
と語るのは、白井孝夫(元、専務)である。

朝鮮戦争の特需ブームで、日本経済は息を吹き返した。国連軍(アメリカ軍)の兵站(へいたん)部がドルで買い付ける物資、それが特需である。
たちまちのうちに国内の景気も回復した。Hondaも立ち直る余裕が生まれた。

1950年9月、工場も東京進出を果たす。北区上十條のミシン工場を買い取って、車体製作と最終組立工場とした。浜松からエンジンを送り、ここでD型を組み上げるのである。

11月、本田も東京へ引っ越す。アート商会時代から22年目の再上京だった。将来への飛躍を目指して、浜松から新しい天地・東京へ出たのである。

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箱根越え伝説のドリームE型誕生 / 1951

箱根越え伝説のドリームE型誕生。 『4ストロークのHonda』、ここに始まる / 1951

明けて1951年3月、本田は、浜松から河島を呼び寄せる。

「『河島、ちょっと来い』が、そのまま2カ月の長期出張。東京工場の片隅でE型の4ストロークエンジンの設計をやりました。図面がやっとできたところへ、おやじさんが、勢い込んで藤澤さんを連れて来たんですよ」。
5月のその日のことを、河島はよく覚えていると言う。

「設計図を藤澤さんに見せながら、『これはな、こういうバルブがあってカムでこう動いて、これがエンジンってもんなんだ、2ストロークみたいに竹筒っぽに穴開けたようなシロモノじゃないんだ』と熱弁をふるう。『これなら売れる。これでHondaは伸びるんだ』って。でも藤澤さん、図面見たって分からないから、『あ、そう、結構ですね、ほほう』だけ(笑い)」(河島)。

今や伝説となった”箱根越えテスト”が行われたのは、7月15日であった。

当時の日本車にとって、箱根はやはり”天下の険”だった。トラックなどは、途中、休み休み登るのが当たり前だった。150cc程度の小型2輪車にとっても、難路だった。
河島は、エンジン設計者兼その日のテストライダーだった。

「実は箱根峠は、だいぶ前から、僕らのテストコースだったんです。登れる自信は十分あったんですが、この日はおやじさんと藤澤さんが後を付いて来るんで、緊張しましたね。藤澤さんの目の前でオーバーヒートなんかしちゃったら、おやじさんの面目は丸つぶれでしょう。ちょうど台風の時で”豪雨をものともせず、トップギアのまま一気に駆け登った”とされてますが、雨と、水しぶきがジャージャーかかって運がよかった、空冷が水冷になっちゃってよく冷えたから、と、僕は冗談を言ってるわけです。トップギアで登ったといっても、変速ギアが2段しかないんだから、当たり前(笑い)。ま、それを考えれば、よく粘る、いいエンジンだったと思います」。

伝説では、本田と藤澤の乗ったビュイックを引き離し、先に登り切ってしまった河島と、頂上で3人が抱き合って喜んだとなっている。

「そりゃちょっと気持ち悪い(笑い)。こっちはカッパを着てズブ濡れだし。握手でしたよ」(河島)。

ドリームE型は、Honda最初の4ストロークエンジン車である。日本の2輪車業界では、1年ほど前から、競うように4ストロークエンジン車が生産され始めていた。先に述べたように、市場の嗜好が、2ストロークから4ストロークに移り出していたのだ。

後に『4ストロークのHonda』と呼ばれるようになるHondaだが、むしろ一歩遅いスタートだった。しかし、多くの4ストロークエンジン車がコストの安さや工作の容易さから、サイドバルブ方式を採っていたこの時代に、HondaはOHVを採用していた。しかも、4ストロークも2ストロークも含めて、同時期の150ccクラスの国産車に比べて、はるかに大きなパワーを出していたのである。

「おやじさんは、本格的なオートバイは、最初から4ストロークでやりたかったはずです。当時の2ストロークは、理論的にまだファジーで、しかも本来燃やすべきではない潤滑油を燃やすエンジンですから、おやじさんにすれば、金も設備もない時の、我慢の過程だったんです。この翌年のカブF型を最後に以後20年間、Hondaは4ストローク一筋。そういう意味で、E型は、おやじさんにとって”つくる喜び”を感じた最初の製品でしょう」(河島)。

フレームは、D型と同じチャンネルフレームだったが、クラッチはD型での失敗に懲りて、湿式コーンから乾式多板に変えた。操作も左手のレバーで行う常識的なものになっていた。

「独創的過ぎて駄目だったところを反省して、コンベンショナルにした。”後戻り”だけではHondaらしくないから、エンジンで差を付けた。いい意味で、やはりありふれたクルマじゃない。これはよく売れましたね。お客さんにも、販売店さんにも喜ばれました」
と、河島は言う。

E型は10月に発売された。D型が月産最高160台程度だったのに比べ、E型は半年後に月産500台、3段変速になった1年後に月産2000台、3年後に年間販売3万2000台を記録する。この時期のHondaの危機を救ったばかりか、本田の予言の通り、HondaはE型によって大きく伸び、飛躍のきっかけをつかんだのである。

この年の9月、初めての社内誌・ホンダ月報が創刊された。
『3つの喜び』というHondaの基本理念となる言葉は、1951年12月号のホンダ月報に、本田宗一郎の文章として初めて現れている。

そして、翌1952年は、Hondaにとって新たな節目を迎える年となった。

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カブF型の販売店開拓DM戦略 / 1952

独創で『無から有を生じる』。 カブF型の販売店開拓DM戦略 / 1952

藤澤が経営に参加したころ、既にリュックサックでブローカーが買い出しにくる一時期は終わっていた。数多くの2輪車メーカーが乱立した上、不景気が重なって買い手市場に変わっていた。モーターサイクル販売店の数は、日本全国でおよそ300店しかなかった。その内Hondaを扱う代理店は20店ほど。もちろんHonda専門店ではない。新参のHondaは、すべて委託販売で、しかも、支払いは先方の都合まかせという状態だった。
つくる能力と売る能力が、極端にアンバランスなのが、この時期までのHondaだったのだ。

本田が藤澤に全面委任したのは、営業体勢の強化と、銀行取引関係である。とりあえず、効率の悪い代金回収状況をどうするかも問題だったが、根本的に大きな課題は、いかにして販売力の弱い現状を打ち破り、代理店網・販売店網を開拓していくかであった。

このころ、藤澤の身近にいて、その熟慮断行と、奇策縦横ぶりを目の当たりにした1人が、川島喜八郎(元、副社長)である。

「私は、河島さんや白井さんよりだいぶ後で、1951年の入社です。大学を出てから、故郷の静岡で油屋を自営していたんですが、Hondaというオートバイをつくってる会社が営業の人間を募集しているという話を聞いて、今の商売も将来あまり期待できそうもないし、おもしろそうな会社だというから、試しに行ってみようかなあと、浜松まで出掛けたんですよ。最初に面接したのは、本田宗一郎さんでした。どう見ても、町工場のおやじさん然とした人が、初対面でいきなり、『今にウチは世界一の2輪車メーカーになる』と、こともなげに言うんです。なのに、全然イヤ味がない。不思議な魅力の人でしたね。『おまえさん、営業希望なら藤澤に会え』となって、東京へ行きますと、魚屋の隣のしもた屋が営業所で、藤澤さんがおられた。ハエ叩きを持ってた。魚屋からハエが来るからね(笑い)。一見、将来を託しにくい雰囲気でした。ですが、これまた、何とも大きなスケールを感じる人で、『本田宗一郎は必ず世界一になるような商品をつくるだろう。それを、いかに売るかが私の仕事なんだ』とおっしゃる。本田さんのモノづくりの考えと技術力に、本当にほれ込んでおられるのがよく分かりました」。

会社の外観はどうあれ、2人の人柄に強くひかれて、川島はその場で入社を決めてしまった。そして、自ら希望して、浜松工場で3カ月の実習をした後、東京に赴任した。

E型発売のころには景気が回復し、売れ行きも上昇していたが、販売面の古い体質はまだそのままだった。長年の商習慣を、そう簡単に変えられそうもなかった。
関東以北が東京営業所のテリトリーとされていたので、川島たち若い営業マンは、都内から東北まで新規代理店の開拓に駆け巡った。自動車系のディーラーを訪問した時など、
「Hondaって何をやってる会社なの?」
と聞き返されることが多かった。それでも、懸命の努力の末、何軒かの契約を取ることができた。

1952年4月、Hondaの本社は浜松から東京都中央区槇町3の3に移転する。ただし、オフィスの見かけは、営業所時代より少しはましになったという程度だった。

「藤澤さんは、日夜考えて、タイミングを待っていたんですね。マスセールにふさわしい大衆商品ができたところで、一気に大勝負を賭けようと、じっと我慢してたんでしょう」(川島)。

そこへ出現したのが、カブF型だった。自転車用補助エンジンの最新作である。”白いタンクに赤いエンジン”のデザインもフレッシュな、藤澤待望の大衆向け商品だった。
できるところはすべてダイキャスト化した軽量小型の2ストローク50ccエンジンのカブF型は、見るからにスマートでかわいらしく、だれにでも親しめる雰囲気を持っていた。

「藤澤さんが、いつ、この途方もない新戦略を考え付かれたのか、それは分かりません。1952年3月に試作が完成して、6月発売までの間に、じっくりアイデアを練られたんだと思います」(川島)。

未開拓の流通網は目の前にあった。見過ごしていただけである。藤澤以外のだれも、これをネットワークという目で見ることができなかった。それは『日本中どこにでもある自転車店』だったのだ。営業スタッフは、その着眼点の新鮮さに驚かされた。

「それからいよいよ、全国5万軒の自転車店にダイレクトメール(以降、DM)を送るという戦略を実行したわけです。あのDMの文章は、藤澤さんが書かれたんですが、名文でしたね。しかも非常に用意周到。第1弾、第2弾と、受け取る相手の心理を読み切った、巧みなDMでした。
『あなた方のご先祖は、日露戦争の後、勇気をもって輸入自転車を売る決心をされた。それが今日のあなたのご商売です。ところが今、お客さまはエンジンの付いたものを求めている。そのエンジンをHondaがつくりました。興味がおありなら、ご返事ください』
と、第1弾目がこんな内容です。すると3万軒以上から『関心あり!』の返事が来たのです」(川島)。

すかさず、第2弾目がいく。
『ご興味があって大変うれしい。ついては1軒1台ずつ申し込み順にお送りします。小売価格は2万5000円ですが、卸価格を1万9000円にします。代金は郵便為替でも、三菱銀行京橋支店へ振り込んでいただいても結構です』
と書かれていた。

「さらにそれと別に、銀行からも支店長名の手紙がいきました。『当行の取引先・Hondaへのご送金は三菱銀行京橋支店にお振り込みください』という。藤澤さんが、三菱銀行京橋支店に協力をお願いして、この最後の決め手を打った。さあどうなるか、期待と不安いっぱいでした」(川島)。

1口に5万軒というが、47年前は今のようなDM流通システムはなかった。宛て名ひとつにしても、すべて手書きである。筆耕屋に外注したが、それでも時間が足りず、従業員全員総掛かりで書きに書いた。何と、三菱銀行京橋支店からも、行員の方々が宛て名書きの手伝いに来てくれたという。

「反響はすごかったですよ。5000軒くらいからすぐ反応があってどんどん増えていく。委託販売が常識の2輪車業界に、前金を払ってもらう商売をぶっつけて、しかも、ぴたっと当てた。私に言わしめれば、藤澤武夫は、度胸がよくて非常に緻密なバクチ打ちです(笑い)。アッという間に、『自前の販売網』をつくり出すのに成功したわけですからね」(川島)。

同時に始まったのが、2輪車業界では今までにないダイナミックな宣伝活動だった。当時人気絶頂の日劇ダンシングチームのダンサー50人が乗ったカブF型が、東京・銀座の大通りを華やかにパレードしたのである。沿道の観客は拍手喝采、マスコミも全国に報道した。女性も乗れるカブF型の名は、一挙に広まった。

その上、販売店をフォローする戦術も展開された。社用に軽飛行機を買い、全国に飛ばしてカブF型の広告チラシを空からまいた。もちろん、その地域の販売店名入りである。

「販売網をつくるために、お客さまの購買意欲を刺激する一方で、販売意欲を刺激する。要するに、買いたい気持ちと売りたい気持ちを、同時に発生させるんですね。この相乗効果のほどを、目の前で見せつけられるわけですから、いい勉強になりました」。

後年、川島がアメリカに新市場を開拓する時、この経験は大いに役立ったという。

「藤澤さんに『松明は自分の手で』という題名の著書があります。『アカリは自分で持って歩かなけりゃ、先頭を歩けないんだ。他人のアカリで歩くのは、後に付いて行くだけなんだ。道に迷わないしつまずきもしないだろうが、リードすることはできないんだよ』と題名の意味はこう言ってるんです。販売網でいえば『出来上がってるものに乗っかってるようじゃ本当の商売はやれないよ』なんです。『おれたち自身の思想・方向で存分にビジネスできる販売網をつくる』のが、藤澤の一貫した販売網戦略でした」(川島)。

イニシアチブをHondaが取る。市場を判断し、生産計画を立て、それに基づいて資材手当をし、協力メーカーに発注する。すべての情報が自分の手中にあり、自身で判断する状況をつくる。『自前の販売網』は、それを実現するための不可欠の前提であった。

本田と藤澤は、出会ってからしばらくの間、毎日毎晩、夜を徹して語り合ったという。語り尽きない高揚した日々が続いたという。

「どんなことを話されたのか、2人とも多くを語っておられないので、想像するしかありませんが、よほど心底、通じ合われたんでしょうね。だからこそ、あんなに個性の違うお二人が、今、Honda哲学といわれるものの基本のすべてを、あれほど完全に共有できたのだと思う。例えば、本田さんは『事業経営の根本は、資本力よりもアイデアだ』と言っていますが、これは藤澤のものでもある。どちらも知恵で頑張ったんです。ま、資本力がなかったから、アイデアを出すしかなかったが(笑い)。言わばお二人は、知恵比べで会社を育てた。私たちの世代でも、もっと後の世代でも、お二人をじかに知ってる人なら、たぶん同意見だと思いますが、本田さんと藤澤さんは、無二のパートナーであると同時に、互いに切磋琢磨し合う、ライバル同士でもあった。『おれの世界は、おれに任せろ』、『どうだ、おれのやった世界を見てくれ』と競い合う、素晴らしい名コンビだったのです」
と、川島は言う。

カブF型の商品特性を生かし、思いもよらぬアイデアで、無から創り出した独自の販売網。売る人・藤澤は、つくる人・本田の期待に応え、見事なパフォーマンスを見せたのだ。

このころ藤澤は、ユニークな月賦販売、すなわちローン・システムのアイデアも実現させている。定価2万5000円のカブF型でさえ、当時の平均的サラリーマンの初任給3カ月分以上だった。そこで、画期的なローンの仕組みを考えたのである。例えば、12回分割払いなら、お客さまに12枚の約束手形を切ってもらい、販売店が裏書きしてHondaに渡す。この制度は、お客さまばかりか、Hondaにとっても良いものであった。確実に代金回収ができ、万一支払いに問題が起きても、1件当たりが少額のため、比較的リスクは少ないのである。

「藤澤さんについて、大事なことを言っておきますが」
と、川島は言葉を加えた。

「あのDM戦略の時に、三菱銀行京橋支店さんが、言わばHondaの身元保証をしてくれた。そのころにはまだ三菱銀行さんからは融資は受けていなかった。ですが藤澤さんは、取引を始めた時から一貫して、お付き合いの仕方・態度を変えていません。いわゆる経営・経理のディスクロージャー(情報公開)をやっています。いい時も、悪い時も。藤澤さんは、私たちに教えてくれました。『銀行さんはなぁ、かくかくしかじかで、これはこうだけれど、次にはこうなりますと、何も隠さず、条理をつくして現在と先行きを説けば、かならず分かってくれるんだよ』と」。

ともあれ、カブF型は大量生産に入った。10月に6000台、12月に9000台と、絶好調が続いた。

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『世界一であってこそ、日本一』 / 1952

『世界一であってこそ、日本一』。 4億5000万円の輸入工作機械購入を決断 / 1952

「金を使うより、知恵を使え!」。
これが、エンジニアにかけるハッパだった本田だが、どんな知恵でも解決できない大問題があった。

工作機械である。部品の精度を今以上に高めようとすれば、ネックは工作機械そのものの精度だった。ドリームE型の大ヒットとカブF型の爆発的な売れ行きで、業績こそめざましく向上していたものの、こと部品の工作精度に関しては、本田は全く不満だった。世界一を目指すと豪語しても、従来の工作機を使っている限り、越えられない限界のあることは、自分自身が、だれよりも知っていた。

1952年6月、Hondaは第2次増資を行った。資本金600万円。藤澤は専務取締役に就任した。
そして10月、総額で4億5000万円にも及ぶ最新鋭の輸入工作機械購入計画が決定される。

1952年10月号のホンダ月報には『世界的視野に立って』と題した本田の一文がある。いつにも増して、宗一郎の日ごろの想いが、次々とあふれ出る文章である。

「つねづね申し上げておりますように、私は良品を安価で造って顧客にご満足いただくことを念願として努力しておりますが、性能の点でも、外観の点でも、また価格の点でも、完全にご満足を得ているとは思いません。(中略)
9月の生産はドリーム号は1000台を超え、カブ号は5000台を突破しました。(中略)
けれども、これはわが国、日本において第一流になったということで、一度眼を世界的視野に転じます時、現在私たちが到達しておりますレベルはまことに恥ずかしく寒心に堪えないものであります。本年の年頭の辞にも申し上げましたように、私の願っておりますのは製品を世界的水準以上にまで高めることであります。私は、日本の水準と英米等先進国の水準との開きの、あまりにも甚だしいことをよく知っております。(中略)
われわれの創意工夫を生かし実現するには、優秀な機械がなくてはなりません。”弘法は筆を選ばず”と言ったのは、昔の譬(たと)えです。そこで私は、一大決心をもって、世界第一流の工作機械を購入することにしました。既に注文したもの、目下輸入許可の手続き中のものなどを併せますと、3億円に上ります。(中略)
外国車の輸入制限によって自分の仕事を守ろうとするような鎖国的な考え方には、私は絶対に与(くみ)しません。技術の競争は、あくまで技術をもってすべきであります。(中略)
どのような障壁を設けても良い品はどしどし入って来ます。(中略)良品に国境はありません。(中略)日本だけを相手にした日本一は真の日本一ではありません。(中略)一度優秀な外国製品が輸入される時、日本だけの日本一はたちまち崩れ去ってしまいます。世界一であって初めて日本一となり得るのであります。(後略)」。

これを、既に結果の分かっている半世紀後の今読めば、資本金600万円の企業が、なぜここまで莫大な金額の輸入機械を望んだか、驚きながらも理解できる。だが、その当時の周囲の眼には、”身の程を知らない無謀な冒険”としか見えなかったろう。

しかし、ここから読み取れるのは、熱い言葉とともにある、むしろ冷静な技術者の論理である。あくまでも自由な自主・独立の思想である。戦中派と呼ばれる世代に属しながら、本田はまさしく世界的視野を持つ、今までにない新しい日本人だった。

「私は、ずいぶん早くに本田さんから”世界”という言葉を聞いています」
と語るのは白井である。

「入社間もない1950年の夏で、ダイキャストに関連してでした。『砂型でアルミ部品をつくるより、ダイキャストでつくったほうがどれほどいいのか、どういう点で勝っているか、ちゃんと説明できれば、通産省が補助金を40万円出すと言っている。だから、リポートを急いで書け』と、突然命じられました。そこで、とにかく砂型との優劣やコストを比較してみた。そりゃ大量生産の部品をつくるのならダイキャストがいい。でも、Hondaは、これに見合うほど製品をつくっていない。月に100台か、せいぜいが200台です。最低でも1000台、1万台ぐらいつくるのでなければ、コストが合いません。困ってしまって『どう計算しても砂型が有利でダイキャストが不利です。書けません』と言ったんです」。

計算が緻密だったせいか、本田は、白井の返事に怒り出しもせず、珍しく諄々(じゅんじゅん)と説いた。

「『現実は、そうだよ。職人が1個ずつ砂型でつくった方が今んところ手っとり早いし、安い。けどなぁ、日本の将来は工業立国しか手がないんだ。世界を相手の商売となったら、1番大事なのは量産性のあること、部品が均質であることだ。だからウチはつらいのを承知で、最初っからダイキャストでやってる。そこに力点を置いて書け』と。正直言って、吹けば飛ぶような町工場の社長です。当時大企業の社長でも口にしない”世界を相手に”なんてことを、本気で言ってるんです。びっくりしながらも、この人はただの職人あがりの技術者じゃないと思った。スケールが違うぞ、と。リポートは、言われた通りに書きました」(白井)。

ちなみに、その補助金交付は無事認可されたのである。

「『世界一でなけりゃ日本一じゃねえんだ!』という逆説ロジックをぶちかまされて、あっけにとられたのは1952年でしたよ。3月に白子の古い工場を買って、大改修することになって、建設を手伝うために浜松から呼ばれたころです。戦争中、飛行機部品をつくっていた工場で、古い機械が何百台も残ってました。これ使うんですかと聞いたら、『こんなものを使ったってロクなものはできない、全部売っちまえ!』と。そのころ、従業員を集めてリンゴ箱かミカン箱かに乗っかってしゃべった演説で聞きましたね。
おやじさんは座談はうまいし、年とってからは講演もすごく上手だったんですが、あのころの演説は、気持ちが先へ行っちゃって、言葉がツッツッツッとジャンプして、何言ってんだか分からない(笑い)。顔は真っ赤になって、眼はギラギラして、ツバが飛んできて、大迫力だけどね。自分でも、これでは話が十分伝わらないと思ったのか、おやじさんは当時、出始めたばかりのテープコーダーに自宅で訓話を録音し、朝礼の時、録音機にしゃべらせて、本人は無言で横に立っていると言う珍風景もあった。おやじさんと同世代のベテランエンジニアの方々が当時、入社してきていましたが、まじめな人は真剣に悩んじゃう。マトモな理屈なら、まずは日本一であって、そうなる前に世界一とはおかしいじゃないか。おまけに、おやじさんの話は中間説明抜きだから、僕ら若い連中だって頭が混乱する(笑い)。あのホンダ月報を読んでやっと、あ、こういうこと言ってたのかと。どなたが書いたか(おやじさんが書くわけない)知りませんが、よく正しく聞き取ったと感心します。浜松弁が丁寧な標準語になって、話の筋がちゃんと通って(笑い)」。
と、塩崎定夫は言う。

後に塩崎は、これも国内の常識を破るプロジェクト・鈴鹿製作所の建設にかかわるとともに、日本最初の国際的レーシングコース・鈴鹿サーキットの建設では先頭に立った1人である。
「そのころは、私もすっかり世界的視野に立っていたから(笑い)驚きませんでした」。

ドリームE型は、国産モーターサイクルの中でトップセラーの1台であった。だが、どうひいき目に見ようと、世界に通用するモーターサイクルではなかった。本田の言葉通り、先進国の製品と並べば”まことに恥ずかしい”レベルだったのだ。

このころ、欧米のモーターサイクルの輸入も、少量ながら再開されていた。彼我の差は日本の路上で明らかだった。Hondaを含めた日本車のライダーたちは、外国車に出会うと、文字通り後塵を拝していた。ドリームE型のやり遂げた箱根を一気越えする性能は、イギリス車やドイツ車にとっては、しごく当たり前のことでしかなかったのだ。

当時、設計課長だった河島喜好は、輸入工作機械購入決定のいきさつを、こう語る。
「2年前に朝鮮戦争が始まりましたね。敗戦の痛手から全く立ち直れずにいた日本が、特需景気になった。アメリカ軍から、ありとあらゆるものの発注がきたのです。工業界にも、上はトラックから下は鉄条網・ドラム缶に至るまで大量に。もちろん、クルマの部品なども含まれていました。そういうものを生産できる会社は、見る間に業績が良くなっていった。ところが、Hondaはこの特需に関係がないんですよ。ほんの一時期に、A型エンジンを納めたことがあったけど。部品であれ何であれ、製造する機械を持っていないんですからね。
はっきり言っておきますが、Hondaの工場はいわゆる生産工場ではなくて、組立工場だったのです。部品メーカーからほとんどの部品を買ってきて、それを組み立ててオートバイをつくっていたんです。ギヤ1個さえ社内ではつくれない。あるのは組立ラインと塗装ラインだけ。溶接すら外注でした」。

かろうじて内作していたのは、カムシャフト、クランクシャフト、シリンダーなどのエンジン部品で、それは全部品の20%にも満たなかった。

「ここで、本田と藤澤の経営者としての先見の明が、決断を下したのです。デフレ不況が去って、E型が売れて、一時期の危機こそ乗り越えたが、このままでは大きな成長は望めない。しかも戦前の古い工作機械でつくった部品を買って使っているようでは、世界のHondaになれるわけがない。お二人は、Hondaを生産工場を持った会社にする決意をした。何が何でも最新鋭の工作機械を買おうと。それで、4億5000万円分の外貨申請を出したのです」(河島)。

時は、特需による繊維業界の糸へん景気、工業界の金へん景気の最中だった。国の外貨保有高も急激に上がっていた。絶妙のタイミングでの許可申請だった。通産省、大蔵省の許可も比較的容易に下りた。もし、この決断が1年遅れていたら、この計画は挫折したであろう。

11月、本田は、アメリカ工業界の視察と工作機械購入のため、初めて渡米する。伝え聞くだけだったアメリカ自動車メーカーの大量生産工場の現場も見た。ラインシステムから作業環境まで注意深く観察した。工作機械メーカーでは、通訳を介して熱心に質問した。本田家には、今も、その時集めてきた工作機械のカタログが大量に残されている。

「おれが機械を買うというと、相手が喜んじゃって、『セキハン、セキハン』って言うんだ。お祝いの赤飯かと思ったらシェイク・ハンド(握手)なんだとさ」
というのが土産話だった。

本田の帰国を待って、第3次増資が行われ、資本金は1500万円となった。

時を同じくして、河島はヨーロッパへ旅立つ。工作機械の購入と、Hondaがその機械を何にどう使うのかを説明し、仕様を打ち合わせるためだった。2カ月をかけてドイツ、スイスを回った。

「『河島、行ってこい』と言われて出かけたんですが、どのメーカーを訪れても、必ず相手がビックリした顔をする。高価な買い物をするんだから、年配の偉そうなのが来ると思っている。そこへ20代の若者が、たった1人で現れたんですからね。しかもドイツ語は片言、英語はまるっきり駄目。もともと相手は日本のHondaなんてろくに知らない。無名もいいところです。中間に商社が入ってますからお金を取り損なう心配はないけれど、こんな若者に任せちゃって、一体どういう会社なんだ?と思ったでしょうね」。

河島は、初めての慣れない外国暮らしで、へとへとになりながら無事大任を果たした。

「僕ら設計屋は、いい工作機械を見るとうれしくなります。設計のしがいがありますもの。おやじさんも興奮したでしょうね。おもちゃ屋へ連れて行かれて、好きなものを買っていいよって言われた男の子みたいだったんじゃないか。それで、思いきり買いまくった(笑い)。例えばスイスのマーグ社、アメリカのリースブラドナー社のギアカッターなんか、日本の自動車メーカーで持ってるのはHondaぐらいなもの。大自動車メーカーさんも羨望の機械。それを使って、ちっぽけなオートバイつくってる(笑い)。けれどこの時の分不相応の大決断のおかげで、いいものができるようになって、やがて自動車づくりにも移れるようになるんです」(河島)。

最初、3億円程度とされていた輸入工作機械は、最終的には4億5000万円に達した。

生産部門も、既に量産体勢の工場建設に踏み切っていた。3月に埼玉県の大和町白子にあった古い工場を買い取り、補修している間にも浜松の山下工場から工作機械を運び込むという離れ業を演じて、わずか2カ月後の5月には、早くもこの新工場を稼働させる。輸入工作機械はまだ届かなかったが、できるだけ高精度の中古機械を探し出して設置した。製造能力はたちまち向上していった。

従業員数も、このころから急激に増えていく。創業の年にはわずか34人だった。1952年2月の時点ではまだ214人だった。それが、1年後の2月には一挙に6倍の1337人になるのである。
生産台数や売上高は、日本一の2輪車メーカーといえるまでに急成長を遂げていた。

この年結成された労働組合の要望に応じ、白い作業衣が採用されたのも、白子工場が稼働直後の1952年5月である。

「作業衣を白にする。これは社長の発案です。『環境がよくなけりゃ、働く意欲も落ちる。汚い工場からいい製品は生まれない。だから、作業衣は白がいいんだ。白は汚れが目立つ。それができるだけ汚れないように、きれいな工場にしなきゃいけないんだ』とおっしゃって、工場の内部も工作機械も、グリーンのツートーンに塗り替えてしまった。トイレも水洗で白のタイル張り。雰囲気が変わると、われわれの気分も変わります。機械の手入れを自然とやるようになった。油汚れなんかが気になるようになった。当時はどこの工場でも作業衣は私服です。そんなころ作業衣を貸与した。しかも社長も従業員も同じものを着る。環境整備も作業衣も、現場で働いてる人の気持ちでものを考えられる人の発想です。まだまだハードな仕事をする部門も、たくさんありました。でも、そのつらさを分かってくれる人がトップにいるというのは、心強いものですよ」(磯部)。

設計開発部門でも、積極的に新製品の企画が進んでいた。1952年の春ごろから、Honda初の製品が二つ、開発のスタートを切っている。

一つは汎用エンジンである。カブF型のエンジンを活用したH型汎用エンジンは、農機具メーカーの共立農機から要請を受けての開発だった。背負い型農薬噴霧器の動力として使われるOEM的製品として、9月に生産を開始している。これが、Hondaの汎用機への進出のきっかけとなった。設計思想には、エンジン操作に経験のない人にも扱いやすい配慮が早くもされていた。ただし、この業務提携は短期間で終わり、H型の生産も終了する。これは藤澤の決断だった。

「お取引先としては一流の会社ですし、利益率も高くて、いいビジネスだったんですよ。なのにある時、藤澤さんが『この契約をやめようと思う』と言い出した。理由は販売網の場合と同じです。
『お客さんに直接つながる、自前の商品をつくって売るのがHondaなんだ。先様のペースで、生産をコントロールされるような商売は、やっぱりいけないんだよ』と。目先ではなく、はるか先を見通して、決して信念を曲げないこのケジメ。これまた、いい勉強でしたね」
と、川島は語る。

汎用機の開発はいったん途切れるが、2年後、Hondaのブランドで復活するのである。

二つ目は、春から始まったスクーターの開発だった。背広にネクタイの服装で乗れる2輪車として、スクーターはブームの最中にあった。先行車以上の商品力を持たせるため、Hondaならではの数々のアイデアが練られていた。
秋には、原動機付自転車の新製品開発も始まった。

このころ、原付免許制度は、2ストロークが60ccまで、4ストロークが90ccまでとなっていた。Hondaは、ドリームの経験を活かして、4ストロークの原付車を考えていた。それは当然、自転車用補助エンジンではなく、車体まで含めた一体型モデルとして登場させることも決まっていた。

後は、期待の輸入工作機械が到着するのを待つばかりだった。

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『120%の良品を目指せ!』 / 1953

『120%の良品を目指せ!』。 お客さま第一主義の意味深い言葉 / 1953

1953年1月、Hondaは本社と営業部を東京都中央区槙町2丁目5番地に移す。現在、Honda八重洲ビルのある場所である。同じ1月、埼玉県大和町に3万坪の用地を買い、大和工場(現、埼玉製作所和光工場)の建設も始まった。4月には、白子工場が完全に出来上がり、フル稼働に入った。支店網も、名古屋、四国、大阪、九州と拡がっていった。
ドリーム、カブの売れ行きも、ますます好調だった。

『120%の良品』と題する文章が掲載されたのは、ホンダ月報の1953年3月号である。いかにも本田らしい表現である。

「100%を目指したんじゃあ、人間のすることだから、1%やそこいらのミスをする。その1%を買ったお客さんには、Hondaは、100%の不良品をお売りしたことになってしまう。だからミスをなくすために120%を目指さなければならないんだ」。

当時の従業員たちは、本田から、これをもっとナマの言葉で実地教育されていた。

「あの人のすごさは、どんな時だろうと、お客さん第一なところ。いつもお客さんの立場からモノを見るどころか、お客さんそのものになってしまう。『120%を目指せ』は、口癖でしたね。何かというと、おれはな、駄目な1%に当たったお客さんになりかわって怒ってるんだぞ、ってやられたものです」。
と、河島は言う。

「私は、Hondaの幹部社員募集広告の”技研”という文字にひかれて応募した1人で、1951年の1月に東京工場の設計課に入った。でも、専門が電気だったので、やる仕事がない。すると、たちまち組立に回された。東京工場の小さな組立ラインが動き出したばかりで、回りの連中もみんな素人。浜松からベテランが来て、一通り指導して帰ってしまった。慣れてないから、ビスをしっかり締めなかったり、忘れたりする。おやじさんが現れた時に、それを見つかっちゃった。私じゃなくて隣にいた人が。もう食いつきそうな目で、まず、『この馬鹿っつら!阿呆っつら!馬っつら!』ときた。それから『お前、給料どこからもらってる?』『会社からです』。『会社はどこから金もらってる?』『買ってくれた人です』。『結局はお客さんからもらってるってことだ。なのに、こんないい加減な仕事しやがって、お前、そのお客さんを殺す気か!』と。ゾクッとしたな。恐ろしかったけど、おやじさんのヒューマニズムが、口先じゃなく、体中から出てるのを感じました。『人間尊重』は、今もHondaの基本理念になっているけれど、そのベースは、おやじさんのヒューマニズムです。人間尊重なんていう言葉は、おやじさんの口から聞いたことはないが、人への心づかいの気持ちを、こういう激しい表現でわれわれにぶつけてきたことは何度もあります。しかも、そういうふうに強烈な雷を落とす相手をちゃんと選んでいるんです。こいつならという見込みのある、怒鳴りがいのあるやつをね。もっともご本人は、『人はよく、かわいいからこそ怒るなんて言うが、おれはそうじゃない。その時はほんとに憎たらしくなる。なぜなら、おれたちのつくる商品は人命にかかわるものなんだ。それをないがしろにする人間は絶対に許せない』って。だから迫力満点で、怒られたほうは冷や汗びっしょり。もう2度と間違いはすまいと肝に銘じる。ところが翌日になると、おやじさんはケロッとして怒ったことなんか忘れたような顔をしている。だから、あれは教育的落雷だったんだと、後になって分かるわけです」
と、中野保(元・取締役)は語る。

杉浦英男(元、会長)も、やはり若い日に、120%の良品にかかわる問題で本田から強烈な教訓を受けている。

4月、免許制度に合わせて60ccに排気量を上げたカブFⅡ型が発売された。
続いて8月には、4ストロークエンジンの原付車、ベンリイJ型が登場する。原付車だが、これはれっきとしたモーターサイクルだった。安価で便利に使える実用車を目指すというコンセプトから、ドリームとは対照的な、ベンリイという名前が付けられた。命名したのは本田である。

設計課員としてこの開発の経緯を知る原田義郎は語る。
「4ストロークの原付車は新鮮でした。他メーカーからも4ストローク車がいくつか出ましたが、やはり2ストロークのほうが多かったですからね。フレームはドリームE型よりモダンで、量産性にも優れたプレスバックボーンを採用しました。二つ割のプレスフレームを”もなか”のように合わせて溶接する。お手本はドイツ車です。量産性から見るとイギリス車よりドイツ車の方が進んでいて、ドイツ車はこの形式のフレームが多かった。ベンリイが直接参考にしたのは、NSUのフォックスというクルマです。
しかし例によって、そっくり真似するようなことは絶対にしない。それで、シーソー式スイングアームというのを考えたのです。エンジンをフレームに固定せず、リアサスペンションのスイングアームを前に延ばし、そこに載せた。こうすれば、エンジンの振動が乗る人に伝わりにくく快適だという理由からです。そこまではいいんだが、実際には問題が起きた。後輪が上下動すると、シーソー式ですからエンジンも上下動する。デコボコ道だとキャブレターがシェークされて、燃料が泡立っちゃって、エンジンが不調になる。荷台にうんと重い荷物を乗せると、リヤフェンダーにタイヤがぶつかってしまう。120%の良品を目指すという親切心アイデアがアダになって、初代のベンリイは成功とはいかなかった。すぐに反省して改良し、やがて『実用車ならベンリイ』との定評をもらえるまでになっていくんですけどね」。

待望の輸入工作機械の第一陣が白子工場に到着したのは、1953年5月だった。120%の良品を目指すのに欠かせない品質向上体制が、次第に整っていった。

7月には、現在の本田技研労働組合の母体となった埼玉労働組合が、白子工場で結成された。11月には給与体系の整備が行われ、永年保障制度を実施。12月には第4次増資を行い、資本金は6000万円となり、浜松製作所(葵工場)の建設も開始された。

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世界への挑戦

『マン島TTレース出場宣言』 / 1953

世界一への挑戦状。 『マン島TTレース出場宣言』 / 1953

1954年1月、HondaはジュノオK型をデビューさせた。数々の新機構を最大限に盛り込んだ最新鋭のスクーターである。当時スクーターは、富士重工業のラビット、新三菱重工業のシルバーピジョンを双璧に、モーターサイクルとも自転車用補助エンジンとも異なる大きな市場を確立していた。

そこへ、Hondaが満を持して送り込んだのがジュノオK型だった。先行のライバルに対抗する、それまでにない新しさを満載していた。2輪車で世界初のセルスターター、全天候型の大型風防、これも初めての方向指示フラッシャーランプまで付いているという、自動車のスクーター版ともいうべき製品だった。中でも際立って独創的だったのは、FRPのボディーパネルである。ポリエステルとグラスファイバーによる強化プラスチックのFRPは、当時最先端の素材である。1953年型シボレー・コーヴェットがボディーに初採用した程度で(生産台数は約300台といわれる)、アメリカでさえ大量生産技術はまだ開発途上だった。

このFRPボディーパネルを担当した中の1人に、当時、入社1年目の土田昭三(現、ティエステック副社長)がいた。大学で化学を専攻した土田に、突然、白羽の矢が立ったのだ。

「もちろん、こんな新素材を使おうと決めたのは、本田さんですよ。早くからプラスチックに着目していた。当然、日本では初めてだし原料もアメリカからの輸入。生産技術も、半ば自分たちで開発したようなものです。
苦労の連続でした。型から抜くと表面はピンホールだらけ。凸凹もある。それを磨くと、ガラス繊維が飛び散って体にチクチク刺さる。塗装も、鉄板用のものは全然通用しません。『見たり聞いたり試したりの中で、試したりがいちばん大事なんだ』と本田さんはおっしゃってたけれど、汗を流しながら改善していくあの人の実践哲学を、もろに体験させられました」(土田)。

だが前年7月、朝鮮戦争は休戦協定が結ばれ、一時期の特需ブームは終わっていた。糸へん景気、金へん景気といわれた好景気が秋から徐々に悪化し、1954年は一挙に大不況の年となっていた。

しかし、Hondaは1月に株式を公開し、東京証券取引市場で店頭売買が開始され、世の不景気をよそに、躍進は今年も続くであろうと思われていた。1953年2月~1954年2月期の決算では、前年度の約3倍もの総売上高を記録していた。

1954年1月13日、東京の羽田空港から、3人の日本人がブラジルへ旅立った。

サンパウロ市の400年祭記念の国際オートレースに参加するHondaのライダー・大村美樹雄とエンジニアの馬場利次、それにメグロのライダー・田代勝弘である。これは、戦前戦後を通じて、日本のモーターサイクルと日本人選手の初めての海外遠征であった。ライダーの大村は、1949年に16歳でHondaに入社し、野口工場で組立とテストライダーをやっていた。彼はその年の9月に浜松の野口公園で開かれた小さなレースに、社用車のC型を”無断借用”して出場。優勝してしまったのを、見物に来ていた本田宗一郎に見つかり、怒られるどころか褒められたという逸話の持ち主である。

Hondaは、戦後復活し始めたレースに積極的に参戦していた。本田自身も本田技術研究所時代にはあちこちの草レースに、A型で出場していたのだ。走るのをやめたのは本田技研工業の社長になってからで、そのかわり、若手の従業員たちを参加させている。

「僕がライダーで、大村がメカニックだったことがあるんだよ」
と語っているほど河島もレース好きで、名古屋や静岡まで出掛けて行って走ったという。

「サンパウロという地球の向こう側のレースに出ることになったいきさつは、全国小型自動車連合会会長の栗山長次郎さんが、1953年の10月、たまたま通産省へ行った時に、車両課でサンパウロのモーターサイクル協会から招待状がきてるのを見つけたからです。サンパウロ市の400年祭記念レースに日本も参加しないか、費用はこちらで持つ、という。ところが課長の未決箱に入ったままになっていたので、エントリーの締め切りが迫っていた。栗山さんが急いで各メーカーに話をして、5社が参加を希望したんですが、向こうへ問い合わせると締め切り後だから予定のライダー10人・メカニック2人は招待できない。1人分の費用なら出す、という返事。結局、Hondaとメグロの2社が、足りない分を出し合って、遠征が決まりました。飛行機代は当時のお金で1人分80万円。えらいことですよ。僕はそのころHondaの従業員であり、公営オートレースのプロ選手だったんです。オートレース用に、Honda・スペシャルをつくってもらって走ってました。おやじさんは、場慣れしてるからって僕を選んでくれたんでしょう。当時21歳。メカニックの馬場さんも大学を出て2年目の23歳。こんな若者を平気でブラジルまで行かせちゃうんだから、ほんと度胸のいい会社ですよね」
と、大村はいまだに感心する。

さあクルマの準備だとなったが、情報が少ない。分かっているのは125ccクラスは1周8kmのコースを8周するということだけだった。ドリームE型の150ccを、ストロークを縮めて125ccにし、ミッションは3速がまだできたばかりなので、信頼性から従来の2速のまま。フレームはパイプで特製した。出来上がったマシンはロードレーサーというより、ダートトラックレーサー風だった。

「明日出発します、と、おやじさんのお宅にあいさつに行ったら、『勝つことは考えるな。何としても完走してくれ。それだけは頼むぞ』と言われた。勝つのは無理だと思ってたけど、完走だって結構、難しそうだった(笑い)」(大村)。

マシンを船便で送る時間はなかった。航空貨物は費用が高すぎる。結局、2台をバラバラにして3人が手荷物で運ぶ強引な策を採った。プロペラ機の時代である。延々6日目にサンパウロにたどり着くと、大歓迎が待っていた。

「日系紙のインタビューを受けたり、日系人のパーティーに招待されたりしましたが、ありがたかったのは、日系人の方から練習用に250ccのAJS(英国車)を貸してもらえたことですよ。自分のレーサーは練習には使わない。ここで壊したら一巻の終わりだから。時々ドリームでも走った。フレーム剛性は足りないし、これは無理しちゃいかんぞ、完走、完走。夜はレース場の地図を見て、イメージトレーニングをした。おやじさんを思い出しながらね。サーキットは、今でもF1GPで有名なインテルラゴスでした。ヨーロッパから来てる連中を見たら、僕らとの差はもう圧倒的でね。マシンもライダーも超一流がいっぱい。わーっ、あんなのとヨーイドンじゃ、かなわない。走る前から結果は一目瞭然だった。ただ、スタートは押し掛けです。僕は足が速い。せめてここでいいとこを見せてやるぞって頑張った。足で走ってる間はいちばん速かった(笑い)。だから最初は前のほうにいましたよ(笑い)。直線では全然歯が立たないけど、小さいカーブは僕の得意。オートレース流の走りでここも最速(笑い)」(大村)。

トップ争いはイタリア勢同士で、モンディアルに乗るパガーニが勝った。大村は1周半遅れ、25台中の13位で完走した。平均時速は約115kmだった。

「モンディアルは130kmを越えてました。パワーも、ウチのが6馬力、向こうは軽く2倍以上でしょう。とにかくあの酷暑の中で約束通り完走できてよかった。これで安心して、おやじさんと顔が合わせられる。喜んでくれると思いました」(大村)。

だが、それからが大変だった。250ccクラスに出場するメグロの田代選手が練習中に転倒、左手に大怪我を負って、本番レースは走れなくなったのだ。1人分7万5000円のスターティングマネーももらえなくなってしまった。

「外貨持ち出しが厳しい時代だから、お金は少ししか持っていない。当てが外れて大困り。本当に日系人の皆さんにお世話になりました。義援金パーティーを開いてくれて、食事にも呼んでくれて。完走報告の電話のついでに金送れも言って、4万円届いたけどとても足りない。やむなくマシンを現地で売って、滞在費の足しにしたんですよ」(大村)。

帰路はアメリカ回りの乗り継ぎだったが、5日間かかった。

「八重洲の本社へ直行しました。昔からHondaには社長室がない。社長が入口の奥の長椅子で新聞を読んでたから、『社長、ただ今戻りました』と言うと『おっ、帰って来たか、ご苦労』って、目も上げずにそれで終わり。ガッカリして浜松に帰ったら、『大村がブラジルの国際レースで完走したぞ!』と、社長があっちこっちに言って歩いてたというんです。本人の前では、照れてほめないんですよ」(大村)。

『マン島TTレース出場宣言』が公表されたのは、1954年の3月20日だった。本田と藤澤が、いつごろからこの計画を話し合ったか、定かではない。

かつて、連日連夜、2人で夢を語り合ったという出会いのころに、本田は、いつかこのレースに出る夢も話していたかも知れない。

まさに檄文(げきぶん)というにふさわしい熱気あふれる文章は、本田の意を十分にくみ取った藤澤が、自ら書き上げた。書かれた時期は馬場と大村が帰国した後である。

宣言文には、
『私はかなり現実に拘泥せずに世界を見つめていたつもりであるが、やはり日本の現状に心をとらわれすぎていた事に気がついた』
とある。

サンパウロ遠征で、”井の中の蛙”だったことを痛感した本田の、持ち前のチャレンジンングスピリットが燃え上がったのだ。一刻も早く、世界に追い付くための競争の場が必要だった。市場で競うのはまだ無理である。先進国に輸出できる製品はない。だが、レースなら、世界との競争の現場に飛び込めるのだ。

社内向けの宣言文のほかに、もう一つ社外向けのあいさつ文がある。代理店・販売店・協力メーカー・マスコミなどに配布されたもので、内容は宣言文とほぼ同じだが、より長文である。そこには、
『これを機会に、自動車工業の輸出が始まりますならば』
という意味深い一節がある。

日本市場だけを頼りにする現状を抜け出さない限り、真の成長は望めない。本田と藤澤の、さらに先を見た大きな目標が、はっきりと現れている。

「いきなり、この宣言が出た。それまで何も聞いていませんから、これはどえらいことだと思いましたよ。国内のレースは、富士登山レースとか、名古屋TTとか、片っぱしから参加していましたが、それとは格が違う。僕もその当時、マン島TTレースが世界最高のレースだということぐらい知ってましたけど、まさか、そこへ挑戦しようなんて、夢にも考えませんでした」。

本田のでっかい話には慣れている河島さえ、驚く計画だった。

このあいさつ文には、来年6月の出場決意と、
『私は4月末欧州に旅立ち、英国に赴き、現地において各種調査の上、6月帰国の予定でございます』
という一行も、書かれている。

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『信頼と友愛』 / 1954

『信頼と友愛』。 心のコミュニケーションがHondaを支えた / 1954

しかし、宣言文が出された直後、Hondaの状況は一変した。これまでと比較にならない、未曾有の経営危機に襲われたのである。

「藤澤さんはジュノオにほれ込んでましてね。『これは画期的なスクーターなんだ。大量に売れるはずだ。販売店を募集して保証金を納めてもらおう』と、非常な意気込みでした。保証金は300万円でしたね。高いから半分にしてくれというお店もあったりして。ところが、そのジュノオが華麗なる失敗作だったことが分かった。前宣伝が派手だっただけに、後始末が大変でした。
そこへまた、パタッとカブF型の売れ行きが止まってしまった。後を追いかけてきた他社の製品のほうに人気が移ったのと、もう自転車用補助エンジンが、時代遅れになり始めていたこともありました。悪いことは重なるもので、しっかり売れていたドリームにまで問題が起きた。前の年の12月に排気量を220ccに上げて発売した4E型が、原因不明のエンジン不調でクレーム続出になったんです。おまけに、ベンリイも、ギヤとタペットの騒音が大きいと、評判が良くない。営業は四面楚歌の状況に陥りました」
と、川島喜八郎は当時の苦境を語る。
4つの主力商品すべてが、同じ時期に、そろいもそろって問題を起こしたのである。

ジュノオK型の不評の原因は、いくつもあった。エンジンが放熱性の低いFRPで、すっぽりカバーされているため、冷却の悪さによるオーバーヒートが頻発した。軽量化に役立つはずだったFRPボディーは予想外に重く、さらに豪華装備が加わっての170kgもの車重は、取りまわしを困難にしていた。この重さのためにアンダーパワーとなり、走りぶりも良くなかった。タイヤ交換のしやすさを考えた片持ちサスペンションのトラブルも発生した。クラッチ操作がモーターサイクルと同じで、遠心クラッチやVベルト方式の簡単な操作に慣れたスクーターユーザーに好まれなかった。

本田の4月渡欧予定はキャンセルされた。直ちに技術的な問題点の解決に取り組まなければならなかった。
藤澤も、急きょ、営業面での対策を図った。前年8月、軽自動2輪車排気量規制が4ストローク車は150ccから250ccに拡大されたため、生産の主力を、220ccのドリーム4Eに移していた。当面、この危機を切り抜けるのに役立つ機種は、146ccのドリーム3Eの後継車として開発されていた189ccのドリーム6Eしかなかった。

本田とエンジニアたちは、4Eの不調の原因をつかむのに苦しんでいた。減速時にアイドリングが不調になり、エンストを起こすのである。原因を発見するまで眠れない日々が続いた。
藤澤は、4月20日、埼玉製作所に赴き、従業員全員を集めて危機の状況を率直に説明した。そして、緊急体制への協力を訴えた。4Eは問題が解決できるまで販売を中止する。6Eの増産でそれをカバーするしかないのだ、と。労働組合はこれを受け入れた。5月の連休を返上しての、労使一丸の奮闘が始まった。

「そのころ、製作所の製品出荷場にはドリーム4Eがズラーッと並んでいました。出荷を止めた在庫車と、全国から返品されてきたのとがね。ある日、全員集まってくれと声がかかった。そしたら、本田さんと藤澤さんが2人並んでた。おやじさんの白いユニフォームは薄汚れていて、クチャクチャのシワだらけ。目は真っ赤に充血していた。それで、藤澤さんの緊急事態の説明の後、おやじさんがしゃべったんです。いつものような冗談も出ないし、世界を目指すも出ない。4Eのどこがどう悪かったのか、説明してくれた。原因はキャブレターだったんだと。キャブレターの設計と取り付け位置に問題があって、燃料が途切れてエンストするんだ。でも、やっと解決のめどがついたと。おやじさんが、『すまなんだなぁ。迷惑かけたなぁ』って、われわれに謝ったんです。その時は、何だかジーンときちゃいましたね」。
と、当時、埼玉製作所で車体組立をやっていた新入社員・堀越昇は語る。

4月20日からの6Eの緊急増産体制は、1カ月足らずの5月8日、ひとまず終わる。エンジニアが全国へ散り、すべてのドリーム4Eのキャブレターをセッティングし直した。
とはいえ、危機が終わったのではなかった。

4億5000万円の輸入工作機械は順次納入されていたが、その能力を生かした製品の誕生はまだこれからだった。しかし、支払い決済は待ってくれない。さらに、トラブルが解決した今、大量在庫となっている4Eを売るのが先である。一転して、減産体制を採らなくてはならなかった。

藤澤は、外注部品メーカーにも協力を要請。Hondaの窮状を隠すことなく説明した。藤澤の著書『松明は自分の手で』の中に、この時の状況が書かれている。

『一方、5月26日には、白子工場に外注業者全員に集まってもらい、支払いの一部棚上げを頼んだ。『今までのようにお金が払えない。だから、これから買う品物にこれまで買ったものを加えてその代金の30%をお払いする。手形は書かない、ということで、ひとつここは我慢してもらえないだろうか』。ここで手形を上乗せして切れば、危険です。といって、承認してもらえなければ、部品が入らない。生産はストップする。話ながら生唾が出ましたね。なんとか承認してもらえた時は、ほっとして、力が抜けちまった。2、3離れていった業者も出ましたが、大部分の方々が本田技研の将来に賭けてくれたわけですね』。

販売不振、クレーム続出の中で、営業マンも苦闘を続けていた。
「輪転機でお札を印刷してる夢を見たほど、朝から晩までお金集めに走り回りました」
と、中野は言う。エンジニアを目指して入社した中野は、メカニズムに強い営業マンが欲しいという藤澤の要望で、カブF型発売開始の時から営業課に転属し、当時は九州支店次長だった。

「ある代理店さんに言われました。『品物を売ってしまって金を払わないのなら申し訳ないが、まだ在庫がこんなにある。そんなにお金が欲しいんなら、中野さん、あんたがこれを質屋に入れろよ』と。やりきれない気持ちだったな。こんな屈辱を味わったこともあるし、夜中じゅうオートバイで走って、雨に濡れて凍えながら集金して回ったこともある。問題解決に徹夜で取り組んだのは、エンジニアだけじゃなかった。セールスだって似たようなことをしてたんですよ(笑い)」。

藤澤は、メーンバンクの三菱銀行に、初めて支援を要請した。同じく『松明は自分の手で』に、その時のいきさつも書かれている。

『銀行に対しては、私は何でもしゃべった。いっさい隠しごとをせず、悪い問題も全部銀行に言った。(中略)すべてを知っていれば銀行も正確な判断ができるわけですよ。(後略)』。

この時、三菱銀行は当時の鈴木時太京橋支店長、川原福三常務の英断で、Hondaを全面的にバックアップしてくれたのである。

『この手術に絶大な後援をしてくれた三菱銀行は、本田技研が存続する限り永久に忘れてはならない。とくに、一身を投げ打って自分の信ずるところを重役に積極的に説明し、周囲の困難があったにもかかわらず、終始一貫、所信を通し努力して下さった鈴木時太支店長の名を、みなさんは忘れないでほしい』
と藤澤は翌1955年1月発行のホンダ社報12号に書いている。

1954年12月。労働組合は、越年手当要求の団交に入っていた。
「われわれが、会社側と掛け離れた要求をしたと言われてますが、それは違う。過大な額など望んでいません。あの当時は、みんな貧しかった。食うや食わず、昼の弁当を持ってこられない人もいたくらいです。今では想像もできないだろうけれどね。世界一もいいが、将来の夢だけでは生きていけない。闘争のための闘争をやるような組合員はほとんどいない。純朴な若者や、普通の家庭人ばかりです。だから、5月の連休返上も組合大会ですぐに決まった。なのに暮れの手当は、資金繰りが苦しいにしても、会社側からは何の説明もなしで、わずかな額の回答しかしてこなかった。
僕らは、経営のトップが説明をすべきだと、藤澤さんとの直接交渉を要求しました。本田さんは、工場や研究所を”オラんち”と言ってたくらいで、とんでもなく新しいところと、親方的意識とがごっちゃに存在する人です。それが分かっているから、われわれも本田さんに出てくれと言わなかった。あの天真爛漫、私心のないおやじを傷つけたくないと、みんなが思っていた。従業員が社長に、こんな心づかいをする。おやじさんならではの人徳ですね(笑い)」
と、当時、埼玉労組の書記長だった森井和吾は語る。

藤澤の提示した越年手当回答額は、一律5000円だった。組合の要求額は、2万5000円。当時の平均レベルである。

「(組合員)1800人の前に私は1人で出かけて行った。執行委員長が私に『この5000円という額をどう思うか』と質問しました。私は『問題にならない低い金額だ。しかし、もうすこし出せたとしても、後で会社がつぶれたときに、なぜあのとき頑張らなかったのかと追及されるとすれば、経営者として誠に申し訳ないことになる。それよりも、年明けて3月ごろになればまた車も売れるだろうから、そのときにまた団体交渉をしたい』と返事をした。そうしたら、みなも私の気持ちを汲んでくれたのでしょう、万雷の拍手です。拍手がとまらなかった。委員長が、『団体交渉はこれまでとします』と発言すると、また満場の拍手です。みなの間を通り抜けて歩いて行くと、両側から『頼むぞ!頼むぞ!』という声がかかったときには涙がこぼれてしまった。ほんと、泣きながら、きっとやるぞと心に誓いました」(『経営に終わりはない』より)。

森井は、その時を振り返り、力を込めて言う。

「Hondaは素晴らしい従業員に恵まれていた。それを忘れないでほしい。藤澤さんのこの説得に応える純粋な心の人たちが、危機のHondaを下から支えていたんです」。

「その1954年、ピンチの始まり出した4月に、僕は入社しました」
と語るのは、向山文雄(元・常務)である。

「同期には、3代目社長になった久米さんや、元・会長の吉沢さんたちがいました。埼玉製作所に配属されて入った途端に、修羅場です。2カ月くらいは、12時前に家に帰れた日がなかった。でも、なぜかみんな明るくて、血気盛んで、苦にしてなかったな。ちょうどそのころに、あのマン島TT出場宣言が出たんだけど、あれは、ホーッという感じで、先の希望を持たされましたね。あれに刺激されて、おれも今に天下を取るぞ、みたいなことを言い合って。森井さんたちの苦労も知らず、こっちは独身、青春真最中なんだ。夢を食って生きてたやつもいたんです(笑い)」。

向山は、その後、組合専従になる。

「私が書記長になってからだから、少し後の話になりますが、労使関係がいささかこじれて、会社側が委員長ら3人を懲戒解雇、私も昇給停止半年の罰を受ける事件があった。その最中に執行委員の1人が不祥事を起こし、組合が彼を除名処分にするといったことも重なり、ゴタゴタしました。結局、これは裁判になり1審で組合が勝訴し、すぐに和解となったのですが、私たちは本田さんと直接話をしました。その時おやじさんが、『なあ、内輪同士のケンカはやめような』と。このおやじさんの一声で、僕らも、本当にそうだと思った。こういうことが土台になって、労使共に健全な協調へと発展していきましたね」(向山)。

ドリーム4EとベンリイJの名誉のためにも、一言、加えよう。キャブレターのトラブルを解決した4Eは、本来の性能を取り戻し、ドリームEシリーズの中で最多生産台数を記録した。ベンリイJシリーズは、年を追うごとに急速に人気を高め、Hondaの主力商品の一つとして、足かけ5年間も生産されたのだ。

カブF型は生産中止が決定された。取り付けられる自転車の品質の不統一から起きるトラブルを、Hondaでは解決できなかったことも、潔くあきらめた理由である。

初代ジュノオK型は、約1年半の短い期間で生産を終える。総生産台数はわずかに5980台。ただし、土田らが苦心したプラスチック技術は消えなかった。5年後、それは画期的な姿で復活するのである。

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最初の『走る実験室』は浅間火山レースを走った / 1955

最初の『走る実験室』は浅間火山レースを走った / 1955

1954年6月9日、本田はヨーロッパへ旅立つ。最大の目的は、マン島TTレースを自分の目で確かめることだった。6月13日、遠い憧れであったモーターサイクルレースのメッカに着く。早速、レースコースの見学が始まった。ここはレース専用のサーキットではなく、一般道路をレース中だけ閉鎖して使う文字通りのロードコースである。1周60.725kmのマウンテンコースと1周17.36kmのクリプスコースがあり、いずれも、聞きしに勝る難コースだった。初めて目の前で見る各国のGPマシン群も、本田を圧倒した。お得意のしゃがみこみスタイルで隅々まで子細に観察した。

レースが始まった時のショックは、さらに大きかった。後年、モータージャーナリストの小林彰太郎氏に、
「技術者として1番うれしかったことは?」
と質問され、本田はこう答えている。

「1番がっかりしたことから言いますとね、初めて1954年にマン島TTレースを見に行った時のことです。驚いたことに僕ら考える3倍ぐらいの大きな力で走ってるわけですね。イタリアからドイツからイギリスから全部マン島に集結して、矢のように走ってる姿。しかもわれわれが見たこともないどころか、夢にも考えたことのないようなマシンなんですねえ。行ってあれ見たときに、まず第1にガクーンと衝撃だったなあ。日本でHondaがTTレースに出るって散々話を広げておいて行ったんだから、僕にとっては物凄い衝撃だった。これはえらいこと言っちゃった、どうしようかなあって。(中略)ところが、気をとり直して見ましたらね、一晩寝て、またあくる朝レース場へ行ってみたわけですよ。そしたら、こちらの連中は歴史があってこれだけのものをつくったんだ。こっちは歴史はないけど、これを見たという現実は歴史と同じ効果があるなと。(後略)」(二玄社刊・HONDA F1 1964~1968より抜粋)

宣言文には、250ccのレーサーを出場させ、そのエンジンはリッター当たり100馬力を出すと書いた。すなわち、25馬力。これが完成すれば世界最高峰の技術水準と見てさしつかえないと。しかし、来年TTに挑戦すると称する日本人を取材に来た新聞記者から聞き出したこの年の250ccクラス優勝車、ドイツのNSUレンマックスのパワーは、リッター当たり150馬力に近いだろうという。本田の世界レベルの予想は、大きく外れた。

本田が藤澤に出した短い手紙が残っている。
「6月14日、初めてレースを見たが、すごいものだ。いろいろと大いに勉強したが、また、自信もついてうれしく思う。会社のほうは苦労が多いと思うが、頑張ってください」。

とにかく度肝を抜かれながらも、いつもの負けん気を取り戻して、イギリス、ドイツ、イタリアと、モーターサイクルメーカー、自動車メーカー、部品メーカー、工作機械メーカーなどを精力的に見学した。日本で手に入らないレース用部品も買い集めた。イギリスではエイボンのレーシングタイヤとリム、レーノルズのチェーン、KLGのプラグ、イタリアではボラーニのホイール、デロルトのキャブレター。持てる限りの部品を抱えて、帰国した。
ひそかに心配していた資金繰りの大問題は、羽田に出迎えた藤澤の笑顔を見た途端に、切り抜けられたことが分かった。だが、経営状態は相変わらず綱渡りの危うさだった。
それでも10月には、TTレース推進本部をつくり、河島にレーシングエンジンの開発を命じる。

「本当に出るんですか、と聞くと、『何が何でも出る。もたもたしてると、どんどん置いていかれる』と。『それにな、今みんなが苦労してる時だろ。こんな時こそ夢が欲しいじゃないか。明日咲かせる花は、今、種を蒔いておかなきゃいけないんだ』。おやじさんにこう言われましたよ。手探りで、とにかくレーシングエンジンの設計は始めました」(河島)。

その一方では、いささか旧態化してきたロングセラーのドリームEシリーズが、市場で競争力を失わない間に、後継車の開発を進めなければならなかった。
12月には2年ぶりの汎用製品、4ストロークのT型汎用エンジンが登場した。今に続くHonda 4ストローク汎用エンジンの出発点となった製品である。
しかし、『マン島TTに来年出場』の公約は守れそうもなかった。

1955年4月、いよいよE型の後継車が発売される。まず350ccのドリームSB。翌5月には250ccのドリームSA。いずれも、Honda初のOHCエンジンを搭載する新世代のトップモデルであった。SBは14.5馬力、SAは10.5馬力というパワーを持っていた。Honda初の10馬力を超えるエンジンの誕生だった。

このころ、国内では、生き残りを賭けた2輪メーカーの激しい販売合戦が繰り広げられていた。盛んに開催され始めたレースには、各メーカーがこぞって出場した。勝てば、広告に勝る大きな宣伝効果を発揮するからである。7月、デビュー間もないSAが、それまで一度も勝てなかった富士登山レースに初優勝する。

そして11月、通称『浅間レース』の第1回が始まった。第2回からの専用コースと違い公道を使うレースだったが、250ccのドリームSAをベースにチューンアップした3台が、250cc、350cc、500ccの3クラスに出場。それぞれ2位、1位、1位を獲得する。だが、125ccクラスに出場したベンリイJCは、2ストロークエンジンのヤマハYA-1に1位から4位までを独占され、惨敗を喫した。
本田は、もちろん浅間に来ていた。肝心の250ccと125ccが負けるのを目の前で見た。大村は言う。

「あんな真っ赤な顔になったおやじさんを見たことがなかった。250ccクラスは惜しい2位だったけど、1位が丸正自動車製造のライラックです。社長の伊藤正さんは、アート商会浜松支店の時、おやじさんの弟子だった人だし、125ccクラスで勝ったのは、この年に2輪をつくり始めた日本楽器の初作品なんだから、よけい頭に血が昇ってる。僕は350ccクラスで勝ったんだけど、こんな時は君子危うきに近寄らずで、サーッと逃げて宿舎に戻っちゃった。後に残された監督やメカニックはどうなったかな(笑い)」。

「第1回と第2回の浅間に出したクルマは、市販車をチューンアップしたものですが、このころまでのオートバイはHondaに限らず、スポーツ車じゃなかった。働くクルマ、労働車です。それを速く走れるようにチューニングして、何とかスポーツ車にするわけだ。いろんな新機構やアイデアも盛り込んで、レースで試す。レースは目いっぱい走りますから、耐久性も分かる。結果のいいものは、市販車に活用する。Hondaの癖で、新アイデアを入れ過ぎてしまって失敗することが、ここでもありました。本番前のテストで全部壊れちゃって大慌てしたりね。そんなことをしないで、オーソドックスなチューニングだけにしておけば、もっと早く勝てたかも知れません。浅間もそうですが、このころのHondaはちょっとオーバーにいうと”出ると負け”の連続だった。それもおやじさんが見えてる時に必ずそうなるんだから運が悪い(笑い)。でも、ここで得た技術やノウハウが、市販車をグンとレベルアップしましたよ。後にF1に挑戦した時、何でそんな冒険を大金かけてやるのか?と理由を聞かれたおやじさんが、『あれは走る実験室です』と言ったけれど、『走る実験室』の初代は浅間のマシンなんですよ」。

レースでは負けたが、元はちゃんと取ったと、河島は言う。

「浅間は第2回も、125ccと250ccで、ヤマハさんにまた完敗。350ccで勝ったが、このクラスはヤマハが出てない(笑い)。125ccと250ccで勝ったのは、マン島TT初挑戦から帰ってきた後、4年後の1959年でした」(河島)。

第2回からの浅間は、2輪メーカーが費用を出し合って建設した特設コースで行われた。既に日本のトップメーカーとなっていたHondaは、最も多くの建設費を拠出していた。ロードレースコースと称していたが、浅間山のふもとの荒れ地を整地しただけで、路面は細かい火山礫混じりのダートのままで、舗装されていない。

「第2回の時だった。今でも目に浮かびます。夕日が沈みかけて、ススキの穂が真っ白に光る土手の上に、おやじさんが座っていた。トップのヤマハが、ビィーンとやってきて目の前でゴールした。僕は久米さんと一緒に、横で見ていたんだけど、全然怒らないんですよ。『負けちまったものはしょうがねえ』って、ポツンと言っただけ。淋しそうで気の毒だった」
と、新村公男は言う。
新村はこの後、ベンリイC90や、マン島TT250ccマシン、N360などのエンジン設計を行っている。

「でもね、おやじさんとレースやるもんじゃないですよ。あの人とやったら、必ず負けます。なぜかというと、スタート直前でもマシンをいじるんだ。こうすりゃいいんじゃないかと思うと、やめられない。止まらなくなっちゃう(笑い)。自分でもそれが分かってるから、僕らがマン島や世界GPに行ってる時もほとんど現場に来なかった(笑い)。第3回の浅間で、とうとうヤマハに雪辱した。ただ、あの時、125ccクラスにはヤマハが出てこない上に、トップはマン島帰りのワークスマシンじゃなくて、アマチュアの北野元が乗った市販車ベンリイCB92スーパースポーツなんだ。藤澤さんも珍しく見えていて、ちょっと不機嫌なおやじさんのところへ寄ってきて、『いやぁ、市販車に花持たせてもらって、これで商売繁盛、万々歳。ありがとうございます』(笑い)。おやじさん何にも言えなくなっちゃった(笑い)。事実、あれでベンスパ(CB92の愛称)の人気は一段と上がったし」(新村)。

続く250ccのレースで、Honda初の並列4気筒マシンRC160が現れ、1万4000回転の強烈なHondaサウンドで観客を驚かせながら、1位から3位までを独占。やっと本田の笑顔が戻った。

不況で始まった1955年の景気は、秋から急激に上向いた。わが国始まって以来の好況となったことから”神武景気”と呼ばれた。
自動車界では初代トヨペット・クラウンが登場し、東京通信工業(現・ソニー)から初のトランジスタラジオが発売され、大きな話題になった。
Hondaは、困難を乗り越え、再びスロットルを全開にしていく。

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そして、『社是』が生まれた / 1956

そして、『社是』が生まれた。 『わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能の優れた、廉価な製品を生産する』 / 1956

それは、1956年1月発行のホンダ社報23号に掲載された。『社是』に並んで、『我が社の運営方針』が掲載されている。いずれも、現在の社是と運営方針の『原典』である。

この第一印象を、OBたちは次のように語る。

「立派な社是をつくりやがったなぁ、ですよ。その時の正直な感想は。しかし、これが社内に掲示されたかどうかは、記憶にない。多分、してなかったでしょうね。私が入社したころを振り返ればHondaもずいぶん大きくなってはいた。けれど、この意味の言葉はずっと本田さんの口から聞かされてたわけです。『狭い日本を見てちゃいかん、世界を見ろ』とか『商品は、お客さんが喜んでなんぼなんだ』とか。それがキチンとして、ちょっと、こそばゆかったんですね。そう言ってる割には、想いがいき過ぎて、良品・廉価にならないのが多かったし」
と、川島喜八郎。

「これは、おやじさんそのものの社是。運営方針も同じですよ。ただ、お客さんのために明日の商品をつくればいいが、あさっての商品をつくっちゃうところが、ちょっと社是の通りじゃなかった。その後の(株)本田技術研究所時代も含めて、おやじさん25年の打率は低かった。ホームランか3振か(笑い)。川島さんたちから『ひどいよ、これじゃ売れんぜよ。お客さん、まだそこまでいってないよ』と。でも、その片棒かついでたのが僕なんだから(笑い)。けれど、考えの基本は、しっかりおやじさんが植えてくれた。だから僕の時代には、もう少しうまく明日の商品でいこうと、そこで学んだわけです。でも、あの果敢な失敗を経験してなかったら、そして今日の商品だけつくっていたら、ちっぽけなHondaは消えていただろうと思う。もし、おやじさんが日本一が目標で、日本的視野に立っていたら、間違いなく現在のHondaはなかったでしょうね」
と、河島喜好。

「当時は若気のいたりで、生意気に言葉尻をとらえては文句を付けたりしたが、よく読んでみると、何とも率直、素朴で、具体的で、しかも、額に入れて応接間に掲げておくような社是じゃない。とりわけ『世界的視野』のくだりは、当時のHondaのポジショニングにしてみれば、まさに、”よく言うよ!”と言われるレベルだったと思うけど、トップの人たちが本気でそう思い、実現しようと本気で行動してる。そういうのを見たり、聞いたりすると、僕らのような若い連中は、ついしびれて、ついて行ってしまうんだ。おやじさんは、自分の想いを、腹の底から一生懸命言う。そうされるとこっちはガキだから、わりとすんなり共鳴しちゃった。河島さん、川島さん、西田さん、白井さん、若くてああいう思想に乗れた人たちが、おやじや藤澤さんと一緒に頑張って、Hondaの根っこができたんだ。カルチャーの根っこがね」
と、杉浦英男。

「僕なんか、ボロ工場の中の新鋭機械を見て、こういう会社に入りたいって途中入社した口だから、分かりやすいなあと思った。だけどあんな立派な社是は他にないって、引退した今になって再感動してる。あの年代に、あの社是をつくったのは、大変な見識です。ヨソの大会社にも、あんなのはなかったと思うよ。それに『3つの喜び』みたいな、さらに分かりやすい人間っぽい言葉がある。よく、『和』の一文字を社是で飾ってる会社があるが、和だけで会社が繁栄するかって(笑い)」
と、新村公男。

これが、当時の従業員の『社是』への感懐である。人それぞれニュアンスこそ違うが、本田の日常が社是に姿を変えたのだという点は、だれもに共通している。

現在のHondaの基本理念になっている『3つの喜び』が、1951年12月のホンダ月報に初出されたことは、前に述べた。

だが、Honda・フィロソフィーの原点である『3つの喜び』は、だれが文章化したのか。今まで謎のままだった。藤澤の代筆説など、諸説あった。

最古参従業員の1人、そのころ総務担当だった神谷清に尋ねた。

「あれは、私が書かせていただきました。今でいうと、PR誌のようなものがあっていいのではないかと社長に申し上げ、ホンダ月報を私が編集者で出したのです。その時、社長はご自分で筆を執る方じゃないので、お話を聞きながら、まとめました」。

神谷は、そう答えた。
藤澤は、ホンダ月報に掲載する文章を自分で書き、神谷に渡した。

「本田さんの平素の言動・思想を、至らぬ私が聞き書きしたもので、自分で考えたわけではありません」(神谷)。

本田と同い年、現在90歳を過ぎた神谷は、明治の人の謙譲さで、聞かれるまで、筆者であることを公言しなかったのだ。

1956年1月、Hondaは第5次増資を行い、資本金は1億2000万円となった。

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『姿の良い製品は内容も充実している』 / 1957

『姿の良い製品は内容も充実している』。 独創のHondaは、独自の美しさ / 1957

1957年5月、Hondaは第6次増資で、資本金3億6000万円となった。そして8月、Hondaは画期的な製品を創り出した。それは初めて、”つくった”ではなく”創った”と書くにふさわしいモーターサイクルだった。この年の9月に発売されたドリームC70が、それである。ドイツ車NSUスーパーマックスから受けた影響を感じさせながらも、これはもはや、本田が望んだHondaらしさ、独自の個性を強く発揮し始めた第1号車である。

ドリームC70は、全身でHondaであることを主張していた。『Hondaエンジン開発30年史』には、Honda初の2気筒250ccOHCのエンジンからスタイリングまでが、
「独創のアイデアに満ちていた」
と、誇りを込めて書かれている。

量産の250ccの中排気量4ストロークエンジンは、単気筒が主流で、2気筒はほとんど例がない。これは、このころ急激に性能を上げて台頭してきた2ストローク2気筒エンジン車への、4ストロークのHondaからの回答だった。

C70は、4億5000万円の工作機械の力を駆使した最初の製品でもあった。たった1年前までは考えられなかった、2輪先進国への輸出も可能な国際クラスに達した商品が、初めて誕生したのである。
パワーは国産同クラスの2ストローク車を越え、価格は安かった。7400回転で18馬力。高回転・高出力のHondaの第1号車だった。あまりの高回転に、耐久性を危ぶむウワサも立てられた。

本田の最初の著書『ざっくばらん』には、こんな一節がある。

「うちは馬力アップに力点をおいている。しかしHondaは回転を高くして馬力を出しているから、エンジンの寿命が短いと非難する向きもあるようだが、そういう考え方をするメーカーのエンジンなら長持ちしないかもしれない。設計も悪いし、精度も悪ければ摩擦が多くて馬力が食われるから効率も低い。そこで無理に回転を上げると、ぶっ壊れるに決まってる。自分のところが壊れるといって、Hondaのも壊れるというのは違う。そんなにHondaのエンジンが悪いのなら、買い手がつかないはずなのにどんどん売れている。自分の技術レベルを物差しにしてよそのを推しはかるというミミッチイことはやめて、素直に自分のところではできないんだとカブトを脱げばいい。そこで初めて技術を高めなくちゃという気持ちが起きるわけである。(中略)4サイクルの2気筒なんて、あんな価格でできるわけがない、どこか内部で手を抜いているに違いないなんてかんぐることしか知らない。こういう人は専門家じゃない。やはり知ったかぶりは技術の大敵である」。

当時、神社仏閣スタイルと呼ばれた、ユニークな角型の車体デザインは本田が先頭に立って、自ら粘土を削った。

輸出を狙うからには、Hondaのマークはイコール日本のマークの誇りを持って、独特のデザインを打ち出さなけりゃ駄目なんだと考えた本田は、休暇を取り、奈良や京都を10日間ほど巡った。
この旅に同行したのは、さち夫人だけである。

「何をしに行くのか、いつものことで説明なし。毎日毎日お寺回り。ある日、京都大原の三千院で、ある仏様の前で動かなくなっちゃった。拝観時間が過ぎても。あんまり夢中なものだから、お坊さんが懐中電灯を持って来て、見せてくださった。なんであんなに見てたんですか、と聞くと『お前には関係ないっ』の一言。あとで何のためだったか分かりましたけどね」。

「ドリームC70のタンク側面のエッジは、仏像の眉から鼻にかけての線を頭に描きながらデザインした」
と、本田は言っている。

後に技術研究所の造形室のスタッフに、”造形係長”のニックネームを付けられるほど、本田はデザイン好きであった。姿は心の鏡、姿は中身の良さを現す、と。

エンジンの外観まで統一されたC70の角型デザインは、多くのコピー車が生まれるほど、市場で人気を集めた。特に、精密感あふれるエンジンのデザインは、後年、あるイタリア車にまでコピーされている。アルミダイキャスト鋳造の粋のようなC70系のエンジンは、今見ても魅力的である。

量産・精密・軽量のアルミダイキャストへの本田のこだわりは、いよいよ、この時期から完全に開花する。ちなみに、スーパーカブの大量生産に入った時、日本で生産されるアルミニウムの消費量の内、自動車関係業界では、Hondaがトップを占めるのである。

C70以後、Hondaは、だれかにまねをされることはあっても、だれのまねもしない、独自・独創の時代に入った。この後に続くC71には、ジュノオで経験したセルスターターが付いた。今はあって当然のセルスターターも、最初はHondaから始まったのだ。

この年6月、Hondaの設計部門は、白子工場内で技術研究所として発足した。これは研究所独立の前奏曲だった。さらに、3年後の1960年には、Hondaから分離・独立し、(株)本田技術研究所が設立されることになる。メーカーの研究所部門を別会社にする例は、当時どこにもなかった。

神武景気が終わり、ナベ底景気といわれる不況の中にあっても、Hondaの業績は上昇し続けていた。
輸入機械は猛烈な勢いで働かされていた。”やって見もせんで”と”能率”は、工場現場での本田の2大口癖だった。

磯部は、本田の無数の現場語録を、哲学的なものから具体的実務の助言まで、克明に記録している。その一つが、
『設備の能力は最高スピードで決めろ』
である。

輸入機械は、メーカー指定の作業速度を超えるスピードで使われた。エンジンでいうなら、レッドゾーンまで回されるのである。当然、故障したり、オーバーヒートも起きた。指定を無視しての酷使だから、その対処はHondaでしなければならない。買った機械は自分のものだ、知恵を使って自分の機械にしろ、である。機械メーカーが驚くような工夫をして、フル稼働させた。例えば、オーバーヒートにはラジエーターを付けて対策する。単機能の機械を複能機に改良する。この経験が、工作機械の自製という方向へ発展し、やがて1962年の工機製作所の発足へ至るのだ。

1957年12月、Hondaは、東京証券取引所に上場された。翌年3月には大阪、4月には名古屋でも上場される。
2輪車の生産台数では国内第1位となった。

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『3つの喜び』から『良品に国境なし』まで / 1956

『3つの喜び』から『良品に国境なし』まで、 Honda哲学を具現化したクルマ、スーパーカブ C100、ついに登場 / 1956

1956年、本田と藤澤はそろってヨーロッパへ旅立った。表面の目的は視察旅行だったが、2人の胸中には全く新しい商品の構想があり、それを確かめるための旅であった。

カブF型の生産は終わっていた。自転車用補助エンジンに替わって、モペット【注】と呼ばれるクルマが、日本でも姿を現し始めていた。

ヨーロッパの街を走り回っているモペッドを見るたびに、本田は藤澤に、
「あんなのか?こんなのか?」
と尋ねるが、藤澤は首を横に振った。

帰国するやいなや役員会が開かれ、新製品の開発指示が2人から告げられたのである。設計スタッフには、本田がイメージしたクルマの説明がなされた。

「主だった連中に集合がかかって、おやじさんが頭の中の構想を話された。とにかくモペッドに近いが、それとは違うものにする、というのは伝わってきた。サンプルのクルマも5台くらい買ってきてましたよ。ドイツのNSUとか、ツュンダップとか、オーストリアのプフとかがあって、おやじさんは、いつでも量産性を考えてる人ですが、今度はいつにも増して大量生産を考えているなと、僕らも分かっていました。実はおやじさんは、ヨーロッパへ行かれる前に、試作車を2台つくらせてるんです。その1台は、ボデイー全部がアルミ鋳造というとんでもないもので、量産性はともあれ、重くてどうにもなりそうもない。早々にあきらめましたがね。このころまでは、おやじさん自身、これ、というイメージが、固まってなかったんです」

当時の車体設計課長で、この計画のプロジェクトリーダー格だった原田義郎は、発端を語る。

「そのうち、だんだん、具体的になってきたんですね。設計室に朝一番で現れて、『おい、昨日の晩、こういうふうに考えたんだ』と、大きな声でしゃべり出す。何事が起きたかと設計室の連中が集まって来る。人が寄って来ると、本人も興奮してきて、口から泡を飛ばして説明する。そのうち、じれったくなって、床に座り込んでチョークで構想を描く。描いてるうちに、考えが先に進んで、描いたのを手で消して、また描く。見物人はますます増えてくる。輪の中のおやじさんは、まるで大道芸人ってとこだったなぁ(笑い)。でも、周りを取り囲んだ従業員たちは、みんなピリピリと緊張して、おやじさんの言葉を聞いていました。『エンジンは4ストローク!』と、これは、とっくに決めてました。藤澤さんの注文じゃありません。あのころは大の2ストローク嫌いになってて、もう目の敵。1957年の正月、まず、エンジンの開発からスタートしました」。

エンジンを担当したのは、星野代司である。役員会の席で本田は、新エンジンの開発は星野に担当させる、と指名していたのだ。

「私は、1951年にHondaに入って、すぐカブF型のエンジンをやらされました。Hondaの前の仕事もエンジン設計でしたが、内燃機関じゃなくて、外燃機関。蒸気機関車の設計をやってたんです。それが50ccのちっちゃなエンジンをやることになった(笑い)。経験がなくても技術的にそう難しくない2ストロークですから、何とかなりましたが」。

しかし、今度のエンジン開発には、苦労が待ち構えていた。

「スーパーカブのエンジンは、ベンリイJ型の次で、私が設計した4ストロークの2作目でした。50ccの4ストロークエンジンなんて、世界でどこも量産なんかしてない。50ccなら2ストロークと決まっていましたからね。本田さんは、藤澤さんとヨーロッパへ行かれた時、ホテルで朝、新聞配達のクルマがみんな2ストロークなので、『カン高い音がうるさいのなんの。あんなのは、やっぱり世の中に出すべきじゃないんだ、ああいうクルマこそ、4ストロークでなきゃいかん』と、おっしゃってたそうです。私への命令はもちろん4ストローク。それからは、もう毎日毎日、設計室においでになる。こっちが夢中で基礎計算をやっていた時、ふっと振り向くと、いつの間にか後ろに本田さんが立っておられて、肩越しにじっとのぞき込んでたなんてことも再々ありました。熱の入れようたるや、いつもよりもはるかに激しかった。設計図を引き始めると、もっと大変。何しろ図面を見るのが恐ろしく速い人です。パッと見て『これじゃぁ駄目だ』って、せっかくきれいに描いた上に鉛筆でシャーッと乱暴な線を描いちゃう。勘が鋭くて、問題点を一目で見抜いてしまう。やはり、普通の頭の人ではなかったです」。

だが本田は、自分の意見をゴリ押しするような一方的なワンマンではなかった、と星野は言う。

「例えば、『この板厚、もっと薄くしろ』と言われた時に、これは強度計算上、この厚みです、と理論的に説明すると、何もおっしゃいません。『お、そうか』。それでおしまい。こっちの勝ちです。社長のアイデアとこっちのアイデアがぶつかった時も、テストしてみて、『おれのはダメかあ』と、あっさり引っ込める。ただ、エンジニアとしての本道から外れると、これは厳しい。私は、それで一度、特に厳しいお叱りを受けました。ベンリイのカムシャフトへの給油テストで、テストの基本を間違えたときでした」。

ともあれ、毎日、矢の催促のうちに開発は進んだ。

「大きな問題の一つは、このエンジンが水平近くまで前に傾けて搭載されることでした。どうしても風の当たる面積が少なくなって、冷えにくい。オーバーヒートしてしまう。で、シリンダーヘッドカバーのてっぺんに、通風用の穴を開けるアイデアを思い付いた。あれで、うまく冷えるようになりましたね。本田さんは、かねがね、『創意工夫は、苦しまぎれの知恵である』とおっしゃってましたが、その通りです。
もう一つ、似たような話があります。思うようにパワーが出なくて悩んでいた時です。これはもう、吸・排気バルブを大きくするしかない。しかし50ccエンジンですから、シリンダーヘッドの面積は小さい。定番の12mm径サイズの点火プラグを使ったのでは、バルブ径を大きくできない。思いきって10mm径のプラグの採用に踏み切りました。本田さん流に言えば、『常識は破るためにある』ということですね。プラグメーカーのNGKさんが積極的に10mmプラグを開発してくれたんです。パワーは、4.3馬力出せましたから、よそさんの倍ぐらいになりました」(星野)。

エンジンを4ストロークにしたこと。これが、スーパーカブの今に続く未来を決める鍵となった最も大きな選択だった。

OHVでOHCにも勝る9500回転という高回転・高出力型でありながら、実用車として使いやすい特性を持っていた。燃費の良さは、これまた2ストローク勢を大きく引き離していた。

【注】モペット…和製英語、ヨーロッパのペダル付きバイク、モペッドからきたもの

エンジンと同時に始まったのが、クラッチ機構の開発である。

「おやじさんは最初から、『蕎麦屋の出前のお兄ちゃんが、片手で乗れるクルマにする』と言ってました。つまり、片手が自由になるクルマです。クラッチ操作を手でやらないということですね」(原田)。

これは、あのドリームD型で挑戦した、クラッチレバーのない、コツなしでだれでも乗れる2輪車への、再度のアタックだった。スーパーカブには、自動遠心クラッチが採用された。特に苦労を繰り返したのが、このクラッチの断続機構だった。これには河島も協力した。秋間明が専任で、8種類もの方式がテストされた。

「クラッチの断続とギヤシフトは、D型と同じようにペダルを足で踏むだけでいいんです。ただし、今度はあんな失敗は絶対できない。だから、特に、どこよりも念入りにやりましたよ」(河島)。

車体の開発も2月から開始。エンジンからデザインまでを含めた総括を原田が、フロントサスペンション関係を中島源雄(もとお)が、リア部とブレーキ関係を長谷川太のグループが、フレームと車体全体の取りまとめは6月からメンバーに加わった安藤吉之助が担当した。

「原田さんをヘッドにみんなが複合的にそれぞれ力を合わせて開発したんです。私はフロントフォークや前輪のサスペンションを担当し、リアサスペンションの基礎計算もやった。長谷川さんはリアのスイングアームや、車輪、ハブなどを受け持つ。安藤さんは車体の重心位置、つまりシート位置をどこに置いて、どう重量配分するかを計算する。要するに、チームワークです。相談しながら仕上げていった。こういう時に大事なのが、コンダクターの人柄なんですよ。名目上の役職じゃなくて、いかに上手にスタッフをまとめるかです。おやじさんとの中間に、原田さんのような緩衝役になってくれる人がいて、みんなにいい仕事をさせたんです」(中島)。

中島が手掛けたボトムリンク・フロントサスペンションは、それまでの同形式のHonda車に比べて小さくスマートに設計されたが、悪路でも走れるタフさと、快適な乗り心地を備えていた。

「親しみやすい外観というのはスーパーカブにとって大事なことですから、ゴツくしたくなかった。生産コストも考え、機能も十分なサスペンションということで、ここが1番苦労したかな」(中島)。

「私が入社したのは1957年の6月で、スーパーカブの開発が進行中でした。フレームの基本構成も17インチタイヤにすることも決まっていてクレイモデルもつくり始めていた。驚いたのは、クルマが出来上がった時のキチンとした仕様書がないんです(笑い)。ホイールベースをいくつにする、キャスター、トレールをいくつにするなどの図面がね。普通はそれがあってスケルトンづくりをするが、Hondaは逆で、スケルトンができてから仕様書づくり。私がそれをやりました。その時、おやじさんに1番厳しく注文されたのが重量軽減です。削って削って最終的には55kgにできました。タイミングも良かった。ポリエチレンのような新素材が現れてたし、製造技術も格段に進歩した時期です。大量生産に向く電気溶接などをHondaは積極的に導入した。みんなの知恵に加えて、このタイミングの良さも、スーパーカブ成功の要因でしょうね」(安藤)。

スーパーカブの成功の陰には、17インチタイヤの採用がある。当時このサイズのタイヤは全く生産されていなかった。なのになぜ17インチを選んだのか。操縦安定性、荒れた路面の走破性、乗りやすい車高、停めた時の足つき性など、すべての条件を検討した結果、これが最適との結論が出たのだ。採用は本田の一声で決まった。

「タイヤメーカーさんは、最初はウンと言ってくれなかったです。Hondaのたった1機種用に、17インチタイヤをつくるんですから。リムメーカーさんも同じです。結果的には、スーパーカブのあの売れ行きで、たっぷりお返しができたんですけれどね」(原田)。

続いて4月、車体のデザインが始まった。スーパーカブの担当デザイナーは、大学卒業前年、Hondaの白子工場を見学して、その活気に感激して入社した、新人デザイナーの木村讓三郎である。

「だって、まるでビーカーの中でイオン反応してるみたいに、みんなカッカカッカして働いてる。こんな中に、おれも飛び込みたい、と。それで試験受けて、受かったから、もう大学は休んで、1956年の11月からHonda勤め。ちょうど極秘のマルM作戦というのが始まっていました。スーパーカブの開発ですよ。しばらくは見習い期間で、ベンリイのウインカーなんかのデザインをやってたら、突然、『おまえ、マルMのデザインやれ』です。会社が全力で開発してるクルマを、出来立てホヤホヤのデザイナーにやらせるんだから、全く常識外れの会社ですよね。あの時、おやじさんが言ってた印象的な口癖が、『手のうちに入るものにしろ!』なんです。どういう意味か最初は分からなかった。そのうち、オートバイをもっと身近にあって、だれもが気軽に使えるものにしたいんだということだな、と分かってきた。要するに、パーソナルツール化、普遍化です。手のうちで扱える道具のようにしろということですね」。

木村は、本田のイメージをくみ取って、デザインに打ち込んだ。ところが、相手は”造形係長”である。クレイモデルに、遠慮会釈なく手を出し、削りまくるのである。特に、デザイナーたちがステップスルーと呼んでいた、またぐための空間デザイン処理に厳しく注文を付けた。ヨーロッパのモペッドでは燃料タンクをまたぐスペースの前部に置くのが標準的だったが、本田は、それを良しとしなかった。本田は、

「これは、後ろに足を上げてまたぐオートバイじゃないぞ。前からまたぐクルマだ。スカートはいたお客さんにも買ってもらうクルマだ。邪魔なところに置くな」

と、シートの下にタンクを置くレイアウトを、木村に考えさせた。ステップスルー空間は、クレイの芯にしている鉄板が出るまで本田が削り込み、それでもまだ満足せず、やり直しを命じられた。
またぎやすさは、スーパーカブのデザインの大きな特長になったが、発想のもともとは、本田の『製品は、あくまでも親切であれ』にあったのだ。

デザイン作業は、8カ月後の12月末に、ようやく最終モックアップにたどり着いた。

「これはオートバイでもない。スクーターでもない」
と、本田が言った通り、今までにない、新しい形の2輪車になっており、モックアップは、まるで実車のように仕上げられていた。

「おやじさんが、『専務を呼べ』って、八重洲の本社に電話をさせた。すると、どうやってこんなに早く来られたんだろう、と思うくらい早く、藤澤さんが現れましたね。私も、その場に居合わせました」
と語るのは、木村の頑張りをよく知る、やはり1957年に入社した、もう1人の若いデザイナー・森泰助である。

本田はおよそ15分ほど、藤澤にこのクルマの今までにない特長を、まくし立てるように語った。

「この後のシーンは、あの有名なエピソード通りです。おやじさんが『どうだい、専務。これなら、どれくらい売れる?』と言われた。そしたら、藤澤さんが『まあ、3万台だな』と答えられた。私が思わず、口をはさんじゃったんです。年間3万台ですか?って。そしたら、『バカ言え。月に3万台だよ!』。さしものおやじさんが、一瞬、目をむいたのをよく覚えています」(森)。

原田は、その現場にいなかった。

「私は、わざと藤澤さんを避けてたんです。もし、藤澤さんに何か注文出されたら、聞かなきゃならなくなるし、おやじさんとの間にはさまって、のっぴきならなくなる。月に3万台の話は、藤澤さんが帰った直後に聞いた。さあ、これはこれで、やっぱり大変なことです。日本中のオートバイメーカーの合計販売台数が、月に4万台程度の時ですからね。藤澤さんも、あの時には、確固たる自信があって、あの数字を言われたんじゃないでしょう。営業はそれくらい売る覚悟だからしっかりつくれと、プレッシャーをかけた感じでした」(原田)。

このプロジェクトが始まる前、売る人・藤澤は、本田に、こんな注文をしていた。

「藤澤さんは『横に寝てるやつが、買ってもいいわよ、と言うクルマにしてくれ、と社長に頼んだよ』と私に言われましたね。奥さんがだんなさんにOKを出すような、ということ。オートバイは、当時やっぱり、女性にとって怖いイメージのある乗りものでした。エンジンがむき出しで音も大きくて荒々しい。今までのオートバイではマーケットに限界があることを、藤澤さんは知っていた。あの人自身が、オートバイにも自動車にも個人的には興味がない。免許証は一応持ってたが、靴ベラ代わりにしてた(笑い)。ですから、オートバイという商品を、乗らない側からも客観視できる。『今度のクルマは、臓物の見えないクルマになるぞ』とも言われてましたね。女性も乗れるクルマになる、と。まだ、姿もないころの話ですが」
と、川島は言う。

「藤澤さんのすごいところは、スーパーカブの開発の時に、市場にふさわしい商品価格を、本田さんに前もって提示していたところです。本田さんは、それに応じて開発指示をする。だが、技術屋の良心で、妥協できないところはどんどん直すから、コストが上がります。ところが藤澤さんは、この商品のマーケットではこの価格であるべし、とコストを無視した価格を付けた。びっくりしましたね。5万5000円ですから。月に1000台単位しか売れなければ、コスト割れもいいところです。しかし、3万台売れば、コストが合う。これにぜひとも合わせてもらいましょう、とリテイルプライス(小売価格)を設定してしまった。よし、それならやって見せよう、と頑張る本田さんもすごい。この価格で、市場でトップの性能と耐久性のある精度の高いクルマを、工場や部品メーカーさんを指導して、つくってしまったんですから。うちの工場もそうですが、オートバイ部品に始まって、今では自動車部品の大きな会社になった協力メーカーさんがたくさんありますね。これを育てた本田さんは、つくる世界の第一人者。藤澤は、売りの世界の大貢献者。2人は、日本の自動車業界の恩人だと思います」(川島)。

スーパーカブは、フロントフェンダーをはじめとして、ポリエチレンを大幅に採用した初のHonda製品である。

「ポリエチレンを使うのは冒険でした。商品としてはポリバケツなんかで人気が出てきたばかりの新素材。自動車業界では使った前例は全くありません。おやじさんの『やれ!』の決断で採用したんです。あれらの部品を重い鉄板ではなく、軽いポリエチレンにしたから、スーパーカブの走りの性能は、ひときわ上がった。コストダウンにも、結局、大きく役立ったのです」(原田)。

もし常識通り、鉄板であの部品をつくっていたら、スーパーカブが、これほど成功したかどうか分からないと原田は言う。

ジュノオの失敗以来、プラスチックの研究の火を絶やさなかった土田のセクションは、ここから化成課化成係として活躍を開始した。チャンスに恵まれない彼らに、本田は折にふれて励ましの声を掛け、元気づけてきたのだ。初期こそ積水化学に依頼したポリエチレン部品の生産は、短期間のうちにスーパーカブのツールボックス、バッテリーボックス、フロントフェンダーを手初めに、射出成型による社内生産体制を敷くことができた。これは、ジュノオの生産が終わり、チームの一時解散後も、わずか4、5人のメンバーで続けてきた技術開発があったからだ。土田らの仕事は、やがて、鈴鹿製作所でのプラスチック部品の大量生産へと発展していき、スーパーカブのコストダウンに貢献することになるのである。

ネーミングは、簡単に決まった。提案者は、木村だった。

「名前だけがまだ決まっていなかった。当時、スーパーという言葉が流行ってたから、それをあのFカブの指定書体の前に付けてロゴをつくって、おやじさんに見せたら、『うん、それでいいや』って、スーパーカブ。特別なエピソードなし。1発で決まったのはネーミングだけだったな」(木村)。

開発着手から約1年8カ月という、Hondaとしては異例に長い開発期間をかけて、1958年8月、スーパーカブが発売された。

スーパーカブは、本田が、100%お客さまの立場になり切ってつくったクルマだといわれる。エンジンから、形から、乗りやすさ、使いやすさ、耐久性、経済性、すべてが、『お客さまの満足第一』だった。本田はテスト走行の時、自らぬかるんだ道路を走って、泥はねのかかり具合までチェックした。こうして完成したスーパーカブは、『Honda哲学が、そのままクルマになった』ような2輪車だった。

藤澤は、スーパーカブに、またもDM戦略を巧みに使った。今度の販売網づくりは、それまでモーターサイクルにも自転車にも関係のない、材木商、乾物店、シイタケ栽培業者など、異業種の人たちに参加を呼び掛けたのだ。これも例のない、藤澤らしい発想だった。

「『オートバイを売るということは、不特定多数を相手にする商売じゃない。アフターサービスの要る商売だ。地域に根付いた人に販売してもらう』というのは、藤澤さんの哲学。ただ、全く違う業種の人たちに声を掛けるというのは、あの人ならではです。スーパーカブの強力な商品力を得て、ここで徹底的に『自前の販売網』づくりに挑戦して、現在の販売網の基礎をつくったんですよ。例えば、それまで関東一円というような大きなテリトリーを持っていた以前からの代理店さんには、販売権を返してもらった。代理店は東京地区だけに限って、後はHonda直結の販売網として再整備した。スーパーカブの素晴らしさは、これができる力を、藤澤さんに与えたというところにもあります」
と、川島は言う。

3500通の応募から、約600の販売店が選ばれた。全国で1500店のネットワークで、月に3万台を売り上げられる予定だった。

藤澤には、”宣伝係長”というアダ名があった。

「こと宣伝・広告となると、私たちは口も手も出せない。禁漁区みたいなもの(笑い)。藤澤さんが一切やってしまうんです。ただ、手法はすべてに通じる藤澤流で、アイデアは奇抜。発売予告という今のティーザー広告のハシリをやったし、新聞には15段のフルページ広告をドカンと展開するし。よそさんが目をむくような広告戦略でした。このへんは、Honda内部の人間より、外の人のほうが詳しいんじゃないですか」(川島)。

このころ、藤澤は自分の周囲に社外の若者たちを集めて、一種のブレーンにしていた。

「情報収集ですね。その幅は広くて、音楽家から株屋さんから僕のような広告デザイナーまで多種多様。僕はデパートの高島屋の宣伝部にいた。夜、酒飲ませてくれて、僕らの話を聞いてるわけです。そのうち『おまえ、今度こんな広告するんだよ、意見を言え』なんて言われてた時に、スーパーカブの広告の一つが、外国作品に似ているという事件が起きた。『おれは専門家じゃねえんで、そこまで目が届かん。こんな恥をかきたくないから、おまえ、独立してHondaの広告のデザインやれ』と、引きずり込まれてしまった。スーパーカブが発売されて間もなくのころでした。
藤澤さんがスーパーディレクターです。こういうのでいこう、とコンセプトを出される。その意を一生懸命くみ取って広告にする。ある日、『社長が、スーパーカブは蕎麦屋に向いてる、と言ってる。そのテーマでやろう』ということでできたのが、”ソバも元気だ、おっかさん”という広告。『おい、あれが出たら、蕎麦屋さんがいっぱい買ってくれたよ』ってご機嫌でした。でも、自分が気に入った案が出るまでは大変でね、何十案出しても駄目だった。『おれの言ってることが分かってない!』と、怒鳴られ、シゴかれです。おかげで、手前味噌になるけど、いい広告がつくれたなと、今でも思ってます」
と、尾形次雄(現、東京グラフィックデザイナーズ社長)は語る。

市場の反応は、発売するやいなや、急上昇していった。販売店の申し込みも増え続け、1台でも多くと望む人たちが、本社まで前金を持ってやってくるという、かつてのカブF型のような場面までが出現した。しかし、もはや、一時のブームではなかった。
『Hondaエンジン30年史』には、
「埼玉製作所で量産を開始して以来、1960年鈴鹿製作所へ移管するまで、スーパーカブの月間生産台数はほとんど直線的に増産、2万7000台に達した」
と、書かれている。

Hondaは、スーパーカブによって、『3つの喜び』を、今度こそ、真に実現したのだった。
数年後、『良品に国境なし』も、スーパーカブが実証する。アメリカン・ホンダモーターのサクセス・ストーリーの主役商品は、スーパーカブだった。

発表から40年間、基本の形を変えずに生産され続けるスーパーカブの世界累計総生産台数は、1999年1月末時点で、2746万台を越え、どこまでその記録を延ばしていくのか、だれにも分からない。

「実は、1970年代になってから、スーパーカブのフルモデルチェンジをしようという話があったんですよ。僕が技術研究所の常務になってた時だった。よっしゃ、難しそうだからおれがやるって、世界中回ったりして、約1年間、車体屋の神山幹弘と、ああでもないこうでもないと考え抜いた。いや、もっとかかったな。それで、何をどう設計してもあれを越えられない。かなわない。モデルチェンジする値打ちがない。結論は『スーパーカブさん、生意気言ってゴメンナサイ』と最敬礼(笑い)。あれはおやじさん全盛期の、おやじさんの気持ちがこり固まったようなクルマです。モデルチェンジをしようなんて気を起こしたのが間違いだったんだ」
と、新村公男は語る。

スーパーカブ発表の7月、Hondaは第7次増資を行い、資本金は7億2000万円となった。

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『マン島TTレース初出場』 / 1958

『マン島TTレース初出場』。 若者たちは、力いっぱい世界にチャレンジした / 1958

「あの宣言が出て、だれがこの大仕事やるのかなあと思ってたら、こっちにきました。すぐエンジン試作が始まって、年末にはプロトタイプもできたりしたけれど、おやじがうるさい、周囲もうるさい、ごちゃごちゃ口出しされて、もう、やってられない。専門の部署をつくってくれ、でなきゃやりません、と言ったら、『つくれ!』の一言。第2研究課というのをつくって、エンジン設計屋、車体設計屋、組立屋、選手、マネジャーを、全部課員にしてね。上はおやじさんしかいない直属部隊。第2回の浅間の後だったな。エンジンが久米是志や新村公男、車体がサンパウロで食うや食わずの貧乏をした馬場利次、ライダーは、浅間の時に社内につくったHondaスピードクラブの面々でしたね。あのころは『やりたいやつ手を上げろ!』『はい!』で決まっちゃう時代で、辞令なんてあったかどうか忘れちゃった(笑い)。ですから、エンジン屋から何から、どっか1本線の切れてるような常識外れのやつばっかり(笑い)。マトモな技術者ならマン島TT挑戦なんて無鉄砲なこと考えませんよ。うちは、トップのおやじさんからして、マトモじゃないから(笑い)」。

河島は、マン島TT出場という大プロジェクトを任されたのだ。

「40代、30代の技術屋さんが、そのころ、いっぱいいたんだが、あえて若者にやらせてくれた。その時、僕も30歳になっていなかったな。みんな20代。責任は重いけれど、若いから怖いもの知らずだった」(河島)。

1958年9月、試行錯誤を繰り返している時、イタリアの市販レーシングマシン、125ccのモンディアルが手に入った。

「56年型だったけど、初めて向こうのレーサーの実物を見たわけ。これは勉強になった。あのおかげで最初のマン島TTマシンができたといえます。モンディアルは単気筒だが、うちは2気筒にした。1959年の1月に、RC141というマシンができた。でも、まだ3年前のモンディアルの16.5馬力に追い付けない15.3馬力。その後すぐ4バルブのRC142が、17.4馬力になって、両方をマン島に送り出したんです」(河島)。

1959年5月5日、大倉商事嘱託のパスポートを持ったHondaチームの面々が、マン島に着いた。監督の河島、ライダーの鈴木義一、谷口尚巳、鈴木淳三、田中楨助、メカニックの関口久一、廣田俊二、マネジャーの飯田佳孝、通訳兼ライダーのアメリカ人、ビル・ハントの9人である。だが、なぜ大倉商事嘱託だったのか。

「輸出もしていない会社の連中が、オートバイ競走に出掛けます、って言ったって、出国ビザも外貨も出ないと思ったから、機械の輸入でお世話になってる大倉商事さんの名義を借りたんですね。でも、お役人が片目つぶって、OKしてくれた。うちの人間が海外へ行く時は、かならず一もめありましたから、ホッとしましたよ。だけどサンパウロほどじゃないが、お金は節約です。ナースリーホテルという安い宿に泊まって、床屋も自分たちでやって、でも食事だけはちゃんと取った。腹が減っては戦はできない。『日本代表で行くんだ、恥かくな』って、出掛ける前に、おやじさんの命令で食事のマナーを勉強させられましてね。だから、マナー正しく、まずい飯を食いました(笑い)。肉はマトン。何の肉ってウエイトレスに手振りで聞くと『メエェー』ばっかり」

と、チームの財布を預かった飯田は言う。個人持ち出しのドルを集めて、それがチームの運営費だった。マシンと一緒に船で運んだ米や味噌は、カビだらけで食べられなかったのである。マン島での初仕事は、マシンのサビ落としだった。

この年のマン島TTは、長いマウンテンコースではなく、短いクリプスコースで行われた。125ccクラスのレースは1周17.36kmを10周する。
ともあれ、トレーニングが始まった。練習車は、2月に発売したばかりのベンリイCB92である。

田中はマン島初試走の印象を、次のように語る。

「舗装されてる路面でレースしたことなんか、一度もないんです。浅間はダートでしょう。当時は国道だってほとんど砂利道ですから。マン島に着いて、日本とのあまりにも違う現実に、身が震える思いでした。道路の両端には歩道があって石垣が続き、中央はかまほこ型になっている。この一般道を走るのがマン島TTレースなのか。とうとうここまで来てしまったか。気迫でやるしかないな。これが第一印象。コースを覚えるため周回を重ねたけど、あまりの難しさに頭の中はパニック状態です。途中で休憩してると、島の人たちが珍しそうに話しかけてくるんだ。『おまえ、日本人か。どこのオートバイで出るんだ?』って。日本のHondaだ、って言っても、日本人はオートバイなんかつくれないと思ってるらしい。疑わしそうな目で、ベンリイを見るんですよ(笑い)」。

田中は、メイド・イン・ジャパン、メイド・バイ・Hondaを繰り返したが、信じてもらえなかったと言う。
ベンリイのエンジンは快調だったが、タイヤはブロックがはがれて飛び、チェーンはたちまち伸びてローラーが飛び、毎日交換。プラグは電極が飛んで、ピストンには穴が開くなど、メイド・イン・ジャパンの部品は、まだ世界のレベルに遠いのを思い知らされた。日本から持っていったヘルメットも、主催団体のオートサイクル・ユニオンの検査をパスできず、イギリス製のクロムウエルを使うように指示された。

「僕らは1カ月も前から1番乗りでマン島に来たんです。ほかのチームはそんな早くから来ない。そうだ、世界GPレースはマン島TTレースだけじゃないんだ、と後から気が付いたくらいでね。そのうち、みんなが現れてトレーニングを始めたら、これがやっぱり速い。おやじさんより、もっとショック。こっちは、これからすぐ戦わなきゃならないんだから」(河島)。

河島は、ライダーにどう指示するかを考えた。エンジンはともかく、ボトムリンクのフロントサスペンションは、もう時代遅れに見えたし、フレーム剛性もブレーキ能力も心配だった。Hondaが荒川の河川敷につくったテストコースは、フラットな直線2本をつないだ単純なもので、そこでのデータなど、それぞれ異なる74ものカーブがあり、アップダウンも多いこのコースでは役に立たない。

「ライダーもメカニックも、あんまり差があるんで、最初ガクッときた。ところが、すぐ回復した。よーし、今年はともかく、来年こそ見てやがれ!と、闘志満々になっちゃったんです。僕も含めて、もう来年もやる気になってる。若さというか、バカさというか(笑い)。この辺が、実にHondaっぽいんだな」(河島)。

船便に間に合わなかった4バルブのシリンダーヘッドが航空便で届いた。3台だけ頭をこれに付け替えて走ることになった。

「マン島まで来ても日本と同じで、監督以下、全員遅くまで働きました。僕らとすれば、見物人のいない夜のほうが、のびのび仕事できる。そしたら、日本人は天井のネズミ、なんて新聞に書かれましたよ。夜中にちょこちょこ動き回ってる、って」
と、メカニックの廣田は苦笑する。土曜も日曜も働いていると、日本人は能力が低くて能率が上がらないのだろう、と書かれた。

予選では、RC142の谷口の12番めから、RC141の田中、RC142の鈴木義一・鈴木淳三と、15番めまでのグリッドを、そろってHondaが占めた。
6月3日、いよいよ決勝レース。

「スタートラインに並んだ時、河島監督から『無理するなよ』の一言。あれで肩の力が抜けた。途端に、それなら自分なりにできるだけ走ってやるぞ、って。頑張れって言われたら、カチカチに固まったかも知れない。監督の読みが深いんだ」(谷口)。

「あれを耳元で言われて、膝の震えが止まった。でも、無我夢中で走っちゃったのが、正直なところです。向こうの連中の走りを見てラインどりとかブレーキングポイントを学ぶなんてのも、そんな簡単なものではないね。コーナーで何度も突っ込みそうになったし、運任せ。完走できたのは、マシンのおかげです」(田中)。

「完走しろよ、って僕は言ったんです。途中でマシンが壊れたら、データが採れない。2年目、3年目を狙う気ですから、絶対1台だけでも完走してくれなければ困るんだ。で、全員に、無理するな、と言って歩いた。そしたら4台も完走。予想外ですよ」(河島)。

「RC141のハントが、コケてリタイアしましたけど、みんな快調でピットは暇でした。7周目に淳ちゃんのリアのブレーキロッドのピンが折れて飛んじゃった。この程度のことは浅間で慣れてるから、ちょいと応急修理してピットアウトさせました。エンジンは全くトラブルなし。10周、173.6kmを走り切りました」(廣田)。

優勝はMVアグスタのプロビーニ、2位がMZのタベリ、3位がドゥカティのヘイルウッド。Honda勢は、谷口が6位、鈴木義一が7位、田中が8位、鈴木淳三は10位だった。谷口はシルバーレプリカ、鈴木義一と田中はブロンズレプリカを獲得、さらにメーカーチーム賞も獲得した。

「監督が、電話でおやじさんに報告しましたね。『団体優勝おめでとう。よくやった』って言われたそうです。翌日になったら、だいぶ世の中変わってました。新聞の第一面にHondaチームのことが載ってる。もうネズミがどうとかなんてのはなくなって、よく読めないが、褒めてあるらしい。笑ったのは、Hondaベンリイ号っていう日本語のロゴが天地逆さまになってるの。向こうの人はもっと読めないよね(笑い)」(飯田)。

出発の時、見送りに来た本田は、帰国の時も出迎えてくれた。2輪車雑誌の記者が来ていたほかは、マスコミの取材は全くなかった。だが、6月4日の朝日新聞朝刊と東京新聞夕刊のスポーツ欄には、小さくではあるがHondaチームの『団体優勝』が報じられている。日本経済新聞は7日の朝刊のコラム『窓』に、世界的なオートバイ競走で、大先輩のヨーロッパ選手に交って日本人選手が活躍、団体賞を獲得した、とマシンの写真入りで紹介。そして、
『殊勲の車はいずれもHonda号、メーカーの本田技研も手放しの喜びよう、通産省も”輸出にもってこいのPR”と、製作指導を自画自賛している』
と書いている。

「通産省から製作指導された覚えはありません(笑い)。輸出できるような製品をつくれ、という業界へのハッパの意味でしょう。このころはマスコミの皆さんも、レーシングマシンと市販車の区別がつかなかったような時代でしたから」(河島)。

「2年目からは、手のひらを返すように、ガラッと変わった。日本でも外国でも。渡航許可がすぐ下りたし(笑い)、ロンドンの空港でも、1年前はオートバイ部品を手荷物で持ち込む怪しげな1団だったのが、『オー、Honda!』でフリーパス状態。一般人のモータースポーツへの認知度の違いも、よく分かりました」(飯田)。

Hondaの従業員の意気は上がった。もう、世界のトップ近くまで、自分たちが迫っているのだ、と実感していた。

「ホンダ社報・臨時増刊号に、社長のこんなコメントがあります。『このような成績を収めることができて、非常にうれしい。監督はじめ選手、整備員もよくやった。このようなクルマをつくった諸君に厚く礼を言いたい。しかし、まだ1番から5番までが残っている』(笑い)、おやじさんならではの名文句入りで、自分の気持ちをそのまんま出してるこの言葉、大好きです」(飯田)。

優勝車・MVアグスタの平均時速は119.17km。谷口のHonda RC142は109.90km。ラップタイムはトップクラスが8分40秒台、Hondaのベストタイムは9分22秒2であった。来年に向けての取り組みは、すぐ始まった。

「次は125ccと250ccにアタックすることに決めました。設計室におやじさんも顔を出すけれど、もう細かい口は出せません。何と言おうと、こっちは実戦やってきたんだから強い。こうでないといけないんです、と言うと、『お、そうか、パワーが出るならいい』って引っ込んじゃう。任せてください、てな調子です。現場の第一線にいる人間の意見は、よく聞く人ですよ。久米さんが125cc、新村さんが250ccの4気筒、こういう若い連中に、八木静夫という吸・排気理論のスーパーマンが加わって、2年目のマン島TTは125が2位・3位・6位。250ccが4位、マン島TTのほかに世界GPに6戦参加して、もうちょっとで優勝まで接近した。3年目は世界GPシリーズにフル参戦して、マン島TTは125ccも250ccも、ワン・ツー・スリーを独占しました。おやじさんが『何がうれしいって、夢がかなって……』と声をつまらせたと聞いて、こっちもグッときました」(河島)。

河島は、監督として3年目の1961年、本田と、全従業員の夢を実現したのだ。

「会社が1番苦しい時に、このチャレンジを、若い僕らに始めさせてくれた。お金のない中でも、やめようとは言わなかった。僕自身について言うと、このプロジェクトの体験と、監督の経験で、いろんなものを学びました。判断力、決断力、予測力、人の能力の引き出し方、個性の強い連中のまとめ方、大きな戦略から小さなタクティクス。個人の力なんてたかが知れてる。けれどチームとしての組織で動かすと、大きな力になって、途方もない仕事でも成功させられる。いうならば会社経営に似てるんですよ。ですから、社長になった時、これは役に立ちました。大変な時もあの時を思えば、耐えられた。チャレンジの気持ちを忘れずにいられた。その意味でも、いい仕事をさせてもらえたものだ、と思っています」(河島)。

マン島TTレース初チャレンジの河島が帰国するのと入れ替わるように、もう1人のチャレンジャーが、1959年6月10日、日本を出発する。それは、Honda初の海外拠点、アメリカン・ホンダモーター設立に向かう川島喜八郎であった。

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『夢と若さ』は、いつもある / 1959

町工場にもスーパーファクトリーにも、 『夢と若さ』は、いつもある / 1959

1959年1月、本田は1人で、ぶらりと大和工場に現れ、生産技術課長の白井孝夫を呼び出した。白井は前年11月末に起きたスーパーカブの初期トラブルを解決、年末までに増産体制を取り終えたばかりだった。

「忘れもしません。1月19日の夕方でした。『おまえ、しばらくヨーロッパに行って来い』。突然、そう言われたんです。何のためですか、と聞くと、『行けばいいんだよ。目的は、自分で考えろ。期間も、おまえが好きにすればいい』と言うだけで何の説明もなしです。
スーパーカブは売れに売れてましたけれど、世の中はナベ底景気というデフレ不況の最中です。外貨不足で、渡航許可も外貨割当も、簡単に出る時期じゃないんですよ。この年にはこの後、河島さんがTTレース初出場で、川島さんがアメリカン・ホンダの設立で、やっぱり苦労なさるんですが、私は通産省に2度追い返されました。履歴書を見て、『大学の経済を出た技術者やセールスでもない人間が、国の貴重な外貨を使って、目的もなく外国に行くとは何事か』と、けんもほろろ。3度目の時に、『近い将来、Hondaはかならず外貨を稼ぎます、世界に輸出できる2輪車を、今つくっています、もし駄目だったら腹を切ります』なんて極端なことまで言って、やっと渡航許可だけ下りたんです。川島さんがスーパーカブをアメリカでたくさん売ってくれまして、腹を切らずに済みましたが(笑い)」。

白井は、外貨を1ドルも持たず、往復の航空チケットだけを手に、ヨーロッパへ出かけた。滞在費は、やむなく、現地で工作機械輸入のビジネスを行っている貿易会社にHondaから申し入れて、立替えてもらったのである。

「とにかく、私の仕事は生産技術ですから、帰って何を聞かれても答えられるように、工場施設はもちろん、人事管理から、給与体系から、交通事情から、駐車の仕方から、ファッションから、何でもかんでも、ありとあらゆることを見たり聞いたりして歩いたんです。ドイツ、スイス、イタリア、イギリスと。工場関係では、やっぱりドイツが進んでいましたので、またドイツへ戻って、しばらくしたら、6月20日に大和工場の同僚の榎本さんから手紙がきた。
『実は、スーパーカブの新しい工場をつくる計画がある。候補地もいくつか選んで、あなたが帰ってくるのを待ってる』と。今までの『Hondaの歩み』には、前もって計画を知らされていてヨーロッパに行ったことになってるが、私は本当に何も聞かされてなかったんです」(白井)。

3カ月ぶりに、白井は急いで帰国した。いったん計画が決まったら、何事であれ、猛烈なスピードで動き出すのを、よく知っているからである。

「思った通り、社長が待ち構えていました。『明日から、候補地を見に行く。おれと一緒に来い』です。社長の運転するクルマに、高橋健介常務、私と塩崎さんの3人が乗せてもらって、候補地回りが始まりました」(白井)。

群馬県の高崎に2か所、栃木県の宇都宮、岐阜県の犬山、三重県の鈴鹿に2カ所が、主な候補地だった。

「おやじさんの土地選びの基準は、立地条件や誘致条件だけじゃないんだな。『土地とか水とか電気の前にな、人なんだよ。そこにいる人を選ぶんだよ』と。これは、人間尊重のおやじさんの思想そのまま。ほかの条件がどうよかろうと、誠意のある人のいるところが1番だ、というわけです。自治体の人たちを含めての意味でね。
ある候補地で、県会議員だの何だののクルマが、ずらーっと一緒にくっついて来たことがありました。土地の説明もそこそこに終わって、一席設けてありますから、後はそちらでと、市役所の人が言ったら、『おれは帰る!』って、クルマに飛び乗ってどっかへ行っちゃった(笑い)。白井さんや僕らは、電車で帰ってきた。『おれはご馳走食いに行ったんじゃねぇ!』と、翌日になっても、カッカしてましたよ」
と、置き去りにされた塩崎は語る。

それと対照的なのが、鈴鹿だった。

「鈴鹿では、第一印象から驚きでしたね。まず、市役所から違った。お役所って、どこでも机の上は書類の山、というのが僕らの先入観。でも、鈴鹿市役所はきちっと整理整頓、何も散らかってない。応接室に通されたら、さっとおしぼりが出た。それと冷やしたお茶が出た。熱いお茶じゃない。7月の暑い最中ですからね。そして、市長の杉本龍造さんが、背広じゃなく、作業着でゲートルを巻いて待っておられた」(塩崎)。

Hondaの一行は、すぐ、現地に案内された。

「杉本市長が、サッと合図された。すると、はるか遠くに、一斉に旗が立った。『あそこからあそこまでが、候補地です』と。もう、一目で分かっちゃうんだ。いやぁ、やるなあって、感動です。今でも、あの時の記憶は鮮明だな」(塩崎)。

誘致条件についても、杉本市長自らが説明した。

「見事、というほかありません。まだ翌日も、有力な候補地へ行く予定がありましたから、私としてはそこを見るまでは、結論めいたものはまだ出せない。ですが、現場から市役所へ戻ると、またお茶とおしぼりが出まして、お茶菓子ひとつも出ない。『何のお構いもしませんで』と、そのまま送り出されたでしょう。こういう市長が市政をとっておられる。ここだったら、われわれが来ても大丈夫だ、間違いない。それだけは、確信しましたね」(白井)。

候補地は、綿密かつスピーディーに検討された。

「鈴鹿のAとBの2カ所を見て、ほかとも比較して、私なりの結論を出しました。東京へ戻って、本田さん、藤澤さんをはじめ、役員皆さんのそろわれた席で、私は鈴鹿のBがいいと思う、と。Aは南北が400m、東西が1500m。ウナギの寝床のように長いのは、工場用地には適さない。将来の拡張性も含めてBです、と。本田さんも『おれもそう思う』とおっしゃって、藤澤さんが『じゃ、そこにしましょう』と、今の鈴鹿製作所の土地が決まりました」(白井)。

しかし、この後の役員会は、白井が考えもしない展開になった。

「藤澤さんが、その後、続けて、こう言い出された。『今度の鈴鹿の世界にもないような新しい工場づくりは、白井君に責任者になってもらう』と。エーッと思いましたよ。会社の命運を左右する大プロジェクトだということは、よく分かっているんです。ヨーロッパで勉強してきたし、この仕事に参加させられるとは思ってましたけど、まさか責任者だなんて、想像もしていませんから。すると、また続けて、『ついてはこういう大きな仕事なので、こういう人材が欲しい、と白井君が言ったら、各事業所は無条件で応じてくれ』。役員の一人ひとりに、藤沢さんは返事を聞くんですよ。否応なしです。『よし、みんな異議なしだ、安心してやれ』と」。

白井は、あの時の緊張感を昨日のように思い出すと言う。

「今度は、藤澤さんが、私に向かって大きな声でおっしゃった。『しかし、条件が二つある。一つは、金はいくら使ってもいい。もう一つは、使った金は2年以内に、必ず回収しろ。これ以外には一切条件を付けない。後は好きなようにやれ』。社長は、うなずいて、こっちをジーッと見てるだけでした」(白井)。

白井は当時39歳だった。もちろん役員ではなく一課長である。ここでもまた、若いチャレンジャーが選ばれたのだ。

Hondaは6月、第8次の倍額増資を行い、資本金は14億4000万円となった。

新工場建設計画は、本田と藤澤の間で、いつごろから話し合われたのか分からない。本田が、白井にヨーロッパ行きを命じた時、既にこの計画が動き出していたことは確かである。Hondaがつくり出す製品は、今や世界に通用する商品になっていた。後は、それを大量につくることのできる生産工場が必要だった。
しかし、この新工場建設計画も、かつての輸入工作機械への投資以上に、社運を賭けた一大事業だった。

「役員会から、私に、正式に示された基本要件は、3つあります。1つ目は『かつてどこにもない、合理的な手法を駆使したマスプロ工場であること』。2つ目は『投資額は制限しないが、2年で回収する』。3つ目は『地域社会に密着したものとする』。役員会の席で、藤澤さんが、私に言われた2つ目の条件は、まさしく藤澤さんそのものの、ビジネスに徹した方の工場運営条件です。そして、1つ目と3つ目の条件は、本田さんそのものの、理想と哲学から出た工場運営条件です。お二人のパーソナリティーが、それぞれ実にはっきりと現れていますね。藤澤さんが役員方の口出しをビシッと抑えてくださって、思い切りやれる条件もつくってくれた。最初は体がこわばったけど、必ずこの信頼に応えるぞ、と肝がすわってきました」(白井)。

7月下旬、鈴鹿建設計画室が発足する。埼玉製作所の一室に集まったメンバーは、最初、白井孝夫、塩崎定夫、高橋理人、大島恒子の4人だった。現場の拠点として鈴鹿市神戸(かんべ)に連絡事務所を置いた。
直ちに行動に移った。真っ先にやらねばならないのは農地転用許可の申請である。

「そのころの日本は食料増産時代で、今のような減反なんか夢にも考えられない。農地が主ですから、農林省が簡単にはウンと言ってくれません。10年前、Hondaに入ってすぐ、通産省に補助金申請をした時には、一生懸命まじめにリポートを書いたけど、あれからだいぶ図々しくなってますからね。今回は大風呂敷を広げることにしました。まだどんな工場にするのか、何一つ具体的に決まっていないのに、さもそれらしく作文をするわけです。20万坪いっぱいに、すごい大風呂敷を広げちゃいました(笑い)。これだけの面積を、こういうふうに使うのか、なるほど、Hondaの進出は正しい理由がある、と農林省が納得してくれるような。農林省と通産省にそれを持って行って、許可が下りましたよ」(白井)。

次はすぐ、本物の具体的作業である。

「これはもう真剣です。基本レイアウトは私1人で決めなければならない。どう最初にスタートするか、何年か先の拡張計画まで展望して、複合的にしっかり考えなければいけません。発展を見越して、杉本市長に、拡張予定地にある中学校を、将来移転していただきたい、Hondaの費用で、近くの丘に新しい学校を建てますから、と話に行って、確約をいただく。猛烈に忙しくなりました」(白井)。

近鉄線の平田町への延長乗り入れ、送水用地の買収などが、取り決められていった。
一方、藤澤からの条件、『2年間で回収する』にどう対応するかを、考えなければならなかった。

「2年間というが、工場完成を待っていては、とてもできそうもない。とりあえず早く始められるのはエンジンの組立ラインです。これを部品受け入れのレシーブセンターのところに仮工場をつくり、1960年の4月から立ち上げよう。8月から本工場で完成車生産をラインオフしよう、という生産計画を立てたわけです」(白井)。

『今までにない合理的手法のマスプロ工場』という、夢のようなイメージを具体化するのも急がねばならなかった。

「これも、投資回収からの逆発想で考えました。やっぱり、それが1番の気掛かりですから。2年という回収時間は、2シフトだけでは困難だろう。3シフトもあることを考えれば、天候や昼夜の変化・温度差が従業員に影響しない、無窓の完全エアコンディションの工場がいい。そうするためには、もちろん日本の当時の工場建築の常識、鉄骨スレート屋根は通用しません。鉄骨鉄筋コンクリートです。建築コストは高いけれど、10年20年先に通用する工場を目指しているんだから、これは当然です。日本のスケールでは考えない、と結論付けたわけです。」(白井)。

そしてもう一つ『地域社会に密着する』という大テーマがあった。

「社会との結び付きのない工場は、将来の工場じゃない。見学してくれる人のことを考え、見学用通路を2階に設けることにしました。しかし、本田さんの考える地域密着は、もっとスケールが大きいのです。あの人は、白子工場のころから周囲に迷惑をかけるのを嫌っていた。今の言葉で言うと、地域や周辺環境との調和になるわけですが、本田さんは付け焼き刃じゃありません。ご近所と仲良くしなけりゃいけないと本心から思ってる。それを鈴鹿工場で、どう実現するか。これも大きな宿題でした」(白井)。

塩崎は、本田の周囲への気配り・心遣いを、何度も実体験した。

「白子工場の近くの鰻料理屋さんが、うちのエンジン耐久テストの音がやかましくて眠れない、って文句を言ってきた。24時間回しっ放しなんだから言われて当たり前。それがある日、おやじさんの耳に入った。『おれはご近所に迷惑かけてまで仕事したくない!何とかしろ』です。じゃ、防音工事するからエンジン止めてください。『バカ!止めるくらいならお前に頼まん』。それで、しょうがない。エンジンテスト室の建物の上に、ひと回り大きい建物をかぶせて建てちゃった(笑い)。間にグラスウールを入れて。やってる途中にも『すぐやれ。早くやれ。今日中にやれ』ですよ」(塩崎)。

新工場へのアイデアは、従業員からも募集した。工場現場からのアイデアの数々が、設計の中に採り入れられた。

白井は、鈴鹿建設計画室に選り抜きの人材を集めた。管理部門の中心は鈴木正巳である。藤澤からのスーパーカブの指示コストは埼玉製作所での生産コストの、およそ20%ダウンである。鈴鹿の総建設費は、社宅・寮などを含め、45億円が必要だった。

「原価の徹底的な見通し試算を、鈴木さんにしてもらった。最終的に、月産6万台。2年は無理だが、2年4カ月で回収できると判断しました。藤澤さんの要件より4カ月伸びますが、そのために費用を削るべきではない、という結論も出ました」(白井)。

9月、急ピッチで建設工事がスタートする。だが26日、気象観測史上、これまで最大といわれる伊勢湾台風が、中部地方を襲った。

「塩崎さんから第1報が入った。特に基礎工事に大事な砂利が、水害地の復旧が先で手に入らない、と。私は、絶対遅れは許されない、総必要量の70%が集められれば工事は続けられると。そしたら塩崎さんが、滋賀県の野洲川や遠くは京都からの砂利を、昼夜寝ないほどの苦労をして集めてくれた。あれだけの大問題が起きて、計画日程は遅れなかった。現場の人たちのおかげです」(白井)。

塩崎は、スピードアップのために常識破りのアイデアを実行する。
「建設会社の工場設計図が遅れてた。もし1カ月遅れれば、今コンクリート打っとかないと、また1カ月遅れる。で、基礎の図面だけ描いてくれと。柱の間隔は9mに決めてどんどん進めた。コンクリートが乾くころ、建物の設計図が決まって、すぐ工事を始められた。こんな発想は、おやじさん流のものの考え方で考えると出てくるんだ。常識人の頭からは出てこない(笑い)」(塩崎)。

各職場から集まった計画案やアイデアを先行した基礎工事に合わせ、塩崎が1万1000坪の工場配置図にまとめ、それを見れば即座に分かる立体俯瞰図にした。

1960年1月、建物の設計図、レイアウトが決まった。無窓完全空調工場であり、自動車業界を含めて日本のどこにもない新鋭工場の姿が、そこにあった。

「藤澤さんには、レイアウトを始める前に、こう言われました。『スーパーカブの専用工場でやるんだろうな』。私は、いいえ、将来は自動車生産を考えています、と答えたんです。それを聞いて、藤澤さんは大変に怒られた。『おれは4輪のヨの字も考えてない、スーパーカブだけ考えればいいんだ』と。それも分かります。ですが、浜松時代からずっと一緒にやってきた間に、本田さんの人生の目標はオートバイだけじゃない。この人の夢は自動車づくりにあるはずだ。この土地で、この工場で、本田さんの夢を実現させてあげたい。藤澤さんが何とおっしゃろうと、これだけは果たしたかった」
と、白井は言う。そして、自説を曲げなかった。
藤澤も、それ以上、やめろとは言わなかった。

鈴鹿製作所は、スーパーカブに最適な大量生産工場として設計された。だが時至れば、自動車生産が可能なフレキシビリティーを、初めから持っていたのだ。

本田は、レイアウトを見て、白井たちの詳しい説明を聞いた。ダイキャスト工場が、夏冬の風向きまで研究して位置決めされていて、民家にできるだけ迷惑をかけないよう配慮していること。社宅、寮は、1カ所に集めず、分散させていること、社内に生協のような店をつくらないこと、工場内の診療室以外は一般病院を指定医とすることなど。そして、この工場には、内と外を隔てる塀もなかった。代わりに、緑の樹木が植えられるのである。
本田の望んだ地域社会に溶け込む心づかいは、しっかりと守られていた。

1960年4月、鈴鹿製作所が発足した。白井の予定通り、エンジン組立からの出発である。セル付きのスーパーカブC102も4月に登場し、人気はさらに高まっていった。スーパーカブの姉妹車、スポーツカブC110も11月にデビューした。
5月、第9次増資を行い、資本金は43億2000万円となる。
7月、本田技術研究所が独立、株式会社本田技術研究所となる。
12月には、CB72スーパースポーツ(2月発売のC72の姉妹車)が登場、日本にスポーツバイクという新しいカテゴリーを確立していく。
1961年6月には、スーパーカブの生産台数は早くも100万台を記録した。鈴鹿製作所は、この年8月、スーパーカブ全機種を埼玉製作所から移管され、今まで例のない大量生産工場としてフルパワーを発揮していく。

1948年、たった100坪の山下工場で始まっていた量産への第一歩は、こうして、13年後、理想に描いていた現実となったのだ。

あくまでも自主独立を貫いて歩んだここまでの年月を振り返れば、それは絶え間ないチャレンジの連続だった。それゆえの失敗と成功を繰り返す、振幅激しい時代だった。しかし、本田宗一郎、藤澤武夫が抱いた夢は、これを共に追いかける若者たちによって果たされていった。
だが、まだ途上である。これからも、Hondaの見果てぬ夢は限りなく広がっていくのである。

この時代の真っただ中を生きた先輩たちは、こぞって言う。
「現代の若い人たちが、われわれと同じ体験をすることは恐らくないでしょう。けれど、時代が変わろうとも、Hondaイズムの基本は変わらない。われわれがそうだったように、今のHonda、これからのHondaの人たちの中に受け継がれていくと思う。それがある限り、Hondaはただの大きな企業にはならない。どこまでもHondaであり続けると思う。若さと夢は、どんな時代にもあるのだから」。

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2.Hondaのチャレンジングスピリット

1960年7月1日、本田技術研究所が本田技研から分離・独立して、(株)本田技術研究所として発足した。

これは一人の天才・本田宗一郎に依存した技術開発から脱却し、各分野のエキスパートの力を束ねた開発体制へと向かう大きな転換点だった。と同時に、Hondaが念願の4輪進出に向けて、スポーツカーと軽トラックの試作車をつくり、熟成に向けてのテストを繰り返していた時期でもあった。

1960年以降のHondaの諸活動の中から、Hondaの今日をあらしめたチャレンジングな取り組みを50例選び、各々に携わった人たちへのインタビューを行った。一つひとつのテーマの中に、Hondaの従業員ならではのチャレンジングスピリットがあふれている。

それらは、とりもなおさず、現在のHondaの中に生きる私たちにとって、仕事の根本をどこに置くのかという、深い問いかけでもある。

エキスパートを生み出すシステム

エキスパートを生み出すシステム

エキスパートを生み出すシステム

「1人の天才能力にかわる集団能力を、いかに組み合わせ、それを全体として向上させていく仕組みを、どのようにしたら作れるか」。
1960年5月に開かれた管理研究会の専務講話の中で、藤澤武夫は全管理職に対して、この問いを投げ掛けた。
1人の天才とは、言うまでもなく本田宗一郎である。

藤澤は、4輪業界への進出を視野に入れ、各々の技術分野で優れた専門能力を有する人・エキスパートを育て、彼らの力が最大限に発揮できる仕組み、体制づくりを着々と進めた。

1956年5月、Hondaは埼玉・浜松両製作所の設計部門を統合し、白子工場内に本社設計部を設置し、技術研究所独立への布石を打った。翌1957年6月には、本社・製作所とは別個に独立した組織を有する技術研究所として発足した。
1960年7月1日、(株)本田技術研究所として念願の独立を果たし、本田技研と一体不可分の関係を維持しつつ、独自な研究機構の中で旺盛な開拓精神の発揚が図られる組織体制を創った。1961年11月には、当時の埼玉県大和町(現・和光市)に新社屋が完成した。

1973年11月、2輪車の研究・開発部門が独立し、朝霞研究所として発足した。これに伴い、和光市の研究所は和光研究所と称されるようになり、4輪と汎用製品の研究・開発を担当することとなった。
また、2輪のレース活動のために、1973年3月に(株)ホンダレーシングサービス(RSC)を設立し、1978年には朝霞研究所内にNR(ニューレーシング)部門を設置。1982年9月にRSCとNRを統合して(株)ホンダレーシングが発足した。
その後も業容の拡大に伴い、1974年9月に燃料供給装置の研究開発を行う(株)ホンダ気化器研究所、1976年8月に用品開発を行う(株)用品研究所、1988年4月に電子制御システム関連の重要機能部品を開発する朝霞北研究所、1979年5月に汎用製品の研究・開発を行う朝霞東研究所が発足した。
1982年4月、栃木県芳賀町に完成した新社屋に4輪の開発部隊が徐々に移転し、1986年4月に栃木研究所としてスタートした。
これと同時期に、重要新技術・創造的新技術を自らの手で生み出す研究体制を確立すべく、和光研究センターを設置。同センターは1991年1月に和光基礎技術センターと改称して発足した。

1958年5月、荒川河川敷に本田技研専用の高速テストコースが完成した。
1979年4月には栃木県の芳賀・高根沢工業団地内にテストコース・栃木プルービングセンターを完成。1996年5月には、北海道・鷹栖町に総合試験場・鷹栖プルービングセンターが開所した。これによって、世界の主要道路をシミュレートした状況下でのテスト走行が、日本国内でも可能になった。
アメリカでは1990年5月にカリフォルニアのモハビ砂漠にテストコース、ホンダ・プルービングセンター・オブ・カリフォルニアが完成。オハイオ州では、オハイオ州立大学の研究機関であるトランスポーテーション・リサーチ・センターを1988年1月にホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリングが取得し、1992年3月にHRA-Oのテスト施設として完成させた。

研究開発部門の主要な海外拠点は次の通りとなっている。
●ホンダR&Dアメリカズ(HRA)
●ホンダR&Dアメリカズ・オハイオ(HRA-O)
●ホンダR&Dヨーロッパ・ジャーマニー(HRE-G)
●ホンダR&Dヨーロッパ・U.K.(HRE-U.K.)
●ホンダR&Dサウス・イースト・アジア(HRS)
●ホンダR&Dタイランド(HRT)

1960年7月、『私の記録』が全社的に実施された。企業に働く人たちの日々の活動の記録こそが企業の成長の姿だという、藤澤武夫(当時、専務)の発案からスタートしたのである。

1965年8月発行の、『組織の独創性を求めて』と題するホンダ社報臨時号の中で、役員室は、エキスパートとしての昇進の道を明らかにし、彼らがいつでもその能力をフルに発揮し得る組織が必要であるとの認識を表明。同年10月には、資格制度が近く発足することを従業員に告知した。
1966年8月には資格制度委員会が発足。まず、コストリサーチグループ(CRG)に携わる人たちの活動の記録を研究材料として、その内容を分析した。結果、資格制度委員会は記録制度委員会に改組され、当面は記録制度としての運営がなされることとなった。

1968年4月、Hondaにおける初の能力資格者・エキスパートとして技術主任・技師・主任技師が誕生。まずは、技術部門から専門職資格制度がスタートした。翌1969年5月には技術管理や営業・経理などの部門でもエキスパートが認定され、最高の資格として技師長も誕生した。
1976年4月、全部門に資格制度が適用されることとなった。技術系と事務系の資格体系を明らかにし、認定期間を従来の1年から2年に延長するなど、多くの改定が図られた。
1994年10月には、役職資格の見直し、技能系資格の新設など、一部改定が実施された。

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技術研究所の分離・独立 / 1960

技術研究所の分離・独立 / 1960

*幻の技術研究所

1962年の初頭、東京都内にて、財団法人創成会の設立発起人会議が開かれた。その際の議事録によれば、議長の川原福三氏(元、三菱銀行副頭取で当時、三菱金属取締役)の提案で、藤澤武夫(当時、専務)は同会設立の趣旨について、次のように説明の口火を切った。

「新法人の設立には二つの狙いがある。第1は、自然科学、および人文社会科学、特に技術振興等に関する研究、あるいは研究助成等をなし、文化の向上に寄与せんとするものである。第2は、本田技術研究所の全株式の半分を基本財産に提供して財団法人を設立することによって、技術研究所本来の使命を十分に達成せしめ、以って社会に貢献せんことを期するものである」。

1960年7月に本田技研から独立して設立された(株)本田技術研究所の株式は、本田技研50%、残りの50%を本田宗一郎と藤澤武夫が折半で保有していた。この本田・藤澤両人の保有している株式を基に、創成会を設立しようというものであった。

藤澤の説明は、第2の狙いについて多くの時間が割かれた。技術研究所の自主性の確立、研究員各自の尊厳の保持がなされなければ、立派な研究成果を期待することは困難であることを強調。そのためには仕事の形態が異なる製造・販売・経理部門等と同一の組織から、研究部門が独立しなければならないこと。従って、本田・藤澤の保有している50%分の株式を基本財産として財団法人を設立し、これを永久に安定保持することで、本田技研という大株主に対抗する勢力をつくること。それによって互角の勢力を持ち、互いの干渉・圧迫等を排除し合い、各自の自主性を十分に発揮することで、技術研究所の著しい成長が期待されるとした。加えて、このような技術研究所の形態は、製造会社の技術研究所の在り方としては理想的なもので、その真価はやがて社会一般の認識を得るものとなり、これに類する形態の技術研究所が相次いで出現するであろうと述べた。

説明を聞き終えた川原氏は、藤澤の創成会設立に対する熱意と独創的な着想に敬意を表しつつも、第2の狙いに重きが置かれていることに懸念を示した。つまり、新法人が、本田技研と本田技術研究所の繁栄のために設立されるもので、第1の狙いは派生的なものとの誤解を招きかねないというのである。

このような議論を経て、創成会の設立趣意書、理事・評議員候補の審議が行われ、川原氏を設立代表者として、文部省へ法人の設立許可申請を行うこととなった。

当時、本田技術研究所取締役として創成会理事に推挙されていた伊達たすく(たすく)は言う。
「あの時に初めて、藤澤さんの技術研究所に対する高邁(こうまい)なお考えの全貌が理解できました。藤澤さんは昭和30年の初めごろから技術研究所の在り方について、いろいろとお考えになっていて、昭和35年7月には独立して(株)本田技術研究所と成し、その仕上げとして株式の50%を創成会に持たせようとしたのです。創成会の運営を技術研究所の役員・従業員代表に任せることによって、他社には見られない独自の、かつ強力な技術研究所をつくり上げようと試行されたのでした」。

しかし、この創成会は日の目を見ることはなかった。アメリカン・ホンダ・モーター設立、マン島TTレースでの完全優勝など、1962年初めには、Hondaは名実共に世界一の2輪車メーカーとなり、4輪業界への足掛かりをつくりつつあった。このころ、世界的規模での資金調達を図るために、米国・ニューヨークでADR(米国預託証券)を発行する準備が進んでいた。その中で、引き受け会社であるゴールドマン・サックスより、本田技術研究所の株主構成を本田技研50%、創成会50%としようとしていることは、ADR投資家の誤解を招きかねず、将来、問題を引き起こす源になる恐れがあるとの警告がなされたのである。

「本来、本田技研の子会社であるべき技術研究所が、本社のコントロール外に出ることは常識では許されないことで、ADR発行の条件として、創成会の構想は全面的に否定されてしまったのです」(伊達)。

*一般公道がテストコースだった

技術研究所の前身である設計と研究部門は、1954年3月の組織図によれば、埼玉製作所には技術部設計課と研究室があり、浜松製作所には技術課設計係と研究係があった。同年4月、埼玉製作所では設計部と改組され、生産設計課、試作設計課、研究課を設置。一方、浜松製作所では1955年に設計課と改組された。

「このころは埼玉でベンリイ、汎用エンジンの基本設計を行い、浜松ではこれらの量産支援の設計変更図面を受け持っていました」(伊達)。

当時の埼玉製作所長は宗一郎の弟の本田弁二郎だった。宗一郎と弁二郎の2人は、30分に1回ぐらいの頻度で、交互に現場に回ってくる。宗一郎は設計室や造型室に足が向くことが多かった。

「ドリーム号4E型のクレーム対応で、キャブの再セッティングテストを行っていた時、本田社長(宗一郎)と所長(弁二郎)から次々と指示が出るんです。お二人のアイデアは全く違う角度から出されるので、私は板挟みになって苦心しました。自分のアイデアをじっくりと考えようと、村山にある通産省の試験所に逃げ出したこともありましたよ」(伊達)。

1953年、54年の両年にわたって、通産省の主催で2輪車の性能比較審査が行われた。定地テストの会場は通産省機械試験所村山テストコース、走行燃費テストは一般公道であった。定地テスト項目は加速、最高速、燃費、惰行、制動の5項目であり、定地テスト5項目と呼ばれていた。通産省の係官が立ち会う公式テストのため、各社とも良いテスト値を出すべく秘策を練った。

「テストに行った連中は必死でした。本田社長は何でも1番でないと気が済まない方でしたからね。テストコースから帰るなり、『今日はどうだった』と必ず聞かれたものです」(伊達)。

一方、社内の耐久テストは、特別走行耐久テストと言われていて、略称は『特走』。川越・熊谷・前橋・高崎を巡る公道を利用した周回コースで行っていた。当時これらはすべて砂利道であり、タイヤが砂利の中にはまり込んでしまうことも度々だった。登板テストは箱根旧道や碓氷峠など、近場では白子坂などで行われていた。

*研究陣の統合・強化へ

1956年4月発行のホンダ社報で当時の総務部長・彌富賢之(やとみけんじ)は、『最近の組織変更から』と題して、設計部門の統合について次のように記し、技術研究所の独立を示唆している。
「設計部門は埼玉・浜松の両製作所の設計部門を統合して、白子工場に設置される予定であるが、これは試作工場等の充実と相俟(あいま)って、将来、研究所にまで発展させる基礎をなすものである」。
これは、神武景気が続く中で、ドリーム、ベンリイの販売台数の急激な増加に伴う大幅な生産増を背景に、Hondaが経営の合理化と近代化とを目指した一連の組織改善の一つでもあった。

また、同年7月に発行されたホンダ社報の中で、当時、専務の藤澤武夫は、『皆が1番知りたいことに答える』という標題で、会社の現状と将来の見通しについて、5ページにわたって述べている。その中で、
「アメリカの企業の利益が大きいのは、常に需要家の求める商品を発売することができるからであり、これは研究の蓄積の量に比例して可能となる。総じてアメリカの研究費はその会社の売上金の3%といわれるが、それは実に尨大な金額である。(中略)今度、設計・試作に重点を置くことは、最も会社として重大なことである。(中略)ここから誕生する商品が、我々の将来の安定の原動力となるのである」
と、研究の重要性と研究部門に対する基本的な考え方を明らかにしている。

一方、社長の本田は1957年4月の株主総会で研究部門の強化・充実に触れ、
「設計に関する基礎的研究や試作品についての実験研究は、バランスシートにじかに反映するようなものではなく、効果を実測することのできない極めて地味な性質のものですが、この意義は極めて大きいものがあります。この部門には200名の人員と月2000万円にのぼる経費を投入してきましたが、これによって、たゆまない製品の向上と市場の要求に即応した製品の供給態勢がとられ、会社安定の基礎をなすばかりでなく我国2輪業界の先達としての責務をも担っている状況であります」
と、研究部門の重要性を力説した。

研究部門に対する本田と藤澤の認識は、全く一致していたのである。

*国際市場への進出を目指し、技術研究所が発足

1957年5月20日の役員会で、技術研究所の設置(6月1日付)が決定された。これによって、技術研究所は本社・製作所とは別個に独立した組織を有し、これらと並ぶ事業所として認められたのである。
5月31日発行のやまと弘報に、藤澤は『技術研究所の誕生を喜ぶ』と題して、次のような一文を寄せている。

「技術研究所の誕生は多年の念願であっただけに、まことに嬉しいの一言に尽きる。(中略)思い切ったデザインや誰も真似の出来ない製品を作る。これだけがHondaの将来を約束してくれるし、国際競争の激しさに堪えてくれる。そのためには1にも2にも、豊富な研究費と優れた人材と研究し易い環境が必要である。(中略)未知の世界を開拓してゆく激しい頭脳の闘いに苦しむ人々に、皆が暖かい目で見守り協力してほしい。研究所の人たちが次の新しい研究を重ねて、世界的な素晴らしいアイデアを生み出すことは、Honda全従業員の将来を約束してくれることであり、経営者としても、これこそが皆の幸福になることだと確信している」。

初代の技術研究所長には設計部長の工藤義人が就任し、6月1日、白子工場第2食堂で開所式が行われた。席上、工藤は
「今回の研究所体制の樹立とともに、さらに新しい飛躍へのステップが切られることになる。それは言い換えれば、国際水準への到達から国際水準の凌駕への展開であり、日本一のオートバイから世界一のオートバイへの進展でなければならない。また、我々の目指すものは、今後は国際市場への進出であります」
と、力強く抱負を述べた。

*研究体制の飛躍的強化・拡充へ

1957年の年末には、白子工場の中に残っていた事務部門、工機課、鋳造課の大和工場への移転が完了し、技術研究所の完全独立体制が確立した。

1958年1月1日発行のホンダ社報の中で、工藤は、
「58年度は研究試作能力の飛躍的強化の年にしたい。本年は組織・人員・設備・レイアウトの各面にわたり、画期的増強を実施することが目下の急務となっている」
と述べている。

これらの発言を裏付けるかのように、同年1月15日には技術研究所内に農機具課を発足させた。これは3年前に、事業の多角化を目的に、農業用発動機の研究開発部門を浜松分室に発足させていたものを、白子の研究所内に移転し、課として独立させたものであった。この新組織の成果は、翌1959年5月にF-150型耕運機として結実。後の汎用事業への発展の基礎ともいえる商品の誕生につながったのである。

また、1958年5月には、荒川河川敷に待望の高速テストコースが完成。幅3m、全長1450mの直線コースで、アスファルト舗装がなされた、わが国初の高速テストコースである。5月27日に行われたコース開きでは、ドリームが時速150kmの快速で観衆の前を走り抜け、大いに業界の注目を集めるとともに、
「2輪グランプリのライダーたちが、フライイング走行を見せてくれた」(伊達)。

しかし、1年後には、1450mの長さではトップギヤが入れられないほどのスピードにまで、オートバイの走行性能が進化。コースの拡張工事が行われることとなり、1959年2月には、幅5m、全長2200mの大コースが出現したのである。同年2月13日発行のやまと弘報には、
「折も良し、Hondaが日本のオートバイ製作技術を世界に問うTTレース出場の壮挙を前に、ドリーム・ベンリイの超スピードが思う存分その偉力を発揮する所を得て、技術の飛躍的向上に一層の拍車をかけることになろう」
と、高速テストコースへの期待が記されている。

*仕掛けられた管理研究会

1958年は、マン島TTレースへの初挑戦、アメリカン・ホンダ・モーターの設立など、Hondaが世界に向けて本格的な活動を開始した時期であった。国内では浅間火山レースでRC160が1位から3位までを独占するとともに、この年、初めて半期の売上げが100億円を突破し、113億円を記録。1960年4月には、スーパーカブC100の大増産への対応から、鈴鹿製作所が発足した。国内は折からの岩戸景気に支えられ、高度経済成長を目指した所得倍増政策も発表された。

このようにHondaも世の中もダイナミックに動いている中で、藤澤(当時、専務)は、宿願であった技術研究所の本田技研からの分離・独立を実現すべく、社報や各事業所の課長会議などを通じて、その必要性を訴え、独立の是非についてみんなで考える場をつくり出していった。

1960年3月発行のホンダ社報では、最近の技術革新の勢いは非常に激しいものがあり、これに対応するために、1日も早く合理的な研究体制を確立しなければならないとして、どのような姿にすべきかの研究討議が技術研究所内で開始されていることを紹介。技術研究所のありたい姿をいくつか描いて見せたうえで、
「良質多量の目的に向かって、絶えざる先行研究、積極的な技術革新を実現するためには、研究所はどのような姿であったらよいだろうか。総智の結集が待たれるところである」
と結んでいる。

同年5月には2回にわたり、大磯に全社の課長クラスを集めて、管理研究会が開かれた。ここで、技術研究所の組織の在り方について、グループでの予備討議と全体討議が行われたのである。

この研究会に参加していた杉浦英男は、後に、ホンダ社報特別号『藤澤武夫最高顧問を偲んで』(1989年4月7日発行)の中で、この時の様子を次のように記している。

「昭和35年5月、2日にわたる課長会を仕掛けられたのが、おじ上(藤澤のこと)だったようです。
初日の方の課長会は『つくって売る』のではなく、『売れるものをつくる』のだという結論にリードされた覚えがあります。研究所独立の布石でした。『メーカーが育ってゆくためには何が1番大事か、それが根にあって、すべてがある』と分からせられたのです。
その晩、大磯プリンスホテルに入りました。そこでのテーマは、研究所を独立させるべきかどうかということ。我々は実務的な考えだけですから、図面の受け渡しをどうするか、サービスの領分は、管理、費用管理など、侃侃諤諤(かんかんがくがく)。
結論を持って発表会に臨みました。今でもありありと眼に浮かぶ、海の見える2階、1番後ろにおじ上。
『我々の検討結果をご報告申し上げます』と言うところまではこっちを向かれ、膝をのり出していたように見えました。『結論から申し上げますと、研究所の独立は現在のところ必要ないというところに到達しました』と言った時から、おじ上は海の方をじっと見続け、それから声をいかに張り上げようとも、いっかな私の方を見てくれる気配もなし。今にして思えば、『親の心、子知らずか』のお気持ちだったのではないでしょうか。(後略)」。

*1人の天才に代わる集団能力の育成を

この2日間にわたる討議が終わった後、藤澤は、講評を交えながら、自らが考え続けてきた技術研究所の理想像を熱く語った。この中で藤澤が強調したことは、

①私たちの企業は時代とともに生きていく産業であり、常に新しい時代を開発していかねばならない。そのためには、時代が求める品物を自らの手で、積極的に掘り出していくべきだ。

②企業発展の原動力の99%までが『原図』にあり、その生命線を自分でしっかりと確保していこうとする態度が肝要である。

③本田技研がここまで伸びてきたのは社長(本田宗一郎のこと)の考えた図面が良かったからだ。しかし、いつまでも1人の天才の能力に頼ってはいられないから、それに代わる集団としての能力をいかに組み合わせ、全体として向上させていく仕組みをつくり上げていくかを考えるべきだ。

④研究所では、一人ひとりの能力が最大限に発揮されて、研究に専念できることが大切であって、これは従来の3角型の組織や職制では期待できない。

⑤研究所にいる人たちの誇りと自信、そして、その生活について守ってあげることが、結局、製作所なり販売店なり、他の人たちの生活を守ることにつながる。

という点であり、
「研究成果の挙がる新しい組織をどのようにしてつくるかということを考えて、そのためには(技術研究所が)独立した方がよいという結論が、みんなの納得のいく線で出されるならば、非常に結構だと考えている」
と結んだ。

藤澤の技術研究所の現状に対する鋭い問題提起と、技術研究所独立にかける熱い想いを、じかに聞いた参加者たちは、強硬な独立反対の姿勢を徐々に和らげていったのである。

後年、藤澤は副社長を退く際に、当時を振り返って、
「私はこの提案が通らない限り、大企業への足掛かりはないと確信していたので、(技術研究所独立が)受け入れられなければ辞任する決意であった。この企業の分岐点がこの時にあったと、今でも思っている」
と語っている。

*(株)本田技術研究所として独立を果たす

1960年7月1日、本田技研からの独立を果たした(株)本田技術研究所の創立式典が行われた。席上、社長に就任した本田は、
「この競争の激しい中で、全く独創的なアイデアを時間をかせいで作り出されなければ、世界を相手に太刀討ちできない。日本という国は、昔からアイデアで発展してきた国である。我々の使命は、それを時間で稼ぐことによって発展させていかなければならない」
と、あいさつした。また、藤澤は、
「誇りと自信を持って素晴らしい商品図面を自分たちの手でつくりあげ、世界中に販売して、外貨を稼ぐところまで発展してほしい」
と、技術研究所への期待を述べた。

独立を前にした6月16日には、『研究所独立と決定』という標題のホンダ社報臨時号が発行され、そこには本田・藤澤をはじめとする7人の設立発起人による本田技術研究所設立趣意書が掲載されている。同書には、
「本来、研究機関存在の意義は、『未知の世界の開拓を通じて、新しい価値を創造する』ものであり、そこには、当然、独自の研究機構と旺盛な開拓精神の発揚がなければならない」
と、技術研究所の在るべき姿が謳(うた)われ、本田技研と一体不可分の関係を保持しつつ、相互の長期的繁栄を計るために、本田技術研究所を創立すると記されている。

加えて、『人事関係から見た研究所の独立』という標題で、技術研究所の目指す姿を述べている。その中には、
「時間や職位や形にとらわれることなく、専心、自分の探究する最も得意とする課題に、研究者が没頭できる環境を作ることが第一である」
というように、最近時、世間の研究部門でも当然のこととして実施されているフリータイム制につながる考え方が述べられている。

なお、技術研究所では他の民間研究機関に先駆けて、1969年に研究員対象のフリータイム制度を実現している。また、
「研究者の一人ひとりの能力を横の線で結び、集団の能力を全体として向上発展させるための形が、研究所の人事管理の新しい姿として実現されなければならない」
というくだりは、後に『文鎮組織』と呼ばれた、技術研究所の独自な組織形態の考え方を端的に表している。

*待望の新社屋完成

1961年、当時の埼玉県大和町に3年後の東京オリンピックに備えて”オリンピック道路”が建設されていた。この道路に面した元陸軍予科士官学校の校用地跡の2万2000坪(白子の技術研究所の約6倍の広さ)の敷地に、同年11月、待望の新社屋が完成し、移転を完了。これによって名実共に、新しい時代に即した技術研究所の姿が確立された。

この新しい技術研究所の案内書『GUIDE TO THE HONDA R&D CO., LTD.』の中に、本田は技術研究所社長としてのメッセージを、次のように寄せている。

「企業発展の原動力は思想である。従って、研究所と言えども、技術より、そこに働く者の思想が優先すべきだ。真の技術は哲学の結晶だと思っている。
私は『世界的視野』という思想の上に立って、理論とアイデアと時間を尊重し、世界中の人々が喜んで迎えてくれる商品を送り出すことに、研究所の真の意義を感じている」。

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私の記録、資格制度の導入 / 1960

私の記録、資格制度の導入 / 1960

*一心にやったことを記録に残そう

『あなたの優れた面が埋もれていませんか』というタイトルで、1960年4月に発行されたやまと弘報では、全所的に職歴票がつくられることを紹介している。

これは従業員の一人ひとりが、自分の力をいっぱい働かせた、その情熱や希望、時には不満を、職場の同僚・上司に知ってもらうための、職場での日記とも言うべきものであった。このノートを職場に置いて、いつでも、だれでも読めるようにし、日々の記録の中から各人の努力を正当に評価し、隠れていた能力を掘り出して、伸ばしていこうという狙いを持っていた。
これが、同年7月から全社的に実施された私の記録の萌芽(ほうが)であった。

1960年8月に発行されたやまと弘報によれば、当時、専務の藤澤武夫は埼玉製作所の全課長に対して、私の記録の意図を次のように説明した。

「各個人個人の努力の跡、人生の中、一度でも一心にやったこと-その功績なり、その時の楽しみなり-を書いておいて、会社を離れる時の想い出の記録として、時には息子達への語り草の記録ともなすことは良いことである。
初めにやることは何事も苦しく難しく、相当の努力が要るものだ。年月がたてば、それは人に引き継がれて制度として運営され、やがては当たり前のことのように誰が始めたか等は消えていくものであるが、その時は立派なことであり、それなりの功績と言えるものだと思う。これを記録として互いにこの事実を認め合うことは、一つの明るさを増すことだと思う」。

*私の記録を通した新しいルールづくり

1962年5月、都内の八芳園で藤澤を囲んで、私の記録の記入事例を話題にした座談会が持たれた。各事業所から推薦された若手従業員5人ほどが出席。前日に司会進行役を任命された伊藤隆二(当時、埼玉製作所保全課管理係長)の発案で、自己紹介は各人が私の記録の一部分を読み上げることとした。藤澤は一人ひとりの紹介を熱心に聴いた。

伊藤は、1961年3月に行われたスーパーカブの生産調整の時、藤澤のユーモアあふれる講話に刺激されて、5日間のライン休止中、全員で機械や設備の予防保全計画を実施できた経過を報告。生産変動や在庫の推移グラフ、新設備の取り扱いや予防保全のポイント、研修を受けた時の要約レポートなどのページを見せた。藤澤は、
「あの時は、みんなよくやってくれたね。第一線でも計画を立て、実績を記録して、次への夢を描ける者が続々と出てくるのが、おれの夢だったんだよ。おれのイメージ通りに活用してくれている」
と喜んで、伊藤の私の記録2冊に自筆のサインを入れてくれた。

当時、新しい輸入機械や設備の導入に当たっては、若い担当者がマニュアルを見ながら、本田宗一郎の言う”マシンの能力を最大限に使う”ことに挑戦していた。伊藤はその中から得たノウハウを私の記録に残し、作業標準表づくりなどに展開していたのである。

「藤澤さんは、『こういう記録の積み重ねの中から、どんどん新しいルールをつくっていってくれ。若い人たちのセンスがないと、できないことだよ』と励ましてくれました。私にとっての私の記録は、まさに新しいルールづくりであり、作業のマニュアル化、システム化を実現するためのチャレンジの歴史でもあったのです」
と伊藤は言う。

*企業の将来性と個人の未来性

1964年10月、東京オリンピックが開催されて国中が沸いたものの、1965年の中ごろまでの約1年間、日本経済は『昭和40年不況』と呼ばれる深刻な状況下にあった。多くの企業が業績不振にあえいでいる中にあって、Hondaはいち早く、生産調整や新たな需要を生み出すための新機種生産を、矢継ぎ早に進めるなどの対策を講じたため、好調を堅持していた。加えて、1964年11月には狭山製作所4輪工場が操業を開始し、4輪企業としてさらに前進するための基礎固めが着々と進んでいた。

しかし、第30期(1964年9月から1965年2月)の決算内容を見ると、前期比で、売上は増加しているものの、利益率は低下していた。このことは、今後、生産量の増加、新機種の投入が続く中にあって、企業を危険にさらす要因を内蔵していることにほかならなかった。

企業の適正規模要員を1万人と見ていた藤澤は、決算内容に課題はあるものの、業績が好調で従業員数も8000人弱という、この機会をとらえて、独創的な組織づくりを提示した。
それは企業の将来性と個人の未来性を創るために、従来のピラミッド組織のみに頼るのではなく、エキスパートが能力をフルに発揮できるような組織が必要であるというものであった。

「当時、六本木のおじ上(藤澤武夫のこと)は、『雲のごとくに』と、よく言われた。つまり、”雲がもくもくとわくように必要な人材がバッと集まって、仕事をし、完了したら、また元の職場に戻っていく”というような組織があったら、それは素晴らしいことだと考えていたんです。これは、エキスパートの活動システムの一つの理想的な形でしょうね」
と、当時、人事課長の職にあった大久保叡は言う。

1965年8月に発行されたホンダ社報臨時号には、次のような問題認識が示されている。

①大企業の弱点は、巨大なピラミッド組織のみに頼って、個人の能力を発揮できないことである。
②多量生産、多量販売でなかった当時の、過去に作られた組織に合わせるために汲々(きゅうきゅう)としている現状から、まず脱皮すべきである。
③出世の道が監督者コースだけに絞られることは、能力ある人にとって実にたまらないことである。エキスパートとしての昇進の道を明らかにし、その人たちがいつまでも、その能力をフルに働かし得る組織が必要である。
④専門分野について、一定の高度の水準に達した人の処遇を明らかにし、エキスパートとしての将来の道に、夢と誇りの持てるものを作ることが必要である。

*資格制度の早急な実施に労働組合が難色

同1965年10月には、資格制度が近く発足することを告げるホンダ社報臨時号が発行された。この中では、藤澤が考えていたエキスパートの活動システムの理想形を『立体的な組織』という言葉で表現した。それは、
「会社が必要とする時、必要とする部門に、オールHondaを代表する意欲的なエキスパートが直ちに集まり、時機を逸せず問題の解決に当たることができる仕組み」
であるとの説明がなされている。

また、Hondaが考える専門職の資格制度は、他社で行われているような、監督者になるための1ステップ(腰かけ)でもなければ、単なる励み要素や身分保証的な性格のものではないと明言。専門職はその専門を活かしてこそ、企業の原動力になるとして、専門職資格制度の詳細については、後日、パンフレットを配布することを告げた。

しかし、このパンフレットは配布されなかった。労働組合が資格制度導入の必要性は認めたものの、早急な実施に難色を示したのである。

当時の本田技研労働組合委員長・鈴木誠一郎は、同年10月の組合機関紙の中で、
「この制度の内容が明確かつ合理的で、運用が公正に行われ、広く組合員にその場が与えられなければならない」
と述べ、問題点として、賃金、勤務評定との関連、認定基準の明確化などを挙げている。
また、当面の実施部門が技術部門に偏っていることから、全体の調整が必要であり、将来に大きな憂いを残すような進め方は避けるべきだとも主張している。

結局、資格制度の実施に関しては、今までの検討内容を白紙に戻し、全従業員の衆知を集めて再検討することとなった。また、実施時期も、十分な検討案ができるまで延ばすこととした。

*世界に通用するエキスパート像を描く

1965年10月末、藤澤は浜松・鈴鹿の両製作所で、資格制度と新しい組織の在り方に関する副社長講話を行った。この中で藤澤は、技術研究所の独立の意義とエキスパートへの期待を語るとともに、世界に通用するエキスパート像について次のように述べた。

「(前略)今日、管理職である”長”でも、明日はどうなるかは分からない。しかし、自分が、このことについてはエキスパートであるという自信があれば、何も恐れることはない。そして、その場合に、私は、よそから、みんなを引っこ抜きにくるだろうとさえ思っている。よそから引っこ抜かれるような人材が、本田技研の中から続出すれば、本田技研のこの思想というものが、日本中に広がっていって、もっと素晴らしい日本になると思う。アメリカにもドイツにもない、日本の中にもない仕組みを、ひとつ、みんなの力でつくっていただきたい」。

また、同年12月16日に開かれた、社長の本田宗一郎と各製作所の若手従業員との座談会の中で、本田は、ライン長とエキスパートについて、
「長というのは組織上の名なんであって、偉さではない。課長であろうとなかろうと、機械なら機械のコントロールのできる人には、それだけの正しい給料を払い、待遇もする。名前がその人を表すのではなく、仕事自体、実力自体が、その人そのものを表現するということになってしかるべきだ。機械をコントロールすることに得意な人が、人の問題で悩んでばかりいては、会社にしても本人にとってもマイナスだな」
と、自分の考えを語っている。

このように、本田と藤澤のトップ2人が、エキスパートの重要性について従業員に語り掛け、資格制度実現への強い意思を示した。

*現場の中からエキスパートを見出し、育て上げる

1966年8月に、資格制度推進委員会が発足した。同委員会は、前年の10月にスタートしたコスト・リサーチ・グループ(CRG)のメンバーの活動記録を研究材料として、内容の分析を行うこととなった。

CRGは、オールHondaとしてあらゆる部品を検討し、徹底的なコスト追求を図るために、従来の職制とは全く違う新たな仕組みとして発足した。4輪業界に参入したHondaにとって、この時期、部品メーカーに支払う費用は、毎月約70億円にも上っていた。もはや、コストの追求は資材調達部門のみの課題ではなくなり、全社を挙げて、機種別のコスト追求から機能部品別のコスト追求に改めたのである。このコストリサーチ活動で中心的役割を果たしたのが、現場のエキスパートたちであった。

資格制度推進委員会は資格制度を具現化するために、次の3点のテーマを掲げた。
①社内のいろいろな活動の中で果たした個人の役割・実績を、徹底的に記録する。
②記録を解析し、そこから『正しい記録の仕方』を見出す。
③さらに記録・解析を十分積み重ねる中から、『評価の仕方』を導き出す。

1年間にわたってCRG活動のテーマ数・約350件、参加メンバー・1600人の活動内容を分析した結果、多くの従業員が、与えられ・定められた仕事以上に、自ら考え、実行に当たる努力を行っていることが明らかになった。加えて、成果が表れている一つの事実の中には、現場の人たちの貴重な失敗の繰り返しが隠されていること、職種や組織の枠を超えた発案や提案がなされていることなども分かった。

これらの努力した事実を正しく把握するために、私の記録による記録と記録集積が行われることになった。全員に記録制度用の新たな様式となった私の記録が配布され、日常のライン業務、グループ活動、会議、応援業務、改善提案など、社内のあらゆる活動・業務を対象として、各人が活動内容の記録を開始した。
1960年に導入された私の記録の役割が、再認識されることとなった。

各人が記入した私の記録は1カ月に一度、記録制度グループによって集められ、記録内容の分類と集積が行われた。分類はCRGの解析結果から、疑問・発想・構想・具体化・指導・行動の6項目によってなされた。これは、各人の努力や持ち味がどの面で発揮されたかを明らかにし、タイプに応じた活用につなげる仕組みへの準備でもあった。

1966年12月、従来の資格制度推進委員会は記録制度委員会に改組された。これは、当面、各人の記録を登録する記録制度を中心とした取り組みを行うことで、資格制度への歩みを一歩前進させようとしたものであった。
記録制度のスタートに際し、1966年12月に発行されたホンダ社報臨時号では次のように述べている。

「他社の資格制度が、あるいは試験制度を採ったり、あるいはライン長の職制内の評定によったりして、観念的な、ワクにはまった動きをしているのに対し、組織や職種を超えて、現実の仕事に立脚し、現場の中からエキスパートを目指す人たちを見出し、育て上げようとする方向は、少なくとも、誤りのない、Honda独自のものであると確信できる」。

Hondaの資格制度の特徴が、試験制度ではなく、自己申告制と実績主義に基づいていることについて、大久保は次のように言う。

「男性的人間尊重という表現で六本木のおじ上から言われた言葉だけれど、男性は”言挙(ことあ)げ”をする、つまり、きちんと自己主張をすることが大事だと。おじ上は『観念論で理屈ばかり言うエキスパートは要らない。実績を示さなければ』とも言われた。これらは、父っさま(本田宗一郎のこと)が言われていた『能ある鷹は爪を出せ』と同じことだと思います。能ある鷹が爪を出す時というのは何かをする時なので、現実の裏付けがなければできない。『どういう時に爪を出しますか』なんていう問題を出して答えをもらったって、何の役にも立たない。だから、実績主義でいくというのが基本なんですよね」。

*認定額をめぐって

1966年10月に発表した軽乗用車・N360は、同年12月には31万3000円という低価格を発表して注目を集めた。同車は翌1967年3月に発売されるや、爆発的な売れ行きを示し、発売以来3カ月で軽自動車届出台数のトップに躍り出た。
この好機をとらえて、4輪企業としての経営基盤を揺るぎないものにすべく、9月から6カ月間に及ぶNシリーズの大増産が実施されることとなった。

この年、4月の定期昇給と9月のベースアップを合わせて、5000円(従業員平均)を超える給料引き上げが図られた。これは、Hondaの歴史の中でもかつてなかった大幅な引き上げであると同時に、能力加給の等級別アップを図ったことで、将来の能力加給移行への方向性を示唆したものでもあった。

1967年8月には、『明日を築くために』と題されたホンダ社報臨時号が発行され、この大幅な給与引き上げの背景と、従業員への期待が伝えられた。この中で役員室は、実績と能力に対する正当な評価を行うという能力給、功績給への指向を表明。エキスパートを見出すための一つのステップとして、認定額制度の設定を打ち出した。

「当時、記録制度がスタートしたものの、記録・登録にとどまり、従業員からは、『見返りがないからつまらない』との声が上がっていました。そこで、記録制度を一歩前進させるための促進剤、ひいては、資格制度に対する従業員の関心度向上のために、『フロア(等級)の間のステア(認定額)』という考え方を打ち出したのです」
と、大久保は言う。

つまり、上位等級への昇格は時期尚早であるが、現等級での通常の努力と成果を上回る実績を挙げ、能力を発揮した人には、認定額(3000円程度を考えていた)で報いたいというものであり、能力・功績給を指向した一つの形と言える。
しかし、認定額をめぐる労使交渉は難航した。本田労組15年史には、次のように記述されている。

「組合としては、額的アップを計る中で、特に認定額の設置については、資格制度の確立がなされていない現在、資格制度への呼び水としての設置はナンセンスであり、全く考えられるものではないと主張(後略)」。

認定額に関しては労使の継続審議事項となったものの、その後、1969年5月に専門職加給が設定されるまでは、具体的な金額の提示には至らなかったのである。

*14年の夢が具現化、専門職資格制度スタート

1968年4月1日、まず生産・技術分野を主体とした専門職資格制度がスタートした。Hondaにおける初の能力資格者・エキスパートとして、全社で51人の技術主任が認定・公示された。彼らは記録集積を土台として、資格審査委員会の判定を経て、認定を受けたのである。加えて、技術主任の上位能力資格者として技師・主任技師の認定・公示も行われ、各資格の認定基準も公表された。

これに伴って、専門職組織(エキスパート)と管理職組織(監督者)の役割が明示され、管理組織図とは別に、専門職組織図が発行されることとなった。

専門職の任務として特筆されるべきことは、『未来の開発』であった。第1期の専門職として塑性加工(インジェクション)の分野で主任技師に認定された土田昭三は、その時の印象を、
「管理職への道は閉ざされてしまうのかという一抹の寂しさと不安は、正直なところありましたね。と同時に、インジェクションの分野では、Hondaの中で自分が大黒柱としての役割を果たし、業界の先手を打っていかなければという責任感も感じました。これは相当勉強しなきゃいかんという気持ちでしたね」
と語る。

専門職の認定に当たっては、年功に関係なく個人の能力によって認定するとし、その人数には制限がないこと、1年ごとに審査のうえ、再認定の可否を決めることが示された。

専門職組織図には、全技術を塑型、表面処理、機械加工、品質・性能・組立、補助管理・設計の5部門に分けて、各資格者名が記入された。さらに、主任技師・技師については、特技とする技術がどの分野かも具体的に記入され、エキスパート活用の便に供されることになった。

「専門職組織図は人材在庫表だと考えていました。つまり、専門職組織図の分類に沿って、ラインで必要な人材がそろっているかどうかを見て、不足していれば育てていく。専門職組織は人の育成・認定・配置に責任を持つ、いわゆるインプットの役割、管理職組織(職制)は人の活用・評価に責任を持つ、いわゆるアウトプットの役割を果たすことを狙ったのです」
と、大久保は言う。

1969年5月には、先にスタートした技術部門に加えて、技術管理や営業・経理などの未実施部門でも主任技師・技師が認定された。さらにエキスパートの最高の資格として技師長が誕生。
長年の課題であったエキスパートへの給与支給も、5月1日付で給与規則の一部改正がなされ、技師以上を対象とした専門職加給が支給されることとなった。エキスパートの優遇施策が、ようやく給与の面でも実現したのである。

1968年7月、本田技術研究所の創立記念式典で講話を行った藤澤は、
「私の記録から、どうすれば専門職になるかということをみんなが研究して、最後には、私はどうだのこうだの意見が言えないで、これなら本田技研が繁栄し、そしてみんなが幸福になるんだという組織図ができ上がったわけであります。
これは私が願ってから14年かかっております。14年間、本田技研のみんなで作り上げたこの組織図は大事にしていただきたいのです。(中略)足りなければ補っていきながら成長させていっていただくならば、申し分ないんであります」
と、長年かけて、エキスパートの力を最大限に引き出すシステムをつくり上げてきたことへの想いを語った。

*その後の資格制度と私の記録

1976年4月には、資格制度の大きな改定が行われた。資格体系が技術系と事務系に大別され、どんな職種の仕事についても、資格制度の適用が受けられることとなった。
また、資格が認定された後に役割が付与されるという、資格優先の考え方が打ち出され、認定期間は2年に改められた。
エキスパートには、毎年1カ月間、”作る・売る”という第一線での実習が義務付けられると同時に、幅広い観点を持つために、前後職種を経験することが求められるようになった。職種別の分科会を新設し、エキスパートを育成する仕組みも強化された。

1994年10月には、役職資格の見直しと、技能系資格の新設、OJTプログラム、資格認定基準・要件の見直しが行われた。

これら2度にわたる改定は、激しい時代の動きの中で、Hondaが求めるエキスパート像を追求してきた中で行われたものである。しかし、専門職としての職種分類が日常業務に近い内容であるために、エキスパートとしての資格が、ともすれば業務ライン上の処遇のように受け取られたり、分科会の人材育成機能が弱まるなど、いくつかの課題を抱えていることも事実である

記録制度の基となった私の記録は、今、当時のような使われ方はかげをひそめ、日々のメモ代わりに使っている人も多い。
ところが、鈴鹿製作所の合成樹脂課の事例では、資格制度の記録集積の基として、活用されている。
改善提案のまとめを私の記録ノートに整理している、同課の青武徳は言う。

「僕は返却された改善提案用紙の絵を切り貼りして、その前後に、自分が疑問を持った内容や、こうすれば改善できるんじゃないかと思い付いたことなどの要点をまとめて、記入しています。これが疑問・発想・構想などに分類されて、集積表に記録されるんです。ノートに班長のコメントが書いてあると、自分の仕事を認めてもらえたんだなと、うれしくなりますね」。

青の班長だった同課の山本武司は、
「合成樹脂課では、私の記録のノートの活用について、先輩からずっと引き継がれてきています。このノートに書かれていることは、資格制度の集積用だけでなく、現場の改善点や作業標準表の改定などについて、メンバーと話し合うための材料に使うなど、人材育成にも役立っています」
と言う。

藤澤の願った私の記録の意図は、現場の中では今もなお生き続けている。

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ついに果たした四輪業界への進出

ついに果たした4輪業界への進出

ついに果たした4輪業界への進出

「子供のころに、T型フォードが走っている後を追いかけながら、地面にこぼれたオイルに鼻をくっつけて、においをかいで刺激されたことが、今日のクルマづくりにつながっているんだ」。
本田宗一郎は、米国の自動車殿堂入りを果たした時(1989年10月)に、こう語っている。

1961年5月、通産省から自動車行政の基本方針(後の特振法案)が示されたことで、本田の長年の夢であった4輪業界への進出が、一気に現実となってきた。

1958年9月、白子工場内の技術研究所で、第3研究課が発足した。同課では、1955年5月に発表された国民車構想に応じた軽4輪車の試作車・XA170を手始めに、2シーターのスポーツカー・XA190と軽トラック・XA120へと、開発業務が進んでいった。

1961年5月、通産省から自動車行政の基本方針(後の特振法案)が示された。特振法が成立すると、4輪業界への新規参入が認められなくなる。Hondaは、法案成立前に4輪車の生産実績をつくるべく、1962年1月に急きょ、軽4輪スポーツカーと軽4輪トラックのプロトタイプ製作に着手した。
1962年6月5日、建設中の鈴鹿サーキットで行われた第11回全国ホンダ会総会で、本田宗一郎はHondaスポーツ・S360を自ら運転し、会員が注目するメーンスタンド前を、さっそうと走り抜けて行った。この日、軽トラック・T360も展示され、Hondaが4輪業界に進出することを強烈にアピールしたのであった。

1964年7月、Hondaは全国各地でSF(Service Factory)の建設を開始。1966年4月には、ホンダ中古車販売(株)、(株)ホンダ営研、ホンダ信販(株)を設立した。これらは、2輪販売店を4輪販売店とするために、販売店が売ることだけに専念できる支援体制・仕組みづくりであった。
1966年12月には、全国主要都市で営業所の建設がスタートし、翌春までに70カ所が開設された。

1966年10月21日、Hondaは軽乗用車・N360を発表した。最高出力31馬力、最高速度115km/h、運行燃費28km/Lという、小型乗用車並みの性能と、大人4人がゆったりと乗れる居住性、安全性への配慮など、従来の軽自動車のイメージを完全に打ち破ったものであった。同年12月には販売価格を313,000円と発表。この低価格も大きな話題となった。

1968年10月21日、Hondaは東京・大阪・名古屋で小型乗用車・HONDA1300を発表。世界初の画期的D・D・A・C方式(Duo Dyna Air Cooling System)の空冷エンジンを搭載した同車は、Hondaが小型乗用車市場に打って出るための期待の商品だった。

1972年10月11日、Hondaは、低公害エンジン・CVCCの全容を発表した。同エンジンは米国・EPA(環境保護庁)のエミッションラボに送られ、立会いテストの結果、同年12月末に、マスキー法の1975年規則の合格第1号となったのである。

1972年7月、Hondaは小型乗用車・シビックを発表・発売した。同車は台形・FF2ボックス車という、従来のクルマの常識を打ち破った全く新しいコンセプトで、当時の小型車市場に新風を送り込んだ。
1976年5月、HondaはアコードCVCC1600を発表した。さまざまな生活用途を満たすハッチバックスタイルの同車は、Hondaの発展期を迎えるための布石としての役割を担っていた。
その後、シビックとアコードは、Hondaの国内外の生産と販売を支える基幹車種・ワールドカーとして成長していったのである。

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S360・T360発表 / 1962

S360・T360発表 / 1962

*国民車構想発表

『4人乗り、時速100km、価格15万円』。これは、1955年5月に通産省から発表された国民車育成要綱(通称、国民車構想)であり、各メーカーの4輪乗用車生産の技術的目標となった。同構想に合わせ、軽乗用車・スズライト(1955年10月)、スバル360(1958年3月)などが、相次いで発表された。

当然、Hondaに対する4輪進出の期待も大きかったが、本田宗一郎は、
「自動車は十二分の検討をし、性能においても、設備の点においても、あらゆる点で絶対の自信と納得を得るまで商品化を急ぐべきではない」
という信念を、1959年12月発行のホンダ社報50号で述べている。

*4輪開発の源流、第3研究課誕生

白子工場内の技術研究所には、1957年暮れから1958年にかけて、50人近い中途採用の技術者が入社。同年9月には4輪開発に着手するために、第3研究課(設計から走行テストまでを担当)が発足した。
当時、車体設計課で操舵系、および懸架系の設計係長をしていた中島源雄(もとお)は、同年6月、所長の工藤義人に呼ばれ、突然、新たに発足する第3研究課への配属を内示された。
「君、今度(Hondaとして)4輪の開発をやるのだけれど、それに行ってくれ。これはまだ極秘なのだ。人数は極めて少ないから、君も車体が専門だなんて言っていられないよ」。

メンバーは若手の技術者7人が選ばれたが、その中には、飛行機や3輪車などの開発経験がある中途採用技術者も含まれていた。
この第3研究課こそがHondaの4輪開発の源流であった。

彼らが最初に手掛けたのは、国民車構想に応じた軽4輪車であった。10月には図面が出され、翌1959年1月に試作車が完成。開発記号をXA170と称した。

エンジンは、2輪のレース技術を活かしたアルミ製OHC・V型4気筒の強制空冷方式で、FF方式を採用。後部座席を乗せればセダンになるというフラットフロアのセミ・モノコック構造で、フェンダーとボンネットは鋼板を折り曲げてつくり、幌を貼り合わせたルーフとドアを持つ、走行テストのためだけの車両であった。

テストを繰り返している時に、本田から、スポーツカーをやってみろという指示があり、2シーターの試作車2号機・XA190が1959年秋に完成した。その後、専務の藤澤武夫からは、トラックをやったらどうかとの提案があり、軽トラック・XA120の開発へと進んでいった。

本田は、既存メーカーと競合するよりは、むしろ新しい需要を開拓すること、日本の自動車産業を国際的に通用させるためには、2輪と同様にレース活動による早期育成が必要であるとの判断から、スポーツカーの開発を指示したのである。
一方、藤澤は、当時の社会情勢や市場状況から、4輪の需要は商用車であること、2輪販売店で販売しなければならないことを考慮し、軽トラックを提案したのである。

軽トラックの試作車は1960年の夏に完成し、テストを繰り返しながら、2XA120、3XA120へと発展させ、開発を進めていった。
メンバーたちは、トラックを中心に研究を進めながらも、スポーツカーとの2機種を熟成し、テストを繰り返していった。

*自由競争こそが産業を育てる

1961年5月、自動車行政の基本方針(後の特定産業振興臨時措置法案、通称・特振法案)が、通産省から示された。これは貿易の自由化に備えた産業構造再構築のための政策であり、国際競争力の弱い産業の中から、特に乗用車・特殊鋼・石油化学の3業種を特定産業として指定したのである。

乗用車に関しては、輸入自由化を1963年春をめどとし、国際競争力強化のために自動車会社を、
①量産車グループ(2社)、
②特殊車両(高級車・スポーツカーなど)グループ(2、3社)、
③ミニカー(軽自動車)生産グループ(2、3社)
に分け、各グループの特色を生かして指導しようとするもので、自動車会社の統廃合や新規参入の制限を前提としていた。

本田は1983年のテレビインタビューで、当時、通産省事務次官であった佐橋滋氏と会った時を振り返り、次のように語っている。

「どうにも納得できないということで、僕は暴れたわけで。特振法とは何事だ。おれにはやる(自動車をつくる)権利がある。既存のメーカーだけが自動車をつくって、われわれがやってはいけないという法律をつくるとは何事だ。自由である。大きな物を、永久に大きいとだれが断言できる。歴史を見なさい。新興勢力が伸びるに決まっている。そんなに合同(合併)させたかったら、通産省が株主になって、株主総会でものを言え!、と怒ったのです。うちは株式会社であり、政府の命令で、おれは動かない」(1995年2月5日放映、NHKテレビ『戦後経済を築いた男たち』より)。

国際競争力を付けるための政府の施策に対して、本田は自由競争こそが産業を育てると主張したのであった。
しかし、通産省の法案提出の動きは止まらず、このまま法案が成立すると、Hondaが4輪業界へ進出する機会がなくなるという瀬戸際に立たされていた。

*無理難題を若さと体力で切り抜ける

法案成立までに4輪車の生産実績をつくる必要に迫られ、1962年1月に、急きょ、4輪車の製作指示が技術研究所に出された。
製作車両を、同年に開催される第11回全国ホンダ会総会(通称、ホンダ会)に4輪プロトタイプとして発表することとし、製作機種は、軽4輪スポーツカー2台・軽4輪トラック2台という内容であった。
完成目標は、当初、4月15日としたが、当時、建設途中であった鈴鹿サーキットのお披露目に合わせて、新製品の展示・試走会を行うことになり、6月5日に建設途中の鈴鹿サーキットで開催することが決定。

「第3研究課の設計部隊は、当初の7人から1961年ごろには、やっと15人ぐらいになっていたと思います。造形室の4輪担当は、私1人から3人になっていましたが、2機種を同時開発することとなり、急きょ、6人体制を採って、軽トラックチームを新設し、2グループに分けて推進しました」
と、当時のデザイン担当・河村雅夫は言う。車体は、試作研究をしていたXA190と3XA120を基に、発表に向けてプロトタイプとして仕上げていったが、本田の細部にまでわたる指示を反映しながらの製作となり、苦労の連続であった。

エンジンはそれまでテストしていた空冷方式に限界を感じ、水冷方式直列4気筒・DOHCエンジンXA250を進めていた。このエンジンを基盤として、2機種のボディー形状と使用用途の違いから、開発記号を軽スポーツカーはAS250、軽トラックはAK250と称し、2種類のエンジン製作が開始された。

河村は本田に、開発指令の出されるきっかけとなったスポーツカーのダミーモデルを見せるに当たり、赤に近いオレンジ色を塗って見せた。小さなクルマを、できるだけ目立たせるためであった。それを見た本田が、
「こんどのクルマは赤でいくぞ!もっと赤い方がいい」
と言った。そのため、後日、スカーレット(深紅色)に塗り替えて提示したところ、本田は非常に気に入って喜んだ。当時は、国内販売される自動車の車体色に、緊急自動車(消防車・救急車など)と紛らわしい赤や白を使うことが、法律で規制されていた。赤色の使用許可を受けるために、当時、技術研究所で開発管理課長をしていた秋田貢は、幾度となく運輸省へ通った。

「取り付く島もないといった感じで、担当官は『Hondaは知っているが、本田技術研究所などという会社は聞いたことがない』などとやられる始末でした。技術研究所に帰る足取りも重く、本田さんと顔を合わせるのがつらかった。しばらくそんな時期が続き、本田さんも朝日新聞のコラム欄などを通して、『赤はデザインの基本となるものだ。それを法律で禁止するとは。世界の一流国で国家が色を独占している例など聞いたことがない!』と、ご自分の考えをアピールしていました」(秋田)。

ようやく許可が下り、秋田が喜んで本田に報告に行くと、
「おう、そうか」
の一言だけであった。

「車体色としての赤色の許可については、Honda1社だけが孤軍奮闘しましたが、以降、他社の市販4輪車にも赤いクルマが多く見受けられるようになりました」(秋田)。

発表会前日まで、人海戦術での仕上げが研究所で行われ、最後のタッチアップを鈴鹿地区の倉庫の一角で行った。完成は6月4日の深夜となった。
実質4カ月半という、非常に短期間で厳しい日程であった。
「当時は、無理難題を若さと体力で切り抜けました」(河村)。

*Hondaの4輪進出をアピール

1962年6月5日、第11回全国ホンダ会総会の製品展示・試走会が、建設途中の鈴鹿サーキットで開催された。本田はレーシングコースにHondaスポーツ・S360を運転して登場。満面の笑みを浮かべ、開発担当責任者・中村良夫を助手席に乗せ、メーンスタンド前をさっそうと走り抜けていった。
この時が、本田が長年夢見てきた4輪進出への船出であった。
この演出はHonda特約店の参加者たちにも、大きな話題を提供した。彼らは、2輪販売の厳しい冬場でも売れる商品として、Hondaの4輪進出を強く望んでいたのだ。

同年10月25日から13日間、東京晴海埠頭の国際貿易センターで第9回全日本自動車ショーが開催された。入場者数は100万人を突破し、本格的なモータリゼーションの到来を予感させた。この自動車ショーに、Hondaは初の4輪車であるHondaスポーツ・S360、同S500、軽トラック・T360の3機種を出展。展示場は黒山の人だかりとなり、内外に大きな反響を巻き起こした。

発表後のHondaの行動は素早かった。なんとしても法案成立までに、4輪車の生産実績をつくらなければならなかったのだ。

翌1963年の6月には、『Hondaスポーツ500価格当てクイズ』を全国の主要新聞に掲載し、セールスキャンペーンを行った。応募数は、当時の懸賞はがきクイズの記録を塗り替える、570万通を超えた。1カ月後の7月に公表された価格は、45万9000円という当時の常識を大きく下回る価格であった。同年8月に軽トラック・T360が、10月にスポーツカー・S500が発売された。

しかし、ホンダ会や、全日本自動車ショーに出展されながら、S360は発売に至らなかった。その理由について当時、浜松製作所溶接課でボティーづくりを担当していた石川冨士夫は言う。
「360ccでやっていたら、500ccにするからボディーの幅を広げろと言われた。当時の日本でスポーツカーがそんなに売れるものではないから、世界に通用するクルマをつくろうという意見があった。最初から本田さんの目は世界を向いていたと思います」。

また、河村は、ある日突然、企画会議中であった開発責任者の中村良夫に呼ばれ、その席で、
「10cmほど幅を広げたい。デザインはできるか」
と聞かれた。河村はセンターラインでそのまま広げれば格好が良くなること、長さについては、後ろを30cm伸ばしてほしいと答えた。

トラックは軽自動車の360cc、スポーツカーは小型車の500ccという体制を採ることで、特振法案成立に備え、ミニカーグループと量産車グループへの参入のための実績をつくるという戦略が立てられたのである。さらには、海外戦略も考えての、小型自動車への切り替えであった。

通産省の自動車行政の基本方針は、1963年3月に特定産業振興臨時措置法案としてまとめられ、第43国会に提出されたが、7月に審議未了となった。翌1964年1月の第46国会でも成立せず廃案となるが、この時点では、それを知る由もなかった。

*全製作所を巻き込んだ分散生産

4輪への進出は特振法案の動きによって、早期進出に踏み切らざるを得なかった。商品としての技術や品質面では期待に応えられたものの、生産技術や量産設備面では、基礎固めの不足を否定できなかった。

Hondaが、それまでに持っていた設備は2輪車用生産設備であり、4輪車への利用ができる設備は少なかった。既存部品メーカーをはじめとし、新規部品メーカーへのアプローチを行うとともに、社内設備の利用検討を行った。生産スペースも既存工場のレイアウトの見直しなどを行い、その捻出に当たった。

その結果、埼玉製作所(現、和光工場)がT360・S500のエンジン生産、およびT360の完成車生産をし、浜松製作所がS500の完成車生産を担当した。2機種の車台生産は鈴鹿製作所が担当し埼玉・浜松へ供給。デファレンシャルとトランスミッションの生産は、T360を埼玉製作所が、S500を浜松製作所が担当した。

本田は、1963年8月発行のホンダ社報93号で4輪車専用工場の建設に対する考えを次のように語っている。

「今、日本の経済は安定しているというけれど、アメリカ経済の影響を非常に強く受けている。その国の中で、4輪ができた、これは良いということで、工場を建ててしまうということは、非常に危険だ。
(中略)
現在、浜松でスポーツカー、埼玉でトラックをやっているけれども、鈴鹿だって工機(現、ホンダエンジニアリング)だって、もちろん、浜松も埼玉も、全力を挙げて、現在もうかっているオートバイを、より以上にしっかりした基盤につくり上げると同時に、遊休機械を徹頭徹尾稼働させて、部品でも、プレスでもこれを徹底的に一元化して、絞って、現在の設備でできるだけのことを、みんなして努力してもらう。そうして、なるほど、これなら大丈夫だというときに、工場をつくらないと、いけないと思う。
(中略)
世界で1番の2輪メーカーになったんだから、この元をつぶしちゃいかん。そして、じっくりみんなして知恵を出し合って、今の4輪を育てなきゃいけない。カブを育てたときのように、”4輪のカブ”をつくってもらいたい」。

全製作所での分散生産体制には多くの苦労があり、効率的ではなかったが、その反面、収穫もあった。全製作所で4輪車生産に携わった人が出たこと、しかも、自分たちの手で問題を一つひとつ解決しながらやってきただけに、そこで身に付けたものは、非常に貴重であった。
特に拡大期における経験が、その後の狭山製作所(現、埼玉製作所狭山工場)の立ち上げや、鈴鹿製作所での4輪車生産のスムーズな立ち上げにつながったとも言える。

*Honda初の4輪専用工場建設

本格的に4輪車生産を行うには、当時の埼玉・浜松・鈴鹿各製作所の既存工場での生産規模・設備では限界があった。量産とはいえ、手づくりに近い生産であり、その結果、コスト高などの問題が表面化してきた。

藤澤は1964年1月発行のホンダ社報特別号で、
「現在の設備では、T360・S500を合わせて月産5000台が限度ではないかと思う。それ以上、生産するとなると、工場、設備を拡張せざるを得ないと考えている」
と語り、4輪車生産専用工場の必要性を述べている。
このころ、関係者は既に新工場建設予定地を探そうとしていた。そのきっかけは、当時、白子工場内にあった工機製作所の移転計画であった。1963年9月2日、工機製作所特別計画室が発足、工場用地探しが始まった。2番目の候補地であった埼玉県の川越・狭山工業団地内の約6万8000坪の区画を購入すべく、交渉を開始した。

同工業団地は、川越市と狭山市にまたがる75万2000坪という大規模なものであった。西武鉄道新宿線・南大塚駅に近く、開通したばかりの首都圏環状道路・国道16号線に隣接し、高速道路・関越自動車道の建設が予定されていた。和光地区にも近く、陸上輸送や通勤の面でも適所であった。

交渉がほぼまとまりかけた時、新4輪工場建設計画が急浮上してきた。1964年2月、同工場建設のための特別計画室が埼玉製作所内で発足し、工場建設の検討が始まった。

初の本格4輪量産工場を目指し、建設候補地の要件として、
①2輪に比べ、4輪は部品点数が約10倍と多いことから、Honda創業以来のお取引先(部品メーカー)の協力が得やすい場所
②T360・S500の立ち上げ経験から、研究開発(D)と製造(E)部門が一体感を持って取り組む必要があり、技術研究所と距離的に近い場所
③部品の納入や完成車の搬出など、物流に適した場所
などが挙がった。

工機工場建設予定地は、これらの要件と合致するとともに、生産技術部門とも一体感を持てることから、工機工場に隣接して4輪工場を建設することを決定。それぞれの特別計画室も、同年6月、狭山特別計画室として合体した。将来の4輪工場の拡大にも備えて、工場用地は合計で11万5000坪となり、埼玉製作所の約4倍の広さとなった。

工場全体の構想は、無窓・完全空調を備えた最先端工場の鈴鹿製作所をモデルとし、4輪車専用工場としての要件を踏まえた上で計画された。4輪組立工場(溶接・塗装・完成車組立・完成車検査)と、それに必要な生産設備をつくる工機工場(工機製作所)、将来のプレス・鋳造・樹脂加工の内作化を考慮した金型工場を有機的に隣接させるとともに、食堂、動力棟、厚生施設などが、3分割された敷地に整然とレイアウトされた。

1964年5月に造成、6月より建設が始まり、11月には完成した。

当時、工機製作所特別計画室で用地選定から工場建設に携わった細田克美は、
「計画立案から工場の操業開始まで時間がなく、突貫工事となりました。Hondaの建設日程に間に合わせるために、川越・狭山工業団地全体の造成工事計画の中で、特に、Hondaが購入する区画の造成工事、入間川への排水本管の敷設、国道16号線からの取付道路とHondaの用地周辺道路の舗装等の完成を優先してもらうよう、埼玉県の企業局へ日参し、要望をかなえていただきました。従って、Hondaが操業を開始した時点では、他の区画は、まだ造成中だったのです。
また、日々の通勤を考え、工場の操業開始までに、工場に近い場所に新駅をつくってもらわなければならなかったため、西武鉄道との交渉も大変でした」
と語る。
当初、プレハブ造りではあったが、西武鉄道新宿線・新狭山駅が11月15日に開業。工機工場は白子からの移転を完了させ、11月15日から操業を開始した。

4輪組立工場には、11月に浜松製作所よりS600が移管された。12月1日には狭山製作所での生産第1号車がラインオフし、同製作所は、Honda初の4輪車生産専用工場として発足したのである。翌年4月には、埼玉製作所からT360も移管された。
これによって、狭山製作所はオールHondaの中で、4輪の完成車組立専用工場として機能していくこととなった。

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4輪車の販売体制づくり / 1966

4輪車の販売体制づくり / 1966

*販売店が売ることだけに専念できる仕組みを

1961年5月、通産省から自動車行政の基本方針(後の通称・特振法案)が示された。Hondaはこの法案が成立すると、4輪業界に進出できなくなるため、急きょ、4輪車の生産実績をつくらなければならなかった。

1962年10月に開催された第9回全日本モーターショーに、Hondaは初の4輪車、軽トラック・T360と、Hondaスポーツ・S360、同S500を出展した。世の中の好評とは裏腹に、専務の藤澤武夫は苦い思いを持っていた。自ら考えていたよりも数年早く、準備もままならぬ状態で4輪業界入りを余儀なくされたからである。

「当時の4輪業界から見れば、Hondaは全くの新参者であり、カブの時のように全国へ呼び掛けようにも、実績がなかった。また、トヨタや日産と同じように大型店を設置していたのでは、資金面で太刀打ちできない。そこで、藤澤はHondaの商品を扱う2輪販売店の中で、余裕があり、4輪へ進出する意志のあるお店で販売網をつくろうとした。

しかし、これらのお店は地域社会に密着しているという利点と、4輪を扱うには小規模すぎるという不利な点を持っていた。そこで、弱点はメーカーが補い、お店には売ることだけに専念してもらおうと、サービス面でSF(Service Factory)、中古車の下取り・再販でホンダ中古車販売(株)、営業面における援助を営業所、販売のサポート等を(株)ホンダ営研が担当する仕組みをつくった。
つまり、2輪販売店を4輪販売店の戦力とせざるを得ない状況にあって、その戦力をどのようにすれば実際の戦力となし得るのか、そうした背景から支援体制が生まれてきたのであった」

と、1978年11月発行のホンダ社報151号の中で、川島喜八郎(当時、副社長)は述べている。

なお、資金面を担当するホンダ信販(株)も同時期に設立された。
このような一連の支援体制を、Hondaでは『業販』と呼んだ。

*ユーザーをつくり、守るためのSF

販売店を支援するために、まず設立されたのはSFであり、1964年7月から各地で建設がスタート。SFでは、修理・点検業務を専門に行った。

当時のクルマは、現在とは比較できないほど修理に対するニーズが高く、サービスの果たす役割は大きかった。ここに副社長の藤澤武夫は着目し、力を注いだのである。
1967年10月には、全国で131カ所のSFネットワークが完備された。

1968年秋に鈴鹿サーキットで開かれた専門店大会で藤澤は講演を行い、SFの役割と業販について次のように語った。

「Hondaは、このSFに150億円かけております。この150億という金額はどのくらいかといえば、スズキの、あるいはダイハツの全工場の評価額より余計なんでございます。
では、Honda SFでもうけているのかと言えば、全然もうけておりません。皆さま方がユーザーをつくり、守っていかれるための道具としてしか使っておりません。皆さまがユーザーを守られるための手助けに150億円もかけているのです。
(中略)
Hondaが業販1本の方針を明確に打ち出して好成績を収めているというので、よそのメーカーが『私の所も業販だ』と主張して皆さまに接近しているそうですが、『業販だ』と言ってこられたら、ぜひ、次のようなご返事をしていただきたいと思います。『Hondaは業販1本で、直販の手は自分でしっかり縛ってきているよ。貴方のところも業販だと言われるなら、手を縛ってから来てください。メーカーが直販をしないと天下に声明したら、本物の業販と認めましょう』。そして、そのメーカーが『業販1本で行く。直販はしない』と言ったら、Hondaと同様にお取り引きをしていただきたい。それでこそ公平の原則に立った、公平な商売ができるのだと思います。
ただし、その時に、『修理や車検はどうするのか』ということだけはお確かめください。何と申しましても一生のご商売ですから、一時の利益のために大局を誤られることがあっては残念です」。

*セールスを科学する会社

本田技術研究所が技術を追求する会社であると同様に、ホンダ営研はセールスに伴う諸問題を前向きに研究し、Hondaの営業政策に反映する”セールスを科学する会社”として、また、Hondaと販売店を結ぶ重要なパイプの役割を担うために、1966年4月に設立された。今風に言うと、マーケティングと販売店のサポートである。

ホンダ営研の具体的な運営と特徴は次のようなものであった。

1. 末端販売の正しい実態を科学的に把握し、その結果を自動的に本田技研に送り込むシステムの会社である
2. 本田技研の思想、考え方、現状を正しく販売店に伝え、メーカーと販売店の話し合いの場とする
3. 従来のディーラー網の販売活動を促進する
4. ユーザーに対する直接販売は行わず、販売はあくまでも販売店を通じて行う
5. 原則として、管理職も設備も事務作業すら必要としない、セールスマンだけの会社である
6. 従って、給与もエキスパートに見合う独特の制度を採用する

1966年3月、『セールスマンを求めます』という、営研マン募集の新聞広告が掲載された。

1. 働きがいのある、全く新しい”セールスを科学する会社”である
2. 組織の鎖のない職場で、”考えるセールスマン”として、存分に腕を振るってほしい
3. 一人ひとりがHondaのスポーツカーで活動する
4. エキスパートを尊重する

という型破りの内容であり、全国からの応募者は約3000人にのぼった。学科試験と面接の選考により、127人の営研マンが誕生。第1期営研マンの宮川哲夫は言う。
「新卒は珍しく、ほとんど途中入社でした。経歴も多岐にわたり、医者と弁護士以外は、みんなそろっていたと言われたほどでした。給料を含めてすべての条件が破格であったことに、藤澤さんの営研マンに対する強い期待が表われていました」。

研修は鈴鹿サーキットで1カ月にわたり行われたが、なにぶんにも本田技研には、お客さまと直接対面しての販売経験がなかった時代である。
「本田技研から派遣された講師も、4輪の営業研修は初めての経験であり、研修でも討論形式も採り入れられていました」(宮川)。

営研マンの仕事には、クルマの販売、自分のテリトリーの販売店調査(店の間口、修理力)等があった。毎日決まったオフィスに出勤するのではなく、現場へ直行し、仕事が終わったら直帰するというように自分の判断で動いていた。当時としては斬新な勤務形態であった。販売については、販売店の社長に同行し、お客さまとの商談を進める同行販売と、社長に代わって行う代行販売があった。

「N360の出現により、購入者がサラリーマン層まで広がったのですが、4輪車を初めて購入する人たちばかりで、何を話しても家族みんなが興奮し、喜んでくださったので、商談は楽しかったですね」(宮川)。

ホンダ中古車販売(株)は、4輪中古車を中心に、その流通経路を円滑化して新市場を開拓するなど、中古車全般を扱う会社として、1966年4月に設立された。その狙いと目的は次のようなものであった。

1. 販売店の下取り車負担を軽減すること。つまり、下取り中古車を換金すること
2. 自社銘柄を良質な中古車として再販し、ブランドイメージの高揚と価格維持を図ること
3. 中古車の全国的な流通と販売網を確立すること

先にスタートしていたSFも、ネットワークが広がり、翌1967年には(株)AHSF(All Honda Service Factory)として、全国ネットワーク化がほぼ完成し、業販体制が急速なピッチで整備されていった。

*営業所の設立でつながった業販体制

2輪販売店を基盤としていた4輪販売網は、2輪の販売網と同様、代理店から販売店へという流通経路を踏んでいた。ところが、当時の代理店は規模が大きくなるに従って、直販に頼ることが多くなり、販売店を育てる機能は弱まっていった。

Hondaが業販を成功させるには、販売店の姿を正しくとらえ、販売店を大きく育てなければならない。そうしないと、先行メーカーに対抗できる販売網はつくれない。藤澤は考え抜いた結果、1967年3月に発売する軽乗用車・N360の販売は、代理店制度を採らず、営業所を設立し、Hondaから直接販売店へというシステムの導入を決断した。

しかし一方では、商用車のLN360とTN360は、代理店を経由して販売店へという流通経路としたが、代理店からユーザーへの直販は固く禁じていた。

1966年11月、N360が発表され、その年の暮れから翌年春にかけて、全国の主要都市70カ所に営業所が開設された。これによって、SF、中販、営研、信販の業販体制のつながりが一層、強固なものとなり、業販体制は本格的に動き出した。また、営業所長にはHondaの従業員が赴任したが、営業を初めて経験する者が多かった。

1967年から1974年にかけて、愛知・福岡・鹿児島県の各営業所に勤務した宗国旨英(よしひで)は、
「営業所のスタート時は所員も少なく、金もなく、Hondaの4輪ユーザーは、ほとんどいなかったわけですから、いかに効率良く多くの人々にお会いできるかを考えなければならなかった。従って、新しい勤務地に着くとまず、市役所に行き、その町の人々の暮らし方や行事、歴史などを調べましたね」
と語る。宗国たちは、その地の365日のスケジュールを時間軸に整理し、人の集まる場所を追い求めて、そこでクルマの展示会を行った。例えば、午前4時、漁船が港に着く時間に合わせて港で展示会を行う。その町の1日の始まりとともに、営業の1日も始まるのだ。港からの帰りには、新聞配達の人と一緒にチラシをポストへ入れる日々が続いた。昼は昼食時に役所や企業などの職場で展示会を行い、夜は地方の夜祭りを追い続けた。

「これらを販売店さんと一緒に行うことにより、信頼関係も生まれました。もちろん、販売店さんとの間に信頼関係がなければ、お客さまとの間に信頼関係は生まれません。
私は、終始一貫、社是、つまりお客さまの満足ということを自らの行動規範としてきました。営業所はお客さまや販売店さんの話を直接、聞くことができる。人に頼らず、自らのマーケットを自らで確認し、限られた時間と限られた資源の中で、お客さまの満足を最大限に高めること。これがお客さまに1番近い営業所の仕事であると考えてきました。
そのためには、SF、中販、営研、この3社の結束を高める必要があり、例えば、鹿児島では土地を買って、3社を同じ敷地内に配置。分散から集中へという形を採りました。当時は地方で土地を買うというようなことはない時代でしたが、私は社是に則って提案を行ったのです。その結果、お客さまにも販売店さんにも喜んでいただける販売体制に前進できました」(宗国)。

*苦難の道、販売店育成

業販という形でHondaの4輪販売体制が整った後、ベルノ店設立までには実に多くの営業政策が実施された。

1968年、より多くHondaの製品を販売してくれる販売店に対し、商売上の援助や福利厚生制度の採用を進めた専門店制度を導入。さらに、専門店の中から、Honda製品を主力に販売していこうと決断した店をマルA店とし、差別化を図ったマルA店制度を1969年に導入した。このような専売化・差別化の過程で、いくつかの販売空白地帯(オープン・ポイント)が浮かび上がり、1970年に『OPⅠ(オーピーワン)』と呼ばれる政策が導入された。

これは、独立して販売店を始めたいという意欲があるにもかかわらず、資金力がなくて果たせないでいる人のために、販売空白地帯を選定し、ホンダ信販が店舗をつくり、リース方式で開業を推進するシステムであった。

1972年にはOPⅡがスタートし、第1号店が(株)ホンダ東岡山として岡山県にオープンした。OPⅡは、従来のOPⅠのように土地・建物・資本金をホンダ信販が出資するだけでなく、Hondaの考え方をより浸透させるために、運営に当たる代表者(社長)とセールスマンは本田技研とホンダ営研、ホンダ中販から、また、サービスマンはSFから出向するという体制を採った。

販売以外の機能も備えた、当時としては大型店、しかもHondaの直営店が初めてできたのであった。これは、買った店でサービスも受けたいという、お客さまの要望を実現したものであった。従来の業販のように、販売店が売ることに専念するだけでは、お客さまをつなぎ止められなくなってきたのだ。加えて、当時Hondaは、軽自動車中心から小型自動車(登録車)中心へと、商品構成を大きく拡大しようとしていたのである。

「OPⅡは、小型自動車を中心に販売する適正規模のお店をつくり、その中で販売もサービスもやって、お客さまを守っていこうという考えでした。結果的には、それまでの業販という概念を大きく変えた面もあり、『Hondaは直販をしないと言っていたではないか』という声も上がって、導入当初の推進者は大変な苦労をされました。いくらオープン・ポイントとはいえ、周辺販売店との競合は当然ありましたからね。
OPⅡはモデル店でもあり、意欲のある販売店には、その成長のために物心両面での援助を惜しまなかったつもりです。いかにして4輪の販売店を育てるかという、一連の営業政策の中で、OPⅡは認知されてきました」
と吉澤幸一郎(元、会長)は言う。

1972年には、4輪専門店としての自立を促すための特約店制度もでき、さらにシビック発売と同時に小型特約店制度ができた。
この時代、お客さまに近付くための努力をする販売店は時代の流れに乗って大きくなり、そうではない販売店は淘汰されていった。
一方、代理店も時代の変化の中で、Hondaの営業政策を理解して、逐次、大規模の特約店へと移行していった。

*理想的な販売網の構築へ

右肩上がりの自動車業界の中で、1969年のN360欠陥車事件で販売台数を下げたHondaは、1970年に入ってからも販売台数は低迷していた。その原因の一つとして、現有販売網での販売台数に限界がきていることが考えられた。
当時、トヨタは4系列、日産は5系列で、年間販売台数が100万から130万台であることから見れば、Hondaの25万台は、1系列の台数としては、既に他社の水準に達していたのである。

そこで、1978年秋に発売のプレリュードは、既存の販売網とは別の新しい系列から発売することとなり、同年11月にベルノチャネル店が誕生した。同店は特約店を中心に全国で募集をかけた。その結果、地場資本も相当導入された。資本が不足している特約店は本田技研との合弁形態を採り、全額自己資本での新規参入もあった。それでも埋まらない地域については、本田技研の直資店などで埋めた。

従来の自然発生的に増えていった販売店に対し、ベルノ店はHondaで初めて、計画的に市場の大きさで販売店のロケーションを決めたのである。また、販売店の責任において、積極的かつ効果的に製品の販売活動を行うべき販売責任地域(PMA=プライマリー・マーケット・エリア)という考え方も、この時に生まれた。

1984年7月にはクリオ店、1985年1月にはプリモ店がスタートし、Hondaの国内4輪販売体制は3系列となった。この狙いについて、宗国は次のように言う。

「当時、日本では4輪車販売は訪問販売が中心でした。そんな中で、より高効率な販売を目指し、お客さまに店頭に来店していただけるようにと、Hondaは”個性明快3チャネル”で、商品ラインアップと販売・サービス体制をアピールしたのです。
シビックを中心にした経済的な商品と赤いイメージカラーのプリモ、アコードを中心にしたラグジュアリーな商品でシルバーのクリオ、プレリュードを中心にしたスポーティーな商品でグリーンのベルノというようにね。各々のチャネルの特徴を、品ぞろえとイメージカラーを組み合わせることで、お客さまに分かりやすくしたのです。
併せて、CS【注1】活動を高め、Hondaの商品を購入したお客さまに満足していただき、継続して来店いただくという、最高効率を求めた販売体制がスタートしたのです」。

現在、4輪の販売業界では無人の店舗、インターネット販売など、新たな試みが始まっている。Hondaも1998年9月には神奈川県内で、実験店舗・HEAT【注2】の運営を開始した。

【注1】CS…Customer Satisfaction
【注2】HEAT…Honda Exiciting Active Terminal

*業販各社、その後の展開

お客さまの求めるもの、時代の変化、そして、Hondaの営業政策の変化に伴って、業販各社の役割も大きく変化した。

Honda SFは、1984年7月、(株)Hondaサービスが発足したことにより、20年間の歴史の幕を閉じた。これは、国内サービス機能と国内パーツ供給機能、そしてHonda SFの機能を集約し、国内サービス体制の強化・拡充を図るものであり、業務内容もマネジメントの提案や人材育成など、販売店サービスの自立化支援へと大きく変わっていった。

ホンダ中古車販売は、1970年2月、(株)ホンダ中販と社名を変更。その後、フォード車の販売に当たり、1974年2月、Hondaインターナショナルセールス(HISCO)と名称変更した。そして、1995年10月、販売店におけるサービス・新車販売・中古車販売の3つの機能を強化させる三位一体体制を構築するために、HISCOを解消することとなった。それに伴って本田技研の中古車施策を、販売店を通して実行する会社として、ホンダ中古車販売(株)が新たに設立された。

ホンダ営研は1974年4月、発展的解消が図られた。それは、販売店が営研マンの指導を受けなくても販売実務をこなせるまでに成長したためであった。営研の従業員は本田技研に受け継がれ、その活動の場は、営業所を中心として広がっていった。

ホンダ信販(株)は、1988年4月に(株)ホンダファイナンスと名称を変更し、現在も活動を続けている。

*お客さまに近付きたい

営業政策や販売網は、時代とともに変化する。営業活動における永遠のテーマは、その時代に合わせた営業政策を打ち出し、最適な販売網をつくることである。

それならば営業政策において変わらないものとは何か。川島や中野保(元、取締役)によると、藤澤はメーカーという立場から常に二つのことを考えていたという。

一つは、お客さまに近付きたいということ。そのために、(中間の階層を外して)いかに安く、いかに良いものを売るか、さらに、いかに良いサービスを提供するかを考える。

二つ目は、販売店が販売意欲を持って、Hondaとともに成長してもらうこと。そのために、メーカーとして何をすべきかを考えるということであった。

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N360発表 / 1967

N360発表 / 1967

*マイカーブームの到来

1964年、日本の4輪車生産は、米国・西独(当時)・英国に次ぐ世界第4位(生産台数170万台)になると、1966年には、世界第3位(同、228万台)、1967年には、世界第2位(同、315万台)となった。この4輪車生産を支えたものは、個人消費の急速な拡大であった。

当時、技術研究所で4輪車体開発を担当していた中島源雄は言う。
「1965年ごろは、週刊誌の巻末に『今週のおすすめドライブマップ』というコーナーがあるほど、モータリゼーションのファミリー・マーケット(自家用自動車市場)が拡大してきた時代でした」。

国内4輪需要は、個人需要の急速な伸びにより、1965年を境に自動車生産が、トラック主導型から乗用車主導型へと転換されていった。
自動車業界では個人需要に合わせ、日産・サニー、富士重工・スバル1000、三菱・コルト1100、東洋工業(現、マツダ)・ファミリアなどが発売され、1000cc級大衆車を中心に乗用車の販売競争が次第に激化。俗に3C(クーラー・カラーテレビ・自動車)時代と言われるほど、国民の欲しいものの一つに乗用車が挙げられるようになった。

*本田が考える国民車

社長の本田宗一郎は、1955年に通商産業省が示した国民車育成要綱(通称、国民車構想)に対し、4輪車のありたい姿として、1958年2月発行のホンダ社報28号で、次のように語っている。
「自動車が小型になっても人間は小型にならない。自動車だけ小型にすることは難しい。大きさとしては、居住性の問題からダットサン程度が最小である」。

また、1959年3月発行のホンダ社報41号では、
「今まで数々造られた軽自動車は決して日本の道路に適していない。その理由は馬力がないからで、馬力は感情を支配するものであり、馬力がないと加速やスピードが出ず、走っていても追越ができないため事故が多い原因になる」
と語り、馬力と居住性の必要性を強く主張した。

*軽自動車市場への参入を決定

Hondaの4輪開発部隊として組織された技術研究所第3研究課が最初に試作したクルマは、開発記号XA170であった。このXA170は、国民車構想を意識したクルマで、エンジンは排気量360cc・V型4気筒・強制空冷方式、駆動方式はFF方式を採用していた。また、足回りは前・後輪ともダブルウィッシュボーン支持の4輪独立懸架式で、フロアを車体骨格の一部として利用するセミ・モノコック方式であった。この構想は、フロアに剛性を持たせることにより、乗用車とバンと同一シャーシで生産できる利点に着目していたためである。

「XA170こそ、1番Nに近いクルマです。4人乗りで、駆動方式はFF方式。もちろんサスペンションは時代が違いますから変わりましたが、レイアウトから見てもNのルーツとも言うべき機種でした」
と、中島は語る。

当時の第3研究課では、夜間は終夜の走行テストを行い、昼間はそのテスト結果を基に図面を引いた。文献による調査や、時には自動車解体業者を回り、部品や車体構造の調査なども行った。そして、最盛期には2交替の勤務体制を敷くほど、連日、XA170によるさまざまな技術の追求と蓄積が行われたのである。

技術研究所がHondaから分離・独立し、(株)本田技術研究所と組織が大きく様変わりするにつれて、第3研究課も独立した4輪設計室へと成長を遂げた。そして、1963年、T360・S500で4輪進出を果たしたころには、量産車の開発と並行して、随時的な試作による先行研究(以降、R研究)を進める体質を備え始めるのである。
その結果として、T500、スポーツカーではS600・同クーペ・S800などを市場に送り出した。また、第12回東京モーターショー(1965年)には、2ドアハードトップでモノコックボディーを採用した、小型乗用車・N800プロトタイプを参考出品している。

そのような中、4輪設計室では今後、4輪車の進むべき方向が検討された。本格的量産車を目指す機種として乗用車生産を前提としたが、小型乗用車(大衆車)市場は大手先行メーカーが厳しい競争をしており、後発メーカーが進出するには、先行メーカーに対抗できる技術と、莫大な設備投資が必要であった。それに比べ、軽自動車市場はHondaの技術力で十分対抗でき、小型車より投資金額も抑えられるとの判断で、軽乗用車市場へ参入する方向に決まっていった。

既存の軽自動車は、スピードが出ず居住性も悪く、我慢しなければならないクルマが多かった。そこで乗員4人が、ゆとりを持って座れるスペースを確保するために、当時、技術研究所の所付であった杉浦英男は、
「キャビン(客室)から、設計をしたらどうか」
と提案した。これを実現するために車体の設計に当たっては、
「クルマの空間を3つに分け、メカニカルな部分はできるだけ小さく、キャビンはできるだけ大きく、そして、移動に必需品となる荷物を入れるためのトランクルームを設けるレイアウトにしました」。(中島)。
車輪を四隅いっぱいに配置し、室内に余分なスペースを取らないようにするため、FF駆動方式の採用が、ごく必然的に決定された。何枚もの図面が引かれ、車体の研究が着々と進められていった。

「軽乗用車の研究は、1963年ごろから続けていたという実績がありましたから、1966年正月明けに、白井孝夫(当時の技術研究専務)さんやわれわれが集まって、その年の新しい方針を決める時に、以前から研究し、議論してきた軽乗用車の量産開発(以降、D開発)にGOをかけました」(杉浦)。

これで、軽乗用車の正式プロジェクトが発足し、R研究からD開発へと進んでいった。

*ユーティリティー・ミニマムの設計思想

当時は開発指示書という形は採らず、開発責任者となった中島が、本田と話し合いながら、その概要を決めていった。
中島は、本田との話し合いの中で、『お客さまに買って喜んでいただける』、すなわち『つくり側として売って喜ぶ』クルマでないといけないと教えられた。それを、N360のコンセプト・要件として中島が感じたのは、次のようなところからである。

基本的には、ファミリー・マーケットを対象とする中で、
①とにかく求めやすい価格のクルマ
②乗ってすぐに慣れるという、運転のしやすいクルマ
③運転にゆとりを与えるために、動力系(スピードや動力性能)にゆとりがあるクルマ
④高速道路を走ることから、安全性の高い構造と装備を持つクルマ
⑤遠距離を運転しても、狭いなかでも快適なスペースであるクルマ
であった。

また、開発途中に本田が同車に求めた6番目の要件は、現代感覚のあふれるデザインだったのである。それは、発売後『Nっころ』という愛称で、人々がN360に親しみを込めて呼んだように、身近で、しかも印象に残るクルマにしたいということであった。

本田がデザインにこだわったエピソードがある。
N360のクレイモデルが出来上がり、そのモデルを基にした金型製作が、ほぼ終わろうとしていた。本田はそのころに狭山製作所(現、埼玉製作所狭山工場)の、試作部品を使い、量産に向けたライン編成と組み付け方法などを検討している場所に赴いた。N360の試作完成車を見た本田は、”リアピラーのあたりがおかしい”と思い、すぐさま金型工場へ行き、金型を削り終わったクレイモデルを見ながら、おもむろに鉋(かんな)を取り出し、クレイモデルに一削り入れ、納得して帰って行った。それを見ていた金型の担当者は、
「あーっ」
と言ったが、時、既に遅く、削られたクレイモデルに合わせ金型を変更せざるを得なかった。鉋一削りが入れられたために、800万円をかけて金型のつくり直しをすることとなってしまったのだ。

このようなコンセプトとエピソードで生産されたN360は、乗る人に最大限の満足をしていただく、あるいは、不満を最小限にするという、ユーティリティー・ミニマム【注】の思想で設計され、その後、Hondaのクルマづくりの基本となる、FF方式の採用による、M・M(マン・マキシマム、マシン・ミニマム)思想へと引き継がれていくこととなる。

【注】ユーティリティー・ミニマム…エンジンルームなどの機構スペースを最小限にして、クルマのスペース効率を高めるという考え方

*世界を目指す日本の国民車

1966年10月21日、羽田東急ホテルにおいてHonda初の本格的量産軽乗用車・N360、同ライトバン・LN360の記者発表と試乗会が行われた。同発表会には約100人の記者が集まった。

N360の特長として、
「このクルマはキャビンから設計を始めました」
と、説明を開始し、軽自動車最大の室内と居住性、上級ミニカーを凌駕する高性能と乗りやすさ、積極安全機構の採用などを説明した。また試乗会では、
「まるでスポーツカー並みの出足」
と感心する記者が多く、記者会見では”価格”に関心が集中した。

発売予定は翌年2月、価格発表は同年12月15日に行うことを報告。本田は、
「ユーザーの皆さんに喜んでいただける価格を付けたい」
とだけ答えた。

同年10月26日から14日間開催された第13回東京モーターショーの入場者は、開催史上初の150万人を突破。このモーターショーで最大の注目を浴びたクルマが2台あった。1台は、トヨタが大衆車市場へ投入したカローラであり、もう1台が、Hondaが軽自動車市場に投入したN360であった。特に、N360のコーナーは黒山の人だかりとなり、大会期間中を通じて人垣が切れることはなかった。

1966年12月15日、価格発表を兼ねたN360デビュー広告が、全国主要新聞20紙に、1ページ全面を使って掲載された。広告内容としては、その新聞が持つ性格、読者層の傾向や地域性などを考慮の上、きめ細かい効果を狙って、5つのタイプの広告を作成し、それぞれの新聞に合わせて掲載したのである。

価格は、他社の軽自動車価格を数万円下回る、31万3000円であった。この価格について本田は、1967年9月の創立式典講話で、次のように述べている(1967年10月発行のホンダ社報121号に掲載)。

「我々はいつも世界的視野に立って、というポリシィを掲げているのであって、これからは1日も早く、Nを輸出できる態勢を作らなければならない。(中略)当時日本の軽4輪は37万円からしていた訳で、そこへ31万3000円という値をつけた。Nは37万円でも十分売れる車です。(中略)しかし、我々の商品は、1億の日本人だけを相手にして作っているものではない。皆さんの頭脳、皆さんの腕によってつくられた商品は日本の人達にこよなく愛されるのはもちろん、世界30億の人達にも、もっともっとより愛されなければならない。(中略)国際的にも立派に通用し、それでも工場が儲かり、経営が成り立っていくという値段を私はほしいと思う。Nの価格はまさにそれであって、それで成り立つような企業でなければ本物とはいえない(後略)」。

発売は1967年2月予定と発表していたが、遅れて3月6日に発売となった。同年6月には、商用ライトバン・LN360を発売、同年10月、トラック・TN360を発売し、Nシリーズとしての充実を図った。

国内の軽乗用車の市場規模は、N360発売以前は月販1万台を切っていたが、発売された3月以降は1万6000から1万7000台となり、5月には1万8000台を超えたのである。
N360の5月度軽4輪乗用車届出実績が、5570台を記録し、業界のトップとなった。また、発売3カ月後の6月6日には総予約累計が2万2500台を記録し、爆発的な人気を巻き起こした。加えてLN360・TN360も共に、発売後3カ月には機種カテゴリー別でトップとなり、以降、Nシリーズとして発売26カ月後の1969年4月には、国内届出実績50万台を記録した。

1968年よりN360・N600は本格輸出を開始。1970年9月には生産開始43カ月で生産累計100万台を記録し、軽自動車業界の地図を塗り替えていった。

*リコール制度、運輸省の指導で国内に導入

1969年5月12日、米国・ニューヨークタイムズ紙は、
「リコール車については、これを公表することが回収運動に貢献するようだ。日本を含めた外国メーカーの内、半数は公表していない。これらの回収率は、他の公表しているメーカーの回収率より低い」
と論評し、日本のメーカーとして当時、本格的に米国へ輸出をしていたトヨタと日産の名前が挙げられていた。この記事をきっかけとして、日本のマスコミでも欠陥車キャンペーンが本格的に始まった。

運輸省では、この欠陥車キャンペーンを発端とし、同年6月、自動車業界に対して欠陥車問題への対応を指示するとともに、欠陥車総合対策(主にリコールの届出強化)を発表した。

自動車業界では運輸省の動きに合わせ、メーカー12社(当時)がリコール車の公表を行うとともに、6月27日にはリコール車対策で自動車工業会が中心となり、製造・販売・整備の代表者からなる自動車安全対策協議会を結成した。

当時の様子を、技術研究所の所長を務めていた杉浦英男は、
「6月10日だと記憶していますが、新聞の社会面に『日本の自動車メーカーがアメリカで隠密回収』という記事が出ました。本田さんは『うちはそんなことはないよな』と言われましたが、アメリカで起きている話は日本でもあるはずだ。トヨタや日産だけの話ではないということで、すぐに調査しました」
と言う。

杉浦は、本社にサービス部長の吉田和夫を呼び、Honda SF(Service Factory)の修理記録などを調べさせ、リコールの調査をさせた。

6月13日、Hondaとして運輸省にNシリーズ3機種9項目、約28万台のリコールを届け出た。また、その回収作業として6月17日、18日に緊急措置広告を全国主要新聞に掲載するとともに、営業所、販売店より直接お客さまにダイレクトメールを送付。リコール対象車種の点検、部品交換を全国204カ所のHonda SFで、日曜・祭日を返上して夜10時まで実施し、早期回収を図った。

*国会喚問での答弁

こうして、自動車業界全体が”リコール”という今までに経験したことのない”消費者との新しいかかわり合い”への対応に忙殺されることになった。たまたま同時期に、一部のマスコミによりN360に対して安全性にまつわるキャンペーンが行われた。この二つの事件は、絡み合うような形で国会の論議の場で取り上げられることになった。

同年9月11日、国会(参議院交通安全対策特別委)において主要自動車メーカーの首脳が喚問されることになり、Hondaからは専務の西田通弘が出席し、議員たちからの質問に答えた。他の自動車メーカーの首脳たちは、主に今回制度化された”リコール制度”へのメーカーの対応についての質問を受けたが、西田へは、N360の操縦性や安定性にまつわる質問が、一部マスコミの欠陥キャンペーンを背景に、厳しく行われた。そうした質問に西田は毅然とした態度でN360に欠陥のないことを主張し、的確な応答を行った。

河島喜好(当時、専務)は、
「国会に喚問されることは、Hondaにとっては大変なことでした。だれが行くかということになり、西田さんが『今回の国会喚問は、純粋な技術論議だけに、とどまらないようですから、技術屋の役員が行くより私が行ったほうが良いと思います』と、自ら国会喚問を買って出てくれまして、国会では『欠陥はございません』と、言い切ってくれました」。
と、当時の様子を語る。

そして、安全問題に関する世論の急速な展開に対応して、Hondaは1969年10月3日、各方面の記者団を集め、国会答弁を含めてHondaの安全についての取り組みを西田から説明した。その内容は『自動車メーカーの社会的責任』と題して、1969年11月発行のホンダ社報特別号で従業員に伝えられた。

「Hondaは従来から人間尊重の立場で、安全運転に関するさまざまの施策を行ってきた。そして今回、一連の安全問題を契機に、今までの取り組みをいっそう強化することを決定した。
またN360の安全性についてとかく云われているが、我々の徹底的な調査によれば、欠陥車というような主張はとうてい受け入れることはできない。先の国会審議のその後の経過に合わせて、疑義を解明したい」
という書き出しで始まり、Hondaの調査結果と安全運転普及本部の設置主旨について、次のように述べている。

「最近マスコミを中心に、Honda車の操縦安定性の問題が云々されている。そしてそのバックボーンである人間尊重という立場は、Hondaがかねてより表明してきたものと同じであり、我々もまったく同感である。したがって、人間尊重の思想にもとづき、我々は最近とりあげられている問題の一つひとつについて、徹底的な調査を行っている。ユーザーから連絡を受けたものは、詳しい事情を聴取したり、あるいは実車で確認した。事故は、その状況や原因を洗い出した。その結果、当社で調査が出来たケースをみると、原因はタイヤ空気圧の不適性に代表される整備不完全または限界を越えた無理な運転、によることが判明した。
自動車メーカーの社会的責任として、Hondaは、以前から車の理解と安全運転の普及に努め、積極的な活動を展開してきた。その成果として、正しい運転、正しい車の取り扱いの習得により、交通事故を激減させたケースは数多い。しかし、先のような実態を把握した現在、これまでの展開はまだまだ不充分であった、と認めざるをえない。このような認識のもとに、従来の活動を拡充し、合わせて新たな普及活動を展開するため、10月1日付で安全運転普及本部を設置した。オールHonda各部門の力を結集したこの本部は、Honda車愛乗者から事故をなくすことを当面の目標として、幅広い活動を行うことになる」。

*企業存続の危機を感じ、告訴を決断

当時米国では、弁護士のラルフ・ネーダー氏が、自動車安全センター(Center for Auto Safety)と名付けられた組織をつくり、自動車の安全性に焦点を当てて、組織的かつ活発な消費者運動を展開していた。

日本でもその影響を受けて、1970年5月に日本自動車ユーザーユニオンという消費者組織がつくられ、一部マスコミによるキャンペーン活動とともに、自動車メーカーへの批判が、ますます強まっていく風潮をみせた。

特に、軽自動車市場で圧倒的な人気と売り上げ台数を誇っていたN360が取り上げられ、同年8月18日、N360が関係する別の死亡交通事故とクルマの欠陥性との因果関係を巡り、遺族に代わって消費者組織が本田を東京地検特捜部へ告訴するに至った。この捜査への対応は、技術研究所とサービス部が中心となって行った。

開発責任者であった中島は、原因調査のため東京地検からの呼び出しがあった時、本田から言われた一言が、今でも耳に残っていると言う。
「難関にぶつかった時こそ、その問題を注視して、真正面からとらえろよ!」。
その言葉を心の頼りに、東京地検特捜部への書類提出や事情聴取では、N360の設計思想、開発から発売に至るまでの過程について、真摯に答えた。

東京地検特捜部は、N360の欠陥性と交通事故との因果関係についての鑑定を、運輸省交通安全公害研究所(所長・副島海夫)と東京大学生産技術研究所・亘理厚教授に依頼。翌1971年7月、鑑定内容が提出された。その内容については、捜査上の証拠であるため詳細は公表されていないが、当時の新聞によると、事故と車体の欠陥性との因果関係を強く結び付けるものはないという報道であった。鑑定内容も証拠の一部となり、東京地検特捜部の捜査は同年8月に終了し、不起訴処分という決定がなされた。

しかし、消費者組織からの執拗な攻撃は止まらなかった。別の交通死亡事故に対しても、N360の欠陥性によるものではないかという申し出が、消費者組織から直接あった。消費者運動が高まりを見せる中、Hondaは交通機関に携わる企業としての社会的責任を考え、被害者家族への見舞金として8000万円を支払うことで和解に至った。が、その後、この和解に便乗するかのように、消費者組織は、その他のN360が関係した交通事故・数十件を持ち出して、常識を逸脱した巨額な賠償要求を迫ってきた。

このような消費者組織からの巨額な要求、4輪販売の急速な落ち込み、そして、企業イメージの低下という大きなダメージに直面し、企業そのものの存続の危機を強く感じた役員室では、先の和解を含めて事件の解決を第3者に委ねるという苦渋の判断を下したのである。Hondaは、同年11月1日に東京地検特捜部に対し、消費者組織の代表者2人を告訴した。
この捜査段階で、消費者組織がHondaを含めた自動車会社数社を恐喝していた容疑が判明したのであった。

裁判は、1977年8月の第1審判決で被告に対し、それぞれ懲役3年と2年の実刑判決が出されたが、1982年6月の控訴審(第2審)では、消費者運動には寄与したものの、今回の活動では勇み足があったとして、執行猶予付き大幅減刑の判決となった。そして最終的には、1987年1月、無罪を求めた被告からの上告は、最高裁により棄却され、第2審通りの有罪が決定したのである。

この事件でN360の販売面で受けた打撃は大きく、Nシリーズは軽自動車販売のトップの座から落ち、市場占有率も急速に下がり始めた。
しかし、それはHondaのNシリーズという軽自動車だけにとどまらず、日本の軽自動車業界へも影響し、軽自動車市場全体が次第に衰退していくこととなった。

*積極安全への取組み

本田は1969年度の新入社員への講話の中で、自動車メーカーに働く者の責任を次のように語っている(1969年4月発行のホンダ社報125号に掲載)。

「われわれは交通機関を扱っているかぎり、責任というものを絶対もってもらいたい。責任をもてないような人は、すぐ辞めてもらいたい。もし責任のもてない人がいたら、ぼくは指名して辞めてもらうかもしれない。それはなぜかといえば、交通機関というものは、人をあやめるからだ。ものすごい人身事故をおこす、人の命を預かるものだから、それだけに責任をもつことを強く要求する。(中略)われわれはきず物を売ったらたいへんなことになってしまう。だから、あくまでも、この職業についたが最後、絶対に責任の所在を明らかにする」。

1969年11月発行のホンダ社報特別号で西田が言明した『自動車メーカーの社会的責任』を果たすために、今後、Hondaとして取り組むべき内容の議論がなされた。結果、当面の対応から、中・長期に及ぶ対応策までが検討され、実施されることとなった。その主な活動としては、
①1970年からの、お客さまに定期点検を呼び掛けるキャンペーンの実施
②1970年10月に安全運転普及本部が発足
③1971年5月に実験安全車(ESV)計画へ参画
④1974年9月に(財)国際交通安全学会を設立
などで、安全運転普及本部や国際交通安全学会の活動は、現在も活発に続けられている。

クルマづくりの面でも、従来はメーカー側の考え方で消費者にとって良いものをという立場で開発が行われていた(プロダクト・アウト)が、これをさらに踏み込んで、お客さまの目線・要望というものを中心に置き、あらゆる面からこれらに合わせたつくり方(マーケット・イン)へと、その手法が変えられていくことになった。その第1弾が1971年6月に発売されたHonda・ライフである。

そして、この1件は企業姿勢にも大きな変化をもたらした。従来は商品やレース活動などを通して社会への発信を行ってきたが、Hondaの企業活動全般にわたる理解が得られるような努力を行うこととなった。具体例としては、1974年からの株主に対する経営状況の情報公開を行う季刊誌『株主通信』の発行、広報部門の充実によるマスメディアに対する積極的な情報提供、などである。

その後、お客さまが求める4輪車の上級志向化に伴い、軽乗用車市場全体が衰退していった。Hondaにおいてもシビック増産のための生産設備の確保などから、1974年10月、軽乗用車の生産を休止。8年間にわたる軽乗用車の生産に一時、幕を引くこととなった。

Hondaが軽乗用車の生産を再開したのは、休止から11年後、1985年9月発売のトゥデイからであった。

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Honda1300発表 / 1968

Honda1300発表 / 1968

*世界に通用する車をつくるんだ!

「こんなんでどうする!すぐ設変だ!」。
社長の本田宗一郎は、次から次へと湧き出る泉のごとく、設計変更(以降、設変と略す)を指示してきた。

「社長、そうはおっしゃいますが、鈴鹿では既に量産が立ち上がろうとしています。これ以上の設変はラインの混乱を招くだけです」。
Honda初の本格的小型乗用車の車体設計を担当する武田秀夫は反論した。

「バカ野郎!ラインの混乱がなんだ。1番迷惑を被るのはお客さまだぞ!すぐに鈴鹿へ行ってこい!」。
本田は顔を真っ赤にして設変を要求した。
鈴鹿製作所へ行くのは気が重い。
「研究所はいったい何を設計しているんだ。こんなことではラインは動かないぞ!」
と、また技術部からの苦情を受けなくてはならない。度重なる設変の依頼で、幾度となく衝突を繰り返してきた。
新車発表は間近に迫っていた。

*『世界の期待に応えるスーパーセダンHONDA1300登場!』

1968年10月21日、東京・赤坂プリンスホテルで、HONDA1300(以降、H1300)がベールを脱いだ。

「このHONDA1300は、世界のどこの市場にも通用する国際商品を目指して開発を進めてきたものでございます。当社は”オリジナリティー”を経営の基本と考えており、どこの真似でもないHondaだけの独創的な商品開発こそ、新しい需要喚起の決め手であるとする一貫した思想を持っております。
(中略)
また、”積極安全対策”は、カーメーカーとしての社会的な責任であり、十分な余裕馬力(96馬力、最高速度175km)、意志のままの操縦性能(FF方式)、強力なブレーキ性能、疲れない居住性にこれが表現されています。このニューマシンこそ、本格的な輸出商品であり、自由化対策であると確信しております。どうぞ十分なご批判をいただきHONDA1300が新しい時代に応えるよう、ご鞭撻をお願いする次第です」。

本田のあいさつは自信に満ちあふれていた。

*独創的空冷エンジンへのこだわり

F1への取り組みがそうであったように、Hondaの小型乗用車への挑戦も当然のうちに始まった。そして、目標もHondaのチャレンジングスピリットそのままに、高く大きく掲げられた。

「やるからには、先を行くトヨタ、日産の鼻をあかすクルマでなくてはならないんだ」。

陣頭指揮をとった本田は、技術研究所の若手を集めて士気を高めた。彼らに与えられた課題は、『独創的空冷エンジンで、高出力、高級セダン、FF車の開発』というものだった。
だれも本格的な小型乗用車はつくったことがなかった。何も知らない者たちが、1から全部勉強をしなくてはならなかったのである。

1967年9月、企画検討が行われ、
『小型乗用車の中で、十分な競争力を備えるために、ワンランク小型のエンジンを搭載し、性能と経済性を重視したコンセプトを目指すこと』と目標が決まった。
開発担当者たちは、とてつもないクルマづくりに足を踏み入れていくことになった。

一方で、本田はF1用空冷エンジンの開発命令も出していた。これからの世界で通用するクルマは、空冷エンジンであるということをF1で証明し、市販車へ展開しようと考えていたのである。
技術研究所の4輪部隊は、F1の空冷と水冷の2タイプのエンジン、そしてH1300の空冷エンジンの設計を行っていた。

「水冷エンジンは最後には水を空気で冷やすんだから、初めから空気で冷やせばいい。そうすれば水漏れの心配もなくて、メンテナンスもしやすい。ただし、空冷エンジン特有の騒音は水冷並みにする」というのが本田の空冷エンジンに関する持論であった。

3月に発売した空冷エンジン搭載の軽乗用車・N360は、確かにベストセラーカーになっていた。しかし、研究員たちは、本当に大衆車と空冷エンジンが結び付くのだろうか、という疑問を抱いていた。T500を使って、空冷エンジンの実験も行った。
空冷でやるか、やらないかというより、何とかやる方向で遮二無二、取り組んでいたのである。

「強力な創業者が居て、しかもその人が技術的にもトップに立っている。加えて、過去にどえらい成功体験を持っている。そういうリーダーがいるということは、行くところまで行ってしまわないと、途中でやめるということは、とてもできない企業体質だった」。
当時、技術研究所長だった杉浦英男は、こう語る。

水冷並みの静粛性と空冷特有のかさばったところをスリムにできれば、素晴らしい空冷ができる。研究員たちの昼夜を問わずの試行錯誤の中から、”DDAC【注】(一体構造2重壁空冷方式)”が誕生した。そして、1968年7月には1号車が完成し、動力性能、測温などの基本的なテストが行われた。

結果はエンジン各部の温度、油温の上昇など、熱問題が現れた。
「まだまだ出力を上げなきゃいけないのに、このまま進めていいのだろうか」。
杉浦とエンジンの開発を統括する立場にあった主任研究員の新村公男は悩んだ末、念のため一般の空冷方式でもレイアウトを検討するよう、エンジン設計担当の玉井壽(ひさし)に指示した。

ヨーロッパでの長期出張から帰って間もない玉井は、本田の目につかぬよう、資料を社外に持ち出し、2週間ほどかけて一般空冷のレイアウトを試みた。杉浦と新村は、玉井の仕事場に出向いて検討を重ねた。結果は、一般空冷でも重量やサイズなど、一体式の2重壁空冷方式に対して優位性がないことも分かり、迷わずDDAC方式で進める方針が固められていった。

テスト、設変が繰り返される中で、トラブルは温度にまつわるものが多かった。温度が高いためにシリンダーやヘッドが変形、オイル漏れなどが生じやすく、エンジンの耐久性という点では課題が山積していた。

本田は毎日、技術研究所に顔を出し、直接それぞれの担当者に指示を出した。
「オイルタンクの形状を変えて、風を流れやすくしろ。フィンも付けて、こうやれ」。
「クランクケース内のオイルのあばれを少なくするために、もうちょっとこうやったらどうだ」。
本田の一言で、ほかの山積している仕事も滞りがちになっていた。

*高かった技術的評価

1968年10月に行われたH1300の記者発表会場では、西独のAUTOKRITIK誌の記者が、
「専門家が青くなるような、自動車メーカーの最終目標ともいうべき理想のエンジンだ」
と、感嘆した。

また、同年の東京モーターショーでは、Hondaのブースの前にトヨタ自動車工業(現、トヨタ自動車)社長の豊田英二氏が10分間立っていた。そして、トヨタの若い技術者が集められ、
「Hondaは1300ccで100馬力出している。なんでうちにできない!」
と、大きな爆弾が落ちたという逸話もあるほど、技術的な評価は高かった。

本田は自信満々であった。そして経営を担当する副社長の藤澤武夫もH1300に大いに期待を寄せていた。この記者発表に先駆けて、9月、10月の2カ月にわたり、約4800人のHonda専門店社長を鈴鹿サーキットに招待して、専門店大会を開催。鈴鹿製作所の工場見学と、H1300の発表を行い、社長と副社長がこのクルマにかける意気込みを示した。

「その当時としたら、おとっつぁん(本田のこと)に、『いや、できません』などとは絶対に言えなかったし、自分たちも、そういうネガティブな発言というのはするまいと思っていました。プロデューサーが『こうしたいんだ』と言ったことは、役者としては、あらん限りの知恵を振り絞ってやるべき役割があると思っていました」(玉井)。

Hondaがこのような苦戦を強いられている時に、トヨタは1900ccのコロナ・マークⅡを9月に発表。
これもあって、H1300の基本仕様にまたしても大変更が加えられた。出力の目標は95馬力、最高時速は175kmとなった。
ただでさえ鈴鹿製作所での量産を立ち上げに向けて時間に追われている研究員たちは、毎日、朝から真夜中まで何度となく出される設変の指示に、体力も気力も、もう限界だった。

見兼ねた所長の杉浦は、設計室にP特設コーナーを設置した。
「本田社長、もしご意見があったら、担当者が混乱するので、直接、彼らに言わないでもらいたい。必ず特設コーナーに来てお話ください」。
そこには、研究員の兄貴的存在の森幸照が就いた。森は、本田の話を全部聞いて採否を考え、量産技術に向けて、少しでも落ち着いて設変作業ができるように、優先度を付けて、研究員に落としていった。

*設変続出、ラインの逆送

1969年3月、H1300はテスト部品の山を築きながらも、量産立ち上がりへ入っていった。鈴鹿製作所にはそのフォローのため、開発部門(技術研究所)の鈴鹿駐在部隊(SGと称された)が編成された。研究所の設計者自らが責任を持って立ち上げるためだ。エンジン担当者たちの宿舎は会社近くにある旅館・魚義で、15人くらいが雑魚寝だった。

設計・テストの担当者も、朝から、鈴鹿の技術部やラインの数量確認結果や要望を聞きに現場を回って討議を繰り返し、夕方5時ごろから設変のための図面反映が始まる。ラインではH1300が流れている。一方では、エンジン、車体の両方で一時期には1日平均180件の設変が繰り返される。設変図面完成と同時に、SGには資材、工務、現業各課の担当者が一斉に集まり、電話連絡をする時間を惜しんで、お取引先へ直行。設変当日の深夜には納期回答、製作開始という、文字通り24時間体制の対応であった。お取引先の献身的な協力もあって、何とか生産をつなぐことができた。

連日の徹夜で、SGの人たちも、睡眠時間が極端に少なかった。トイレに入った途端に居眠りしてしまうメンバーも出たほどだった。そんなことが続いた4月ごろ、技術研究所社長の河島喜好は、
「設変でラインが混乱しているため、生産ラインをストップする」
との判断を示し、発売は5月に順延されたのである。
本田は、最後の最後まで設変をして、自分たちが苦労をしても、ユーザーには1番いいものを渡そうという基本的な考え方を捨てなかった。それは生産ラインの人たちにも浸透していた。

ついには鈴鹿で、車体をバラしてエンジンを降ろすという、ラインの逆送が行われた。加えてエンジン工場の横に建てられた大きなテント小屋の中には、手押しラインをつくり、そこにエンジンを載せて順々にバラした。

設変該当部品は最新のものに変えられ、他部品は洗浄してラインへ戻すといった日々が1カ月強、続いた。みんなオイルにまみれながらも、1番いいものをお客さまに渡すという考えは貫かれた。

5月、77シリーズ100馬力、99シリーズ115馬力の2タイプが発売された。
翌月には、3カ月に及んだSGのメンバーも数人を残し、順次技術研究所へと戻った。

*4輪車の生産技術の原点

当時、鈴鹿製作所の4輪工場では軽トラック・TN360(1967年10月発売)の生産を行っており、TNラインの横は、広い空き地になっていた。この工場をつくる時、Hondaは、本格的小型4輪車の生産をも視野に入れていた。

溶接課の大原勝が、鈴鹿から長滞第1号として、狭山にある工機製作所(現、ホンダエンジニアリング)へ出たのは間もなくだった。鈴鹿製作所の空き地に、本格的小型乗用車H1300をつくるための生産ライン新設の構想を固めるためだった。そこで溶接部門の技術担当らと出会い、小型乗用車の生産ラインについての構想を深めていったのである。

「無我夢中というか、自分も分からない。一緒にやる人も分からない。外国の書籍を集めて勉強しながら、みんなが角を突き合わせて、ああじゃない、こうじゃないと、そういうことばかりやっていましたね」(大原)。
「若さもあったんでしょうけれども、馬力があったんでしょうね。決して逃げなかったですね」(溶接技術担当・新川良)。

おれがやらねばという気力、自負心があって、全く新しい構想の『総合溶接機・GWマシン(General Welding Machine)』などの生産設備が出来上がっていった。

本田は、技術研究所での設変指示の合間にも、2カ月に一度は工場を訪れ、生産現場を自分の目で精力的に確認していた。
あるラインで、6人がかりでフレームを運んでいるのを見つけた本田は言った。
「おまえらな、同じ人間にこんなことをやらしていていいのか。次におれが来るまでにちゃんとしておけ!」。

溶接課では関係者が急きょ集められた。彼らは知恵を出し合い、頭上にレールを張って、ホイストでフレームを持ち上げ、次工程に送るという装置をつくった。次に本田が訪れた際に、
「前回指摘された点は、こういうふうに直しました」
と、大原は得意げに説明した。その直後に大きな雷が落ちた。

「バカ野郎!確かにここで働いていた6人ぐらいの人はいなくなった。そのかわりに、1日中ホイストを操作して、次の工程まで付いていって降ろして、また戻ってくる。手綱を持って歩いている馬方のような人がいるじゃないか。こんなものはすぐに外せ。こんな単純な作業を大事な人にやらせるなんて、とんでもない。おまえらこんなことしかできねえのか!」。

『人間尊重』が常に本田の原点であった。また、ラインスピードはもちろん、物がある基点から基点に移動するのに要する時間にさえも、自分の物差しを持っており、無駄を嫌った。
時には、工場のコンクリートの床をチョークで真っ白にしながら、ラインの流し方について若い人たちに一生懸命に教えてくれた。

1970年2月に発売したH1300クーペからは、サイドパネルアウターの構造が大きく変わった。
それまでのN360やH1300セダンでは、いくつかの部品を結合し、継ぎ目をハンダで成形(ハンダ盛り作業)していた。プレス単体では精度が出ず、溶接で矯正して成形、精度を保証するという構造であった。
しかし、このハンダから出るガスが人体に有害であったため、本田はハンダ盛り作業の廃止を指示。開発スタッフは、違う方法を考え出さなければならなかった。

技術研究所のデザイン担当者と鈴鹿製作所、工機製作所の生産技術担当者が幾度も検討を重ね、”モヒカン構造”が生まれた。従来の分割サイドパネルから、一体成形としたサイドパネルアウターの採用で、金型は少し複雑になったが、プレスで精度が保証され、デザイン的にも、出来栄えも数段、良くなった。強度的にも生産性の面でも、従来よりも優れたものとなったのである。
今では世界中のクルマが”モヒカン構造”に移行している。

H1300の生産のためにつくられた、溶接工場のナンバーワンラインでは、少しずつ変遷はあるものの、当時の形を残しながら、今もGWマシンは活躍中である。三十数年間にわたって、同機に携わった人たちの苦労があってのものだ。

「今でも通用する生産技術であったし、クルマのつくり方であった。まだロボットが生まれる前のマルチ溶接全盛期で、トラブルがよくあった。だけど、そのおかげでラインの人たちも育ったよね。自分で道具をつくって治すことで覚えていく”手づくりの自動化”は、ここから始まった。このH1300は4輪の原点であるし、生産技術という観点では決して失敗作ではない。これが本当に、すべての原点だったなと思いますよ」(大原、新川)。

*販売店の期待とお客さまの反応

当時のHondaの4輪ビジネスは、まだ試行錯誤を繰り返している時期であった。それだけに、多くの販売店主は他メーカーにはない、『新しいクルマ』を売ることができるという期待感を持っていた。

「やっと普通車が売れるんだと思った。お客さまからの普通車が欲しいという要望も多かったですからね。初めて見たときは、他車と比べて群を抜いてかっこ良かったですしね。これはいけると思いました」(当時、向井自動車社長・向井弘光氏)。

各販売店では、この新商品に勢いを得て、軽自動車からの代替えや新規ユーザー開拓のために、会社経営者や医者など、高額所得者をターゲットにダイレクトメールを出した。また、鈴鹿サーキットを借り切って大々的に発表会を催すなど、外販活動も積極的に行えるように変わっていった。

しかし、販売店の意気込みとは裏腹に、新商品に対するお客さまの反応は、非常に厳しいものであった。

「今振り返ってみると、DDACで大衆にアピールしようとしたのはすごく難しいことだったと思う。Honda独特の凝り性からくる、フロントの重さ、タイヤの偏摩耗など、いくつかの課題が出てきたことで、営業サイドが大衆にアピールしにくい部分もありましたね。少し売り出した時代が早かったのかな。私も99(スポーツセダン)でラリーをやっていましたが、マニアにとっては、良いクルマでしたね」(向井氏)。

しかし皮肉にも、お客さまからのH1300に対する苦情は、メカニックの技術向上に大変役立った。そして、お客さまの目線で他車比較をする力が付いた。

このころ副社長の藤澤は、ディーラーの経営姿勢について、
「皆さん、手を抜いたら企業というのは一遍に駄目になりますよ。質を徹底的に高めれば量はおのずと付いてきます」
と、メーカー主導ではない個性ある販売、ディーラー独自の工夫を強く求めながら、檄(げき)を飛ばしていた。

*水冷解禁の転機、研究員集会・熱海会談

H1300開発の陣頭指揮を執った本田以下、従業員みんなが、Hondaを4輪メーカーにしていこうという気概にあふれていた。お客さまのためにと、発想の段階から生産に至るまで、とことんベストを尽くした結果生まれた、”一体構造2重壁空冷方式”の独創的エンジンを塔載したH1300は、性能は称賛されたものの、期待した販売台数は得られなかった。

「一言で言えば、商品としての自動車というものに対する理解が、必ずしも十分でなかったと言えるのではないだろうか。クルマのありようを総合的に考えるべきものを、部分最適の積み重ねで全体最適ができていると思い込んでしまっていたところがあったように思う。また、開発に当たっては、当然のことながらお客さまの視点というものを意識していたつもりだったが、結果としては技術というものが前面に出てきてしまって、このクルマが最終的に、”どんな人たちに、どんなふうに乗ってもらうか”ということが不明確になってしまっていた。
技術というものは、あくまでも、お客さまに喜んで買っていただけるものを創り出すために使う手段であったはずなのに、つい肩に力が入ってしまい、目的が後ろへ下がって、反対に、手段であったはずの技術が前に出てきてしまっていた。これがH1300から得た最大の教訓だったと思う」(杉浦)。

こうして、H1300は、その後のHondaの製品開発の歴史に、非常に大きな転機をもたらした。
1969年7月ごろ、軽井沢では技術研究所の約60人による研究員集会が行われていた。この集会はそれまでにも定例的に開かれていたが、今回は『なぜ、H1300は売れないのか』というテーマを取り上げて、議論が交わされた。

「どうやってオヤジ(本田のこと)に反省を求めようかという策の一つだった」(杉浦)。
――空冷にこだわり続けたために空冷エンジンはできたが、結局重い。車重が重いからタイヤが早く摩耗するなど、いろいろなところに無理が出る。排ガス規制を控えて、エンジンのコントロールが非常に難しいものになった。価格も高くなり過ぎた。これらへの対応は技術的に不可能かと言えば、必ずしもそうとは言えない。しかし、たとえ可能であったとしても、それが一般のお客さまたちが日常使われる、普通の道具としての商品として成り立ち得るか。最大の厳しい問題は目前に迫っている大気汚染対策にある。それらの規制をクリアするために、もっと近くて、楽な道があるのに、何も長くてきつい道を選ぶことはないんじゃないか――。
彼らは、ありとあらゆる問題を洗いざらい出した。

杉浦は集会の場に、藤澤に来てもらった。
「現場の若い者たちはこういう悩みを持っています。副社長は社長のおっしゃることを信じていらっしゃるのかも分かりませんが、私たちは『空冷エンジンでは駄目です』ということを申し上げてはハネ返されているんです」(杉浦)。
その夜は酒を飲みながら、話が続いた。

――そうか、そこまで本田さんの意志が、考え方が強く貫かれているのか。これが問題なんだ――
と、藤澤は気付くとともに、
「もう一度、技術のマネジメント部隊として、若い者たちの言っていることを整理して聞かせてほしい」
と、指示を出した。

8月、そのための熱海会談が行われた。プロジェクトリーダーの久米是志らからの説明を受けた藤澤は、その席で改めて、空冷エンジンにこだわっていては、Hondaが4輪車市場で大きく遅れを取ってしまうという事実を再認識した。

「この後、すぐに社長のところへ行きなさい」。
藤澤は杉浦らに命じた。
――社長に何度も話をしてきたが聞き入れてもらえない。だから藤澤さんから話をしてほしかったのに――。
内心、そう思い悩みながら、彼らは熱海から技術研究所へとクルマを走らせた。

技術研究所に着いた。
恐る恐る、本田に、空冷エンジンではなく水冷エンジンの開発を行いたいとの意見を述べた。
「ふーん。なんで副社長のところへ行く前に、おれのところへ言いに来ないんだ」
と、本田は一言だけ言った。その後も本田からは何の反応もなく、次の新機種・ライフの最終設計の判断が迫っていた。もう一度、杉浦と新村は本田に食い下がった。

「どうしても水冷エンジンをやらせてください。このままでは排出ガス対応も間に合いません」。
2人は懇願した。しばらく黙っていた本田は、
「勝手にしろよ。その代わり、水のメンテナンスだけはちゃんとしろよ」。
そう言うと、その場を後にした。

「これでHondaは助かると思った」(杉浦)。
新村は設計室で待つ仲間に、水冷解禁を知らせに走った。杉浦は本田の後を追い、英断を下してくれた礼を言った。
本田は技術の総帥であった。しかしここにきて、それを覆したのは藤澤だった。

「藤澤さんは、軽井沢の研究員集会、熱海会談で、やっぱりこれからは水冷でなきゃだめなんだなという確信を持ったわけです。それでオヤジさんのところへ行って、『水冷をやらせてみたら…』と進言したが、オヤジさんはまだ空冷推奨論を説く。大方、その答えを予想していた藤澤さんは、覚悟を決めて言ったそうです。『本田さん、あなたは社長として残りますか。それとも技術屋としてHondaに残りますか』と。しばらくの沈黙があって、『やっぱりおれは社長として残るよ』とおっしゃった。『じゃあ、水冷エンジンの開発をやらせてもいいのですね』となったわけです」(河島喜好)。

*4輪開発のシステム化を促したH1300での経験

H1300の開発は度重なる設変など、決して効率の良い開発だとは言えなかった。4輪車の機種も増え、技術的な幅も広がり、1人の天才(本田宗一郎)だけでは全部をコントロールできる時代ではなくなっていた。10人なら10人が知恵を絞って、チームで課題解決に向かっていくことが求められた。

H1300開発の苦い経験から、その後、研究所では河島の提唱で、開発のシステム化と体制の改革を、久米が中心となって確立していった。主な内容は次のようなものだ。

①併行異質自由競争主義による開発や、D開発と未知技術を含んだR研究の区分
②開発スタート時からの”売る、つくる”部門の参画
③商品開発の”目的・目標要件”の設定
④チームによる推進体制
⑤開発ステップごとのS・E・D評価
⑥これを補う技術評価

H1300がビッグバンとなり、Hondaの体質が変わった。その後、水冷エンジン塔載の軽自動車・ライフ、小型自動車・シビックが誕生。大気清浄法に適合したCVCCエンジン搭載のシビックの発売で、技術のHondaを世界的にアピールすることにつながっていった。

「苦しかったことも、今は思い出。とことん4輪車の勉強をさせてもらった」。
H1300に携わった人たちは、こう口をそろえる。この時の苦労が、その後のHondaの4輪車づくりに大きく寄与したのである。

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CVCCエンジン発表 / 1972

CVCCエンジン発表 / 1972

*マスキー法発効へ

1960年代の半ば、日本はようやくモータリゼーションの時代を迎えつつあり、それに伴って排出ガスによる公害も出始めてきた。運輸省は1966年7月、自動車の有害な排出ガスの排出基準を示し、同年9月以降の生産車(ガソリン自動車、ただし軽自動車は除く)については、一酸化炭素(CO)を3%以下にすることが義務付けられた。翌1967年8月には公害対策基本法が、1968年には大気汚染防止法が施行されるに至った。

日本での本格的な自動車公害問題として注目を浴びたのは、1970年5月22日、東京・文京区医療生活共同組合医師団が、住民の集団検診結果を基に、『東京都新宿区牛込柳町交差点付近に住む住民の血中鉛濃度が非常に高い』と発表。ガソリン中の含有鉛が原因ではないかと注目された。通商産業省(以降、通産省)は同年6月、自動車ガソリンによる鉛害の防止についての通達を出し、ガソリンの加鉛量についての行政指導を行った。
また、同年7月18日には、東京・杉並区の立正高校グラウンドでの光化学スモッグ被害発生が社会問題となり、排出ガス規制に対する要請は一段と高まっていった。
これら一連の動きは、1971年7月の環境庁発足のきっかけともなったのである。

一方、米国では1963年、連邦政府が全米を対象とした大気清浄法を制定し、1965年には自動車汚染防止法が追加された。また、カリフォルニア州では大気資源局が、1966年から排出ガス規制を開始。さらに、連邦政府も1966年3月20日付の官報によって、大気汚染防止の規則を公示した。

1970年、公害対策環境行政を強力に推進するため、保健・教育・厚生省(H・E・W省)で行われていた環境行政を、新設されたEPA(環境保護局・後に庁となる)に移管。時を同じくして、上院議員のエドモンド・S・マスキー氏が、従来の大気清浄法を大幅に修正した1970年大気清浄法(通称、マスキー法)案を議会に提出した。同法案の内容は、非常に厳しく、5年後の1975年型車からは、従来車に比べ、CO・炭化水素(HC)は共に10分の1とし、窒素酸化物(NOx)は1976年型車から、従来車の10分の1にするというものであった。世界中の自動車メーカーは、この規制内容を達成することはほとんど不可能であると主張したが、マスキー法は同1970年12月31日に発効した。

*AP研の発足

技術研究所では、1965年の夏、エンジン性能ブロックのリーダーを務めていた八木静夫が、将来の4輪車輸出を考え、米国における大気汚染の法規制の動向を探るため、同ブロック内に10人規模の大気汚染研究グループを発足させ、情報収集を開始した。
また、同年9月、技術調査室の伊藤薫平(くんぺい)は、日・米両国の自動車排出ガスによる大気汚染とその規制、ならびに先行メーカーの当時の対応状況について調査を行い報告会を開催。研究・設計グループを啓発した。この報告会をきっかけとし、伊達たすく(たすく)(当時、技術研究所取締役)、八木、中川和夫(当時、設計ブロック主任研究員)らは排出ガス対策研究を本格的に推進すべきであると合意し、機会を見ては大気汚染研究室発足の必要性を説いていた。

しかし、当時のHondaは、4輪車業界への進出を果たしたばかりで、次なるクルマの開発が急がれていた。その上、1964年1月にはF1への参戦を宣言しており、結果がすぐに出ない大気汚染の研究に、研究所の要員を割けるような状況ではなかった。

1966年6月、日本自動車工業会は、米国における自動車公害の現状視察を目的に調査団を組織し、渡米。メンバーの一員として、Hondaからは八木が参加した。調査は1カ月に及び、GM・フォード・クライスラーや関係官庁・大学などの関連研究所23カ所を訪問し、交通事故対策や排出ガスの研究状況をつぶさに調査した。

訪米調査をきっかけとし、かねてから大気汚染研究の必要性を説いていた伊達、八木、中川の3人が、研究所長の杉浦英男に報告。
「じゃあ、やろうよ」
と、杉浦は即座に返答した。

早速、要員を集め、約30人で大気汚染対策研究室(通称、AP〈Air Pollution〉研)が発足した。研究室はつくったものの、エンジンの高回転・高出力化を追求してきた研究者にとって、初めての経験である排出ガス対策は勝手が違い、ゼロからの勉強となった。

「大気汚染は何が原因で起きているのか解答が出ていないし、当時はCOを測定する機器ぐらいしかありませんでした。NOxやHCは何のことなのかという具合で、国内にはそれらを測定する機器が一般にはなかった。最初は、ガスクロマトグラフという機器を使い、注射器で排出ガスを吸って試薬を入れ、発色反応を観ていました。この方法では、測定しているうちにエンジンの状態が変化し、測定結果が活かせないんです」(伊達)
というような状況で、測定方法や機器の研究から行わなければならなかった。

しかし、本田宗一郎は、
「4輪の最後発メーカーであるHondaにとって、他社と技術的に同一ラインに立つ絶好のチャンスである」
と、新たなチャレンジとして、AP研に大きな期待を寄せていた。

*希薄燃焼の実現に向けた試行錯誤

AP研がまず始めたことは、当時、他社が研究していた排出ガス対策の検証実験と排出ガスに関する調査・研究を行うこと、そして研究所内への広報活動であった。

ガソリンエンジンやディーゼルエンジンの改善・改良はもとより、ロータリーエンジン、ガスタービンなどの代替エンジン、さらに酸化触媒(キャタライザー)や再燃焼(サーマルリアクター)などの後処理装置、アルコールや水素などの代替燃料と、さまざまな可能性の調査・研究が行われた。

広報活動としては、AP研独自で『APニュース』という広報誌を作成し、技術研究所、および関係する所外の部門へ配布。同誌には、国内や米国での排出ガス規制によって、自動車の設計、製造、整備など、各段階における仕事のやり方などが今後、いかに変わっていくかなどに関する情報が掲載されていた。

当時、エンジン性能ブロックの設計者だった大谷淳示によれば、本田は研究所員に対し、
「排出ガス対策で、今あるガソリンエンジンをなくすということは、大変なことだ。自動車会社の生産設備などを全部捨てなくてはならない。そのような対応ができるわけがない。既存エンジンへの規制だから、そのエンジンで達成可能な規制であるべきだ。だからこそ、既存のレシプロエンジンを改造しなきゃだめだ」
と語り、既存エンジンでの対応を主張した。AP研では、排出ガス対策は吸気と燃焼の制御を基本とし、それでも、なお排出される有害物質を後処理装置で処理しようと考えた。

当時の酸化触媒装置は、工場ばい煙などの固定施設に対応したシステムで、ペレット状の触媒を筒に入れたものであり、触媒としてはマスキー法を十分クリアできるレベルにはあった。しかし、自動車に装着した場合、振動で擦り減ったり、エンジンの燃焼具合では触媒装置そのものが焼失するような状態で、耐久性に大きな問題があった。

また、再燃焼装置は、燃焼室で燃え切らなかった不完全燃焼物を、排気の途中で再燃焼させるもので、再燃焼を確実に行うためには、濃い混合気を供給する必要があり、燃費が悪くなった。

本田は、AP研のメンバーに、いろいろとアドバイスをした。その中の主なものは、吸気の際に新機構のペーパーライザーによる燃料の蒸発促進や、燃料噴射装置による適正吸気であった。

当時、技術的立場から指導をしていただいていた東京大学の浅沼強教授は、毎月1、2回技術研究所を訪れていた。研究メンバーは同教授との意見交換を行う中で、有害物質であるCO・HC・NOxの発生量を同時に低減する方法としては、燃料を完全燃焼させる希薄燃焼しかないとの思いを強くしたが、当時の技術レベルでは到底クリアできるとは思えなかった。

しかし、本田がいつも言っている
「やらんで、何が分かるか」
という言葉を実践すべく、希薄燃焼の実現に向けた基礎研究が始まった。

レシプロエンジンは、燃焼室に混合気を入れ圧縮させた後に点火し、その爆発力でピストンを下げるという往復運動を、クランクを使って回転運動に変えるものである。ガソリンエンジンの理論混合比は、A/F(空気と燃料の重量比)で、約14・7であるが、理論混合比より希薄な混合気では燃焼が不安定になりやすいため、通常では理論混合比より濃い混合気を使う。この濃い混合気では理論混合比で運転する場合よりも燃費が悪化し、不完全燃焼による有害物質の生成が避けられなかった。低燃費を維持しつつ有害成分の発生を抑制するためには理論混合比、あるいは、さらなる希薄な混合気による安定した燃焼を実現する技術が必要であった。

混合気の加熱、気筒内ガス流動の強化に始まり、点火エネルギーの増大、多点点火(プラグを複数付ける)など、あらゆる方策を考えてテストを行った。しかし、どれも良好な結果を得ることはできなかった。

*
副燃焼室付エンジンの開発がスタート

試行錯誤が続く中、伊達をはじめとするAP研の幹部たちは、先発メーカーと同じ研究をしていては追い付くことが難しいと考え、他社がやっていない方法にトライすることとした。そこで、従来のガソリンエンジンでは使われていない、副燃焼室付エンジンで希薄燃焼ができないかと話し合ったのである。

副燃焼室付エンジンは、既存のディーゼルエンジンの一部では実用化されていた。また、ガソリンエンジンとしては、ソ連などで粗悪燃料の利用や、燃費の改善としての研究はされていたが、大気汚染対策の研究としてはされていないことから、研究する価値があると判断。副燃焼室付エンジンの研究が始まった。研究用エンジンとして、N600のエンジンを改造することとし、早速、改造設計を開始。設計は大谷と大久保章が担当したが、本田は設計室にたびたび顔を出し、図面を観ては次々と指示を出した。

「せっかく、(図面を)まとめようとしていたら、本田さんから指示が出て、また引き直さなければなりませんでした」(大谷)。
試作エンジンの完成を待てない本田は、
「うちにも、汎用エンジンで副室付エンジンがあるじゃないか。試作エンジンができるまでそれで研究したらどうか」
と助言。汎用エンジン・GD90での先行テストが開始された。

同エンジンは、V型2気筒の479cc・副燃焼室付ディーゼルエンジンで、手ごろな実験用エンジンであった。メンバーはまず、副燃焼室に点火プラグとガソリン噴射ノズルを取り付け、圧縮比を8から16まで調整できるように改造した。このGD90を改造したエンジンテストは1969年12月から翌年2月まで行われ、テスト結果は、ガソリンエンジンでの希薄燃焼の可能性を示唆してくれた。

1970年1月、N600改造試作エンジン(単気筒、300cc)が完成し、テストを開始。副燃焼室の最適な条件出しなど、希薄燃焼の基礎研究が行われた。
この研究の途中で本田から、
「この前開発した(1970年10月に発表)機械式燃料噴射装置を使ったらどうか」
との提案があり、燃料噴射式とキャブレター式の二つの燃料供給方式を研究することとなった。

次に、排出ガス対策に不可欠の水冷エンジンでの研究が行われることとなった。
しかし、Hondaにはテストに使える4輪車の水冷エンジンがなかった。早期に研究を行う必要があることから、日産の1600ccエンジンなどを使いテストが行われた。このテストでは他社のエンジンを使うことで、より汎用性のある研究データを収集できたという、副次的効果も得られた。

また、研究体制の見直しも行われ、1970年12月にはAP研を発展的に解散。第4研究室と第5研究室を設け、要員も常時、100人を超える体制とした。

*CVCCと命名

N600の研究が終了し、有害成分が減少するめどが立った知らせを聞いた本田は、低公害エンジンを公表すると宣言した。

早速、新エンジンの名前を決めることとなり、技術研究所の応接室に伊達、八木、中川らが集まり、公表直前に、『CVCC・複合渦流調速燃焼』と命名された。

「この時点では、めどが立ったとはいえ研究が進行中でしたから、当然、特許申請もまだ途中でした。そんな中での公表ということで、名前から構造の一部でも分かるようなことがあってはならないと思いましたし、燃料供給方式もまだ決まっていませんでしたので、ユニークでパンチの効いた名前にしようと考えました」(伊達)。

C(Compound)は、エンジン機構として、燃焼室が主燃焼室と副燃焼室の二つがあることから、『複合・複式』を表す。
V(Vortex)は、副燃焼室で燃焼した火炎がトーチノズルを通して主燃焼室に噴流となって噴出すると、主燃焼室内に渦流を起こし、エンジンの燃焼速度を早める作用をすることから、『渦流』を表す。
CC(Controlled Combustion)は、燃焼速度を適正コントロールすることから、『調速燃焼』を表す。

研究途中での公表について八木は言う。
「本田さんは『君たちに聞いても、もうこれで完成したとはいつまでたっても言うはずがない。それを待っていたのでは会社がつぶれる』とおっしゃって、めどが立った段階での公表に踏み切ったのです。
Honda流に言う、2階に上げて梯子を外す式で、CVCCの公表による従業員の士気高揚と、研究開発の進展を促したものだと理解しています」。

1971年2月12日、本田は東京・大手町の経団連会館で記者会見を行い、
「1975年の排出ガス規制値を満足させるレシプロエンジン(CVCC・複合渦流調速燃焼方式)開発のめどが立ったので、1973年から商品化する」
と発表。このエンジンでマスキー法クリアのめどが立ったことを示唆したのである。同時に従業員に向けても2月26日発行のホンダ社報臨時号で、CVCC技術でマスキー法を達成できる見通しであると知らせた。

しかし、残された課題は多く、まず第一に副燃焼室付エンジンとしての技術概念、実用車エンジンとしての有効性を実証しなければならなかった。当時開発中の小型乗用車・シビックへの搭載を前提に、エンジンの排気量を決定することとしたものの、過去のシミュレーション結果やデータから、マスキー法をクリアするためには、負荷のほぼ全域をA/F=20付近で運転しなければならないことから、2000ccのCVCCエンジンを開発する必要があるとの判断がなされた。

エンジンの開発記号は”993″と称され、企画開始から2カ月という短期間で、試作エンジン1号機が完成。その後、埼玉製作所(現、和光工場)の協力を得て、100台が製作され、ベンチでの基本性能テスト後、日産・サニーのフレームに搭載し、シャーシダイナモ上のテストに入った。

副燃焼室方式による希薄燃焼では、当初予測していた通り、CO・NOx・HCの減少は図られたが、HCについてはマスキー法1975年度規制値には及ばなかった。しかし、その後の排気系(マニホールド)の研究と、主・副燃焼室の組み合わせや燃料の供給方法で、排出ガスの保持熱により排気管内での酸化反応が起きて、HCの低減を図ることができた。これにより酸化触媒装置なしで、マスキー法規制値をクリアできるめどが立ったのである。

米国EPAでは、5万マイル走行後での規制値達成を義務付けており、あらゆる条件下でも適正な混合気が供給できる燃料供給装置、排気管内でより安定した酸化反応を起こさせる構造と耐久性の研究が、引き続きなされた。

*CVCCの全容発表に大きな反響

1972年10月11日は、Hondaにとって記念すべき日となった。東京・赤坂プリンスホテルにおいて、CVCCエンジンの全容が国内外のジャーナリストに発表されたのである。会場は、低公害エンジンを印象付けるためにブルーのパネルで飾られ、澄み切った青空が表現された。

この発表会には、社長の本田をはじめとする各役員、開発担当者が出席し、CVCCエンジンについて、その開発過程やエンジン特性、燃焼理論が紹介された。同エンジンの特長として挙げられたものは、

①従来のレシプロエンジン本体をそのまま使うことができるため、現在の生産設備が活かせる。また、シリンダーヘッドから上を交換するだけで済むので、他メーカーのエンジンに応用でき、広く低公害化が図れる。
②エンジン内部できれいな燃焼をするため、触媒などによる排出ガス浄化装置は不要で、2次公害の恐れがない。

などであり、本田が開発当初から目指していたエンジンになったことを明らかにした。
この時点で、CVCC方式の原理に関する総合特許、ならびに周辺技術を含めて、230件の特許出願が既になされていた。

「他社にも良い研究はありましたが、それを実現する技術がありませんでした。Hondaは、全部自分たちで考え、研究し、その技術を確立したのです」
と、本田の教えである『自前技術』の大切さを八木は語る。

この発表は、国内外に大きな反響を呼んだ。
米国EPAからは、早速、CVCC搭載車の提出要請があり、ミシガン州アンナーバーにあるEPAのエミッション・ラボに3台が送られた。3台のうち2台は1万5000マイル走行車、もう1台は5万マイル耐久テスト完了車が持ち込まれた。立会いテストは1972年12月7日から14日まで行われ、1975年規制のマスキー法合格第1号となった。

「テストでは、日産のサニーにHondaのCVCCエンジンを積んでデータを採りました。まだ、HondaにはCVCCエンジンを積める大きさの車体がなかった。重量合わせのために、サンドバッグを積み込んだのです」
と、アンナーバーで現地責任者を務めていた溝口健は言う。
当時Hondaでは、シビックを7月21日に発表したばかりで、やむなく、テスト時から使っていた他社の車体での適合テストとなったのである。

本田は、かねてから公害対策技術は公開する方針を表明しており、CVCC技術は他の自動車メーカにも公開した。これに呼応して、トヨタ自動車からの問い合わせがあった。トヨタの技術者が技術研究所へ来所し、クルマの試乗、技術内容の説明などを受けた。トヨタはCVCC技術を評価し、同年12月13日、技術供与に関する調印が行われた。

「トヨタが最初というのは、CVCCにとっても、Hondaにとってもプラスが大きかった。トヨタに技術供与をしたと新聞に出たら、すぐに国内や米国メーカーからも引き合いがありましたからね」
と、技術供与に関する対外交渉の実務責任者であった吉澤幸一郎は言う。

その後、フォード・クライスラー・いすゞの各メーカーにも技術供与されたが、この間、技術研究所には世界の主要自動車メーカーの技術者が続々と来訪した。

1973年3月19日、EPAの公聴会がワシントンで開催された。これはマスキー法を予定通り実施するか否かを決めるため、自動車メーカーからの証言を聞くものであった。この公聴会で、1975年規制を達成可能と証言したのは、Hondaと東洋工業(現、マツダ)だけであった。

「公聴会で、『Hondaは本当に1975年規制適合車ができるのか。できるのならば、HondaはGMなどにCVCCエンジンを供給できるのか』と言われた。Hondaは自分のところが手いっぱいで、GMに供給できる力は、あのころはなかったですよ。とても悔しい思いをしましたね」
と、公聴会に出席していた伊達は言う。

公聴会の結果、マスキー法の実施は延期されることに決定した。

*米国で評価されたシビック・CVCCの燃費

これがだめだったら、4輪市場からの撤退も考えなければならないという背水の陣で開発されたシビックが、1972年7月12日に国内で発売された。同車の市場評価は高く、1973年度モーターファン誌主催のカー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。翌1973年12月13日には、4ドアのシビック・CVCC(1500cc)が発売され、シビックの名前を国内市場で不動のものとした。

米国市場へのシビック・CVCCエンジン搭載車は1975年モデルから輸出された。輸出に当たっては、EPAからマスキー法1975年規制適合認定を受けなければならなかった。Hondaは1972年にCVCCエンジン単体でマスキー法の適合審査に合格していたが、完成車としての審査は受けていなかったからである。
前年の1974年のシビック(通常のエンジン仕様)が、国内でのエミッション審査では何ら問題がなかったのに、EPAでは認定が取れなかった(後に再審査で合格した)。

1974年春、マスキー法施行初年度となるため、技術研究所ではEPA認定プロジェクトが組織された。同プロジェクトが最初に取り組んだのは、1974年モデルが認定審査で苦労した原因の追及であった。
技術研究所と鈴鹿製作所、米国EPAのアンナーバー認定ラボを含めて、なぜ日・米でこのような違いが出るのか、徹底的に比較し相関関係の調査が行われた。

その結果、気圧、シャーシダイナモ、運転状況の3つの点で違いがあることが分かった。標高差が約350mあるため、検査時の気圧の違いによる影響が出ていた。シャーシダイナモはメーカー・機種は同じだが、Hondaのシャーシダイナモは、小さなクルマの検査がしやすいように前後ローラ間のスパンが改造され、短くなっていたのである。運転状況は、米国と日本のドライバーでは、アクセル操作に大きな差があることによるものであった。
調査結果を基に、EPAの測定条件を設定し、それを、クリアできる仕様であるか否かを確認し、量産車への反映を確認していった。

1974年11月、シビック・CVCC1975年モデルがEPAに持ち込まれた。
「テストが終わり、コンピュータが計算をして、その結果が出てくるまでは、大学の入試発表を待つような気分でした」
と、EPAプロジェクトで認定担当だった福井威夫は語る。

審査終了後、EPAの検査官は
「コングラチュレーション」
と、握手を求めてきた。

溝口や福井は無事に認定が取れただけで喜んでいたが、EPAの検査官は燃費が1番であると伝えたのである。
「われわれはエミッションばかりに気を取られていて、燃費のことは全く考えていなかった。しかし彼ら(EPA)にとっては、エミッションは当たり前で、将来を考えたら燃費だということだったんですね」(福井)。

シビック・CVCCは年を追うごとに燃費が向上し、1978年モデルまでの4年連続で、米国での燃費1位を獲得。『シビックの良さは燃費』、ということが米国のお客さまの間で定着していった。また、燃料を選ばない低公害車ということでも評価を受けた。

1975年、マスキー法が実施された。他社メーカーのクルマは酸化触媒装置を装着しているため、無鉛ガソリンしか入れられなかった。鉛が酸化触媒装置に影響を与え、その機能を低下させるからである。

福井はEPAの型式認定が終わり、燃費テストのためレンタカーを借りて、カリフォルニアからネバダに向かった。クルマは最新型のフォード車で、途中でガソリンを補給しようとスタンドに寄ったところ、給油してくれなかった。
「そのスタンドには無鉛ガソリンが置いてなかったんです。『砂漠でガス欠になりますから入れてください』と、スタンドのおやじさんに頼みましたが、『罰金を取られるから駄目』の一言でした。次のガソリンスタンドに幸いにして、無鉛ガソリンがありましたから助かりました」(福井)
というようなトラブルが、全米で起こった。

罰金の他にも有鉛ガソリンの混入を避けるための対応がなされていた。酸化触媒装置を装着した無鉛ガソリン専用車にはクルマの給油口を小さくさせ、ガソリンスタンドには無鉛ガソリンの給油ノズルを細くしたものを使用させていた。しかし、無鉛ガソリンの製造が間に合わなくて、当初は、ごく一部のスタンドでしか給油できなかったのである。

*CVCCに込められたHondaの理念

Hondaは、マン島TTレースへの出場宣言以来、高回転・高出力のエンジンを絶えず追求してきた。このようなHondaのエンジン技術の積み重ねを基に、低公害エンジン技術の確立に向けて、
「マスキー法への対応は企業本位の問題ではなく、自動車産業の社会的責任上なすべき義務である」
ととらえ、Hondaは自らの手でCVCCの開発に取り組んだ。

現在では、三元触媒装置・電子式燃料噴射装置などの進化により、CVCCシステムの必要はなくなった。しかし、1970年代の初期の技術力で、レシプロエンジンの改良によって規制適合を行い、他の多くのメーカーが技術的に不可能としていた問題にいち早く対応。Hondaは自動車メーカーとしての社会的責任を果たすとともに、早期の排出ガス対策技術の向上を、業界全体に投げ掛けたのである。

CVCCはHondaの総力を結集して開発に当たったものであり、自動車メーカーとしての地位を確固たるものとした技術であった。特にアメリカでは、既に得ていた”2輪のHonda”としての名声に加え、4輪でもHondaの知名度を高め、現在の強力な販売網の基本が、その時に出来上がった。

CVCCエンジンには、現在も追求されている希薄燃焼方式の考え方がいち早く採り入れられていた。その考え方は今もLEVエンジンなどに脈々と受け継がれている。

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シビック発表 / 1972

シビック発表 / 1972

*『鈴鹿へ行って、ラインを観てこい』

HONDA1300(以降、H1300)が発売になった翌年の1970年夏。技術研究所では新たな4輪車開発のプロジェクトがスタートした。

そのころの日本は、高度成長期の真只中にあり、経済成長率は軒並み10%を超え、モノに対する人々の価値観も多様化しつつあった。インフラ面においても、オリンピックや万国博といった大事業の開催による交通網の整備により、自動車を中心とした都市型社会への急速な移行が図られた結果、日本は既に自動車生産高で世界第2位の地位を築くまでになっていた。

ところが当時のHondaは、N360の欠陥車事件や、H1300の販売不振などの中で悩み、苦しんでいたのである。

「鈴鹿へ行って、ラインを観てこい」。
プロジェクトがスタートする前段階に、技術研究所長(当時)の鈴木正巳は主だったメンバーに、そう声を掛けた。デザイン担当の岩倉信弥も、メンバーの1人だった。

──何だろうか。鈴鹿製作所(以降、鈴製)でつくっているH1300の売れ行きが、あまり良くないとは聞いているが──。
ところが、鈴製で生産ラインを観たメンバーの顔は見る見る青ざめた。

「ラインにはH1300がポツン、ポツンとしか流れていなかった。こんな状態なのかと、がく然としました」(岩倉)。
鈴製を訪れた他のメンバーも皆、同様に驚きを隠すことはできなかった。全員にのしかかる危機感は、和光へ戻る足取りを重くしていた。

「このプロジェクトが失敗したら、Hondaが本格的に4輪事業に進出するのは無理かも知れない、とみんなが思っていた」
と、シビック開発のLPLを務めた木澤博司が振り返るように、相次ぐ4輪車の不振は、Hondaの経済的な屋台骨を揺るがそうとしていた。そんな中、
「日本はもとより、世界市場を志向した自動車の開発に向け、それはどのようなものであるかを答申せよ」
という、とてつもなく大きなテーマが、鈴木からメンバーに与えられたのである。

*二つの開発チーム

テーマに向けて、新たにスタートしたプロジェクトでは、従来とは全く違うプロセスで開発を進めていった。

「このプロジェクト以前は、お父さん(本田宗一郎のこと)が創りたいクルマを創っていた」(木澤)。

実は、それまでのクルマはすべて、1人の天才・本田自らの提案を起点に開発が行われていたのだ。ところが、新しいプロジェクトでは約10人ずつの、木澤を中心とした30代後半のベテラン組と、全員が30歳前後の若手組の2チームに分けられ、お互いが案を出し合う形を採った。それは、一つのテーマに対して二つの開発チームが競合し、より優れたクルマを生み出していくことを狙いとしていた。この開発方法は、当時、本田技研の専務で、後に技術研究所の社長も務めた河島喜好が唱えていた、併行異質自由競争主義の先駆けとなった。

そして、調査・研究を進めてきた2チームは、約束の期日に、それぞれに自分たちの案を持ち寄った。ところが、2チームが出した回答は、部分的には細かい違いこそあったものの、そのコンセプトは、ほぼ同じと言える内容だった。それは、『世界のベーシックカーとして、軽量、コンパクトでキビキビ走れるもの』であり、それによる最高速や性能は、どの程度のものであるべきかという部分については、図らずも非常に似たものとなっていたのだった。

そして、その根底にあったのは、メンバーが鈴製でH1300の実情を目の当たりにした時に感じた危機感の裏返しであった。

同車は確かに、そのエンジン性能には優れた部分が多かった。しかし、それは”1点だけが秀でたクルマ”であり、突出した一つの技術的な要素が、騒音や居住性、前後重量配分といった面などに影響を及ぼし、決してバランスの良いクルマには仕上がっていなかったからだ。

「バランスが悪いものをつくるということに、みんな嫌気が差していたんですよ。バランスの良い、普通のクルマをつくりたかったのです」(木澤)。

岩倉は、
「鈴木さんに、はめられていたのかも知れない」
と、鈴製を観に行った時のことを述懐するが、結果としてメンバーの”想い”の総和が、二つのチームの出した答えを、ほぼ同じところへと導いていた。

こうして開発されたクルマは、後に『シビック(市民の、都市の)』と名付けられることになる。

*”絶対値”を追求したクルマづくり

答申の結果を受けてすぐに、二つの案を収れんしていく方向で、シビック開発のプロジェクトは再編成され、商品化を目指して本格的に推進されることになった。当初、久米是志をLPLとしてスタートしたが、途中、設計が始まった段階からは木澤にバトンタッチした。

メンバーは開発を進める上で、一つの考え方にこだわっていた。それは、例えば、他車の室内の寸法は何mmだから、それに負けないように3mm広くしようといった比較で考えるのではなく、”今、Hondaがどういうクルマを創らなければいけないか”、そして、”純粋に今、必要なクルマとは何か”を徹底的に追求することだった。

「クルマの”絶対値”としてそれを見つけ出したかった」(木澤)。
この絶対値の追求こそがシビックの発想の原点だった。
それを基に、最終的に決定したクルマのコンセプトとしては『ユーティリティー・ミニマム(最も効率の良いサイズ、性能、経済性)』という考え方が与えられた。

また一方では、効率が良いとはいえ、バランスを考え、人の乗る空間は削らない『マン・マキシマム(居住空間の十分な確保)』の思想も織り込んだ。
その結果として生まれたのが、2BOX(居住空間とトランクスペースが一体となったボディ形状)で、FF(前輪駆動方式)横置きエンジンという仕様だった。

当時、日本の小型車のほとんどが3BOX(トランク分離型)のFR(後輪駆動方式)だったのに対し、”絶対値”にこだわるがゆえ、あえてそうした既成概念は否定された。
そして、この”絶対値の追求”では、開発が進むにつれ、さらに多岐にわたる目標設定がなされ、メンバーの試行錯誤の日々が始まったのだった。

例えば、まず、徹底されたのが軽量化であった。それまでのHonda車では軽のライフが360ccのエンジンで540kg、H1300が1300ccのエンジンで875kgであったのに対し、シビックは1200ccのエンジンで600kgという、無理難題とも思えるような数値目標が設定された。
これは重量がコストに比例するという考え方に基づいたものだった。また、燃費向上の面からも、この部分については、かなりの力が注がれていたのである。戦時中、ゼロ戦の重量を極限まで下げた時と同じ方法で、鉄板を0.1mm単位で薄くしたり、構造を変えてみたりと、あらゆることにトライした。

久米のLPL当時にも、久米自らが倉庫に座り込んで図面と計量器をわきに置き、
「これはあと何グラム下げる。こっちはOK」
と、部品一つひとつを評価するといった具合で、グラム単位にまでこだわる徹底ぶりだった。
こうして、目標こそ達成できなかったものの、最終的に680kgにまで重量は削減されたのである。

*お父さんからのプレッシャーをもはね飛ばした”こだわり”

また、一方でこの軽量化に加え、高剛性・低コストの実現に向け、苦労していたのはサスペンションの設計を担当していた坂田守だった。
当時のFF車のリアサスペンションは、ほとんどがリジッドサスペンション(左右の車輪が1本の車軸の先に付いている形)であったにもかかわらず、シビックで提案されたのは、左右が独立したストラット式の4輪独立懸架という方式であった。

「車軸がない分、居住空間をより広げられることや操縦・安定性、前後のバランス配分、そして軽量化の面でも、シビックには、この方式がベストマッチだと考えました」(坂田)。

しかし、リジッドサスペンションは、構造がシンプルで生産性が高いことから、本田が最も推奨するサスペンションであった。それゆえ、ストラット式独立懸架は、本田には何の相談もなく開発が進められていた。

ところが、ある日、それは本田の目に触れてしまうことになり、時期を決めて改めて開発の是非を決定することになった。

さらに、坂田は当時、LPLを交代し、スーパーバイザーとしてシビック開発を側面から支援していた久米からも、
「もし、ストラットを守り切れなかったら坊主になれ」
とまで言い渡されてしまった。

もう本田を前に、後にも先にも引けない状況となった。
──坊主になるのは構わない。それより、どうしてもストラット式を導入したい──。
度重なるプレッシャーにも自説を曲げようとしなかった坂田は、ついに、河島と本田の待つ役員室に呼ばれたのだった。

本田を前に坂田は、恐る恐る、しかし無我夢中でストラット式独立懸架の良さと、世界に通用するクルマとして、このサスペンションの必要性を説いた。
ところが、説明を聞いても、本田は相変わらず渋い顔をしている。
「おれには独立懸架の良さは分からねえなあ」
と言うだけだ。しかし、隣にいた河島に意見を求めると、
「この男が、これだけ言うんですから、どうでしょう、やらせてみては」
と、うれしい助け舟。これには本田も、
「そうか、ならやれよ」
と、たった一言、言っただけだった。

河島のフォローはあったものの、坂田の強い”こだわり”が、お父さんからのプレッシャーをもはね飛ばし、ついに念願のストラット式独立懸架の開発を実現させたのである。

*ある日、たまらず『ドン』とトランク・スペースを…

また当時、開発スタート以前からあった国民車構想【注】がいよいよ実現化され、その占有面積が5m2以内で規制されるという情報が流れたことで、ユーティリティー・ミニマムと合致したこの構想をよりどころに、初代シビックの大きさが決められることになる。

さらに、当時の販売店はと言えば、オートバイを扱う小さな店がほとんどであった。こうした販売店でも扱える大きさに収めるためには、5m2はどうしてもクリアしなければならない数字となっていった。

当初、それらを基に全幅1450mm、全長3300mmから3400mmで開発が進められていた。しかし、FF横置きで1200ccのエンジンを搭載した結果、幅は1505mmに拡大されたため、5m2に収めるためには全長を100mm以上も削らなければならなくなったのだ。それでいて居住性は保たなければならない。ジレンマだった。

一方、メンバーは全員、当然のようにスタイリングの良いクルマのデザインが出来上がってくるものと期待していた。しかし、毎日のように全幅が広がり、全長は短くなってくる。いつしか、そのデザインはトランクのない、ずんぐりとした”台形”になっていった。

「シビックのデザインの原点はライフでしたが、最初、リアの形はもう少しなだらかでトランクもあった。でも、日に日に全長が短くなるのを見て、中途半端になるくらいならと、ある日、たまらず『ドン』と思い切って、そのスペースを削ったんです」(岩倉)。

この思い切りが当時、欧米にこそあったが、日本にはまだ珍しい”3ドアハッチバックの台形スタイル”という、初代シビック独特のスタイリングを生み出すことになる。
そのスタイリングを岩倉は”絶対値”になぞらえて、”個性”だとメンバーに強調した。それは小さいが”威張れる”クルマを目指していたのである。

「バイクでも、ナナハンとモンキーが並んでいたら、モンキーに乗っている人は、その存在感で気後れすることなく威張っていられます。そんな”誇れるクルマ”とは何か、という部分で悩みましたね。例えば”シンプル・バット・チャーミング”。”チャーミング”以外にも、この”バット”の後をどういうふうにクルマで表現できるかということが私のこだわりでした」(岩倉)。

こうして、徐々にシビックの骨格となるさまざまな技術やデザインが、一つのカタチとして表現されるまでに開発は進んでいった。
本来は、この時点で営業や生産を含めた他部門の人たちの評価によって、デザインなどの仕様に変更が加えられることもあるが、ことシビックに関しては、少し違っていた。

「とにかく君たちが良いと思うんだったら、周囲の声をシャットアウトして実車になるまでやってみろ」
と、鈴木自らが、メンバーに号令を掛けていたのだ。そして実際、実車になる段階まで、シビックは開発者の純粋な”絶対値”として熟成されていった。
しかし心配なのは、それが本当に販売に結び付くかどうかということであった。

【注】国民車構想…政府の構想で、(Hondaが初代シビックを開発していたころの)日本国民が、生活水準に合わせて購入できるような小型車であれば、5m2以内の大きさであるべき、としたもの。実際には国民に対しての打ち出しはされなかった

*”しっぽ”がない

当初、シビックのスタイリングに対しては『こんな格好のクルマが売れるのか』というのが技術研究所内での評判だった。

また、営業部門のシビック内見会の席上では、当時、鹿児島営業所長だった宗国旨英は、
「(3ドアの)3枚目のドアはどちら側にあるのですか」
と真顔で尋ねた。説明に来ていた開発メンバーは一斉に大声で笑い出す。
「われわれ営業は全員、3ドアって何なんだろうって顔をして…。とても対照的でしたね」(宗国)。
それほどまでに3ドアハッチバックというスタイリングの世間への浸透度は低かったと言える。

しかし、コンセプトに忠実になればなるほど、スタイリングはこの”台形”しかない。岩倉は”台形で安定感のあるクルマ”、”白魚のような手でなくゲンコツ”など、さまざまな表現を駆使し、シビックのスタイリングが持つ意味を理解してもらうよう、まず、社内の人から説いて回ったのだった。

そうした努力で、これまでだれも目にしたことがなかった台形スタイルは、徐々に理解され始め、最終的には、海外の自動車事情を熟知している専門家やジャーナリストたちなどを中心に、圧倒的な支持を得ることとなったのである。
「オーバーに言えば、『シビックが分からない人は、クルマのことなんか分からない』といった風潮にまでなっていましたね」(木澤)。

当初は売れることを念じるしかなかったメンバーたちも、たくさんの人たちの評価を聞くにつれ、発売されるころには全員が”売れなきゃおかしい”という確固とした自信を持つまでになっていった。

そして、わずか2年という、当時の常識を超える短時間で開発されたシビックは、1972年7月には2ドアが、9月には3ドアGLが相次いで発売されたのである。

「ある日、久米さんに、発表のお祝いに飲みに連れていっていただきました。そこの店員の女性と話していて、『シビックはこいつがデザインしたんだぞ』と紹介してもらったら、シビックは知っていたんだけど、『ああ、あれは安いクルマでしょ。だって高いクルマには”しっぽ(トランク)”があるもの。クラウンが1番で、次にコロナ。パブリカは少しだけあって、シビックにはないものね』と言われたんですよ。これは正直なところショックでした」(岩倉)。

メンバーの自信とは裏腹に
──本当に大丈夫だろうか──
という、漠然とした不安がメンバーの心に常に付きまとう。
いつしか、『昨日は、街角でシビックを何台見掛けたのか』が、メンバー同士の朝のあいさつになっていた。

*世界のベーシックカーへと飛躍

社内での評価と同様に、さすがにお客さまも、シビックのスタイリングには戸惑い気味だったようだ。それを表すかのように、シビックは発売当初、爆発的な売れ行きは示さなかった。しかし、3ドアGLが発売されるやいなや、若者たちを中心に人気を博し、月に1万2000台以上を生産するほどの大ヒットを記録した。発売した年の1972年は残りが5カ月だったため、2万1000台の年間販売にとどまったが、翌1973年には8万台、1974、1975年は2年続けて6万台を超える販売台数を記録した。

そして、1972年から1974年まで、異例とも言える3年連続の日本カー・オブ・ザ・イヤー受賞を成し遂げた。また、カナダでは1976年から1978年にかけて、連続28カ月間も輸入車台数第1位を記録するなど、その革新性は国内・外を問わず、高く評価されたのである。

特に海外での評価を決定付けたのは、1970年に可決された米国のマスキー法による排出ガス規制に、1974年11月、どのメーカーよりも早く適応したことだった。

こうした対応を可能にしたのは、河島が提唱した新しい開発システムがスタートしたことによるところが大きかった。その最大のポイントは、R研究とD開発の完全分離であった。クルマ自体の開発は、これまでの経験ある技術の組み合わせとするD開発で行い、一方でCVCCエンジンのような超大型の新技術のテーマはR研究として展開した。

また同時に、プロジェクトメンバーと経営のトップが対等の立場で、技術に対してお互いの意見を戦わせる”評価会制度”も設けられ、開発の質や精度、期間の短縮などに大いに貢献することになった。そして、そのシステム自体は、現在までも脈々と受け継がれている。

この新システムの下に開発された低公害のCVCCエンジンは、シビックに搭載され、1973年12月に発売された。それは、米国では消費者の利にかなったクルマとして評価を高めていった。

当時の米国は、折しも環境問題によって、ガソリンが有鉛のものから無鉛のものへと、規制に沿った形で変わりつつあるタイミングだった。必然的に自動車メーカーが出す新型車は、無鉛ガソリンだけに対応したものになっていった。しかし、1973年は第1次石油危機の影響で、無鉛ガソリンの全米への十分な供給がなされていなかったため、消費者は無鉛ガソリンを扱っているスタンドで列をつくった。触媒が付いている無鉛ガソリン対応の新型車は、有鉛ガソリンを入れると鉛が触媒の表面に皮膜をつくってしまうため、無鉛ガソリンでしか走ることができなかった。ところが、シビックのCVCCエンジンは、排出ガスを根本からクリーンにする機構を採用していたため、触媒は付いていなかった。つまり、どちらのガソリンでも走ることができたのである。

「シビックのキャンペーンでは”ANY KIND OF GAS(どの種類のガソリンでもどうぞ)”がうたい文句でした。このCVCCエンジンのキャンペーンの効果で、お客さまに『Hondaは非常に高い技術力を持っている』という良いイメージを伝えていったのです」
と、当時、アメリカン・ホンダ・モーターで4輪車の営業を担当していた宗国は言う。

しかも、車体を含めた軽量化による燃費向上によって、シビックは、お客さまを”スタンドの列に並ぶ煩わしさ”から開放した。

そして、米国環境保護庁(EPA)の燃費テストでは、1974年から4年連続してナンバーワンの燃費を記録したのである。

こうしてシビックは、後のHondaの、小型車のベースとなったばかりでなく、ジャーナリズムや石油危機、価値観の多様化など、その時代を取り巻く環境の変化をも味方に付け、文字通り世界のベーシックカーへと大躍進を遂げたのだった。

*シビックが伝えてきたもの

今年でシビック発売から27年が経過した。今日まで、その変遷は6代を重ねたが、一貫したアイデンティティーは、そのたびごとに再現されていった。

ロングルーフに代表されるざん新なデザインで人気を博した3代目のワンダーシビック、F1技術を応用した自然吸気による高出力のVTECエンジンを搭載した4代目のグランドシビック、そのVTEC技術を応用して燃費の大幅改善を図ったVTEC-Eを持つ5代目のスポーツシビック。そして6代目のミラクルシビックでは、ギアチェンジのショックを和らげ、変速をよりスムーズにしたCVTミッションを搭載するなど、6代にわたるシビックたちが受け継いできたその表現力は枚挙にいとまがない。

また、この間、6度にわたる日本カー・オブ・ザ・イヤーの受賞(初代で3年連続、3代目、5代目、6代目で各1回)や、1995年には全世界生産累計台数1000万台を達成。さらには、技術革新に対して通商産業大臣賞の栄誉に輝くなど、”歴史的なクルマ”とまで評されるようになったのである。

27年前、開発者たちは、初めて自分たちの”想い”だけをカタチにして一つのクルマを創り上げ、世の中に送り出した。そして、そうした喜びは代を重ねても変わらず、Hondaの技術へのチャレンジを支える大きな力を生み出している。

まだ、名前が決まっていない新車の発売を前に、岩倉のもとに、当時、販売促進部長を務めていた奥本清彦から1本の電話が掛かってきた。そのことを岩倉は決して忘れない。

「おい、今度の新車の名前を考えたんだけど、おまえが1番、クルマのことを分かってるから、これでいいかどうか言ってくれ。名前は『シビック』だ」。

電話口で告げられたその名前を聞いた瞬間、岩倉は感動で身震いした。伝わっていた。そう、開発者たちの”想い”は通じていたのだ。

シビックのアイデンティティーを表現して、木澤と岩倉は奇しくも同じく、こう語る。
「乗っていただくお客さまの笑顔をイメージしながら、こういうものを創るんだという信念を持っていないといけない。自分の”想い”を伝えていこうとしなければ、お客さまに良いものを提供することなんてできない。それが十分にできたのが、このシビックというクルマだったと思います」。

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アコード発表 / 1976

アコード発表 / 1976

*クリーンで経済性を追求

1960年代、世界の自動車業界が標榜していたクルマづくりの指針の一つが”より大きく、より豪華に、より力強く”であった。高級と呼ばれるクルマの大半は、このテーマの下につくられており、資源の浪費を謳歌するかのようなクルマであった。

1970年、米国において排出ガス規制強化のためマスキー法が制定されると、日本もそれに同調するように規制が強化されていった。また、1973年10月には、第4次中東戦争が勃発し、アラブ諸国の原油価格が約4倍に跳ね上がり、第1次石油危機が発生。世界中に大きな経済的混乱をもたらした。
この排出ガス規制や石油危機の影響で、乗用車市場は、高級感に加え、クリーンで経済性を追求した低燃費なファミリーカーを求めるというように変化していった。

こうした時代にあってHondaは、1972年に本格的大衆車・シビックを市場に投入。続いて1973年に低公害エンジン・CVCCを搭載したシビックCVCCを市場に投入し、市場ニーズに対応してきた。しかし、4輪車業界にあってHondaは、シビックと軽自動車など数機種を生産するに過ぎない、最後発の弱小メーカーでしかなかった。

1972年、技術研究所で静かに本格的量産小型車の開発が始まった。この開発では、特に静粛性に重点が置かれた。

「静粛性を追求するなら、直列6気筒にすべきである」
という開発スタッフの考えにより、このクルマには2000cc・縦置き直列6気筒エンジンを搭載することとなった。N360以来培ってきたFF技術をつぎ込んだ高級4ドアセダンで、開発記号を”653″と称し、開発は着々と進められていった。

しかし、653は、市場変化の影響を強く受け、その対応を余儀なくされ、何度となく設計変更が試みられた。熟成度、トータルバランスなど満足するレベルには達せず、1974年に開発の中止命令が出された。

この激変の時代がクルマづくりに要求する変革は、すべての自動車メーカーにとって大きな衝撃であり、今までのクルマづくりを、根本から見直さなければならなかった。しかし、排出ガス規制をクリアし、経済的で、ゆとりのある小型車の開発が求められているという点では、自動車メーカーが一線に並ぶことであり、最後発のHondaにとっては、逆に大きなチャンスでもあった。

*新開発システムの本格的な適用

1974年9月、シビックの開発責任者を務めた後、米国・フォード社へのCVCC技術供与のために渡米していた木澤博司(当時、技術研究所・主任研究員)が急きょ、日本に呼び戻された。
木澤は、技術研究所役員室より、
「シビックから買い換えようとする時に、問題なく購入できる、1クラス上の上級車を開発するように」
という指示を受けた。開発責任者となった木澤をメーンに、シビックの上級車種を目指す開発がスタート。開発記号は”671″と付けられ、二つの要件が示された。

一つは、時速130kmでの快適クルーズ。
「アメリカやヨーロッパへの輸出を前提としていた当時、日本車の騒音レベルは、時速100km/70デシベルでした。671では、世界に通用するクルマを目標に掲げていましたので、130km/70デシベルまで騒音レベルを下げることを目指しました」
と、木澤は言う。米国や欧州での高速走行時での静粛性を重要視したのである。

二つ目は、シビックの部品を徹底流用すること。当時のHondaは、CVCCやシビックの開発などで多額の投資をしており、新たに4輪車への投資ができる状況ではなかった。そのため、エンジンを含めた現有設備の共用と、シビックとの徹底的な部品共有化が必要であり、最少投資での開発が求められたのである。
しかし、ユーザーの目に見える価値観と快適性を満たすには、1クラス上を狙うクルマを開発しなければならない。それも開発スタッフにとっては重い課題であった。

開発体制として、開発、生産、販売の3つの立場で知恵を出し合い商品開発を行う、S・E・Dシステムが本格的に適用された。このHonda独自の商品開発システムは、河島喜好が技術研究所社長に就任した際に、
「本田宗一郎という天才に代わり、100人の凡人が同じような仕事をするにはどうすれば良いか、ということを考えてほしい」
と、技術研究所の役員を集めて話したことに端を発している。このシステムでは、販売(Sales)・生産および生産技術(Engineering)・商品開発(Development)の各部門が集まった合同プロジェクトチームを編成することにより、各々の立場、経験を踏まえて互いに意見を出し合い、生産から販売計画までを組み込んだ商品開発を行う。

プロジェクトチームは二つの要件を受け、基本コンセプトを、『使い勝手が良く、スタイリッシュで、スポーティーな小型車』と決めた。これは、開発スタッフ自身が、自ら欲しいと思えるクルマのイメージそのものであった。コンセプトを具現化するに当たり、ボティースタイルとして、4ドアセダンと3ドアハッチバックのどちらを先行して開発するかが検討された。

国内の市場調査では小型車セダン市場は競合機種が多すぎるという実態が、米国の市場調査では2000cc以下の小型車市場には4ドアセダンの需要が少ないということが、明らかになった。また、先行発売したシビックが3ドアハッチバックのスタイルが、日米両市場で受け入れられていることから、このスタイルで”広さ、スタイリッシュ、走り”の3つを満たせば市場に受け入れられると判断。3ドアハッチバックを先行開発することを決定した。

ボディーデザインについては、シビックの開発時に初めて試みられた、併行異質自由競争主義という方法が、本格的に適用された。

その結果、第1グループからは、英国のスポーツカー、ロータス・エリートに触発されたスポーツカーらしい低い車高で、グラスエリアを大きく採った非常に爽快な印象を持つデザインが提案された。第2グループからは、新しさを弾丸イメージの流麗なデザインの中に求めた、2ドアクーペ風のオーソドックスなデザインが提案されたのである。

二つの提案から、爽快感や軽快感、斬新さを重要視し、グラスエリアを大きく取った第1グループのタイプをベースにリファインすることが決定された。

*目指すは、『気持ちいいクルマ』

一つ目の要件”時速130kmでの快適クルーズ”をクリアするために、シビックに使われていたサスペンションやトランスミッションなどの駆動系の見直しに始まり、シビックCVCCエンジンを基にした徹底した改良が行われた。

サスペンションについては、シビックのサスペンションを徹底的に見直して改良が図られ、マクファーソン・ストラット4輪独立懸架とした。タイヤは運動性能に優れたラジアルタイヤを採用することにした。しかし、当時の普通車ではバイアスタイヤの装着が常識であり、ラジアルタイヤは性能は良いが高価で乗り心地もあまり良くなく、一部のスポーツカーにしか装着されていなかった。このため、653などの研究で得られた当時最新の技術の成果を盛り込んだ新しいサスペンションによる改善と、タイヤの改良が進められ、乗り心地、燃費共に満足できる性能を達成した。

トランスミッションについては、4速ミッションが主流の中、4速とオーバードライブ仕様の5速ミッションが用意された。このオーバードライブは、エンジン回転数を下げることで静粛性と燃費の向上を図ることができた。折しも当時の米国では、速度やパワーよりも燃費が優先されていたこともあり、必要不可欠な装備であった。

エンジン排気量は、当時、上級小型車の主流を占めていた1600ccにすることに決まったが、シビックCVCCの1500cc・EM型エンジンをベースとしなければならなかったため、その改良は困難を極めた。EM型エンジンは、元々1000ccで開発が始まり、1500ccまで拡大してきたものであった。それをEM型のエンジン生産設備を活用し、1600ccまで拡大するためには、ピストンのストロークを93mmに延長しなければならず、超ロングストロークエンジンとなった。そのために、回転数を上げると、エンジン自体の振動が予想を超え、静粛性が保てなくなってしまう。

木澤は新エンジンの開発を上層部に申し入れたが、投資費用の削減のため何としてもEM型エンジンで開発してほしい、と逆に頼み込まれてしまうような状態だった。結果、エンジンの熟成はもとより、エンジンマウントや車体剛性の見直しなどの振動対策を徹底的に行い、量産の見通しが立つレベルとなった。

「とにかく『どこまでも気持ちがいいクルマをつくろうよ!』と、全員がそのことだけに集中しました」(木澤)。

また、現地の環境に適した商品づくりのために、本格的な現地適合テストが実施された。実車を現地に持ち込んでのテストはシビックでも行われたが、671ではテスト部隊を編成し、長期間にわたる本格的な現地適合テストが行われた。極寒のアラスカでは氷点下48度という寒さのために、エンジンのベルトが割れるというような予想外の現象が起きた。またアリゾナでは3カ月にわたる耐久テストが行われた。デスバレーでは、摂氏50度近い気温の厳しい環境下で、耐熱性やエアコン性能などの徹底したテストが行われたのである。

「実際に現地に行って、やってみなければ経験できないことが分かり、十分な対策を練ることができました」
と、サスペンションを担当した水戸部(みとべ)啓一(初代アコードPL)は言う。

*本田の一言、『ハンドルが重い』

S・E・Dでの企画検討会では、快適なクルージングを実現するために、快適な居住性を追求するということで、次のような快適装備の装着が考えられた。

インストルメントパネル(以降、インパネ)一体型のエアコンディショナー(以降、エアコン)、テールゲートオープナー、室内装飾のカラーコーディネート、パワーステアリング(以降、パワステ)など。これらをお客さまの立場から、使い勝手が良く、より低価格で実現することを目指した。

エアコンは当時、クーラーと言われ、ヒーターとは別にインパネにぶら下がる冷房専用機が主流であったが、それをインパネと一体化することにより、冷・暖房の微妙な温度調節が可能となった。このクラスとしては、他社に先駆けた本格的なエアコンの採用である。

テールゲートオープナーは、他社では高級車に使われていた装備であった。671への装着を検討するきっかけは、
「ゴルフバッグを出すのに、小さなクルマでは、いちいち、お客さんに鍵を使って、トランクを空けてもらわないとならない」
という、開発メンバーが聞いた、あるゴルフ場のキャディさんの言葉であった。しかし、高級車に装着されていたオープナーは電磁式であり、コストが高かった。そこで、ボンネットオープナーに使っているワイヤー式ではできないか?ということで、早速、試作しテストを行った。事前に心配された、ワイヤーの取りまわしの複雑化による作動時の重たさもなく、スムーズな開閉ができたため、装着することを決定。安いコストでテールゲートオープナーを実現することができた。

内装については、色の調和に比較的無関心なクルマが多かったが、671では室内のカラーコーディネートへの配慮がなされた。合理性、実用性に割り切ったシビックからの上級車移行へのユーザーを考慮し、塗装鉄板むき出しであったピラー部やドアの内側を、フルカウルライニング仕様とした。また、シートベルトも黒1色だったものを、室内色に合わせるようにした。

インパネについては、コックピットと呼ばれるように圧迫感があったレイアウトを排除し、開放感のある(シビックで好評であった)トレータイプを採用し、ドライバーの居住感覚を重視したデザインとした。

パワステについては、当時、高級大型乗用車に装備されていたものであったが、本田宗一郎が和光研究所に来て、
「ハンドルが重い」
と言ったことから、装着検討が始まった。
しかし、パワステの搭載については困難を極めた。既に、技術研究所では車速応動型パワステとして、先行研究段階で誕生していた。しかし、パワステに限らず、油圧制御のシステムを量産車に塔載することは、当時のHonda車では初めての試みであり、複雑な機構は故障を起こす要素を含んでいるとの心配があった。また、小型車クラスには不要の装備ではないかという声もあり、開発スタッフの中にも反対する者がいた。

「私自身、小型車にパワステが必要か懐疑的でした。ところが、実際に搭載して走ってみるとものすごく良くて、フロントヘビーなFF車では、確かに操縦性が上がりました。それ以来、パワステは絶対に必要なものと確信しました」(木澤)。

やっとのことで社内の同意を得て量産開発に入った。量産開発が進む中で、当初心配していた品質への不安は、開発スタッフの努力により、高品質への確信へと変わっていった。

しかし、認定の段階で、運輸省から待ったが掛かった。小型車へのパワステの搭載は、ハンドルが軽くなり過ぎて危険ではないかと言うことであった。木澤は運輸省に出向き、説明を行い、最後には日本自動車研究所(茨城県谷田部市)のコースで、運輸省の審査部長に試乗してもらうことになった。
「審査部長に試乗していただいたら、100mも走らないうちに、これなら大丈夫と1発で了解してくれました」(木澤)。

発売後、国内外で高い評価を得た一つは、このクラスに初めて採用した車速感応型パワステが大きな役割を果たしていると言っても過言でない。
671発売当初はSL、GL、LX、EXの4グレード構成であったが、ラジアルタイヤと5速ミッションは高級仕様のLXとEXに、パワステはEXに採用され、エアコンはオプション設定となった。

これ以降、日本の小型車にも続々とパワステやエアコンなど、アコードで採用された快適装備を採用するクルマが増え、現在では軽自動車にも装着されるほどに普及している。

*シビックの次は『これだ』

シビックの上級車として、完成した671は、クルマに乗る人たちに、ゆとりを与え、人と社会とクルマの調和を目指し、新しい主張のあるアダルトカーとして誕生させたことから、英語で”調和”や”一致”を意味する『アコード』と命名された。

1976年5月、3ドアハッチバックの斬新なデザインを採用したアコードが、国内市場に送り出された。箱根で行われたジャーナリスト対象の試乗会では、そのデザイン、居住性、装備の使い勝手、乗り心地、静粛性など、すべてにわたり賞賛を受けた。市場でも発売と同時に、そのコンセプトが受け入れられ、驚異的とも言える大ヒット車となった。

当初、国内月販目標は4000台としていたが、発売3カ月後には2倍の8000台に修正された。それに伴い、埼玉製作所狭山工場での生産は、当初計画月産8000台から1万1500台に大幅上方修正された。それでも受注台数は、生産・販売予定台数を大きく上回り、その年の国内販売実績は、実質6カ月で5万3752台となった。

また、従来の小型車クラスになかったコンセプト、仕様、装備が評価され、モーター・ファン誌主催の1976年日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞したのである。

1977年10月に4ドアセダンが追加発売されると、ますますその人気が高まり、この年、3ドアと合わせて8万3941台が販売された。

1978年9月、排気量を1800ccとしたマイナーチェンジ車を発売。国内年間販売台数はアコードシリーズとして、9万4986台と順調に伸び、国内小型車市場に本格的に参入することができた。

米国市場には、3ドアハッチバックを1976年5月の国内販売と同時に輸出を開始、同年は1万8643台が販売され、1977年には7万5995台となり、販売台数を一気に増加させた。

「当時、アコードの評価車をアメリカン・ホンダ(AH)に持って行った時に、営業担当の宗国さん(当時、AH取締役)と技術担当の現地スタッフが、シビックの次はこれだと絶賛してくれました」(木澤)。

4ドアセダンの輸出については、評価会で、米国向けとしては1600ccのエンジンでは非力で、4ドアセダンとしての市場性がないという判断から見送られた。その後排気量を1800ccにアップさせ動力性能を向上させて、1978年9月から輸出を開始。これも好評を得て、1978年には3ドアと4ドアを合わせて12万841台と、販売台数を加速的に伸ばしていった。

アコードは、米国で小型車のスタンダードカーとして、プレミアが付く人気車種に成長。米国におけるHonda4輪車の地位と市場を着々と構築していった。

*基幹車種として時代の要請に応える

1976年、3ドアハッチバックとして登場したアコードは、23年の時を刻み6代を数えるまでになったが、開発に当たり重視されたことは、車名に由来する”それぞれの時代との人と社会とクルマの調和”である。

1981年9月に発売された2代目アコードの開発からは、4ドアセダンをメーン機種としたモデルチェンジが行われた。これは、初代アコードで4ドアセダンを発売するや、3ドアハッチバックと同様に高い評価を受け、徐々にではあるがハッチバックを上回る売り上げを示し、日米それぞれの4ドアセダン市場で、アコードが受け入れられたことによる決定であった。

日本市場では、このモデルチェンジを機会に、販売チャネルの3系列化に合わせ、兄弟車種として4ドアセダン・ビガーを市場へ送った。その後、1985年には3代目アコードが発売され、日本と欧州では今までの3ドアハッチバックに代わり、ロングルーフスタイルのエアロデッキ3ドアをバリエーションに加えた。また、1989年には4代目が登場し、市場の多様化に対応したアコード・インスパイア、およびビガーとアスコットが兄弟車種として市場に投入され、機種バリエーションの充実が図られた。

一方、米国では、『需要のあるところで生産する』という考えの下、生産の現地化が図られ、1982年11月、ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)で現地生産第1号車の2代目アコードがラインオフ。米国における最初の4輪車生産モデルとなった。

また、開発の現地化も進められ、ホンダR&Dノース・アメリカ(HRA)でデザイン開発された現地開発第1号車として、1988年、アコード2ドアクーペをHAMで生産開始。1991年には、2ドアクーペに加え、5ドアのアコード・ワゴンがHRAのデザインで開発され、米国におけるアコードの機種バリエーションの充実が図られた。

1988年、HAM製アコードクーペが日本に輸出され、マスコミに大きな話題を提供した。その年、1万台以上が日本へ輸入販売されるとともに、1991年4月には、アコード・ワゴンも輸入を開始。国内のRV(Recreational Vehicle)ブームもあいまって、年販目標の5000台を大きく上回る人気を集めた。

欧州では1991年11月、英国のホンダ・オブ・ザ・U .K .マニュファクチャリング(HUM)において欧州アコード4ドアセダンの生産を開始。アジア大洋州では、既に、1978年インドネシアを皮切りとして、ノックダウン生産が数カ国で行われており、世界での生産体制が着々と整えられていった。

1997年9月、6代目へのモデルチェンジでアコードは、日本・米州・欧州・アジア大洋州の各地域専用モデルに生まれ変わった。これはHonda独創の『世界共通フレキシブル・プラットホーム』【注】によって全体最適を図りつつ、世界各地域のお客さまのニーズによりきめ細かく対応するという、Hondaが推進してきた世界4極体制の下に、各地域が自立化を図るためのクルマづくりが実現されたものである。

またエンジンについては、1985年、それまでのCVCCエンジンに代り、電子制御システムと3元触媒を採り入れたSOHCおよびDOHCの1800ccと2000ccエンジンを搭載することで、高性能化が一段と進んだ。1989年にはSOHC・2200ccを追加、1993年にはVTECエンジンを搭載した仕様が追加された。そして、1997年にはLEV仕様を追加して環境対応を行うなど、時代の要求に合わせた対応がなされてきた。

モデルチェンジごとに、車種構成やエンジン形式と排気量、装備などは代々進化を重ねてきた。それらのすべてが、各時代のニーズを取り込みながら、アコード独自のアイデンティティーである、人と社会とクルマの調和を図る中で行われ、各地域での高い評価を獲得してきたのである。

【注】世界共通フレキシブル・プラットホーム……車両サイズに対するフレキシビリティーを持ったクルマの基礎となる高剛性の基本フレーム。これを核として、各地域のニーズに合わせたボティーサイズや車体形状での生産を行うこと

*信頼を勝ち取り続ける商品として

アコードは日本で、1976年にカー・オブ・ザ・イヤーを受賞。その後、1985年~1986年日本カー・オブ・ザ・イヤーおよび1993年~1994年日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞(共に、日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員会主催)し、3度にわたり高い評価を受けた。一方、国内販売では1978年に記録した9万4986台を最高として、1998年には5万9040台となっている。これは、国内市場がRVへと移行し、セダン市場が縮小してきたことも一因である。

しかし、海外での評価は高く、特に米国ではロードテスト誌、およびカー&ドライバー誌から、1977年カー・オブ・ザ・イヤー(アンダー5000ドル部門)を受賞。1983年から始まったカー&ドライバー誌のテン・ベスト・カー賞では1998年の受賞を含め、実に16年間に12回の受賞を重ねている。

米国での販売は、1976年の1万8643台に始まり、1990年の41万7179台を最高として、常時、年間40万台前後を販売。23年間の販売台数累計は約647万台を記録している。また、1989年より3年連続でフォード社のトーラスを抜いて、モデル名別販売台数(乗用車部門)で1位を獲得するなど、常にトップ争いをする車種にまで成長している。

現在、アコードは世界12カ国の工場で生産され、140カ国以上で販売されており、1998年末には世界での生産台数累計が1022万台を超えた。このことは、アコードがワールドカーとして世界中のお客さまに認められ、信頼され、愛用されるスタンダードな商品となったことの証である。
アコードの開発責任者だった木澤は言う。

「アコードで言えることは、その時代の背景を良く考え、市場をよく観て、商品をつくらないといけないということ。開発者の独善的なクルマづくりにならないようにすることが大切だと思います。それと、一流品であり続けることです。私の考える一流品とは、その商品が購入者の期待に応えてくれるものです。期待を裏切る商品は駄目だと思います。アコードも期待を裏切らないクルマでなくてはならないと思います」。

世界中のアコードユーザーこそ、Hondaの大きな財産である。その財産を守りながら、お客さまの期待に応え、時代との調和を保ち、成長していく姿こそが、アコードに求められているものなのだ。

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世界に市場を求め、需要のある所で生産する

世界に市場を求め、需要のある所で生産する

世界に市場を求め、需要のある所で生産する

「一度優秀な外国製品が輸入されるとき、日本だけの日本一はたちまち崩れ去ってしまいます。世界一であって初めて日本一となり得るのであります」(ホンダ月報14号・1952年10月発行)。

本田宗一郎は創業後わずか4年目にして、世界一を目指す夢を語り、製品を世界的水準にまで高めること、世界市場で勝利を得ることを全従業員に求めた。
Hondaの海外展開は、2輪車の輸出から始まり、アメリカでの自前の販売網づくりなどを経て、世界各地での2輪・4輪・汎用製品の現地生産へと、積極的に企業活動の場を広げてきた。
それは、各地域のお客さまに喜んでいただける商品をタイムリーに提供するために、『需要のある所で生産する』という、Hondaの経営思想の具現化の歴史である。

1952年6月、カブF型を台湾などへ輸出したのが、Hondaの海外展開の始まりだった。同年10月には、ドリームを沖縄・フィリピンへ輸出、1954年9月には、ジュノオをアメリカに輸出した。

北米・中南米での展開
1959年6月、米国・ロサンゼルスに、アメリカン・ホンダ・モーター(AH)を設立し、Hondaの海外展開が本格的に開始された。AHでは、アメリカにHonda独自の販売網を築いて、2輪車市場の開拓に挑んだ。1969年にはN600をハワイで発売し、4輪販売の足掛かりをつくった。1986年3月、4輪第2販売チャネルのアキュラ店を設置した。
1978年2月、米国・オハイオ州にホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)を設立、1979年9月に2輪車の生産を開始した。1982年11月にはアコードの第1号車がラインオフ。日本の自動車メーカーとして初めて、アメリカでの乗用車生産を開始した。
1983年8月、米国・ノースカロライナ州にHonda初の海外汎用機工場、ホンダ・パワー・イクイップメント・マニュファクチャリング(HPE)を設立し、翌1984年8月に芝刈機の生産を開始した。
1986年11月からは、カナダのホンダ・オブ・カナダ・マニュファクチャリング(HCM・当時)でアコードの生産を開始した。
中南米での主な生産拠点は、ブラジル、メキシコ、ペルーにある。

欧州・中近東・アフリカでの展開
1961年6月、西ドイツ(当時)・ハンブルクに、ヨーロッパ・ホンダ・モーター(EH、現在のホンダ・ドイッチェランド)を設立し、欧州市場参入への足掛りをつくった。
1962年9月には、ベルギー・アールストにモペッドの生産工場、ベルギー・ホンダ・モーター(BH)を設立。この工場はHondaとしてはもちろん、日本の企業が初めてEEC域内に設立した現地生産工場である。
1979年12月、Hondaはイギリスのブリティッシュ・レイランド社(BL社・現、ローバー社)との技術提携調印を行うことで、欧州における4輪車生産の第一歩を踏み出した。1985年2月にイギリスのスウィンドンにホンダ・オブ・ザ・U .K .マニュファクチャリング(HUM)を設立、1992年10月には、欧州仕様のアコード第1号車がラインオフした。
1986年6月にはフランスのホンダ・フランス・インダストリアーレ(HFI・現、HEPE)で芝刈機、耕うん機の生産を開始した。
欧州ではイタリア、スペイン、トルコにも生産拠点を持っている。
中近東・アフリカの主な生産拠点は、パキスタン、イラン、ナイジェリアにある。

アジア・大洋州での展開
1963年、Hondaは東南アジアにおける企業活動の足がかりを築くため、シンガポールに事務所を設立して市場参入準備を進めた。
1964年10月には東南アジアにおける活動拠点として、タイのバンコクに、2輪・汎用製品の販売会社、アジア・ホンダ・モーター(ASH)を設立。翌1965年4月には、2輪車・汎用エンジンの生産拠点としてタイ・ホンダ・マニュファクチャリング(TH)を設立し、現地生産を開始した。
1992年8月には、ホンダ・カーズ・マニュファクチャリング・タイランド(HCMT)を設立し、乗用車の現地生産を開始。1996年4月に、新4輪車工場をアユタヤに建設し、アジア専用車・シティの生産を開始した。
アジア・大洋州の主な生産拠点は、インド、中国、マレーシア、インドネシア、フィリピン、台湾、ベトナム、ニュージーランド、オーストラリアにあり、その多くが現地パートナーとの合弁により企業活動を展開している。

1998年9月時点におけるHondaの全世界(日本を含む)生産拠点は34カ国102拠点を数えるまでになり、1年間に2輪・4輪・汎用の商品を通じて、世界中で出会うお客さまは1000万人に上る。

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アメリカン・ホンダ・モーター設立 / 1959

アメリカン・ホンダ・モーター設立 / 1959

*アメリカで突破口を開こう

「国内はとりあえず固まった。いずれは世界一にチャレンジしなきゃいけない。従って、おまえさん、ちょっと海外の市場を観てきてくれ」。
藤澤武夫(当時、専務)は、川島喜八郎(当時、本社営業課長)に、東南アジアでの市場調査を命じた。

創業後わずか7年あまりで、国内2輪業界におけるトップメーカーとしての基盤を固めつつあったHondaは、本格的に海外市場への輸出拡大を模索。Hondaの営業政策の中心は、これまでの国内販売の充実から、ドリーム(250cc・350cc)やベンリイ(125cc)を主力商品とする海外輸出にシフトされつつあった。

Hondaはサンプル車の輸出を手掛ける一方、
「商社を頼らずに、まずは自ら現地のマーケットを観て、そのマーケットにふさわしい商売の仕方があるはずだ」(藤澤)
と、1956年の暮れから翌新春にかけて、ヨーロッパと東南アジアで市場調査を実施。ヨーロッパへは本田宗一郎と藤澤が、東南アジアへは川島が赴いた。

東南アジアでは、ヨーロッパから輸入されたオートバイやモペットが少しずつ走り始めていた。大衆の交通手段は自転車からオートバイへの移行期にあり、近い将来には、経済成長とともに、さらなる普及が見込まれた。

3週間あまりの調査を終えて帰国した川島は、東南アジアが有望な市場であることを藤澤に報告。すると藤澤は、
「今度は、アメリカを観てきてくれ」
と、川島にアメリカでの市場調査を命じた。

川島の目に映ったアメリカは、まさに自動車の国だった。鉄道網が充実していない広大な国土を移動する手段として、自動車は絶対欠かせない存在である一方、オートバイは、レースやレジャーの場での遊び道具として、自動車の付属品的な位置付けだった。

「オートバイというのは、生活のためのトランスポーテーションであって、その間に遊びも入るという程度で、生活を主体にしたオートバイというのを僕は考えていた。従って、アメリカというのはオートバイの国ではない、というのが僕の実感でしたね」(川島)。

アメリカでの市場調査を終えて帰国した川島は、藤澤に
「手始めとしては、アメリカよりも東南アジアの方が手掛けやすいのではないか」
と提案した。
しかし、しばらくして藤澤は、
「やっぱり、アメリカをやろう」
と言い出した。

「資本主義の牙城(がじょう)・世界経済の中心であるアメリカで商売が成功すれば、これは世界に広がる。逆にアメリカでヒットしないような商品では、世界に通用するような国際商品にはなり得ない」
というのが藤澤の持論で、
「アメリカでチャレンジすることは、われわれにとって1番難しいことかも知れないけれども、これは輸出拡大に向けての1番大事なステップである」
と主張した。

*販売網は自らの手で

アメリカへの輸出に当たり、役員の中には商社を使うべきだという意見もあった。
しかし、藤澤は商社を頼らずに、アメリカにHonda全額出資の販売会社、アメリカン・ホンダ・モーター(以降、アメリカン・ホンダ)を設立し、自力で販売網を築くことにした。そして、川島は藤澤から、アメリカン・ホンダの支配人として現地への駐在を命じられた。この時、川島は39歳であった。

藤澤は、国内の2輪販売網づくりを手掛けてきた経験から、他者の力を借りて商売するのでは、先方の都合が優先した場合に、Hondaとして思うような商売ができなくなってしまうことを懸念していた。同時に、耐久消費財であるオートバイは、売った後も、自ら責任を持ってアフターサービスを行わなければならないと考えていたのである。

川島は、
――おれが、こんなでっかい仕事をしていいのかな。えらい仕事を仰せつかってしまったなあ――
と、戸惑いながらも、アメリカン・ホンダの設立準備に取り掛かった。

1958年11月、渡米して何カ所かの候補地を視察した末に、川島はロサンゼルスを選ぶことにした。ロサンゼルスは、年間を通じて気候が温暖で、雨もほとんど降らない。天候はオートバイの売り上げを左右する大きな要素となる。雨がほとんど降らないということは、1年中、商売が成り立つという意味で絶好の環境であった。
また、ロサンゼルスには多くの日系人も在住している。見知らぬ土地でスケールの大きい仕事に挑む川島は、彼らに自分たちを応援してくれる同胞のような心強さを感じ、親近感を抱いたのだった。

視察を終えて帰国した川島は、アメリカン・ホンダの設立計画書を急ピッチでまとめた。当時は、海外に現地法人を設立するには、外貨の持ち出しが規制されていたために、通商産業省と大蔵省の双方から認可を得なければならなかったのである。

しかし、資本金100万ドル(当時のレート換算で約3億6000万円)相当の外貨持ち出し申請は、大蔵省にあっけなく却下されてしまった。アメリカに自動車販売会社を設立していた大手自動車メーカーでさえ苦戦を強いられている状況下で、Hondaのようなオートバイメーカーが進出して成功するわけがないというのが、その理由だった。

川島はその後、幾度となく大蔵省に足を運んで交渉し、1959年4月、ようやく資本金25万ドルの外貨持ち出しの認可が下りた。しかも、現金の持ち出しはその約半額しか許されず、残りは相当額の商品の持ち出し(現物出資)という条件が付けられた。

*逆風強いアメリカのモーターサイクル業界

川島は1959年6月、ロサンゼルスに着任した。最初の仕事は、アメリカン・ホンダの営業拠点とするための、事務所の物件捜しであった。いくつかの物件を物色した後、川島はウエスト・ピコ通りにあった写真撮影スタジオ跡の物件を、限られた資本金をはたいて、買うことにした。

「居を構えて根を張っちゃわないと駄目だから、借りるのではなくて、とりあえず建物を買おうじゃないかと。無謀なように感じますが、それほど悲壮な覚悟で買ったつもりはないんですよ。明るい将来ばかりを夢見ていましたから。たしか10万ドル近くしたんじゃないでしょうかねえ。だから運転資金も残り2、3万ドルしか残ってない。銀行さんも『度胸がいいね』と」(川島)。

ところが、アメリカのモーターサイクル業界に参入してきたアメリカン・ホンダに対する現地の人たちの反応は、
「戦争に負けた日本で、そんなにいい製品ができるわけがない。何か持ってきて売ろうとしたって、そんな簡単にはいかないよ」
というのが一般的な見方で、だれもが成功するなどとは思っていなかった。

当時のアメリカのモーターサイクル業界は、年間需要が約5、6万台程度であり、日本の10分の1ほどの小さなマーケットの中でシェア争いを演じているような状況であった。業界自体も、積極的なマーケット拡大の努力は行っていなかった。

アメリカにおける移動手段は自動車が一般的であり、オートバイは、レジャー愛好家やレースマニアなど、一部の限られた人たちの乗り物で、マーケットのほとんどが排気量500cc以上の大型オートバイで占められていた。しかも、オートバイには、『ブラックジャケット』と呼ばれる黒い革ジャンパーを着たアウト・ロー(無法者)たちの遊び道具、といった邪悪なイメージがつきまとっていて、アメリカ社会における評価は非常に低く、大衆商品としては受け入れられていないのが実情であった。

モーターサイクル業界に対しても、暗い、汚い、という悪いイメージが根付いてしまっていた。多くのモーターサイクル販売店の店内はうす暗く、床はオイルで黒く汚れていて、展示車から漏れるオイルを受けとめるオイルパンが敷かれている光景は、だれもが気軽に足を運べるような雰囲気ではなかった。

*従業員8人で営業活動を開始

1959年9月、アメリカン・ホンダは営業活動をスタートした。
主力商品は、ドリーム(250cc・350cc)とベンリイ(125cc)で、日本で発売されたばかりの、スーパー・カブ(アメリカ名・Honda 50)も加えられ、販売目標は月間1000台と高く掲げた。

「現地の社会に適した経営がなされなければ、自らの発展もあり得ない」
という考えの下、川島と部下の小林隆幸以外は、現地で採用した従業員が中心となり、総勢8人で営業活動を開始した。

彼らのつてを頼りにして、南カリフォルニア地域の既存のオートバイ販売店にダイレクトメールを送付したり、川島自らが販売店を訪問して商品のPRに努めたほか、地元の業界紙やモーターサイクル雑誌にも広告を出して、販売店の募集を行った。これに関心を示した販売店経営者は、商品を見たり試乗するために、アメリカン・ホンダの事務所を訪れるようになった。

ハーレー・ダビッドソンなどの米国車や、ヨーロッパからの輸入車を取り扱ってきた彼らにとって、小型で角張った奇妙なスタイルをしているHondaのオートバイは、これまで見たことのないものだった。とても売れそうな商品ではないと思う人が多かったものの、試乗して、その走行性能に注目した人は、サンプルとして買ってくれるようになった。

アメリカン・ホンダが営業活動を開始して3カ月が過ぎ、1959年も暮れようとしていたが、総販売台数はわずか170台余り。当初の目標である月間1000台には程遠く、アメリカのモーターサイクル市場開拓は、アメリカン・ホンダにとって、険しい道のりとなった。

*主力商品にトラブル続出

1960年に入って、売り上げ台数も月間数百台を記録するようになり、
「よし、アメリカでも何とかやっていけそうかな」
と、川島が手応えを感じ始めていた矢先に、顧客の手に渡った商品にトラブルが発生したとの連絡が入った。その内容は、アメリカン・ホンダの主力商品であるドリーム、ベンリイに搭載されているエンジンが過熱で焼き付くという現象で、150台余りの商品に同じ現象が発生。急きょ日本からメカニックを呼び、その対応に追われた。

しかもこの時、数多くの同じ商品が日本で船積みされ、ロサンゼルスへの輸送途上にあった。川島は頭を抱えた。
日本から部品を取り寄せて修理して売ろうかとも考えたが、商売も軌道に乗りかけようとしているこの時期に、販売店やユーザーからの信頼を失いたくなかった。

「これからアメリカに根付いて商売をしていく以上は、品質に問題のない商品を自信を持って売り込みたい」
と、川島は日本にいる藤澤へ事情を説明し、
「トラブルが発生した商品は、すべて日本に送り返したい」
と要請した。

トラブルを起こした同型の商品は、すべて販売店から回収、在庫の商品もすべて日本へ送り返された。はるか太平洋を渡って港に着いた100台余りの商品も、陸揚げせずにそのまま送り返された。

「あの時に、もし現地で手直しして売ったりしていたら、評判が悪かったでしょうね。全部販売店から引き揚げて日本へ返して、新たな商品を日本から取り寄せて商売を始めた。これはアメリカのオートバイ屋には大変感銘を与えたのではないでしょうか」(川島)。

販売店の経営者たちはHondaの技術を高く評価し始めていた。特に、展示車からオイルが漏れるのはモーターサイクルの宿命と考えていた彼らは、Hondaのオートバイからはオイルが1滴も漏れないことに注目していた。

*オートバイを大衆商品に

主力商品を失ったアメリカン・ホンダは、しばらくの間は、残された商品・スーパーカブを前面に出して営業活動を続けなければならなかった。

スーパーカブは、他社メーカーの同じクラスのオートバイに比べ、倍以上の馬力を持つ高い走行性能を誇り、小さくて取り回しが良く、4ストロークエンジンの採用により音も静かであった。加えて、フロントカバーと幅広いステップを持つデザインは、スカートもめくれにくく、女性でも手軽に乗れる点をアピールし、
「これまでアメリカ人が悪いイメージを連想したモーターサイクルとは全く別の乗り物、オートバイらしからぬオートバイ」(川島)
というイメージを与え始めていた。
また、250ドルというリーズナブルな価格は、大学生が小遣いをためたり、ローンを組んでも買える価格だったため、彼らのキャンパス間の移動用として注目され始めた。

スーパーカブのヒットなどで、1961年5月の月間販売台数は念願だった1000台を突破したが、川島は、既存の販売店を通じての商売だけでは、これ以上の飛躍的な伸びは望めないと感じ始めていた。
アメリカン・ホンダは、スーパーカブを主力商品とする新たな販売網づくりに乗り出す一方で、オートバイを大衆商品としてアピールしようと、他社メーカーがこれまでやらなかった大々的な広告を展開することにした。

アメリカン・ホンダの事業概要を各地でプレゼンテーションしたり、広告を通じて、これからオートバイ販売に参入したいという熱意のある人を広く募集。アメリカン・ホンダの販売網拡大を図るばかりか、新風を吹き込むことでモーターサイクル業界全体の活性化も狙っていた。加えて、オートバイを手軽に買える商品にしようと、スポーツ用品店やアウトドアショップなどに、スーパーカブを販売してもらうよう働き掛けたのである。

広告は、極めて限られた人たちにしか読まれない業界紙やモーターサイクル雑誌への掲載にとどまらず、一般大衆誌(西部11州版)にも掲載することにした。中でも、アメリカを代表する高級グラフ誌・ライフをはじめとする一流雑誌に広告を掲載することで、モーターサイクルという商品そのもののイメージアップを狙った。
掲載に当たっては、明るく華やかな雰囲気の色、写真を厳選。アメリカ人が悪いイメージを連想するモーターサイクルという表現は一切使わず、『NIFTY・THRIFTY・HONDA FIFTY(おしゃれで経済的、粋な乗り物・Honda 50)』といったユニークなキャッチコピーを使うことで、モーターサイクルが大衆商品である点をアピールすることに努めた。

「広告を打つに当たっては、結構、費用がかかりました。ライフ誌(西部11州版)のカラー1ページで7、8万ドルほどかかりましたかね。ある程度カブが売れるようになってからの話で度胸良くやりました」(川島)。

スーパーカブの大ヒットによるユーザーの増加と新規販売店の参入による契約販売店の増加に対応するため、アメリカン・ホンダのスタッフたちは、サービスパーツの充実とサービスシステムの整備に奔走する日々が続くことになった。

「部品でもうけようという感覚はひとまず置いて、とにかくユーザーへのアフターサービスをきちっとやろう。欠品や部品が間に合わないことで不評を買ってはならない」
という川島の考えの下に、アメリカン・ホンダは、サービスパーツを、すべて航空便で日本から取り寄せて、販売店に送った。

*モーターサイクル業界のイメージチェンジを

アメリカン・ホンダが飛躍的な販売促進を遂げるには、自らの販売網の拡大と商品の宣伝に努める一方で、アメリカの人たちが抱いているモーターサイクル、そしてモーターサイクル業界に対する邪悪なイメージを払拭する必要があった。

アメリカン・ホンダの営業スタッフは、全員、背広にネクタイを締め、サービス・メカニックたちも真っ白の作業着を着用するようにした。常に清潔感のある服装と礼儀正しい態度で顧客に接することを心掛け、Hondaのオートバイを取り扱う販売店の経営者たちへも、その大切さをアピールした。そして、セールス活動、サービス技術に関するマニュアルやテキストを作成し、各地で講習会を開催し、販売店の育成に力を注いでいった。

販売店の経営者たちには、店舗の改装も積極的に勧めた。アメリカン・ホンダとしても、店の敷地に商品を試乗できるスペースと清潔感あふれる大型ショールームを併せ持つ直営店をつくることで、オートバイ販売店の理想像をアピール。オートバイ販売店は油にまみれた薄汚ない所という悪いイメージの払拭に努めた(しかし、この直営店は、米・独占禁止法に触れるとして後に閉鎖した)。

アメリカン・ホンダが力を入れてきた広告・宣伝についても、各販売店が独自で行うような風土をつくろうとした。そして、Hondaのオートバイの優良販売店に対しては、その店の広告・宣伝費用の一部を補助することで、販売店間に競争心を芽生えさせていった。

これらの活動が実を結んだのか、販売店の経営者たちは、売り上げ金を店の改装費用に充てて、女性や子供でも気軽に来店できる雰囲気をつくったり、自分たちの店と商品を宣伝したり、地域のボランティア活動に商品を提供したりと、販売促進と店のイメージアップを自発的に行うようになっていった。

*大反響を呼んだ『ナイセスト・ピープル・キャンペーン』

1962年12月、アメリカン・ホンダの年間総販売台数は4万台を突破、契約販売店の数は、全米一となる750店近くにまで増えた。
川島は、アメリカン・ホンダの1963年度の販売目標を、前年の販売実績の5倍増に当たる20万台に設定。アメリカン・ホンダのスタッフたちは、この数字を聞いて驚いた。
しかし、川島は、モーターサイクルに乗る人たちの社会的評価とアメリカン・ホンダの商品の知名度をさらに高めていくことができれば、不可能な数字ではないと考えていた。そのための多額の投資も覚悟し、かつてない巨額の広告費を投入するつもりでいた。

そして、大手広告代理店・グレイ社から提案された『YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA(素晴らしい人々、Hondaに乗る)』をキャッチコピーとする広告キャンペーンを採用し、アメリカ西部11州を対象に大々的に展開することにした。

この広告には、主婦や親子、若いカップルといった良識ある人たち、いわゆるナイセストピープルが、さまざまな目的でスーパーカブに乗っている姿が描かれていた。その色彩鮮やかなイラストと完成度の高いデザインは、これまでモーターサイクルという言葉を聞いて嫌悪感を抱いたり、モーターサイクルに対して全く関心を示さなかった人たちに、日常の暮らしに密着した手軽な乗り物としての、モーターサイクルの新しい存在価値を強烈に訴え掛けた。

「オートバイが欲しい」
という成長期の子供たちの声に横を向いていた母親も、
「Hondaだったら買ってあげる」
と妥協。スーパーカブは、誕生日やクリスマスのプレゼントとしても人気を集めるほどになった。学生やビジネスマン、主婦をはじめとする多くの層からの支持を得て、大衆商品として認められるようになっていった。

『ナイセストピープル・キャンペーン』が大反響を呼んだことで自信を持ったグレイ社は、
「アメリカン・ホンダとして、アカデミー賞授賞式にスポンサー参加してみないか」
と、川島に話を持ち掛けてきた。

アカデミー賞授賞式は、全米が注目する一大文化イベントであり、その模様は全米にテレビ放映される。7、8割を超える高視聴率を誇るこの番組の中でコマーシャルを放映すれば、商品とアメリカン・ホンダの名前を一気に全米中に広められるチャンスだ、と言うのである。放映料は、1分30秒立てのコマーシャル2本で30万ドル(約1億円)だった。約1200台分のスーパーカブの売り上げがあっという間に吹き飛んでしまうような破格の値段を提示され、さすがに川島は返事をためらった。

「30万ドルということで、ちょっと私も考えましたよ。でも、勝負どころはそんなに何回もあるものではないと(藤澤さんから)教わっていますし、『よし、やろう』ということで決断したんですけどね。やっぱりちょっとびびりましたね、正直なところ…」(川島)。

アメリカン・ホンダは外国企業として初めて、アカデミー賞授賞式にスポンサーとして参加することになったが、モーターサイクルメーカーが参加するのは前代未聞のことであると、関係者の話題を呼んだ。

1964年4月、全米中に放映されたテレビコマーシャルは、予想以上の反響を呼んだ。新たにHondaの販売店を始めたいという人が圧倒的に増えたほか、全米中の一流企業から、
「当社の販売促進キャンペーンの商品として、ぜひスーパーカブを使いたい」
といった、タイアップの申し込みが殺到したのである。スーパーカブは、日常の暮らしに密着した手軽な乗り物としての新しいオートバイの価値を全米にアピールしたことで、アメリカ社会に根付いていたモーターサイクルに対する邪悪なイメージを払拭し、全米規模の爆発的なヒット商品に成長していった。

「やっぱり商売というのは総合戦だと思いますね。まず商品が良くなきゃいけない。それにふさわしい組織、組織を動かす人間がいなきゃいけない。その点で私はいい商品に恵まれたし、スタッフにも恵まれた。それから何といっても自らの販売網をつくろうとするHondaの思想というものが、やはり1番大きな原動力だったと思います。小売店を直轄にしたことが、アメリカにおける販売網・販売の成功につながったと思いますね」(川島)。

*1960年代半ばの販売不振への対応

Hondaのオートバイはアメリカ社会にすっかり定着し、1970年度の販売台数は50万台を突破。商品のラインアップも50ccのHonda・ミニトレール(Hondaモンキー・ダックスの輸出仕様車)から、750ccの大型オートバイまで、充実が図られた。

しかし、それまでの道のりは順風万帆というわけではなかった。
1965年に、アメリカはベトナム戦争に参戦。スーパーカブの購買層の中心だった多くの若者が戦地に赴いた。社会は混迷の様相を見せ、金融市場も不安定になり、ローンでオートバイを買うこともままならない状況になった。1966年の春先ごろからスーパーカブをはじめとして、アメリカン・ホンダの商品の売れ行きは一気に鈍り、販売不振がしばらく続いた。
不振の原因は社会的な背景によるものと考えられたが、流行の変遷により、アメリカン・ホンダの商品に対する目新しさがなくなってきたからだという意見もあった。

アメリカン・ホンダは、広告費を大幅削減して、商品の価格を下げることに努めたほか、商品にオプショナルパーツを付けて、スタイルの異なる特別仕様車を販売。日本の技術研究所には、アメリカ向けの新車の開発に力を入れるよう働き掛けるなど、需要の喚起を図るためのさまざまな施策を展開した。
その結果、新しいオートバイのマーケットを創り出すことに成功。1966年には新商品・ハンター・カブ(90cc)を発売した。これは、以前から広大な原野や山野を手軽に走れるオートバイを求め、スーパーカブを改造して乗っていた人たちのニーズに応えたものであった。

また、1968年に発売したHonda・ミニトレールは、子供でも手軽に乗って楽しめるオートバイとして大ヒット。親子連れで週末のアウトドアレジャーとして、ミニトレールに乗って楽しむ光景が各所で見られるようになった。

YMCA(アメリカ・キリスト教青年会)は、ミニトレールを使って、青少年にその安全で正しい乗り方と、いろいろな楽しい使い方を教える活動を通じて、団体活動に積極的に参加する態度を身に付けさせ、その健全育成を図りたいと考えていた。
アメリカン・ホンダは、その主旨に賛同して、YMCAからの30台のミニトレール寄贈要請に応えるとともに、サービスパーツの援助やメカニック講習会の開催に便宜を図るなど、積極的に協力していくことを決めた。

このミニトレール活動を通じて、これまでYMCAの活動に興味を示さなかった子供たちが熱意を持って参加するようになり、青少年の非行化防止にも寄与していると、YMCA側から高い評価を受けた。同時に、新聞や雑誌でも大きく取り上げられ、反響を呼んだ。

これらを受けて、1970年10月、アメリカン・ホンダは、全米のYMCA各支部に合計1万台(約9億円相当)のHondaミニトレール寄贈を決定。引き続き『Y-NYPUM』【注】の活動に協力していくことにした。

【注】Y‐NYPUM……YMCA National Youth Project Using Minibikes

*4輪販売網の開拓に着手

アメリカにおける4輪車の販路開拓も険しい道のりであった。
アメリカン・ホンダは1969年12月、ハワイでN600を発売後、1970年5月からは、アメリカ本土でも同車の販売を開始。それまで築いてきた2輪車の販売店を通じて、西部3州(カリフォルニア・ワシントン・オレゴン州)から順次、4輪車(N600)の販売地域を広げていった。

しかし、自動車市場の基盤が確立しているアメリカでは、自動車は自動車販売店から購入するもの、というユーザーの考えが強く、販売活動は苦戦を強いられた。
アメリカン・ホンダが自力で4輪車専門の販売網開拓に着手したのは、1973年の新型車・シビックの発売が契機となった。

当初は、親子代々にわたってビッグ4(ジェネラル・モータース、フォード、クライスラー、アメリカン・モータース)の4輪車を販売してきたアメリカの自動車販売店のオーナーに、Hondaの企業活動やフィロソフィーを説明しても、
「自分の国の市場やお客さまについては、自国で生まれ育った私たちが1番良く知っている」
と、取り合ってもらえず、シビックを店頭に置いていただくことさえできなかった。

また、当時、超大型車が主流であったアメリカの自動車市場においては、低価格、低燃費をアピールしたHondaの小型車のコンセプトも、強い抵抗感を示されるばかりだった。

このような不利な状況下に置かれながらも、アメリカン・ホンダは販路を求めて全米を対象に営業活動を展開。十数人で構成するアメリカン・ホンダの4輪営業のスタッフたちは、1人で複数の州を販売テリトリーに持ち、現地の自動車販売店を1軒ずつ訪問し、売り込みを続けた。

その努力が実を結んで、自動車販売店のオーナーは、自分の店の商品ラインアップの一つとして、シビックを加えることを承諾してくれるようになった。とは言うものの、小型で低価格のシビックは、商品ラインアップの下方に位置付けられ、同車の展示は屋外展示場の片隅や中古車売り場に並べられるという状況だった。

しかし、アメリカン・ホンダの4輪車販売にも転機が訪れた。

世界を揺るがした第1次石油危機は、1973年半ばから翌年にかけて、アメリカの自動車業界にも大きな打撃を与えた。と同時に、同国の自動車ユーザーに対しても、大型で豪華なクルマへの憧れから、燃費を考えた実利を重視する傾向へと、自動車に対する価値観の転換を迫っていった。

そのような折、アメリカン・ホンダは、他社に先駆けてマスキー法(大気清浄法)が定める厳しい排出ガス規制値をクリアした『CVCCエンジン』搭載のシビックを市場に投入した。同車は、1974年度の米国環境保護庁(EPA)主催による燃費テストにおいても第1位を獲得。優れた走行性能とともに、全米一の低公害・低燃費をアピールしたシビックは、多くの人たちの支持を得て販売が上向くようになったのである。

*自らの手で自らのお客さまの満足を

「一時的に商品が注目されても、アメリカの自動車販売店にHondaの企業活動に対する考え方を理解してもらい、共感を得られなければ、長期的にHondaの商品を取り扱っていただける販売店は誕生しない」
と考えた宗国旨英(当時、アメリカン・ホンダ4輪営業担当)は、調査機関、J・D・パワー社の協力を得て、1976年から毎年、アメリカン・ホンダと販売契約を結んでいるすべての自動車販売店でシビックを購入していただいたお客さま一人ひとりを訪問し、シビックの商品コンセプトや品質、購入先販売店に対する意見や要望を聴き集めるようにした。

宗国たちは、寄せられた意見をまとめ、商品コンセプトについては研究所、品質に関する事項は製作所にフィードバックし、すぐに対応可能な要望に対しては、彼らの協力を得てタイミング良く応えた。また、その他の事項に関しても、次期モデルの商品開発、生産に着実に反映してもらえるように働き掛け、実現させていった。

一方、お客さまから寄せられた購入先の販売店に対する意見や要望についても、各店舗ごとに数値化してまとめた。その資料を携えて、アメリカン・ホンダの4輪営業スタッフたちは各販売店を1軒ずつ訪問。お客さまから寄せられた要望に基づいて、各販売店のオーナーと、次年度の調査時までに実施すべき諸施策と実行計画について話し合った。

このように、アメリカン・ホンダは、商品を通じてお客さまの要望に次々と応えながら、販売店と一体となって販売体制やサービスの向上を目指した活動を展開していった。結果、各販売店のオーナーも次第にアメリカン・ホンダに信頼を寄せるようになり、Hondaのショールームを設けたり、サービスの充実に力を注ぐ店も現われ始めた。この動きが、その後のHonda車専売店の誕生へとつながるのである。

「CS【注】は、今ほどカッコ良く始めたわけではないんです。『自らの手で自らのお客さまの満足を求める』というHondaの理念を、どのようにしたら販売店さんが理解して、長くHondaの商品を取り扱っていただけるだろうかと考えた末に始めたものでした。アメリカのお客さまのご要望に基づく商品・サービスの提供を目指して、一人ひとりのお客さまから、何年間にもわたって粘り強く聴き取り調査をし、寄せられた意見や要望を次々に実現していったことで、お客さまや販売店からの信頼を得られるようになりました。このような活動を地道に積み重ねることで、アメリカン・ホンダの4輪販売網が確立されてきたのです」(宗国)。

現在、Hondaが全世界で展開しているCS活動は、このような活動を原形として拡大し、発展してきたものである。

宗国たちの活動と併せて、アメリカン・ホンダは1976年にアコード、1979年にはプレリュードを発売するなど、商品ラインアップの充実も図っていった。

さらに1983年には、初のアメリカ専用モデルとしてシビックCR-X(後に、バラードスポーツCR-Xとして日本でも発売)を発売。同車は、宗国たちが手掛けたCS活動の調査結果に基づき、超低燃費車を求めるアメリカのお客さまの要望に応えるために開発されたクルマだった。

同車の開発に際しては、日・米両国のHondaの技術研究所が技術力を駆使して、車体の軽量化やアメリカのユーザー向けのデザインを追求した。並々ならぬ苦労が重ねられた結果、誕生したシビックCR-Xは、当時のアメリカにおける自動車の燃費効率の平均値(ガソリンエンジン搭載車で1ガロン当たり30マイル前後)をはるかに上回る、1ガロン当たり50マイル(1リットル当たり約21.3km)を超える超低燃費を実現。改めてHondaの技術力をアメリカのユーザーに広くアピールしたのである。

アメリカン・ホンダの商品ラインアップの充実とともに、お客さまと販売店からのHondaに対する評価も向上し、Honda車を取り扱う4輪販売店の数も増加した。1986年には、Honda車を取り扱う4輪販売店の数は全米で900店を突破。複数メーカーのクルマを取り扱うのが一般的であるアメリカにおいて、Honda車専売店の比率は7割を超え、専売率は全米一となった。

購買者層の広い商品(シビック・アコード・プレリュード)をラインアップに置く4輪販売網・Hondaチャネルを築き上げたアメリカン・ホンダは、多様化するユーザーの要望に応えるために、高級車とハイテクを駆使したスポーティーなクルマを専門に取り扱う販売網づくりに新たにチャレンジする。

そして、1986年に第2販売網・アキュラチャネルを開設。Honda車専売店として新たに約60店が同チャネルに参画し、レジェンドとインテグラの販売を開始した。
さらに、同年実施されたJ・D・パワー社主催の米国カー・ユーザー満足度調査において、Hondaは総合第1位を獲得。アメリカン・ホンダは、1976年にCS活動を開始して以来、10年の歳月を経た後、アメリカのお客さまからの高い信頼を得て、全米一の4輪販売網を築き上げたのである。

「それぞれの国に、商品とマーケティングを通じてHondaの考え方を広く伝え、自らの手で自らのお客さまの満足を得ていく。それがHondaの海外現地法人の役割なのです。私が携わったアメリカでの4輪車販売も、私たちが求めるお客さまの満足と、お客さまがお求めになる商品と販売店への満足を、より高いところで一致させようと目指した活動の積み重ねでした」(宗国)。

【注】CS……Customer Satisfaction

*アメリカの地に根付く活動

アメリカン・ホンダは1985年、アメリカン・ホンダ財団を設立した。同財団は大学の研究所への研究費用援助やイーグルロックスクールの開設など、さまざまな援助活動を行うとともに、1989年からは従業員のボランティア活動を援助するためのボランティア・プログラムもスタートさせた。
これらの諸活動は、アメリカの地に真の企業市民として根付くために、現在まで地道で着実な展開がなされている。

1959年に、ロサンゼルスのウエスト・ピコ通りで、わずか8人でスタートしたアメリカン・ホンダは、1963年にガーデナへオフィスを移転。その後、1990年にはトーランスの地に、次への飛躍に備えた新オフィスが完成し、全部門が移転した。

アメリカン・ホンダは広大なアメリカの地に根を下ろし、『現地のお客さまからいただいた利益は現地に還元する』という思想の下に、北米におけるHondaの活動拡大のための基地的役割を果たしてきたのである。

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ベルギー・ホンダ・モーター設立 / 1963

ベルギー・ホンダ・モーター設立 / 1963

*立ちはだかったEECの壁

1961年6月、アメリカン・ホンダ・モーター(以降、アメリカン・ホンダ)がアメリカでオートバイの販売を軌道に乗せ始めたころ、Hondaは海外市場へのさらなる輸出拡大を目指し、全額出資の販売会社、ヨーロッパ・ホンダ・モーター(以降、ヨーロッパ・ホンダと表記。現在のホンダ・ドイッチェランド)を西ドイツ・ハンブルクに設立した。アメリカに続き、ヨーロッパにおいても、Hondaは自力でオートバイ市場の開拓に挑んだのである。

また、同月に開催されたイギリスのマン島TTレースで、Hondaは参戦3年目にして、250cc・125ccの両クラスで1位から5位までを独占して完全優勝を達成。その活躍ぶりは、ヨーロッパ中に広まり始めていた。
既にその時、Hondaは、オートバイの生産量と輸出台数では、世界一となっていた。そして、ヨーロッパのレース活動で高い走行性能をアピールしたHonda製オートバイをもって、年間200万台以上の需要が見込まれているオートバイの本場・ヨーロッパ市場を開拓できれば、名実ともにHondaが世界一のオートバイメーカーとして認められる日がくるのもそう遠くはなかった。

しかし、当時のヨーロッパ諸国は国内産業保護のため、完成車の輸入制限や高額関税の適用など、厳しい輸入規制策を実施していた。Hondaの市場開拓の前途には、大きな壁が立ちはだかっていたのである。
それは、アメリカ、ソビエト連邦(現、ロシア)の2大大国に引けを取らない政治・経済力をつけようと、ヨーロッパの6カ国(西ドイツ・フランス・イタリア・ベネルクス3国【注】)が経済面での結束を強化。1958年1月に、欧州経済共同体(EEC、現在の欧州連合・EUの前身)を発足させたのが契機となった。

EEC加盟6カ国は、1969年末までに6カ国内の関税を相互撤廃して市場を統合し、EEC共同市場の成立を打ち出していた。その一方、EEC域外の国々へは、高額関税や輸入割り当てを含むEEC共通の輸入規制策を設けて対応していこうとしたのである。
このEECの政策は、同域内の企業には広い市場と無税で自由に流通できる特権を与える一方で、EEC域外の国々から同域内への輸出に対する関税障壁をより高くすることで、EEC加盟各国の産業発展を促進させるのが狙いであった。

そのため、Honda製オートバイは、約2カ月の期間と高額の輸送費用をかけて、日本からヨーロッパ・ホンダのあるドイツ・ハンブルク港に輸送される上に、通関時に高額関税が課せられ、現地のオートバイメーカーよりも大幅に割高な価格で販売しないと採算が取れなかった。しかも、共同市場の成立に向けて、EECは政策を徐々に進展させていったため、Hondaと同域内のオートバイメーカーとの関税格差、市場競争力は、さらに広がろうとしていた。

また、当初は、EECの政策に対して、
「各国間の政策や経済力に違いがあるのに、そんな簡単に、うまくいくはずがない」
と気にも止めていなかった日本をはじめとする世界の大半の国々も、見解を一転させてその対応に慌て始めていたのである。

【注】ベネルクス3国……ベルギー・オランダ(ネーデルランド王国)・ルクセンブルクの3カ国の頭文字を組み合せた呼称。1948年1月に発効したベネルクス関税同盟に由来する

* ベルギー・ホンダ・モーター設立 / 1963

藤澤から任された現地調査

1961年12月、EECの政策に関する話題は、日本でも新聞やラジオのニュースを通じて、頻繁に報じられるようになっていた。
EECの政策への対応は、今後のHondaの海外戦略上においても重要なカギを握っていた。そのような折、役員室での業務報告を終えて歓談していた藤澤武夫(当時、専務)と岩村英雄(当時、総務部次長)の話題も、Hondaの今後の対EEC戦略に移っていったのである。藤澤は、EECの現状と今後の動向、EEC域内におけるHondaの課題へと話を続けた。

EEC域内へのオートバイの輸出は、高い関税障壁によって限界に近付いていた。そして、EEC共同市場が成立した場合には、同域内へのオートバイの輸出自体が、ビジネスとして成り立たなくなることも懸念された。このような状況下で、Hondaが現地のオートバイメーカーと対等にビジネスを展開していくために、同域内で、Hondaが自力でオートバイを生産・販売することが主要施策として挙げられた。

EEC域内での生産・販売が実現できれば、流通コストの大幅削減につながる。また、現地での部品調達率を6割以上に高めれば、製品はEEC製として認められ、現地のメーカーと同じ条件で、無税でEEC共同市場を流通できるようになる。Honda製オートバイのポテンシャルの高さは、現地のレース活動でも実証済みであり、市場開拓のチャンスは大いに広がる望みがあった。

「それじゃあ、お前さん、調査を進めてくれないか」。
話が終わると藤澤は、HondaとしてEEC域内でオートバイの生産・販売を行う現地法人の設立を前提として、現地で市場調査を行うよう岩村に命じた。あまりに急な話に、岩村は驚きと戸惑いを隠せなかった。
「これは、Hondaの将来にとっても大変重要な問題です。きちんとした体制をつくって対応させてください」
「すべてお前に任せるから、好きなように考えてみろ」
といったやり取りが2人の間で交わされた後、岩村は現地調査に向けての体制づくりに慌ただしく取り掛かった。

そして年が明けた1962年1月、岩村と岡安健次郎(当時、資材部埼玉直材課長)、岩瀬哲也(当時、人事部研修係長)の3人によるEECへの企業進出プロジェクト・特別計画室が組識され、発足したのである。3人は、EEC調査団として、現地での調査に向けた準備を本格的に開始。関係資料の収集や予備知識の勉強に努めた。

調査の中心は、現地の資材と労働力を使ってオートバイの生産・販売を行う現地法人の立地候補地選定と、生産機種、および事業規模の検討であった。しかし、一口にEECと言っても、各国間で政策や経済環境、市場の性格から、言語、慣習などに至るまで異なり、企業活動を行う上で、それらによる影響を受けることが十分に予測された。特に、工場進出先の選定に当たっては、政情が安定しているのは無論のこと、十分な経済基盤を持ち、オートバイの部品調達もスムーズに行えなくてはならない。さらには、労働力の確保や企業活動に便宜を図るための地理的条件の考慮など、現地調査は、さまざまな要件を見極めねばならない重要な仕事となった。

*EEC調査団の決断

調査団は、工場立地の最有力候補地として、EECの中で1番安定した経済基盤を持つ西ドイツに狙いを定めた。調査団はハンブルクにあるヨーロッパ・ホンダに立ち寄って現地の市場の様子を聴いてから、西ドイツを中心に調査を進めることにした。

そして、1962年1月末、岩村をリーダーとするEEC調査団が、西ドイツ・ハンブルクへ向けて出発した。
調査団の3人は、西ドイツの主要産業都市を半月余りかけて踏破しながら、行く先々で情報を集め、分析と判断を繰り返した。調査が進むにつれ、書籍や資料を通じての下調べでは分からなかったヨーロッパ市場の現実が、次々と明らかになっていった。

調査団が予想していた以上に、現地では自転車に原動機を付けた型式のモペッド【注】が普及していた。年間需要が200万台以上と推定されていたヨーロッパの2輪車市場の内、その約8割をモペッドが占めていたのである。ヨーロッパの街では、車道と歩道の間に自転車・モペッド専用の道が設けられている所も多く、モペッドは大衆の足として、早くから現地に定着していた。

EECにおけるモペッドの最大の生産国はフランスで、年間100万台以上の生産量を誇っていた。そのほか、イタリア、西ドイツ、イギリスなどが主要生産国であり、創業期のHondaを取り巻く日本のオートバイ産業のように、各地域で数多くの中・小メーカーがモペッドを生産していた。

さらに、工場進出先の最有力候補地に挙げていた西ドイツにも、多くの難点があることが分かった。同国には、BMW社をはじめとする有数のオートバイ・モペッドのメーカーがあり、労働市場は完全雇用の状態に近く、賃金ベースもかなりの高水準に達していた。また、同国はEEC6カ国の中でも1番物価水準が高く、広大な工場用地の取得、建設工事、設備の導入、多数の従業員の採用には、予想以上の資金が必要とされた。

その後、調査団はルクセンブルクを除くEEC加盟各国を回って、各国の条件を比較検討した。イタリアとフランスも、西ドイツとほぼ同様の理由によって候補地から外され、結局、オランダとベルギーの2カ国が残った。

EEC加盟国の中でも、近代産業の発展で遅れをとっていたオランダやベルギーは、EECの発足を契機に、外国資本であろうと積極的に導入して自国の工業化を進めようとしていた。そのため、両国とも調査団の訪問を歓迎し、政府関係者自らが候補地を紹介し、現地への案内役も務めるなど、熱心にHondaに誘致を働き掛けた。

両国の条件を比較検討し、3人の意見は、ベルギーを最有力候補地とする方向に傾いていった。
ベルギーの地方都市には、小規模ながらも、西ドイツの自動車メーカーから発注を受けて、信頼性の高い部品を供給している工場が多かった。さらに、西ドイツと比べても労働者の賃金水準は低く、その確保にも見通しが立ちそうだった。また、調査団の訪問を機に、ベルギーのアールスト市が、熱心にHondaに誘致を働き掛けてきたことが、同地に決定する大きなきっかけとなった。

同市は、EECの本部が置かれているベルギーの首都・ブリュッセル、自由貿易港を持つアントワープから、それぞれ40km圏内に位置する人口約5万人ほどの小さな街だった。しかし、アールストと各都市は高速道路で結ばれ、アントワープへは運河を通じての物資の輸送も可能であることから、資材調達をはじめ、さまざまな企業活動を行う上で、好条件がそろっていた。

最終的に、調査団はベルギーのブリュッセルに営業拠点を兼ねた本社事務所を、アールストに工場を、それぞれ立地候補地に選び、約2カ月に及んだ調査を終えて帰国した。

【注】モペッド……ヨーロッパのペダル付きバイクのこと。日本では和製英語化してモペットと言われている。モペッドに搭載するエンジンは、排気量50cc以下で最高時速は40kmを超えない(各国間で若干異なる)といった条件が法律で定められている一方で、16歳以上は無免許で乗れ、税制・保険・交通法規のほか、多くの面で優遇を受けた。モーターサイクルに属するスーパーカブやスクーターとは全くカテゴリーの異なる2輪車である

*日本企業初のEECへの工場進出

1962年5月、新会社、ベルギー・ホンダ・モーター(以降、ベルギー・ホンダ)の立ち上げに携わる駐在員が人選され、総勢12人の現地駐在が決まり、全員が特別計画室に異動となった。
EEC調査団を率いた岩村が、ベルギー・ホンダの支配人として、現地での生産・販売活動を統括。岡安は工場長として、工場建設と生産活動の総指揮に当たり、岩瀬は工場の総務担当マネジャーとして生産活動を支えることになったのである。

特別計画室のメンバーは、日本政府から、ベルギー・ホンダの設立認可を得るために、現地での企業活動の概要を『ヨーロッパ工場設立趣意書』としてまとめた。そして、多くの資料を携えて、連日のように通商産業省、大蔵省、日本銀行などへ赴き、関係者に事情説明を繰り返した。
3年前(1959年)のアメリカン・ホンダの設立時と同様、日本政府は外貨不足を理由に、その持ち出しを厳しく制限していたためである。

しかし、認可はそう簡単には得られなかった。アメリカン・ホンダのように、海外への販売拠点の進出は、日本でも既に数多くの先例があったが、EEC域内への生産拠点の進出は、日本企業としてベルギー・ホンダが初めてのケースだった。しかも、それは、販売拠点の進出よりも数倍に及ぶ多額の外貨の持ち出しが必要とされたからである。

「そのような多額の外貨を持ち出す以上、それにふさわしい採算見通しがなければ、認可を与えるわけにはいかない」
と、当初、政府関係者の対応は厳しかった。交渉が進み、HondaがEEC域内で現地生産を行う趣旨は、政府関係者からの理解を得られたものの、外貨の持ち出し額が交渉の焦点となっていった。少しでも外貨の持ち出しを抑えようとする政府関係者と、現地で支障なく工場を立ち上げるためにも、十分な資金を確保したいというHonda側とで、押したり引いたりの交渉が続けられた。

結局、当初の申請額には満たなかったが、7500万ベルギー・フラン(当時の換算レートで約5億4000万円、うち2割が現物出資)で認可される運びとなった。
しかし、政府関係者は、日本企業として初めてEEC域内で海外現地生産を行うHondaに対して、期待は寄せておらず、半信半疑で、まずは状況を見守ろうという姿勢だった。

ベルギー・ホンダは、9万m2(約3万坪・埼玉製作所・和光工場とほぼ同じ広さ)の工場用地を取得し、溶接、塗装、組立、完成車検査の工程を持つ、建坪5000m2(約1500坪)の工場を建設することとした。

生産機種は、EECの2輪車市場の約8割を占めるモペッドとスーパーカブ2機種(C100・110)の計3機種で、工場の生産能力は1直体制で月産1万台に設定された。モペッドはHondaの商品ラインアップにないため、日本の技術研究所で新たに設計。エンジンと一部の部品を日本から輸入する以外は、現地で部品を調達して、ノックダウンによる生産を行うことになった。
生産した製品は、ベネルクス3国へはベルギー・ホンダが販売、それ以外の地域へは、ヨーロッパ・ホンダを通して販売することが決まった。

「年間需要が約200万台以上といわれる市場なのに、(月産1万台の生産能力は)随分小さい規模だと思われるかも知れませんが、何しろ(Hondaとしても、日本の企業としても、EEC域内での現地生産は)初めてのことでしたからね。『小さく生んで大きく育てよう』という考えでした。とにかく、一生懸命売って、実績を挙げてから工場を拡大し、生産能力を上げていこうと」(岡安)。

*わずか8カ月で工場を建設

1962年10月、アールストの工場建設予定地に初めて鍬(くわ)が入れられた。

支配人の岩村は、翌年春のオートバイの需要期までに、わずかながらでも製品をつくって販売体制を整えようと、工場の操業開始を1963年2月に設定し、建設工事を進めるよう指示した。工期はわずか4カ月余り。それは、ベルギーの人たちにとっては、常識外れの計画だった。

建設工事は、地元ベルギーの業者が請け負うことになったが、彼らは、
「ベルギーでは、1年の半分以上は雨か雪です。工事を予定通りに終わらせるなんて無責任なお約束はできません。こちらに書いてある実働日数で考えてください」
と、工場の建屋、敷地造成、動力設備の導入などを担当する松井良二に、建設スケジュール表を提示しながら、説明を始めた。
そのスケジュール表には、建設進行を示すプロセスと工程、各工程を終了させるための実働日数が細かく記載されているものの、各工程の完了予定日は空欄であった。

「日本では工事が遅れた場合、施主側と施行側との、あうんの呼吸で、作業員の数を増やしたり、残業や休日の突貫工事などを行ってでも挽回しようとしますよね。でも、それはベルギーでは通用しないんです。休日工事などは、法律でも禁止されていましたからね」(松井)。

工事は、猛スピードで進められ、一時は予定通り、春の立ち上げに間に合うかとも思われた。が、間もなく、大寒波がヨーロッパ一帯を襲った。作業現場の地面は凍結、雪に埋もれてしまうなど、工事が中止される日が増えていった。
――これでは、春の立ち上げには間に合わない――。
ベルギー・ホンダの駐在員の間に焦りが生まれた。

そして、同年12月、酷寒の屋外で作業に従事する人たちの安全を配慮し、ベルギー政府は、屋外工事の禁止令を発動。工場の建設工事も全面的に中断されることになった。
ベルギー・ホンダの駐在員たちは、この間に、現地生産を行う上での生命線とも言える部品調達ルートの確立に力を注ぐことにしたが、ここでも多くの苦労が彼らを待ち受けていた。Hondaの仕様書に応じて部品をつくり、供給してくれる企業を捜し求めてベルギーの各都市を丹念に歩き回ったものの、思うようには見つからず、隣国のオランダや西ドイツにまで足を運ばなければならなかったのである。

現地では、既に消費者保護、製品の信頼性維持に関する法律があった。メーカーは、市場に送り出した製品を、10年間は供給を続け、その期間分の在庫も用意しておくことが義務付けられており、それは、現地の部品メーカーの経営にも大きな影響を与えていた。

また、現地では受注ロット生産が主流であり、量産に対応するための設備や技術を持ち合わせていない企業は、Hondaの部品を生産するために、新たな設備を導入しなければならなかった。そのため、訪問先の企業からHondaに提示される部品価格は、日本の数倍にも膨れ上がった。

さらに、ベルギーには、日本の『JIS』に相当するような工業規格がなく、ヨーロッパ諸国の間で、それがまちまちであった点も、彼らの部品調達を困難にさせる大きな要因となった。

1963年3月、延べ4カ月間もの中断を経て、建設工事は再開された。
「突貫に次ぐ突貫工事」(岩村)
によって、工事は現地の人たちも驚くほどのペースで進んだ。
そして、工場の建屋の一部は未完成ながらも、1963年5月27日に工場は操業を開始。スーパーカブ・C100の第1号車がラインオフした。

「(工事の中断期間を含め)8カ月という短期間で工場を建設できたのは、それぞれの部門を担当したベルギー・ホンダのスタッフ、そして、建設業者さんの努力のほかありません。工場の稼働目標を決めた後に、達成するための手段を選んでいく私たちの進め方は、現地の人たちには、なかなか理解してもらえませんでした。しかし、実際に達成できて『なるほど、そういうやり方もあるんだ』と理解し、信頼されるようにもなりましたよ」(岡安)。

*ノウハウ・ゼロからの出発

日本の自動車産業界で初めて、EEC域内での現地生産をスタートさせたベルギー・ホンダは、内外から脚光を浴びた。

しかし、ベルギー・ホンダの日本人駐在員と約180人の現地の従業員には、さらに苦労が耐えない日々が続くことになった。
なぜなら、当時、日本のHondaでも部品のノックダウン輸出を始めたばかりで、ノックダウン業務はシステム化されておらず、ノウハウも、ほとんどないに等しかった。そのため、ベルギー・ホンダでは、日々の生産活動を通じて、ノックダウン生産のシステムを自らの手で築き上げるとともに、ノウハウを蓄積していかなかればならなかったからだ。

「当初は、搬入した部品に品質トラブルが見つかったり、部品が入ってこなくて生産できなかったことも多々ありました。税関のストによって部品が入らなかった時には、ストを中止してもらうよう、直談判に行ったこともありましたよ」(岩村)。

また、ベルギー・ホンダの現地従業員の中には、大量生産、ライン作業は初めての経験という人が多かった。生産台数は、1日わずか数台からスタート。日本人駐在員の指導の下、習熟訓練を兼ねた分解・組立作業を繰り返しながら、生産活動を軌道に乗せていったのである。

「工場運営に当たっての課題は、まずは品質の維持でした。そして、ベルギー人と日本人が信頼し合って働ける、明るい職場づくりを心掛けましたね」(岡安)。

中でも、日本人駐在員が現地の従業員と仕事を進める上で、言語、慣習の違いは、1番の悩みの種となった。
ベルギーはフランスとオランダ文化の混成地域で、日本とは違って、2種類の言語が使われた。同国の首都・ブリュッセルを境にして、アールストを含む北部の地域では、語源であるオランダ語とほぼ同じフラマン語、南部の地域ではフランス語が主に使われるという、複雑な言語事情を抱えていた。それは、ベルギー・ホンダの従業員間のコミュニケーションにすら影響を与えた。ほとんどの日本人駐在員は英語が多少話せる程度で、英語とフランス語が堪能な者はたった1人。生産現場でも営業事務所でも、日本人駐在員からの業務の指示は、英語を話せるベルギー人のマネジャーを介して各従業員に伝えられたが、自分の意見を思うように伝えられない歯がゆさと、通訳を介さねばならない時間のかかるコミュニケーションは、彼らに苛立ちを募らせた。

また、ヨーロッパで顕著な契約社会と階級制度をベースとするベルギーの人たちの合理的な考え方も、しばしば、日本人駐在員を戸惑わせた。仕事を進める上で、彼らとの考え方や意見の食い違いが生じることも多かったが、時間をかけて話し合うことで、一歩一歩解消していった。

「言葉や考え方の違いはあっても、意志の疎通なしでは素晴らしい製品はできるはずがない。どんなに時間をかけても、自分たちのやりたいと思うことを現地の人たちと話し合いなさいと、工場の人たちには言いましたね」(岩村)。

*マン島TTレースを制したHondaへの脅威

1963年9月5日、日本のHondaが創立15周年を迎えようとしていたころ、ベルギー・ホンダは設立1周年を迎え、工場の開所式を開催。その翌日には、地元関係者の協力により、18世紀に建築された古城を貸り切っての盛大なパーティーが催された。
式には、ベルギー政府、地元アールスト自治体の関係者をはじめ、多くの来賓が列席。社長の本田宗一郎も日本から駆け付けた。

「あのマン島TTレースを制覇したHondaのボスがやってくる」
と、現地でも本田の訪問は話題となり、上空には、『WELCOME Mr.HONDA』と書かれたのぼりを流す軽飛行機が、ゆっくりと旋回した。

階級社会のヨーロッパでは、職員、工員という厳格な職制の区分があり、管理者と一般従業員の間には、明確な身分上の差が存在して当然という認識があった。どんなに小さな会社の社長でも、従業員が直接会って話をしたり、握手をするのは現地では考えられないことだった。

「みんなと平等に楽しくやっていこう」
と、開所式のスピーチで現地の従業員にあいさつし、
「一緒に記念写真を撮ろう」
と、自ら従業員の輪に歩み寄る本田に、彼らは驚きつつも、うれしそうに本田を迎えるなど、式は終始、和やかな雰囲気で進行した。

ベルギーの人たちは一般的に、ベルギー・ホンダの日本人駐在員に対して、非常に友好的だった。彼らは現地では数少ない日本人を非常に珍しがり、パーティーの席などには、日本人駐在員の家族を必ずと言っていいほど招待し、交流を深めようと努めていた。

しかし、ベルギー・ホンダの市場参入に対しては難色を示す人たちもいた。
ベルギーやオランダは、EEC域内でもモペッドの利用率が高い地域で、数多くのモペッド・メーカーがシェア争いにしのぎを削っていた。そこに、2輪の世界グランプリレースやマン島TTレースで次々に好成績を収めているHondaの市場参入は、彼らにとって脅威だった。

「当初は、従業員募集の新聞広告を打っても、応募者が思うように集まらない時期があったんです。現地の新聞でも、『日本の”ジェネラル・モータース”が市場を荒らしに来たとか、『Hondaが市場を侵略しに来た』と報じられることもありました。そこで、『私たちはベルギーのオートバイ業界発展のために活動を始めます。製品は、ベルギー国内のみならず、各地への輸出も考えています』といった内容を前面に出すようにしたのです。それが転機になりましたね。現地の人たちが抱いていた誤解も解けていって、応募者も急増するようになりました」(岩村)。

*工場閉鎖の危機に直面

大寒波や日欧間の企業風土、言語、慣習の違いをはじめ、あらゆる障害を克服しながら工場を立ち上げ、本格生産へと軌道に乗せようとしたベルギー・ホンダであったが、その後も、さらなる荒波にもまれることになる。

何よりもベルギー・ホンダのスタッフたちを苦しめたのは、苦労して立ち上げた新機種のモペッド・C310が、営業努力も実らず、思うように売れなかったことだった。
しかも、苦労して築き上げた新しい販売網に製品を投入して間もなく、顧客の手に渡った商品にトラブルが発生。クレームとして、工場に返品されてくる数が多くなっていったのである。

モペッド・C310は、現地の市場のニーズを十分に反映して、新たに設計・開発された製品ではなかった。それは、ベルギー・ホンダの設立が決まり、工場を立ち上げるまでの限られた期間で、ヨーロッパ諸国の定めるモペッド規制に合うよう、Hondaの既存の商品に改良が加えられただけのものだったのだ。

同モペッドのベースとなったのは、日本とアメリカで大ヒットしたスーパーカブで、同車に搭載されている4サイクルエンジンを、最大時速40kmを超えないようにパワーダウンさせ、現地のモペッドと同じようにペダルを付けたものだった。しかも、Honda製モペッドは、4サイクルエンジンの搭載によって、2サイクルエンジン全盛のヨーロッパ製モペッドよりも、車体が大型で重くなっており、その外観は、モペッドではなく、モーターサイクルのカテゴリーに近い乗り物と、現地の人たちには映った。

このモペッド・C310は、体格の大きい現地の人たちに必ず受け入れられると見込んでの投入であったが、現地のユーザーの心は最後までつかみきれなかった。

また、ユーザーが2サイクルエンジンの現地のモペッドと同様に、4サイクルエンジンを搭載するHonda製モペッドにも、ガソリンにオイルを混ぜた燃料を使ってしまい、品質トラブルを招くといった事例も多発。販売店やユーザーへ4サイクルエンジンの優秀性をアピールしたり、サービス方法の説明を徹底させるなど、その浸透に多大な労力と時間を費やしたにもかかわらず、期待通りの売り上げに結び付けることはできなかった。

さらに、ベルギー・ホンダの手持ち資金が少なくなり、品質要件を十分に満たす部品が搬入できなくなるなど、同社の経営を悪化させる要素が重なっていった。
そして、ベルギー・ホンダの工場は資金切れによって、ついには工場閉鎖の危機にまで追い込まれてしまったのである。

*その後の海外展開への教訓

「やっぱり、工場というのは、売れる分だけつくるというのが原則なんだよな」。
ベルギー・ホンダの状況を心配して、現地を訪れた藤澤は、日本人駐在員に言葉を掛けた。
その後、ベルギー・ホンダは、現地の従業員を1人も解雇することなく、彼らと力を合わせて経営再建に取り組んだ。日本の製作所や技術研究所からも多くの人たちが、ベルギー・ホンダの生産活動を支え、製品の改良に携わった。現地の従業員も、ほとんどの人が退職せずに日本人スタッフと苦労を共にした。

しかし、さまざまな施策を講じたものの、その苦労は長年にわたって続くことになる。
1964年に販売部門の責任者としてベルギー・ホンダに赴任し、現地で再建の陣頭指揮に当たった吉澤幸一郎は、当時の苦労を次のように語る。
「『撤退をしたら、もう1回そこへ出ていくということはできないぞ。大変な労力と金が要るし、名前も傷つく。日本からも応援するから、どんなに苦しくても、何とか持ちこたえろ』と、藤澤さんからは随分言われました」。

EECの政策が、その後のHondaのヨーロッパ戦略を大きく左右するという状況下で、Hondaのトップは、その情勢を有利に転換させようと、EEC域内への工場進出を迅速に決断した。そして、多くの従業員が力を合わせて、予期せぬ日欧間のさまざまな違いに直面しながらも、それらを懸命に克服しながら早急に体制を整え、工場を立ち上げた。
しかし、日本流の考えや方法では、現地では通用しない多くの壁にもぶつかった。現地の市場ニーズを十分につかみ切れなかった結果は、多くの現地従業員を含むHondaの人たちに試練を与えた。

一方、その試練は、後にHondaが海外で企業活動を展開する上での、貴重な財産にもなった。ベルギーでの苦労を味わった人たちの多くが、その後、Hondaの国際化の担い手として各地域の生産拠点の立ち上げや運営に携わり、その苦い経験から得たことを教訓として、大いに活かしていったのである。

「一部の部門の人だけでなく、生産・営業・開発・管理をはじめ、Hondaのあらゆる部門の人たちがベルギーでの苦労を経験したことで、『海外で企業活動を行う場合には、どういうことが大切なのか』ということが、書物としては残されていなくても、Hondaの中で、言い伝えで広がっていったと思うのです」(吉澤)。

再建されたベルギー・ホンダは、現在、4輪車部品の生産と、2輪・4輪・汎用製品の営業活動を行っている。
その間、1978年に、Hondaは欧州全域への製品・部品の供給基地としての役割を担う現地法人、Honda・ヨーロッパを同国のゲント市に設立。同法人は、運河に面した場所にあり、すぐわきを高速道路や鉄道が通るという交通の便の良さを活かして、日本から輸送された欧州全域向けの4輪車の配車準備作業や現地調達部品の供給を一手に担い、欧州各地にあるHondaの現地法人の負担を軽減。欧州地域におけるサービス向上と物流の効率化に大きな役割を果たしている。

同法人の設立と立ち上げを円滑に推進できたのは、苦労を重ねながらも、Hondaの長年にわたるベルギーでの活動が、現地の人たちに理解・評価され、多くの協力を得られたからであった。

1981年には、日本・ベルギーの両国間における文化や科学技術に関する研究活動や交流を支援するという目的の下、Honda・ベルギー基金が設立された。同基金の運営事務局はベルギー・ホンダ内に設けられており、現在も、活動の中心的役割を担っている。

ベルギー・ホンダは長い苦労の時代を経、その時々のHonda関係者の真摯な取り組みと、多くのベルギー人の理解・協力を得ながら、着実に活動の場を広げてきたのである。

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ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立 / 1980

ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング設立 / 1980

*国際競争力の強化に向けて

1970年代に入り、Hondaを取り巻く内外の諸情勢は大きく揺れ動き、変化しようとしていた。

1960年代半ば以降、工業化やモータリゼーションの進展などにより、大気汚染が社会問題として深刻化。アメリカで制定されたクリーン・エア・アクト(大気清浄法)は、1970年にマスキー法として改正され、自動車の排出ガス規制はより厳しさを増した。それは、日本の環境行政にも影響を及ぼし、国内の自動車排出ガス規制もさらに強化された。

各自動車メーカーは、その早急な対応を求められるようになり、社長の本田宗一郎は、
「これで、われわれ後発の自動車メーカーも同じスタートラインにつくことができた」
と、技術研究所員の奮起を促すと共に、全従業員にも、今がチャンスであると、ホンダ社報などを通じて自らの考えを述べた。

1971年8月、アメリカ政府はドル防衛政策を発表。円の変動相場制への移行による円の実質切り上げが進行し、日本の株式市場は暴落に見舞われるという事態となった。

これは、売上高に占める輸出比率が6割に達し、その中でも対米輸出依存度が高いHondaにとって、大きな衝撃であった。
藤澤武夫(当時、副社長)は、
「新しい発想でこれからの生き方を考えないと、この先も外圧によるショックを繰り返すことになる。(中略)技術導入、大量生産、合理化での輸出急増というパターンはすでにカベにぶつかった。何かもっと個性のあるやり方を考えねばならない」
と、1971年9月7日付の日本経済新聞の紙面にて、自らの意見を述べた。

1972年4月、専務の河島喜好の提唱により、激変する諸情勢にも柔軟に対応できる企業体質づくりを目指そうと、ニュー・ホンダ・プラン(NHP)が全社的規模で活動を開始。『生産の世界戦略』は、その企業プロジェクトの一つとして検討・推進された。

1973年10月、その河島が、創業者の本田・藤澤からバトンを受け継いで社長に就任。その矢先に、またもや世界経済を根底から揺るがすような出来事が起きた。第4次中東戦争に端を発した第1次石油危機である。この石油危機は、各企業を直撃したばかりか、全世界の人たちに、将来に向けての深刻な問題を投げ掛けた。特に、石油資源をほぼ100%輸入に頼り、高度経済成長の波に乗り続けてきた日本経済は、まさに鉄槌(てっつい)が振り降ろされるような衝撃を受けたのである。

それは、Hondaにおいて、諸情勢の変化に左右されずに、安定して商品を供給できる体制づくりを早急に推し進め、生産拠点の分散、一層の国際化という考えが根付く契機となった。

特に、『買って喜び、売って喜び、つくって喜ぶ』というHondaの理念の中には、需要のある所で生産することで、その地域の雇用の機会を拡大し、税金を納めることで地域の社会・経済活動への貢献につながるという考えがある。この理念に基づいて、どの地域に、どのような活動を通じて活路を求めていくべきか。

その対応として、NHPの『生産の世界戦略』の企業プロジェクト活動は、先進国、特にHondaの最大市場・アメリカにおける2輪車の現地生産実現の可能性を取り上げることに発展していったのである。

1974年秋、河島の指示により、フィジビリティー・スタディー(実現可能性の調査・分析)が実施されることになった。現地生産工場の視察や、輸入完成車と現地生産車とのコスト比較などの検討が重ねられた。が、日本製完成車と同等の品質がアメリカでの生産で確保できるかは、採算性と並んで大きな課題であった。
「よし、分かった。この件はいったん私が預かることにしよう。ただし、調査データは、必要な時にいつでも取り出せるようにしておくこと」。
河島は、アメリカにおける2輪車現地生産を見送ることとし、NHPの検討プロジェクトも解散された。だが、アメリカに生産基地を設けて現地生産を行うことは、河島の構想から離れてはいなかった。
――いつまでも、輸出の一方通行が続くわけはないんだ。利益ばかりを追求していては、いつまでたっても決断はできない――。
河島は着々と決断のタイミングを計っていた。

*再開された現地調査

Hondaが1972年7月に発売した小型車・シビックは、翌年よりアメリカをはじめとする海外各地にも輸出が始まった。
シビックは、自動車メーカーとして初めてマスキー法の定める厳しい排出ガス規制値をクリアしたCVCCエンジンを搭載し、低燃費と低公害をアピール。国内では1973年から3年連続でカー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。アメリカにおいても1974年にEPA(米国環境保護庁)燃費テストで全米第1位を獲得するなど、内外で高い評価を得た。このように、シビックは、第1次石油危機後の厳しい経済情勢においても国内販売、輸出ともに堅調な需要を呼ぶようになったのである。

これに伴って、シビックを生産する鈴鹿・埼玉の両製作所は、連日フル生産体制で対応する状況となった。この機会に一気にシビックの販売拡大を図るべく、鈴鹿製作所に乗用車第2生産ラインを増設するとの提案が取締役会の議題としてあがってきたのである。
しかし、河島は気が進まなかった。

「今は確かに(シビックの)売れ行きは好調だ。しかし、今のHondaでは、生産量の拡大に見合う国内販売力を早急に強化することは不可能であると考えねばならないし、ラインの増設に伴う負担もある。シビックでようやくHondaの4輪事業が芽を出そうとしている今、販売力、資金力、どれを取っても、先発メーカーと競って国内で勝てる自信はない。そのような無用の競争をするよりは、今の時期に最大の市場・アメリカで勝負をしたい。(日本の自動車メーカーでは)まだどこも出ていないアメリカに、2輪工場、ひいては4輪工場をつくっておきたい」。

このような河島の考えにより、鈴鹿製作所での乗用車第2生産ライン増設は見送られることになった。そして、アメリカでの現地生産に向けた検討が再開されたのである。
「前回の調査では、2輪車単独による現地生産では工場の採算は難しいとの結論が出た。しかし、アメリカではシビックの販売も軌道に乗り始めている。検討の余地はないだろうか」。

河島は、鈴木正巳(当時、常務)に、改めてフィジビリティー・スタディーの実施を命じた。
当時、鈴木は4輪車の海外生産とCVCCエンジンの単体販売という二つのテーマを担当しており、以前からCVCCの技術をライセンス供与した関係もあって、内外の自動車メーカーとの接触を続けていたのである。

「アメリカでどういうことができるのか、もう一度調べ直してみましょう」。
その鈴木の発案で、アメリカにおける4輪車現地生産の検討グループが組織されたのは、1975年11月のことであった。

*アメリカ進出前夜

当時、HondaがシビックとCVCCエンジンを、アメリカへ本格的に輸出しようという時に、アメリカの自動車業界は、第1次石油危機による大型車の販売不振の中で苦しんでいた。マスキー法に対する技術手段も定まらない状況で、まだまだ手頃な経済車も開発されず、ヨーロッパや日本からの小型車が次第に販路を広げていく中で、工場の操業度も低下、失業者も増加しつつあった。
その時期に、アメリカでシビックの拡販を図ることは、販売店を増やすことであった。その販売店にとって、輸入車(シビック)が増えるということは、将来起こり得る輸入規制などへの措置として、その対応策を持つことが必要とされる。

従って、社長の河島が目指すもの(アメリカでの乗用車生産)は、アメリカの経済・社会や自動車業界の現実と一致するものであり、勝負は、アメリカの現地生産にあることを見通すことでもあった。

1976年1月、鈴木はアメリカに出張。アメリカン・ホンダ・モーター(以降、アメリカン・ホンダ)支配人の中村碩文(ひろふみ)と意見交換を行った上で、アメリカ人幹部社員と懇談。Hondaがアメリカで4輪車の現地生産を行う点について、忌憚のない意見を求めた。
彼らは、アメリカ国産車のユーザーとして、故障に悩まされてきた経験から、Hondaの現地生産に対して賛同せず、
「むしろ、そんな難しいことを考えるよりは、(シビックの販売が好調な)今のうちに、どんどんクルマを(日本で)つくって送ってくれ」
という意見で一致していた。
ここにおいて現地生産の可能性の調査は、
①どのようなマネジメントによれば、良質なクルマをつくり出していくことができるか
②どのような場所を選択すれば、品質の優れたクルマをつくり出す環境が得られるか
という、品質一本に絞った目標を掲げて勉強することからスタートすることとなった。

1976年春、鈴木はCVCCエンジンの単体販売について、フォード社との交渉のさ中にあった。フォード社の社長、リー・アイアコッカ氏との直接会談の際、Hondaがアメリカで発売したばかりで、まだ数多く販売していないアコードについて同氏は、
「私も通勤で運転しているが、素晴らしいクルマですね。おめでとう」
と言って絶賛し、このエンジンの供給を求めている立場を表明した。交渉相手の担当者も、フォードがアコードの生産計画を立てるとすれば、ステーション・ワゴンを追加して年間60万台は見込めると太鼓判を押した。

鈴木はその席上で、アメリカでの4輪車現地生産の調査・検討をしていることを話し、フォード社の基幹工場の視察を打診。アイアコッカ氏はすぐに生産担当副社長を鈴木に紹介し、会談はその日のうちに実現した。生産担当副社長は、数多いフォード社の工場の中でも、従業員の質を中心に最も高く評価している工場を鈴木に紹介。会談の帰途、鈴木は、その工場を訪れた。その工場は、工場長と現場作業員のコミュニケーションが大変良好で、さすが、と感じつつも、ノックダウン生産工場としての限界も感じ取っていた。

アメリカ各地に展開する自動車メーカーの工場の多くは、ミシガン州・デトロイトから主要部品を鉄道輸送するノックダウン生産を行っていた。十分償却された建造物や生産設備に依存する多機種少量生産の組み合わせによる生産方式が採られていたのである。

当時、ホンダエンジニアリング(以降、EG)では、プレス工程の短縮や溶接工程を大幅に集約した溶接機、ロボットによる技術開発にも自信が生まれてきていた。つまり、速やかな金型交換(ダイ・チェンジ)を前提とするプレス工程からの一貫生産方式で、大量生産に依存しなくても、相応のコストパフォーマンスを描ける段階にあったのだ。

鈴木にとってこの工場視察は、アメリカに持ち込むべきハードウエア、すなわち、生産すべきクルマとその生産手段に関するHondaの前途を見極めるまたとない機会となった。
――Hondaは、アメリカでも十分にやっていけるのではないか――
と、鈴木は考え始めていた。
アメリカ各地を歩いて特に感じることは、ホテルやレストランなど、サービス産業にかかわる人たちの洗練されたもてなしや行き届いたサービス、明るく楽しい態度や雰囲気など、これぞアメリカという一面があることを見逃してはならなかった。
――悪いクルマが生まれるのは、決して人の問題ではない。運営の仕組みからくる働く意欲にあるのであって、自動車工場もその埒外(らちがい)ではない――
と、鈴木は考えた。

さらに、鈴木はアメリカの各地域の環境やライフスタイル、生活レベルの違いを痛感し、工場立地に当たっては、これらの要件も考慮しなければならないと感じ取った。

*オハイオ州での2輪車工場の建設を発表

1975年12月に発足した4輪車現地生産の検討グループの予備調査は、次の二つの要件に絞られた。

①アメリカで販売している日本製完成車の価格と比較し、コスト的に成り立つこと
②日本製完成車と同等の品質が確保できること

1976年5月、合同専務報告会にて、4輪生産の調査をアメリカのコンサルタント会社に委嘱することの承認を得て、ロケーション・スタディー(工場立地候補地の調査)の要件を提示。それは、年間10万台のシビック・アコードを生産し、鉄道またはトラックで全米に輸送するというものであった。

1976年10月、コンサルタント会社からの中間報告がなされ、経済合理性から観た具体的候補地として、オハイオ州とテネシー州内の数都市の名が挙がった。同年末には最終報告があり、主にオハイオ州・コロンバス市の周辺に多くの候補地が提案された。が、要件に見合う土地はなかなか見つからなかった。

1977年2月、これまでの調査結果を検証するため、大学の調査機関に労働力の質的調査を依頼した。その報告によれば、オハイオ州からケンタッキー州にかけての地域は定着率、勤労意欲ともに高いことが確認された。しかし、具体的な候補地としての場所を見出すことはできなかった。

工場立地候補地の要件としては、平坦な土地で、100から200エーカー(200万m2)程度の広さがあり、高速道路や鉄道へアクセスできること、良質な労働力が確保できることなどが挙げられていた。

ロケーション・スタディーと労働力の質的調査の結果から、候補地がオハイオ州に絞られたのを機に、プロジェクトメンバーも強化された。鈴木たちは新しい情報を得て、オハイオ州の中で50カ所以上の土地を視察した。が、要件を満たす場所はとうとう見つからなかった。

この事態打開のためには、それまで留保してきたオハイオ州政府との直接会談しかない、と州知事との面会を申し入れた。1977年7月のことである。
「州政府が推奨するところに良い場所がなければ、『オハイオはあきらめよう』との覚悟を決めて訪問しました」(鈴木)。

Hondaが、工場の立地候補地をオハイオに絞って考えていることを聞いた同州知事のジェームス・ローズ氏は、大いに歓迎の意を表してくれた。早速、新たな候補地が提示され、候補地を見て回る段取りが組まれた。

翌日、同州経済開発局長のジム・ダーク氏の案内で、鈴木、中川和夫(当時、取締役・海外生産担当)、吉田成美(しげよし)(当時、HIT【注】社長)のプロジェクトメンバー3人は、州政府の所有機で市郊外の工業団地を視察。その後、州政府が管理するトランスポーテーション・リサーチ・センター(TRC)に立ち寄った。

同センターは、7.5マイルのオーバル・コースをはじめ、数々のテスト設備を持つ大規模な試験場で、乗用車・トラック・自動車部品メーカー、政府、研究機関に利用されている。そこでは雇用の件も話題となり、この地域では勤勉な人が多く、良質な労働力が十分得られるとTRCの人たちは話してくれた。鈴木たちは同センターで働く若い女性テストライダーたちの働きぶりと、その周辺に広がる広大な平地を目の当たりにして、直感的にこの周辺を、さらに調査してみようと考えた。

「この周辺に工場用地として適切な場所はないでしょうか」。
ダーク氏は、TRCの東側隣接地にある土地を紹介してくれた。そこは、約200エーカーほどの広さがあり、近くには幹線道路も通じていた。廃線となってはいるが、そばには鉄道線路もある。それを復旧させて、完成車や部品の輸送に活用できる見通しも立っ。自動車生産の上で好条件がそろっている場所であることが明らかになっていった。

その夜、3人は視察した幾つかの候補地を再検討し、TRC隣接地にすることで意思統一を図った。
翌日、州政府を訪ね、ローズ氏に直接、土地の取得を申し入れた。
「それなら、その土地を州が無料で提供しましょう」
と、ローズ氏は応じた。
「いや、それは困ります。適切な価格で購入したい」。
それがHondaの意思表示であった。

工場の立ち上げは小規模の投資で2輪車の生産から始め、そのノウハウを活かして4輪車の生産を始めることにした。
「私は現地を視察しませんでしたが、信頼する部下たちが、総合的に判断した結果であればそれで良いと決断しました」(河島)。

1977年10月、Hondaはオハイオ州当局と正式に誘致協定を結び、同州での2輪車工場の建設を日米同時に発表した。総投資額は2500万ドル(当時の換算レートで約65億円)。214エーカーの土地を取得し、大型2輪車を1直体制で年産6万台生産する能力を持つ工場を建設。300から500人の従業員を雇用し、2年後の1979年に生産を開始するといった内容であった。また、同発表の場では、2輪車生産が軌道に乗り、地域社会の理解など必要な条件がそろった場合には、将来、2輪車工場の隣接地で乗用車を生産する意思があることも表明した。

【注】HIT社(ホンダ・インターナショナル・トレーディング社=Honda International Trading Corp.)1972年9月にアメリカン・ホンダの出資により設立され、輸出入業務を行っている

*アメリカでも『Honda・フィロソフィー』を

2輪車工場を運営する新現地法人の名称は、ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(以降、HAM)に決定し、1978年2月に設立された。
同法人の設立に際しては、アメリカのお客さまからいただいた利益を日本に持ち帰るのではなく、現地で再投資し、よりアメリカ社会に根付いた活動を展開したいとの考えから、資本金の80%をアメリカン・ホンダで出資し、残り20%を本田技研が出資することが決まった。ちなみに現在では、アメリカン・ホンダからHAMへの出資比率は、約97.6%にまで高まっている。

2輪車工場の建設発表を機に、日米に分かれて、工場の建設やインフラ整備の本格的な準備が開始され、HAMの社長としてアメリカで生産活動を指揮する中川和夫を中心に、企業活動のコンセプトづくりがスタートした。

オートバイを現地生産するには、日本の倍近くの資金と労力が必要とされる。利幅の薄いオートバイの現地生産を通じて利益を生み出す経営を行うには、何をなすべきかということが議論の俎上(そじょう)に上がった。Hondaは、お客さまに喜んで買っていただける高品質の製品を提供することが、企業活動の第一にあるという結論に達したのである。

オハイオでの活動をスタートするに当たっては、地域に根付いていくために、Hondaの考えや企業活動を行う上でのスタンスを明確に打ち出し、現地の人たちの理解を得ることが必要であると考えた。
また、HAMの従業員としてアメリカの人を採用する際には、日米間の企業風土をはじめとするさまざまな違いはあるが、Hondaが企業活動を始める趣旨や考えを彼らにしっかりと伝え、理解と共感を得ることが大事だと考えた。それには、まずHondaとして採用の考え方を整理する必要があった。

多くの議論を通して、従業員の呼び方については、アメリカで広く使われているワーカーと言った呼び方などではなく、共通の目的を達成するために活動する仲間という意味から、『アソシエイト』と称することが決定。
さらに、賃金体系やジョブローテーションなど、基本事項を明確にしなければならなかった。アメリカでは数多くの職種に対し、それに見合った賃金を支払うのが一般的であったが、HAMではその慣行を採らなかった。どの職種においても品質上の責任を担ってもらうことを職務の一端とし、職種や監督者の名称も新しく定め、従業員が仕事に対して誇りを持ち、かつチームワークが形づくられる配慮がなされた。工場内ではローテーションを前提とした同一賃金レートが決定されたのである。

最初に、工場運営の中核を担うアメリカ人マネジャーを採用した後、彼らとHAMの企業活動のコンセプトを十分に話し合った上で、オートバイの生産に携わる一般の従業員の採用活動を行うようにした。
従業員の募集は、新聞などで行わなかったにもかかわらず入社希望者は殺到し、その数は3000人を超えた。
「失業率が高い時期ではありましたが、Hondaと聞いただけで大変多くの応募者が集まる。Hondaが製品や販売を通じて築いてきた良いイメージがアメリカに根付いていると、改めて感じましたね」(中川)。

採用活動を中心となって推進したのは、吉田成美(HAM副社長)と岩本邦雄(同、総務担当マネジャー)であった。彼らは、HAMへの入社希望者一人ひとりに対して、Hondaがアメリカで生産活動を始める趣旨やHondaの活動方針とフィロソフィー、諸規則などを粘り強く説明するとともに、選考メンバー全員が賛成しなければ採用しないという方針の下に厳選採用を実施した。
その結果、採用したのはわずか50人だった。彼らは初めてオートバイの生産に携わる人たちばかりであった。Honda独自の考え方や活動を早く理解してもらうためには、オートバイの生産が未経験でも意欲のある人の方が良いとの考えが強かったからだ。

「『白い作業衣はやめてくれ。従業員全員が白い作業衣を着るなどアメリカの常識にはない』などと反発を受けたりもしましたね。けれども、白の作業衣は製品を傷つけないようにするためにボタンが隠されていること、汚れればすぐに分かるので、(生産活動を行う上での)清潔感を保つ気持ちを促す狙いがあること、などを説明すると、ほとんどの人は納得してくれました」(岩本)。

また、HAMではHondaの基本理念に則って、アメリカの生産工場では一般的であった、幹部に対する恩典的な制度は導入されなかった。全員が一斉に食事を取れるカフェテリア形式の食堂や、駐車場の先着順使用など、独自の福利厚生制度を導入したのである。

*2輪のフラッグシップモデルをHAMで

HAMの生産機種を決定する上では、さまざまな意見が出された。

アメリカの2輪車市場は大型オートバイが主流である点を考えると、日本の埼玉製作所・狭山工場で生産し、対米輸出している2輪車のフラッグシップモデル、ゴールドウイング・GL1000が望ましかった。同車をHAM専用の生産機種とし、日本では生産しない基本方針が固められたものの、同車は部品点数も多く、初めてオートバイの生産活動に携わるHAMのアソシエイトにとっては難易度も高い。品質を確保していく上で、多くの労力が必要となることも十分予想された。

従って、部品点数が比較的少ないモトクロス仕様のオートバイ・CR250Rの生産からスタートした後、段階を踏んでゴールドウイング・GL1000を立ち上げていくことになったのである。
1979年に入ると、日本人駐在員の現地入りが始まった。彼らは市民として地域社会に溶け込むように、分散して住むこととした。駐在員と家族にとっては、言葉の問題など多くの苦労があったが、Hondaのこのような姿勢が、HAMが地元に溶け込み、地域社会に認められる基盤になっていったのである。

HAMでは日本人駐在員の指導の下、アソシエイトへの工程訓練が始まった。技術指導は通訳を介さずに実施され、日本人駐在員は、言葉とジェスチャーを交えながら、Hondaが生産活動を行う上で最重要視している品質管理の大切さを、繰り返してアソシエイトに説明し、熱心に技術指導を繰り返していった。

また、アメリカ人マネジャーを日本に派遣。Hondaの生産活動を学ばせるとともに、固有技術を必要とする溶接作業では、アソシエイトに、オハイオ州の職業訓練所で基礎知識を学ばせた後、日本で2週間にわたる実習を体験させた。訓練はその後、他工程でも着々と進められた。さらに、立ち上げに向けて、狭山工場と部品の搬送における検討もあらゆる面から行われた。それは、日本からの海上輸送やアメリカでの鉄道を利用した輸送事情を踏まえ、品質面や生産管理面から、部品の数と種類をどのようにセットし梱包したらいいのか、という細部にわたるものであった。

1979年9月10日、CR250Rの第1号車がラインオフした。生産活動は、品質確保を最優先にして行われ、
「部品に傷があるのを見つけたら、すぐに打ち上げ、後工程には流さないこと」
などの発見提案が推進された。

また、部品メーカーには、部品を搬入する際の取り扱いに対する注意を呼び掛けるとともに、品質要件に満たない部品が見つかった場合には、その原因を共に追求し、その対処に当たっていったのである。

このようにしてHAMは、生産活動を徐々に軌道に乗せ、1980年4月には待望の新機種、ゴールドウィング・GL1100が、HAMのアソシエイトの手によって立ち上げられたのである。

*着々と進められた4輪車生産のステージづくり

1979年6月、OPEC総会で基準原油価格が大幅に引き上げられたことに端を発した第2次石油危機は、世界的な省エネルギー化に拍車をかけるものとなった。とりわけ大型車が中心であったアメリカ市場では、燃費が良いクルマに人気が集まっていった。

1980年1月、HondaはHAMの2輪車工場の隣接地に4輪車工場を建設し、日本の自動車メーカーとして初めて、アメリカで乗用車を現地生産する計画を発表。その内容は、新たに2億5000万ドル(当時の換算レートで約500億円)の投資を行い、年産約15万台の生産能力を持つ工場を建設。さらに、新たに約2000人の従業員を採用し、2年後を目標に生産活動を開始するというものであった。

この発表は、それまで拡大の一途をたどってきた日本製自動車の対米輸出が日米貿易摩擦問題の中心に位置付けられている状況下に一陣の涼風を吹き込み、日米両国の政府関係者からも歓迎の意が表明された。

またHondaが、このような貿易摩擦が生じる前から自主的にアメリカでの乗用車の現地生産を計画し、実行に移そうとしていた点に対して、マスコミ関係者をはじめ多くの人たちからの評価も高まったのである。

EGではHAMでの4輪車生産の規模(1ラインで日産600台)を想定して、工程を大幅に集約化した溶接機を開発。鋼板などをアメリカから取り寄せてトライをするなど、確認作業を進めていったのである。

アメリカでの4輪車生産の計画が具体化される一方で、1979年12月には、Hondaはイギリスの自動車メーカー・ブリティッシュ・レイランド(BL)社と技術提携を結び、欧州における4輪車生産の第一歩を踏み出していった。ここで得た4輪車用の生産設備や、エンジン、トランスミッションなどを海外に輸送するための経験は、HAMでの2輪車の生産で培った物流面でのノウハウと併せて、HAMにおける4輪車生産に向けた戦略に活かされていった。

このようにHondaは、HAMでの4輪車生産に向けた準備を着々と進めることで、
――アメリカでもやれる――
という自信を深めていったのである。

*日本製以上のアコードをつくれ

1980年12月、HAM4輪車工場の建設工事が着工された。Hondaはアメリカ社会に根付いた工場をつくることを示すため、現地の生産設備を積極的に導入するとともに、アメリカの鋼板、プラスチック、塗料などの原材料を使用して、クルマを製造することを基本方針とした。このことは当時、日米の品質規格レベルの違いを考えると大きなリスクが想定され、チャレンジングなことであった。
現地では工事が本格化するに伴い、
――Hondaは本当に日本製に劣らないクルマをアメリカでつくれるのか――
と危惧する人も多かった。HAM製のアコードは、品質が劣っているというイメージを一度持たれてしまったら、それを拭い去ることは難しい。それだけに品質面での失敗は許されなかった。

4輪車の生産面でのフォロー体制としては、日本では埼玉製作所・狭山工場がマザー工場となり、日米どちらかの事業所で生産をカバーできる相互補完体制が敷かれるとともに、原材料や、部品の仕様などについては、技術研究所からも大幅な支援が行われたのである。
また、4輪車の立ち上げに向けて、アメリカサイドでは早野宏(HAM副社長)が4輪車工場の立ち上げを指揮し、日本サイドでは溝口健(埼玉製作所長)の指揮の下に立ち上げ支援が行われた。
「狭山からは、1番のエキスパートやベテラン勢300人くらいを優先して、HAMへ応援に行かせました」(溝口)。

現場では、量産確認も急ピッチで行われ、発生した不具合は納入先のメーカーの協力を得て修正が加えられた。日本からの駐在員は、使い慣れないアメリカ調達の設備を使って、品質を維持するために現地メーカーと協力し、量産に向けて支障となる生産技術上の課題を改善していった。
さらに、4輪車の立ち上げでは、2輪車生産を経験したアソシエイトの中から、多くの人が4輪車工場へ異動。新規採用のアソシエイトたちの中核となってリーダーシップを発揮し、スムーズな立ち上げにつなげていった。

1982年11月1日、アコードの第1号車がラインオフした。生産は品質最優先で行われ、徐々に生産台数を増加させ、本格生産への軌道に乗せていった。
4輪車生産は操業を開始して1年半後には、2直体制・日産600台のフル生産体制に入った。その後、4輪車工場には第2ラインが新設され、1986年4月より操業を開始。HAMの4輪車生産は年産30万台体制に移行。生産された製品は、日本をはじめ世界各地に輸出されるようになった。

「『果たしてHondaはアメリカでいいクルマがつくれるのか』と、不安視する見方を、むしろバネにして、品質確保を最終目標に置き、明るく、安全で、働きやすい工場づくりを目指してきました。その過程では、多くの日本人駐在員や出張者が、アソシエイトたちにHondaの考えや技術を教え込むなど、素晴らしい力を発揮してくれました。ある時、日本で河島さんが『オハイオはHondaの生命線だ』と話されたと伝え聞きましたが、その言葉は、どんな困難や苦労があっても目的をやり遂げようとするわれわれの気持ちを、奮い立たせてくれる原動力となりましたね」(中川)。

「アメリカ市場で失敗したら、Hondaは最大の市場を失うことになり、大変なことになってしまう。そういう意味で、それはHondaの生命線であると思っていました」(河島)。

*北米での生産活動の拡充に向けて

Hondaでは生産活動の規模拡大を図ると同時に、部品の現地調達率(以降、現調率)の向上も推進した。それによって、タイムリーな生産活動が実現できるほか、アメリカの部品メーカーにおける雇用を創出し、地域社会への貢献にもつながる。また、急速に円高が進行していた当時、日本からの部品輸出を現地調達に切り換えることで、為替変動の影響を軽減できるというメリットもあった。

しかし、部品の現調率を高めることは、Hondaが提示する仕様・品質要件を満たす部品をつくってもらうことが前提であり、大変な労力を必要とした。アメリカの部品メーカーと交渉して品質要件に見合う取引先を増やす一方、日本の部品メーカーの協力を得て、アメリカに部品メーカーを設立するなどの体制づくりを進めていった。

1981年11月、HAMの隣接地にBPI社【注1】が、さらに、1984年5月にはKTH社【注2】が設立されるなど、その後もいくつかの部品メーカーがアメリカに設立され、部品供給が充実していったのである。

1983年10月、エンジン専用の生産工場(アンナ・エンジン・プラント)の建設を発表。1985年7月、2輪車のエンジン生産を開始した。同工場は、将来のカナダでの4輪車生産拠点(ホンダ・オブ・カナダ・マニュファクチャリング)設立をも視野に入れた、エンジン供給の役割を担う工場である。

北米における4輪車生産がアメリカ、カナダにおいて進められる中で、1986年9月には、アンナ・エンジン・プラントにおいて4輪車のエンジン生産も開始された。

【注1】BPI社(ベルマー・パーツ・インダストリーズ社=Bellemar Parts Industries,Inc.)1981年11月に、アメリカン・ホンダ、東京シート、三恵技研の出資により設立され、エキゾースト・パイプ、ブレーキ・パイプ、ドア・サッシュなどを生産している

【注2】KTH社(KTH・パーツ・インダストリーズ社=KTH Parts Industries Inc.)1984年5月に、アメリカン・ホンダ、菊池プレス、平田プレス、高尾金属、本郷製作所の出資により設立され、自動車用プレス部品、溶接部品を生産している(設立当時の社名で表示)

*北米における開発・生産体制の拡充

HAMでの生産活動に伴い、1979年7月には、HAMの技術コンサルティングと現地調達部品(以降、現調部品)開発サポートのためにHG-O(HG-Ohio Office)を開設。1981年4月には、HRA-O(Honda Research of America Ohio-Office)として発足し、2輪車の品質技術支援とアコードに適用する現調部品の開発をスタートした。

また、自立化に向けた体制づくりとして、1984年9月にホンダ・リサーチ・オブ・アメリカ(後のHonda・R&D・ノースアメリカ=HRA)を設立。

さらに、1985年5月にはHAMの敷地内にEGの支社を開設し、1988年4月にEGAとして現地法人化を図った。

HAMでは1986年7月、アコードに続きシビックの生産がスタート。1989年12月には、HAMの4輪車第2工場(イースト・リバティ・プラント)が稼動した。

1987年9月、Hondaは北米における企業活動のさらなる充実に向けて、アメリカにおける開発・生産体制の拡充と輸出計画など5つの戦略(ファイブパート・ストラテジー)を発表。60%に達していた部品の現調率を、1991年までに75%に引き上げることなどを目標として掲げた。

現在HAMは、2輪・4輪を含めた年間約69万5000台の完成車とエンジン89万5000基を生産するHonda最大の生産拠点に成長。1万人を超えるアソシエイトたちがその生産活動を支えている。そして、HAMで生産している完成車・エンジン部品の現調率は9割を超えるまでになっている。

1997年には、北米専用モデルとしてHRAで開発されたアコードがHAMで生産された。それは、北米における自立した開発・生産・販売体制の連携活動の成果であり、名実共にアメリカ製アコードとして、好評をもってアメリカ市場に受け入れられた。

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展開期に向けての爽やかなバトンタッチ

展開期に向けての爽やかなバトンタッチ

展開期に向けての爽やかなバトンタッチ

創立25周年を迎えた1973年の10月、創業者で社長の本田宗一郎と、その良きパートナーであった副社長の藤澤武夫は共に退任し、新社長には45歳の河島喜好が就任した。
同族を後継者に選ぶことなく、共に60歳代での同時退任は、Hondaが創業期から展開期に向かうための、爽やかなバトンタッチだったのである。

1970年4月、河島喜好、川島喜八郎、西田通弘、白井孝夫の常務4人は、そろって専務に昇格し、いわゆる集団指導体制が敷かれることとなった。これは、社長の本田宗一郎と副社長の藤澤武夫の退任に向けての大きな布石であった。

1971年8月、ドルの変動相場制移行によるドルショックが日本中を襲った。時代の変化は、企業運営にも大きな試練をもたらした。
1972年4月、役員室は企業体質を抜本的に見直し、全社的規模で改革する運動・NHP(ニュー・ホンダ・プラン)を導入することを監督者弘報で告知。全社委員長を河島が務め、同年10月には30代から40代初めの若手12人が、専任メンバーとして先行プロジェクトをスタートさせた。
1973年4月には17の本格的プロジェクトがスタートし、各部門が体質改革に取り組むこととなった。時を同じくして、NHPの一環であるNHサークル活動がスタート。従来のQCサークル活動を大きく発展させることとなった。

1973年10月、本田・藤澤の両トップは、そろって退任。後任の新社長にはNHPを全社委員長として率いてきた45歳の河島が就任した。就任1カ月後に第1次石油危機が襲ってきた。河島新体制となった経営陣は、物価の高騰が続く中にあって、1974年1月末に『Honda車は値上げせず』と表明。この難局を乗り切ったのである。

1984年、NHサークル全社大会は、名称を世界大会と変更。この年の大会には海外から20サークルが参加した。
1990年には、世界を日本、アジア・オセアニア、北米、ヨーロッパの4つのグループに編成し、交流を図ることとした。途中、中断期間はあったものの、1996年11月、NHサークル世界大会が海外事業所(アメリカ・オハイオ州のホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング)で初めて開催され、再び世界規模での活動が始まった。

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本田・藤澤両トップ退任、河島社長就任 / 1973

本田・藤澤両トップ退任、河島社長就任 / 1973

*藤澤流、若手役員の育成法

専務の藤澤武夫は、1956年ごろから、2輪車で一応の成功を収めた本田技研が、将来にわたって発展し続けるためには、どのような企業形態が最適なのかを常に考えていた。

その一つとして藤澤は、
「本田技研から研究部門を分離・独立すべきである」
と提案し、当初は反対意見もあったが、時間をかけて議論を尽くし、1960年7月1日には、(株)本田技術研究所が設立された。

これは、1人の天才(本田宗一郎のこと)に代わる、集団としてのエキスパートの能力をフルに発揮するための仕組みづくりであった。と同時に藤澤は、自分たちトップの後継者の育成の必要性を痛感していた。藤澤は西田通弘(元、副社長)らに常々、
「創業者の1番大事な仕事は、次の世代に経営の基本をきちんと残すことだ」
と言っていた。

「これは藤澤さんの頭の中にずっとあったことだと思うのですが、創業者であるお二人が、いざ会社を去ろうという時に、だれに後をやってもらうかという的確な判断を行うことが、1番大きな仕事だと考えられていた。ですから藤澤さんは、後継者の育成を十数年かけて行われたのです」(西田)。

藤澤は、早くから取締役ではない若い部・次長クラスの数人を取締役会に出席させ、議題の内容説明や討議の輪に加え、意見を求めることを欠かさなかった。そのやり取りを通して彼らを鍛え、マネジメント力を養っていったのである。

1962年4月、河島喜好が34歳という若さで取締役に就任した。そして、その前後、1、2年の間に、本田技研には若い取締役が次々と誕生していた。その約1年後、河島は埼玉製作所長、川島喜八郎はアメリカン・ホンダ・モーター支配人、西田は外国部長、白井孝夫は技術研究所長と、後に専務となる4人のメンバーは、すべて部・所長を兼務していた。ある日、藤澤は彼らを本社に呼び、
「部・所長の兼務は、これをすべて外す」
との業務命令を下した。

――何をすればいいんだろうか――。
メンバーは皆、内心、そう思い悩んだ。昨日までは、各々の職責を果たすために忙しく働いていただけに、今回の人事の真意をメンバーが理解するまでに、3、4カ月の時間を要した。

「考えてみれば私たちは、部・所長の仕事はしていても、取締役としての仕事は何一つしていなかったんです。そのことを身をもって感じ取れるようにと、藤澤さんは、この人事を断行したのです」(西田)。

――取締役とは何なのか――。
そう考えるようになったメンバーに、藤澤は逆に、
「取締役とは何をすべきかを考えろ」
とのテーマを与えたのである。

毎日、メンバーは討議を重ねた。禅問答に近いテーマを抱え、メンバーは銀座のおでん屋や焼き鳥屋に足が向くことも、しばしばだった。
「本田さんと藤澤さんが、出会ってすぐのころ、お互いを知り合うために、まるで新婚夫婦のように常に行動を共にし、議論を重ねていました。Hondaが創立されて7年ぐらいまでの間に、Hondaの企業理念とも言うべきものが固まった。それと同じように、形こそ違いますが、私たちも、さまざまなことを議論し合い、お互いの性格までもが、よく分かり合えました」(西田)。

若手取締役たちは、役員室のオピニオンリーダー的存在として、Hondaの事業展開を自信を持って進めるようになっていった。

*若い技術者の台頭

1969年。この年は、Hondaの4輪車づくりにとって大きな転機になったのと同時に、Hondaの世代交代を大きく促進することとなる象徴的な年でもあった。独創的な空冷エンジンを搭載するなど、当時のHondaの、技術の粋を集めたHONDA1300(以降、H1300)の販売不振に端を発した、いわゆる水冷・空冷論争が起こったからだ。

空冷エンジンに最後までこだわり続けた本田。これに対して久米是志を中心とする若い技術者たちは、後の排出ガスクリーン化の時代要請に対する水冷エンジン開発の必要性を主張した。

藤澤は本田に会いに行って、あくまでも空冷エンジン推奨論を説く本田に、
「あなたは社長として残りますか。それとも技術屋としてHondaに残りますか」
と質問した。
しばらくの沈黙の後、本田の
「やっぱりおれは社長として残るよ」
との答えで、この論争も決着をみたのだった。

H1300の開発から得た教訓の一つは、1人の天才だけでは、技術的にすべてをコントールできる時代ではなくなっているということだった。また一方では、1人の天才に続く多くの有能な若手技術者が、確実に育ってきていることをも証明したのである。

*4専務の集団指導体制へ

1970年4月、株主総会を経て、本田・藤澤両人による創業期以来の指導体制から、河島・川島・西田・白井の4専務による、いわゆる集団指導体制への移行が正式になされた。この人事は同時に、本田・藤澤両トップの退任に向けての大きな布石だったのである。

「社長とおれは一歩引くから、将来計画も含めて、毎日の仕事は4専務ですべて推進しなさい。いよいよ困れば、おれのところに相談に来ればいいんだ」
と、藤澤は4専務に言い渡したのである。

4専務集団指導体制に移行した後は、藤澤が本社に出社することは少なくなった。本田は技術研究所が分離・独立して以降、技術研究所の社長にも就任して、毎日、技術研究所に出社していた。つまり、藤澤の提案通り、将来計画も含めて、本田技研の経営は4専務に任されている状況にあった。

4専務はいずれも、若い時から本田・藤澤の薫陶を受けながら育ってきた。
「藤澤副社長が当時、本社に顔を出すといったら、私たちの施策などで、何か気になることがあった時だけでしたね。それも、4専務の中で1番、その施策について分かっている人が、これこれこうで、こう考えています、と説明すると、ほとんどの場合は、『それならいいよ』と、帰っていかれました」(河島)。

藤澤からのアドバイスで、1964年には大部屋役員室の体制を採った。4専務ばかりでなく他の役員との風通しが非常に良かったことも、情報入手をスピーディーにし、4専務による経営判断を確かなものにしていた。

*『良く言ってくれた』

水冷・空冷論争の決着以降も、精力的に研究・開発に取り組んでいた本田だったが、技術研究所が分離・独立して10年近くも経ち、若手の優秀な技術者たちが多く育ってきたことから、世代交代の必要性を訴える従業員も出てきた。

ところが、本田技研と技術研究所の社長として、今なお手腕を振るう本田に、だれが、それを進言するのか。事の成り行きで、当時、総務担当役員だった西田が、その役割を担うことになった。

――河島さんは技術研究所ではおやじさん(本田のこと)の直属の部下なんだし、私が行くしかないか――。
気の重い西田だったが、たまたま技術研究所へ行く用件があり、本田のいる社長室の扉をたたいた。本田は西田を見ると、昼食を共にしようと誘った。西田は、本田と一緒にそばをすすりながら雑談をし、ころ合いを見計らってポツッと本題を切り出した。

「『もう研究所員も、どんどん育っているので、そろそろバトンタッチを考えていただけないでしょうか』と、本田さんに恐る恐る水を向けると、即座に、しかも涙をハンカチで拭いながら『良く言ってくれた』と、おっしゃったのです」(西田)。

さらに、気の早い本田は真剣な顔で
「何なら今日にでも辞めてもいいぞ」
と言い、西田を大いに困らせたのだった。

「本田さんは仕事一筋だから、専念されている時は何も見えなくなってしまうんです。普段は人事を気にすることも全くないのに、あの時は一言言っただけで、すぐ、すべてを理解して、むしろ、こちらからの提案を喜んで受けてくださった。そんな方でした」(西田)。

1971年4月、本田は本田技術研究所の社長を退いた。
本田が退いた後、西田は悩んだ。本田が冗談交じりに、
「しばらくの間、朝になって下落合の自宅を出ると、どうしてもウチの会社に向かってしまう。途中まで行って、ああ、おれはもう社長じゃないんだと思って帰って来た」
と言ったからだった。

本田にとって”ウチの会社”とは、まさしく技術研究所のことで、技術研究所がすべてだったのである。

*『もう、われわれには付いていけないよ』

1971年8月、日本中がパニックとなった。それまで360円に固定されていたドルの価格が、変動相場制によって、突然、308円になったからだ。いわゆるドルショックである。

本田は当時、
「何で為替が変わるんだ。どうして1ドルが360円じゃないんだ」
と困惑していた。

「もう、われわれには付いていけないよ」
と、冗談ともつかない本音が、本田と藤澤の口を突いて出るようになっていたのだった。

この時期になると、ドルショックに代表されるような時代の変化は、さらにその厳しさを増していた。Hondaにも、多少、大企業病的な症状が表れ、企業としてのフレキシビリティーを欠く部分も出てきていた。それだけに、一つの問題が、今まで以上に大きな影響を会社全体に及ぼしかねない状況にあった。

藤澤は早くから、こうした危機感を抱いていた。しかも、いつまでも2人のトップが存在し続けるわけでもない。
藤澤は河島に、
「おれも本田さんも、いつまでもいるわけじゃない。その後、どうするつもりだよ」
と言った。河島は、
――ドブに落ちて這い上がるのが、いくらうまくてもだめで、これからは、ドブに落ちる前に避けて通る企業にならなくては――
と考えた。

「私は、それには時代の変化に即応できるフレキシブルな体質を築き上げなくてはならないと、当時、新たな施策の展開を模索していました」(河島)。

当然、問題が起こらないように未然に防ぐことが重要だったが、それは、Hondaが最も苦手とするところだった。

Hondaの企業体質を抜本的に見直し、全社的規模での改革運動を導入することが、4専務を中心とした役員室で決定されたのである。同運動の導入に当たっては、Hondaの個性を明確にし、Hondaらしい展開を目指すため、ニュー・ホンダ・プラン、NHPと命名された。

NHPは1972年4月、河島を全社の委員長として発足。次代を考えるプロジェクトとの理由から、30代から40代前半の若手12人が専任メンバーとして推進に当たった。そして、1973年4月には、顕在化した課題を整理。NHPは全社的に組織化された本格プロジェクトとしてスタートを切ったのである。

これは、河島を中心としたHondaが、確実に動き始めた第一歩であり、世代交代を促す大きな原動力となったのである。

*2人の潔い引き際

1973年3月、藤澤は、
「おれは今期限りで辞めるよ。本田社長に、そう伝えてくれ」
と西田に命じた。
本田はちょうど中国へ海外出張中だった。藤澤のこうした意向は、正式に本田と相談をした結果のものではなかった。西田は、羽田空港で本田の帰国を待ち、その場で藤澤の辞意を伝えた。
本田にとっては予期しないことだったが、しばらく考えてから本田も、
「おれは藤澤武夫あっての社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」
と、西田に告げたのだった。

西田からの報告を受けた藤澤は、本田との長い付き合いの中で初めての大きな誤りをした、と感じた。本田に、ゆっくりと考えてもらう時間が必要だろうと考えてのことだったが、やはり最初に、なぜ、本田に直接、自分が職を辞したいという意向があることを相談しなかったのかと……。

「本田さんは、社長交代の時、私に『おい、おれたち、辞めることになったんだからな。次の社長を頼む』と、おっしゃっただけでした。ご自身も、水冷・空冷論争でのことや、技術研究所の社長を退かれたことで、この時が来ると、ある程度は覚悟されていたのだと思います。藤澤さんが辞めると聞いて、同じ創業者である藤澤さんだけを辞めさせておいて、自分だけが残れるはずがない、と瞬時に引き際がいつかを考える。本田さんは、そんな素晴らしい方でした」(河島)。

こうして、本田宗一郎と藤澤武夫の、創業期からの2人3脚は終わったのである。

Hondaの両トップ交代劇は、2人が世間一般では、まだまだ現役として十分活躍できる年齢(本田が65歳、藤澤が61歳)だったこと、加えて、次期社長に内定した河島の年齢が、45歳という異例の若さだったことでも、大きな反響を呼んだ。しかも、2人にとっては全く血縁関係にない、新社長の誕生。Hondaが同族会社ではないということを、身をもって内外に示したのである。

ところが、社内では、河島が4専務の中心的な役割を果たし、全社プロジェクトであるNHPを、強力なリーダーシップの下に推進してきたこと、さらには他の専務たちが、それまでと同じくバックアップしていくことがはっきりしていたので、さほどの混乱も見られなかった。

退任が決まった後のある会合で、藤澤は本田と顔を合わせた。当時の様子を藤澤は、1973年8月の『退陣のごあいさつ』の中で、次のように触れている。

――ここへ来いよ、と(本田さんに)目で知らされたので、一緒に連れ立った。
「まあまあだな」
と言われた。
「そう、まあまあさ」
と答えた。
「幸せだったな」
と言われた。
「本当に幸せでした。心からお礼を言います」
と言った私に、
「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」
とのことで引退の話は終わりました――。

創立25年目の1973年10月、本田・藤澤の両トップは株主総会を経て、2人そろって正式に退任。終生の最高顧問に就任した。

河島が社長に就任した1カ月後、日本を第1次石油危機が襲った。それ以来、物価の高騰が続く中にあって、1974年1月末に河島新体制は、『Honda車は値上せず』という施策を打ち出し、この難局を乗り切った。

若い後継者を育て、早く道を譲る。こうしたHonda流のトップ人事は、激動の時代に立ち向かう大きな力となった。河島も、
「社長になった時に、真先に考えたことの一つに、”引き際の潔さ”をHondaの美風として残したいということだった」
と、きっぱり言い切る。

河島自身も、久米を後継者として選び、道を譲ったのは55歳の時であった。

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先進性・独創性にあふれた技術・商品群

先進性・独創性にあふれた技術・商品群

先進性・独創性にあふれた技術・商品群

本田宗一郎は、1953年6月に創刊されたホンダ社報の中で、「大衆の気持ちを察し、大衆が喜び、大衆が愛する製品をつくる会社だけが、大衆に愛され、繁栄するだろう」と述べている。
そして、「真にお客さまに対するサービスの精神、すなわち、従業員としての徳義心を持っているならば、どのように苦心をしてでも工夫をし、改善して、お客さまの満足を得るはずだ」と、仕事の根本を説いている。
Hondaが生み出す技術や商品が、常に先進的、かつ独創的であり続けてきたのは、この仕事の根本を、開発者たちが、そして従業員全員が自らの胸に持ち続けてきたからにほかならない。

1978年10月、朝霞研究所内でNR(ニューレーシング)プロジェクトがスタート。この時、2輪新技術の創造に向けた4サイクル・長円形ピストンエンジンの開発が始まった。同エンジンの開発には多くの困難があり、レースシーンでの勝利は、1981年6月の全日本選手権・鈴鹿200kmレースで木山賢悟の駆るNR500が挙げた1勝にとどまった。その後、同エンジンの開発は、1992年5月に発売されたNR750への搭載によって結実したのである。

1968年3月、軽自動車初の3速フルオートマチックである、ホンダマチック・トランスミッションをN360に搭載して発表。その後のAT車普及への原動力ともなった。
1981年8月、世界初の自動車用ナビゲーション装置であるHonda・エレクトロ・ジャイロケーターを発表。自動車用ナビゲーションシステムの先駆けとなった。
1986年春、運転席用エアバッグを装備したレジェンド4ドアを100台生産し、第2次フリートテストを開始した。Hondaが目指したエアバッグの信頼性は、シックスナイン、つまり99.9999%であった。
1986年10月、世界初の舵角応動型4輪操舵システム(4WS)を発表。これによって、クルマの運動性能は飛躍的な向上を遂げた。
1989年4月、VTECと呼ばれる可変バルブタイミングリフト機構のエンジンをインテグラに搭載して発表。VTEC技術はその後もHondaの戦略技術として進化を続けている。

1977年6月、MEエンジンシリーズのG150・200を発売。この開発には汎用事業をHondaの3本柱構想の確かな1本とするために、100万台売れるような、数多くのエンジンをつくろうという想いが込められていた。
1983年1月、ZEエンジンシリーズのGX110・140を発売。OHVプラス傾斜シリンダーという革新的なアイデアは、以後、全世界の汎用エンジンメーカーがこぞって採用するところとなった。

1968年10月下旬から開かれた第15回東京モーターショーで、DREAM CB750FOURを発表。同車は日本における大型バイクの先駆けとなり、”ナナハン”という言葉までをも生んだ。
1975年3月、発展途上国の市場調査を徹底的に行った上で開発されたCG110・125をタイ市場に投入。CG125は、ブラジルの2輪市場開拓にも大きな役割を果たした。
1976年2月、ロードパルを発売。TVコマーシャルで展開された”ラッタッター”の愛称とも相まって、ファミリーバイクの新市場を創出した。

1981年11月、シティを発売。若手開発メンバーたちの想いが搭載された同車は、マッドネスの繰り広げるムカデダンスとともに、日本中をニュースであふれさせた。
1989年2月、米国・シカゴオートショーでN-SXを先行発表。オールアルミボディーとした同車は、だれもが楽しめる高性能スポーツカーとして、Hondaファンの熱い注目を集めた。
1994年10月、オデッセイを発売。生活創造車と位置付けた同車は、乗用車の良さを生かしたRVとしてお客さまからの圧倒的な支持を得た。
1996年4月、日本とアメリカで電気自動車・HONDA EV PLUSの技術発表が同時に行われた。EV専用ボディーには、環境問題でも先進でありたいというHondaの企業姿勢が表れている。

1965年1月、携帯発電機・E300を発売。レジャー用に片手で持ち運びのできる発電機として、E300は新たな市場をつくり出した。
1978年8月、歩行型芝刈り機・HR21を北米・欧州を中心にして発売。これはHondaがローン&ガーデン分野への参入を果たすための期待の商品であった。
1980年3月、ミニ耕うん機・F200『こまめ』を発売。同機は農業用・家庭菜園用としてロングセラー商品となり、大手の農業機械メーカーのミニ耕うん機市場への参入をも促した。

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長円形ピストン・エンジン / 1979

長円形ピストン・エンジン / 1979

*復帰するなら当然、4サイクルで

1979年、Hondaは世界グランプリの最高峰である500ccクラスへ、12年ぶりの復帰を果たした。マシンは4サイクルV型4気筒のDOHCエンジンを搭載したNR500。一気筒当たり8バルブと2本のコンロッドを持つ長円形ピストンエンジン、アルミセミモノコックフレームに倒立フロントフォークなど、だれもが驚くほど独創的・革新的な技術が凝縮されたマシンであった。

「今から思えば、すごく進化していたのか、それともばかなことをやっていたのか、よく分からないけれど、少なくとも、世間では想像できないようなことをやってましたね。エンジンも車体も、お互いにね」。
このNR500に搭載された長円形ピストンエンジンを開発したエンジニアの1人、吉村年光は当時をそう振り返る。

「差ではなく、違いなんだと思ってましたから。だから、Hondaはやはり4サイクルであると。革新的な技術、違いを持った技術で、目標を達成したかったんです」。
この時代、ロードレースの世界では既に2サイクルエンジンが全盛を極めていた。それにもかかわらず、Hondaは、あえて4サイクルエンジンを搭載したNR500での挑戦を選択した。しかし、あえてというより、それはむしろ当然のことであった。

これ以前、あのマン島TTレースに始まる第1世代のレース活動の中で、Hondaの4サイクルエンジンは、最高の実績を挙げて評価を受け、お家芸とまで言われてきたのである。たとえ2サイクルエンジンの方が出力を稼ぐためには有利であっても、それを上回る4サイクルエンジンをつくればいいだけのことである。その点で、Hondaに常識は通用しない。TTレースへの挑戦そのものが、常識を超えていたのだから。

加えて、世界GP復帰を決定したトップたちをはじめ開発スタッフの多くは、本田宗一郎の薫陶を受けている。2サイクルは”竹筒(たけづ)っぽ”だという言葉が、身に染み付いていた。だから、4サイクルのHondaとして復帰することに、疑問の余地はなかったのである。

実際にエンジンを設計した吉村も、初めから、4サイクルエンジンでと決めてかかっていた1人であった。
「4サイクルは、メカニズムとしてのけじめがいい。バルブがきちっと閉まって、燃焼させて、排気が開いて吐き出すというキレがある。攻めどころがビシッと決まるところが、技術屋としては1番面白い。そして技術の進化とは、そうあるべきだと思います」。

レースをするからには、勝たなければ意味がない。しかし、それは自分たちが信じる道を貫いてこそ言えることだ。たとえそれが険しい道であっても、可能性のある限り追求してこそ価値がある。挑戦することの厳しさを、そしてそれを乗り越えた時の喜びを知り尽くしたHondaだからこそ、4サイクルエンジンでの復帰が計画されたのである。

*最高のエンジンがつくりたいんだ

世界GPへの復帰を宣言した翌1978年の4月、朝霞研究所にNR(New Racing)ブロックが発足。参戦へ向けてのマシン開発が本格的にスタートした。当初、エンジン開発チームに集められたのは3人で、いずれも若手ばかり。これはレース活動の再開に当たり、『レーシングスピリットを持つ人材の育成』が目的の一つに掲げられたことによる。

吉村はこの時、入社6年目。当然、第1世代のレース活動を知らない。その意味において、レース活動の再開、世界GPへの復帰という感覚は全くなかった。

「レースがやれるという喜びよりも、自分たちの手で、最高の技術を結集したものをつくりたい。世間が驚くような最高のエンジンをモノにしてみたい。そんな気分の方が強かった。そして最高のエンジンを創り上げることができれば、結果としてレースには勝てるだろう。そう考えていました」。

当時、ライバルである2サイクルエンジンの出力は、120馬力と推定されていた。レースの勝敗が馬力だけで決まるものではないが、まずはこれを上回る必要があると考えた。

しかし、世界GPには4気筒までというレギュレーションがあり、4サイクルで2サイクルに対抗するには、単純に言えばエンジンを2倍回さなければならない。これを可能にするためには、吸気効率を向上させること、高速回転に耐えうる動弁系をつくり上げることが必要であった。こうした条件の中から、バルブの数を倍の8バルブに増やすというアイデアが生まれ、これをバランス良くレイアウトするために、ピストンの形状を真円から長円形にすることへと発展していった。

「みんな若かったですからね、怖いもの知らずというか、逆にピストンは真円という先入観を持っていなかった。2サイクルに勝るためには、もうこれしかないと」(吉村)。

常識にとらわれない発想が生み出した8バルブ、長円形ピストン。その予測性能を計算してみると、2万3000回転、130馬力という答えがはじき出された。こうして、新しい技術への挑戦が始まったのである。

*そんなエンジンが本当に回るのか

しかし、この長円形ピストンに対して、周囲には疑問の声も少なくなかった。本当に計算通りの吸気効率が得られるのか。フリクションやピストンのシーリングはどうなのか。高温時の変形や冷却の問題は大丈夫なのか。解決しなければならない問題が多いことは、だれに言われるまでもなく、開発スタッフたち自身が分かっていた。それでも、世の中にないものをつくりたいという彼らにとって、周囲の雑音は気になるものではなかった。

「回る回らないとか、モノになるかならないかは、あまり考えなかった。そんな心配より、とにかくモノにしてやるんだ、という気持ちしかなかった」(吉村)。

やってみなければ分からない。そんな気持ち一つで開発は進められていった。
テストはまず、2バルブ単気筒のエンジンによって長円形ピストンが回ることが確認され、次いで8バルブ単気筒へと進められていった。しかし、この段階に入ると、さまざまなトラブルが開発スタッフたちを悩ませた。

一つは、1万回転を超えると、エンジンが一瞬にしてバラバラになってしまうことだった。原因はコンロッドのねじれにあった。真円と異なり、長円形ピストンには2本のコンロッドが使われている。高速になるとこれにねじれが生じ、ピストンピンが引っ張られてずれてしまい、バラバラに壊れてしまうのだ。この問題を解決するには、設計仕様の変更だけでなく、加工精度を上げる必要があり、ホンダエンジニアリング(EG)のスタッフとともに、さまざまな改善が試みられた。

また、ピストンリングも難問であった。長円形が加工を難しくしていたため、二つに分割したものを試したり、ステッキ型のものにしてみたり、何度も試行錯誤が繰り返された。結局、最終的には原点に戻って、自己張力型のピストンリングに落ち着いたものの、加工時には自由形状で、納めた時に面圧一定となるようにするための計算には苦労した。当時はNC(数値制御)マシンの精度もまだまだ十分ではなく、実際の加工時にも、計算通りのものをつくるには多くの努力が必要だった。

しかし、こうした努力の積み重ねによって問題は一つひとつ解決され、特にピストンリングが出来上がると、その安定感はかなり増してきた。そして単気筒から4気筒へと開発が進められていった。

*惨敗に終わったデビュー戦

エンジンの開発が始まって半年。単気筒でのテストによって、ある程度の問題が解決されると、実戦用レイアウトによる熟成が進められることになった。開発スタッフたちは那須高原にこもって設計に取り組み、Vバンク100度のV型4気筒の0Xエンジンを描き上げた。そして1979年4月、0Xエンジンはベンチで回り始めた。

復帰を宣言した1979年のシーズンは既に始まっていた。しかし、0Xエンジンはベンチテストでも、ギア・トレーンが壊れたり、バルブが折れるなどのトラブルが多発。開発スタッフたちはその対策に追われていた。それでもようやく、110馬力程度は得られるようになっており、レースマシンとしてのポテンシャルを見てみたい、という意識がスタッフたちの中に芽生え始めていた。

「実戦を走ることで、新しいレースマシンとしての問題点を洗い出したかったわけです。だから結果については、だれも期待はしていなかったと思います」(吉村)。

デビュー戦は、第11戦イギリスGPに決まった。マシンの開発は急ピッチで進められ、エンジンは当初の目標にこそ及ばなかったが、100馬力、1万6000回転までに達していた。そして7月、ついにNR500(0X)が完成。レースマシンとしての煮詰めは全くと言っていいほどできていなかったが、NR500は、8月のシルバーストーン・サーキットにその勇姿を現した。

しかし、その記念すべきデビュー戦は、ギリギリでの予選通過という厳しい幕開けとなった。しかも決勝レースでは、ミック・グラントが1周目の第1コーナーで転倒、リタイア。片山敬済もわずか数周でエンジントラブルのためリタイアと、あっけなく終わってしまった。

だれも結果は期待していなかったが、力強い走りは見たかった。しかし、ライバルたちとの歴然たる力の差、そして予想以上に厳しい結果には、だれもがショックを隠せなかった。さらにシーズン最終戦となるフランスGPでは、2台とも予選落ち、という屈辱を味わうことになる。

この結果を目の前で見ていた吉村は、あふれる涙を抑えきれなかった。

「悲惨。悲惨だったですね。さすがに涙がこぼれました。ウチ以外は、全部2サイクル。せめて1番後ろでもいいから、走ってくれたらと思いました。後でね、みんなが『レースを見ろよ』と言ってくれたんですけど、決勝はもう、見る気になれなかったですね」。

目標の馬力にも達していなかったし、レースマシンとしての熟成も不十分であった。それでも負けた事実に変わりはない。その悔しさは、今後、自分たちが何をなさなければならないかを、全員に強く焼き付けた。

*長円形ピストンエンジンの完成へ向かって

エンジン設計としては、ギア・トレーン系や動弁系をどうするかという課題があった。ギア・トレーン系では、クランク回転数に対して2分の1でカムを回すために、初めリダクション・ギアを入れていたが、それがよく壊れたのである。そこでまず、カムで減速する通常のギア・トレーン系に変えたがトラブルは収まらず、試行錯誤の末、カム・ギアにゴムを入れたダンパーを噛ませるアイデアに行き着いた。これによって問題が解決。動弁系も確実に回るようになり、馬力も向上させることができた。

また、エンジンブレーキの利き過ぎや、通称『ドカン』と呼ばれたスロットルを開けた時のパワーの出過ぎなどが問題とされた。エンジンブレーキの利き過ぎは、『バックトルクリミッター』というデバイスによって早期に解決したが、『ドカン』に対しては決定的な解決には至らなかった。

それでもスタッフたちの必死の努力によって、NR500はそのポテンシャルを確実に上げていった。そして、1982年の2X改では135馬力、1983年の3Xでは130馬力を出力し、馬力の上ではライバルたちに比肩するまでになっていた。

しかし、その一方でレースでは結果を出せずにいた。唯一、1981年の鈴鹿500キロレースで優勝を果たしたが、世界GPでは勝つことができなかったのである。

その最大の原因は車重にあった。4サイクルではシリンダーヘッドを必要とするため、約20kgのハンディを抱えていた。ヘッド回りが重くなるため、車体のバランスにも大きな影響を与えていた。そこで鉄をチタン、アルミをマグネシウムに置換するなどの対策を講じたが、ライバルたちに追従されると、その差は元に戻ってしまった。

この他にも、動力的に負荷の低い外側のクランクシャフトを細くしたり、レースの前には、ペンシルグラインダーを使って徹夜で部品を削ったり、できる限りの軽量化に取り組んだが、車重のハンディだけは、最後まで克服することができなかったのである。

世界GPへの復帰から3年が経過したが、ついにNR500に国際舞台での勝利が訪れることはなかった。しかし、Hondaとして、いつまでも負け続けるわけにはいかなかった。内外から勝つことが求められ始めていた。

そこで1982年のシーズンから、2サイクルエンジンのNS500を投入し、勝つためのシナリオが展開されていった。これを境にサーキットの主役は、NRからNSへと移っていくことになる。

*引き出しの中の夢のかけら

1983年、最後のチャンスとして3Xエンジンが開発された。この3Xは130馬力/1万9500回転を出力し、世界GPを闘うために十分なポテンシャルに達していた。しかし、NS500の快進撃が始まることで出走の機会を奪われ、結局、3Xは一度もサーキットを走ることなく、そのレース活動に終止符を打つことになる。

「レースでは、勝つことができなかったけれど、長円形ピストンエンジンとしては、この3Xで95%以上の完成度を達成したと思います」(吉村)。

当初、掲げられた技術的な目標は達成することができた。それでもスタッフたちの胸の奥には、無念な思いは残っている。

「やっぱりレースエンジンだから、レースで勝ってほしかった。あのラグナセカで勝てていたら、レースとしても一つの区切りをつけることができたんでしょうけど」(吉村)。

そう。勝つチャンスはあったのだ。1981年7月、アメリカのラグナセカ・サーキット。世界GPでこそなかったが、フレディ・スペンサーが2Xを駆り、ヤマハのケニー・ロバーツの前を走り続けた。最後は電気系のトラブルでリタイアすることになったが、そのポテンシャルを見事に証明してくれたのである。苦戦続きのレース活動の中で、自分たちが信じて開発してきたNR500の可能性を確信することができた瞬間であった。

その後、NR500のコンセプトは、1992年に発売されたNR750へと受け継がれ、開発の中から生まれたバックトルクリミッターなどの技術は、多くの量産車へフィードバックされていく。そして最も貴重なものは、開発スタッフたちによって受け継がれているチャレンジングスピリットである。

つい最近まで、吉村の机の引き出しの中には、壊れたコンロッドや折れたバルブなどが入っていた。開発当初の、ベンチテストでバラバラになった時のものだ。
「いつもそれを見て、思い出していたんですよ。当時の意欲をね。真冬の那須のホテルで暖房が利かず、毛布にくるまりながら設計していた時のこと、図面を描き上げた時の喜び、もちろんレースでの悔しい思いもね」。

世界GPへの復帰、4サイクルでの挑戦、そして長円形ピストンエンジンの創造。その高いハードルはチャレンジングスピリットを育て、積み重ねられた努力は新しい技術を生んだ。

「何かをつくり上げるためには、そのことに、ものすごく打ち込まなければならない。この長円形ピストンエンジンの開発は、私をはじめ若いエンジニアたちに、そうしたマインドを残してくれたと思いますね」(吉村)。

吉村の引き出しに入っていた部品は、今はもうない。勉強のために、若いスタッフたちに譲り渡されたからだ。それは、夢のかけらとして、またいつか新しいチャレンジにつながるに違いない。

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ホンダマチック・トランスミッション / 1968

ホンダマチック・トランスミッション / 1968

*AT化の流れを阻む特許の壁

1960年代、アメリカに始まるモータリゼーションの発達を促した要因の一つに、AT(Automatic Transmission)車の存在が挙げられる。3つのペダルを2本の足で操作する煩わしさからドライバーを開放し、だれにでも容易にドライブを楽しめるようにしたことが、自動車を広く普及する原動力となったのである。

既に1960年代後半には、キャデラックやリンカーンといった高級車では100%、シボレーやフォードなどの大衆車もほとんどがAT車となり、アメリカ市場での普及率は80%に迫る勢いであった。
これに対して、モータリゼーションの黎明期であった日本では、その普及率は10%にも満たない状況であった。まだ自動車そのものが高価な時代であり、さらに価格の高くなるAT車は、一部の車種にしか搭載されていなかった。

また、AT車の開発においては、国内のクルマの排気量が小さいことも問題であった。どんな自動車でも、エンジンで得たエネルギーをタイヤに伝えるまでにはロスが生じるが、当時のATは効率が悪く、そのロスは非常に大きなものであった。そのため排気量が1500cc以上でなければ、動力性能的には厳しいと考えられていた。大排気量のアメリカ車には使えても、小型車や軽自動車にとっては、ATはまだまだ実用段階ではなかった。値段が高くて、走らない。それが日本でのATに対する一般的なイメージであった。

そのころHondaは、4輪事業に参入してまだ日も浅く、当然、4輪のAT車は開発されていない。4輪事業を軌道に乗せることに必死で、開発の余力がなかったこともあるが、車種に乗用車がなかったことにもよる。

しかし、アメリカがそうであったように、自動車のAT化は時代の流れであった。ところが、いざATを開発しようとすると、そこに一つの壁があった。それはATに張り巡らされた特許である。

ATに関する特許のほとんどは、アメリカのボルグ・ワーナー社(以降、BW社)によって握られており、その数は4万から5万件にも上ると言われていた。後に国内の自動車メーカーは、特許の厚い壁を前にして、それを回避するために、BW社との提携や合弁会社の設立を余儀なくされたのである。

そうした時代の中で、軽自動車N360の発売に向けて、HondaでもATの開発が動き始めていた。

*自分たちの夢は自分たちでつくるしかない

1964年の暮れのことである。軽トラック・T360の油圧式CVTの開発を担当していた服部虎男は、開発が思うように進まないストレスから、体を壊して入院していた。ある日、その病室へ技術研究所の所長であった杉浦英男が見舞いに訪れた。そして、顔を合わせるなり、話を切り出した。

「実は、4輪の自動変速機を開発したい。ついては君、やってくれんか」。
見舞いにはふさわしからぬ言葉だったが、この一言が服部を大いに元気付けた。

服部はかつて、横浜にあった岡村製作所で『ミカサ』のセミATの設計を経験していた。Honda入社後は、ジュノオ号M80、M85のバタリーニ方式の無段変速機の開発に携わってきたが、もともと4輪のATがやりたくてHondaに入社したのだ。

やりたいことがやれるという想いと、わざわざ病院に足を運んでくれた杉浦の気持ちがうれしかった。そしてこの言葉をきっかけに、退院を待つことさえもどかしく、服部は病院のベッドの上でATの構想を練り始めることになる。

明けて1965年。服部はATの構想とともに技術研究所に復帰した。当時、既にATは、さまざまな組み合わせで実用化されていたが、服部が考えていたATは、流体式トルクコンバーター(以降、トルコンと略す)と変速機の組み合わせによるものであった。この組み合わせを選択したのは、トルコンにはクラッチ性能として非常にスムーズにスタートできる特性があったこと、そしてアメリカ車の多くがこの方式を採用しており、最も実用的であるという理由による。

しかし、Hondaには油圧式での経験はあったが、流体式トルコンに関しては全く経験がなかった。技術を開発し、商品化していくには、開発から生産までの各部門が、その技術に対して一定のレベルにあることが求められる。また、Honda車にマッチしたATを開発するためにも、実車でのデータを採る必要があった。そうした実情から、勉強するためにも、とにかく試作車をつくってみようということになり、ATそのものはBW社に試作品を依頼することになった。まずは勉強してみなければ分からないことが多く、かつ前述のAT開発を取り巻く環境を考えれば、当然の選択であった。

服部はすぐにS500を対象とした仕様書を書き、BW社に依頼した。ところが意に反して、その返事は希望に沿えないというものであった。排気量が500ccと小さいこと、エンジンの最高回転数が8000回転と通常の倍もあること、などの理由からマッチングするATがないという内容であった。

既存のATをベースに、技術的にステップアップしていこう、効率良く開発していこうという服部の思惑は、打ち砕かれてしまった。しかし、かえってこの返事が服部たちの目を覚まさせることになった。
「成功は99%の失敗に支えられた1%だ」。
服部は、社長の本田宗一郎の言葉を改めて思い返していた。結局、技術とは、まずつくってみて、悪ければ直すことを繰り返していくしかない。最初から素晴らしいものができるものではないのだ。しかも、もともと1500cc以下のクルマには効率が悪いとされていたATではないか。

「自分たちが必要とするATがないのなら、自分たちの手でつくるしかない」(服部)。
思わぬ展開が、エンジニアとしてのプライドを呼び覚ましたのである。そしてHondaのAT開発は、スタッフたちのチャレンジングスピリットを得て、独自の道を突き進むことになった。

*効率を飛躍的に向上させたステータ反力の利用

開発計画は大幅に見直された。そして試作品の代わりに購入したBW社の量産品ATのBW35を参考にして、自分たちの手で開発が進められた。試作車には、この年の10月に発売が予定されていたL700が選択された。既に試作車があり、FR車であったこともテストには適当であった。

試作車の開発は順調に進んだが、開発の成否は、いかに効率を向上させることができるか、という点にあった。そして、日々試行錯誤を繰り返す中から生まれてきたのが、『ステータ反力』を使って油圧を制御するというアイデアであった。

流体トルコンは、ポンプ、タービン、ステータによって構成され、オイルの循環によってエンジンの力を伝達している。ステータはトルク変換を行うもので、本来固定されているものである。アイデアとは、このステータをフリーにして動かすことにあった。ステータをベアリングで回るようにし、ステータのトルク増幅差分として取り出した力を油圧の制御バルブに連動させれば、トルコンのトルクに応じてクラッチをつなぐことができるのである。

この方法は、従来の油圧制御方法と比較して、非常にシンプルで効率の良い制御を実現した。後に『ステータ反力検出型自動変速装置』として特許が成立したこのアイデアによって、ATの効率を飛躍的に向上させることができたのである。これはまさに、模倣に頼らないという信念と努力が生み出した発明であった。

こうして、無事に試作車が完成すると、すぐに箱根で試乗会が開催されることになった。試乗会には本田以下、役員が顔をそろえ、ホテル花月園をベースに芦ノ湖スカイラインで行われた。結果は、変速時のショックもなく、非常にスムーズであると大変好評であった。本田は副社長の藤澤武夫を乗せて、自らハンドルを握り、
「これならハンドルさえ握っていればいいんだから、副社長だって運転できるぞ」
と、その快適さに終始ご機嫌であった。

ところが、これには後日談がある。試乗会当日、本来あるはずの変速のショックがなかったことは、開発した当の本人が驚くほどだったが、実はこの時既にクラッチのフェーシングが大きく摩耗していたのだ。これではショックがないのは当然だった。それが判明したのは試乗会の翌日、開発スタッフだけで行ったテストの時である。前日の好調さとは打って変わってパイプが破れたり、オイル漏れを起こしたり、クラッチが利かなくなったり、散々な結果となった。

この結果を受けて、その後、クラッチフェーシングや油圧制御の改良、ショック対策などが施されていくことになるが、それでも1からつくり上げたATにめどが立ったことは大きな成果であった。
そして開発は次の段階へ進むことになる。N360のAT開発であった。

*FF車への設計変更から生まれた平行軸方式

N360のAT開発では、まず、FR仕様であったATをFF仕様に変更しなければならない。単なるレイアウト変更ならば手間取ることもないが、スペースのないエンジンルームに入れ込むのは至難の業であった。

これを解決するためには、エンジンとATを一体化させるしかなかった。そして苦心の末に考え出されたのが『平行軸方式』である。
従来のATでは、1本の軸の上にプラネタリギアが並んでいることが特徴であるのに対して、平行軸方式は、プラネタリギアを使わず、従来のミッションとほとんど変わらない非常にシンプルな構造になっている。そしてこのアイデアが、ATをこれまでにないコンパクトでフリクションの少ないものへと変えることになった。

もちろん、これを完成させるためには、さらに多くの問題をクリアしなければならなかった。
例えば、従来、整備の必要から別々であったものを一体化するため、極力、整備のいらないように機構の単純化を図ったり、360ccという排気量でも十分に使えるATにするために、今日では常識となっているロックアップ付ATの試作など、効率の向上も図られた。そして、大衆車としてのコストの問題もあった。これらの問題に対して、開発スタッフたちはボルト一つ、バルブ1個に至るまで見直し、試行錯誤を重ねることで、でき得る限りの高性能・小型化を図っていった。
そして、1967年10月18日、ロンドンショーでロックアップ付3速フルオートマチックを発表した。

この後、本田からは、
「自動変速だけでなく、マニアルでセレクトできる機構も備えたものにしろ」
という指示が出され、開発スタッフたちは新たにアイデアを注ぎ込み、3速がマニアルセレクトできる、1・2・3・D・N・R・Pの7位置選速リモートコントロールを開発していった。こうした努力は、Honda独自のATとして結実していくのである。

*特許の壁を乗り越えたホンダマチック

1968年3月、N360ATとして『ホンダマチック』が発表された。Honda独自のATとして、また、軽自動車初のフルオートマチック車として、大いに注目を集めるところとなった。それは、BW社に試作を断られて以来、自らのアイデアを羅針盤として、努力を積み重ねてきた開発スタッフたちへの賛辞に他ならない。

しかし、大きな反響の一方で、マスコミや自動車に興味を持つ技術者たちの中には、必ずや特許に引っ掛かり、訴訟を起こされるだろうと予想していた者も少なくなかった。特にATに関して詳しい者ほど、そうした見方をしていた。

服部自身、この発表の時点では確信を持てずにいた。当然、開発の過程で特許調査は徹底的に行ってきた。当時、動力伝達機構の特許資料が最も整理されていたのは大阪の情報センターであった。そこへ特許課のスタッフたちが頻繁に出張し、自動変速機特許を次から次へと洗い出していった。服部も休日を利用して、自ら大阪へ足を運ぶこともあった。それにしてもファイルが書架を埋め尽くすほどの、膨大な件数であった。そのすべてをクリアしたとは、だれにも分かることではなかったのである。

しかし、1人、本田はマスコミを前にして断言していた。
「もし、訴訟を起こされても、勝訴の自信がある」
と。その言葉の真意は推し量るしかないが、技術者としての経験、経営者としての決断、そして何よりも、独自の技術に対する信念がそこには込められている。

ホンダマチックの開発の最中である1966年4月に発行されたホンダ社報116号の中で、本田は『新入社員諸君への提言・正しいものの見方』と題し、
「うちはどこにも頼らない。外国の模倣もしないし、パテントも買わないし、政府のお世話にあずかろうなどとは考えない。うちは、うちの独自の道でいくんだということを、はっきりと宣言する」
と語っている。この信念こそ、開発スタッフたちの背中を押し、不可能とさえ言われた特許の壁を乗り越えさせる原動力となったのである。

そしてN360ATの発表から3年後の1971年、このステータ反力利用の自動変速装置は日本での特許が成立。さらに1年後にはドイツでの特許が成立し、米・英・仏・伊の特許取得と合わせて、名実ともに独自の技術であること、そしてHondaの進んでいく道を証明して見せたのである。

*失敗を恐れずに試してみる勇気

その後、ホンダマチックはHONDA1300、シビックへと受け継がれ、さらに1982年には、FF用4速ATをいち早くアコードとプレリュードに搭載するなど、時代の変化を先取りした開発が行われてきた。そして現在に至るまで、ホンダマチックの基本構造であるステータ反力利用の油圧制御方式と平行軸方式は踏襲されているのである。

Hondaが、特許の壁のみならず、時代をも超えるATをつくり上げることができたのはなぜか。

一つは開発スタッフたちが、失敗を恐れなかったことだ。まず、アイデアを試してみようという勇気が、ステータ反力の発明を生み、画期的な平行軸方式をつくり上げることにつながった。後年、特許の壁を越えたことについて、1978年10月に発行されたTOPTALKSの中で、当時の社長・河島喜好は『エンジニアと気力』と題し、次のように語っている。

「理論が先にあって、それに従って技術を開発するのは比較的やさしいが、理論がなくとも、ともかくつくってみる。失敗するかもしれないが、失敗を恐れず、いろいろと試みると、思わぬところで活路が開けるものである」。

そしてもう一つは、Hondaがアイデアに頼ってきたことにある。例えば金に頼れるならば、多くの時間と労力を費やしてホンダマチックを開発するよりも、特許を流用する方がはるかに楽なことだ。しかし、それは企業としての本質ではない。企業として厳しい競争に勝ち残っていくためには、最後は自分たちのアイデアと技術しかないのである。

ホンダマチックを開発した服部は、『模擬を戒め、創造を勗(つと)め』という言葉を座右の銘としてきたというが、それは決して偶然ではないのだ。

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カーナビゲーションシステム / 1981

カーナビゲーションシステム / 1981

*CVCCエンジン成功の舞台裏で

『自動車は3等機械だ』という笑い話がある。何でも人間に依存していて、すべてをやってもらわなければ動かない。しかも、素晴らしい能力を持っている人間が、20時間も30時間も練習しなければ乗りこなせない、これほど手のかかる機械はないという意味だ。しかし、この話の中から、一つの自動車の未来が見えてくる。そんな気持ちにさせられる時代が、始まろうとしていた。

1970年代に入り、自動車業界ではエレクトロニクス技術が急速に発達した。その背景にあったのは、年ごとに厳しさを増していく排出ガス規制の問題である。多くの自動車メーカーは電子制御によって、この問題を解決しようとした。こうした研究は、やがてエミッションの領域を超え、カーエレクトロニクスとして足回りやメーターなど、自動車全体に応用されていくことになる。

この間、HondaはCVCCエンジンに全力を挙げて取り組んでいた。そして世界に先駆けて、マスキー法の基準値をクリアする快挙を成し遂げた。このことは世界中の自動車メーカーを驚かせ、Hondaのエンジン開発技術の高さを証明して見せた。

しかし、CVCCというメカニカルな技術に精力を傾注したため、一方でカーエレクトロニクス分野での遅れを生むことにもなった。技術の進歩はそれほど急速だった。

「お前、4輪の電装品をやってくれ」。
1976年、当時、汎用部門で発電機の開発を担当していた田上勝俊は、技術研究所の専務であった久米是志からこう告げられた。第8研究ブロック、いわゆる電装品研究室の責任者をやれというのだ。これまで4輪のことなど考えたこともなかった田上の戸惑いをよそに、久米は言葉を継いだ。
「他社をキャッチアップして、一歩前へ出ること。それがお前の役割だ」。

エレクトロニクス技術の進歩に対して、久米は大きな危機感を持っていた。それはエレクトロニクス技術がエンジン開発の重要な要素になりつつあったからだ。

これまで電装品の開発は、外部の専門メーカーに依頼する形で進められてきた。それがエンジンにまで及ぶということは、専門メーカーにエンジンの仕様をすべてさらけ出さなければならないことを意味していた。エンジンが事業の根幹を成すHondaにとって、これは許されるべきことではなかった。一歩前へ、という久米の言葉には、そうした意味が込められていた。

*未来を見据えて電装戦略を立案せよ

「自分たちが想いをもって取り組んでいることは、どこからも制約を受けずに、やりたいことを自由にやれる環境にしておかなければいけない。ましてエンジンを手放したら、Hondaはなくなってしまう。エンジンを守るためにも、カーエレクトロニクスは必要だ」。

そんな想いに駆られながら、まず田上が手掛けたのは、電装戦略の構築だった。エレクトロニクス技術を自分たちのものにするため、Hondaが取り組むべき技術、そして技術を実現するための全体像を描くことだった。

短期間でまとめ上げられた戦略には、自動車の知能化をキーワードに、エレクトロニクス技術によって進化していく自動車の姿が描かれていた。
エレクトロニクス技術の発達によって、エンジンコントロール、次いでトランスミッションコントロールが可能になると、オートクルーズ機能へと発展する。さらにステアリングも自動化へと進み、最後には、目的地を地図にインプットするだけで、自動的に道路を選択して目的地にたどり着けるようになっていく。最終ゴールには、自動運転車がイメージされていた。

このプログラムは、久米によって『ACE(Automaticaly adaptive & creative electronic controled)システム』と名付けられ、後にPGM‐FIやアンチロックブレーキシステムなどを生むことになる。

この電装戦略・ACEシステムの中に『コース誘導』という言葉も含まれていた。しかし、この段階ではナビゲーションというイメージは与えられていない。それを得るには、新しいアイデアと多くの努力が必要だった。

*部品8点、シンプルなガスレートジャイロ

そのころ、自衛隊の訓練を見学する機会を得た久米は、凹凸の激しい大地を走る戦車の群を観て、あることに気付いた。それは車体の傾きに影響されることなく、砲身が常に照準を向いていることだった。それがジャイロスコープ【注】によって制御されていることを知ると、クルマに使えないだろうかと感じ、研究所に戻るとすぐにその研究を命じた。

久米の話を聞いた田上は、初め、サスペンションなら使えるかも知れないと思い、早速ジャイロを購入し、分解してみた。ところが部品点数は200点を超え、そのうえ非常に精密なものであり、到底、量産車に載せられるとは考えられなかった。しかし、電装戦略の実現のためには、これまでにない新しい何かが必要だった。田上はジャイロにこだわった。それが結果的に、ガスレートジャイロとの出会いにつながることになった。

ガスレートジャイロとは、ガスの直進しようとする慣性力を利用したもので、ノズルから噴出されるヘリウムガスを2本のヒートワイヤーに当て、その温度差によって方向の変化を感知するものだ。その部品点数はわずか8点。シンプルさにおいて非常に魅力的であった。ところが精度が著しく低く、しかもゼロ点が狂う問題があった。この問題はスタッフたちを悩ませたが、研究が進むにつれ、ゼロ点を常に補正しながら、信用できる間だけ使うシステムへの可能性が見出されていった。

1977年に入ると、ジャイロの研究は新しい展開を見せ始めた。そのきっかけとなったのは、
「コース誘導に使えるのではないか」
という、スタッフからの提案であった。
方向の変化を感知するジャイロの特性を利用して現在位置を求め、得られた位置を常に道路に合わせていけば、コース誘導できるというアイデアであった。

早速、実験が開始された。透明シートに描かれた地図に、予定コースを黒い線でなぞり、それをセンサーで拾うことで、コース誘導する実験であった。結果は、アイデアを裏付けた。さらに、その後の実験で、クルマが描く軌跡と道路のパターンを重ね合わせれば、自分の位置が分かるのではないか、と発想が進んでいく。それが世界初の自動車用ナビゲーションシステム、『Honda・エレクトロ・ジャイロケータ』の原点となったのである。

【注】ジャイロスコープ…回転するこまが3軸方向に自由に向きを変えられるようにした装置

*道なき道をゆくジャイロケータ

構想はまとまった。しかし、まだ解決しなければならない問題がいくつもあった。最も重要かつ最も悩まされたのが、ガスレートジャイロの精度の問題であった。性能のばらつきやゼロ点の狂いなど、商品化のためには、まだまだ性能向上を図る必要があったのだ。

研究チームは試行錯誤を重ねながら、わずか8点の部品に対して、さまざまな改良を加えていった。例えば、性能にばらつきが出るのは、周囲の温度に影響されていることに起因していた。そこで、一定の温度に保つ恒温槽を付けるなどの改善が図られた。

こうした改良が進む中で、田上はガスレートジャイロを量産してくれる専門メーカーを当たっていた。ポイントは、真空技術にあった。ガスレートジャイロの性能を安定的に引き出すには、ヘリウムガスの純度を高めなければならない。それを実現するには、高い真空技術が必要だった。

しかし、果たして商品化できるかどうか分からない新しい技術である。受けてくれるメーカーはなかなか現れなかった。困り果てた田上は、ヘッドライトの製造で優れた真空技術を持つスタンレー電気の研究所に日参。所長に引き受けてくれるように頼み込み、ようやく協力してもらえることになった。
「私たちの新しいものを創り出そうという気持ちに、技術屋として共鳴されたんでしょうね。社内の反対の声を押し切って協力していただいた。まさに命の恩人です」(田上)。

これ以降、スタンレー電気とHondaが一緒になって、ガスレートジャイロの精度向上に取り組むことになった。
しかし、その後の開発も容易ではなかった。量産当初、10個つくって1個という歩留まりが、その難しさを物語っている。

*地図が間違っているなんて

さらに、思いもよらぬ壁に突き当たることも度々あった。
ガスレートジャイロの精度も向上し、ようやくシステムとしてのまとまりがつき、路上での評価会を行うまでになっていた。ところが、ここで一つの問題が起きた。

評価会では、久米と担当所付であった川本信彦が乗り込み、田上が運転を担当し、毎回、同じコースで試乗が行われたのだが、いつも同じ場所に来ると、コースから外れてしまうのだ。その原因が、なかなか分からなかった。今となっては笑い話だが、付近に国民に知らされていない軍事施設があるのではないか、という意見も出され、電界強度計を持ち出しての調査まで行われた。
しかし、どうしても原因が分からない。あらゆる可能性をつぶして、ようやく、
「ひょっとしたら、地図が違っているのかも知れない」(田上)
と思い当たり、地図の販売会社に問い合わせた。そこで初めて、地図の表現がいかにあいまいなものであるかを知ったのだ。

例えば、10万分の1の地図上で10m幅の道路はわずか0.1mmに過ぎない。これでは道路が込み合っている地域では、線が重なり合って描けない。そこである程度、距離を無視して道路が描かれているのだ。地図の世界では『デフォルメ』と呼ばれる常識的なテクニックであった。

結局、システムに合わせた地図を、新たに作成することになり、思わぬ遠回りを強いられることとなった。

*最終評価会は鈴鹿から東京への実走で

そして1981年初め、いよいよ最終評価会が行われることになった。ちょうど鈴鹿で4輪の販売店大会があり、その帰り道、久米を東京の自宅に送り届けることが要件であった。久米が自宅の位置を地図に○印を付け、朝の6時に鈴鹿を出発。もちろん田上は久米の自宅を知らない。途中、久米の指示に従って、高速道路に乗ったり降りたりを何度も繰り返し、東京に着いた時には、既に午後7時を回っていた。

ゴールはもう、目の前だった。CRTの表示が○印に近付いていくのを、田上は確信と不安の入り交った気持ちで見つめ、そして意を決したようにクルマを止めた。
「このあたりだと思うのですが」。

一瞬の間をおいて、久米の声が聞こえた。
「よし、合格だ。おれの家はあそこだよ」。
その言葉は、長い道のりの疲れをいやすかのように、田上の胸に心地よく響いた。

こうして、世界初の自動車用ナビゲーションシステムが誕生した。1981年8月、2代目アコードのディーラーオプションとして発表された『Honda・エレクトロ・ジャイロケータ』は、自動車メーカーを驚かせ、電装メーカーを慌てさせた。
未来を見据えた電装戦略の構築、そして、ジャイロと地図に、とことんこだわったことが、新しい価値の創造を実現させたのである。

*デジタル化への新たなる挑戦

『ジャイロケータ』の発売から5カ月後の1982年1月、次世代ナビの開発がスタートする。開発は、次の3つのプロジェクトが同時に進められた。

①『ジャイロケータ』を発展させたアナログマップ・ナビ(1.5世代)
②デジタルマップの採用によってコンピュータによる自動地図合わせ処理、マップマッチングを目標とした全自動ナビ(2.0世代)
③光ファイバージャイロの研究

3つのプロジェクトが同時に進められたのは、追従する他社を振り切り、圧倒的な技術的優位を確立するためであった。その意味において、デジタルマップ・ナビは将来への布石であった。

デジタルマップの採用を提案し、そのプロジェクトのLPLとなっていた中村之信(ゆきのぶ)には、デジタル化への時代の道筋が見えていた。彼は1980年ごろから、光ファイバージャイロの研究のため、茨城県の筑波学園都市にある電総研(通商産業省工業技術院電子技術総合研究所)へ国内留学しており、既にこのころから、デジタルマップ・ナビの構想を抱いていた。

アナログマップとデジタルマップの1番大きな違いは、『マップマッチング』という機能にある。すなわち、地図情報をデジタル化することによって、走行軌跡と道路形状を照合することが可能になり、現在位置をより高い精度で把握することができる。
技術は段階的に構築されることになるが、最終的に、このマップマッチング技術、そしてデジタルマップ作成の技術(分割格納と合成表示、画面のスムーズスクロール等)などの基本特許を独占することで、現在に続くデジタルマップの分野でも、Hondaが先鞭をつけることになるのである。

*ウソをつかないシステムにしてほしい

しかし、開発の経過には紆余曲折があった。その大きな要因は、地図をデジタル化した時に、その膨大な量のデータを記憶させるメディアが、まだ世の中に存在しなかったことだった。ようやくCD(コンパクトディスク)が標準化されようしていたころで、テストでは8インチのフロッピーディスクが用いられる状態であった。もし、フロッピーディスクに全国の地図を入れるとすれば、何百枚にもなるほど、そのデータ量は膨大であった。

また、デジタルにしろ、アナログにしろ、次世代ナビに対しては、方針として極限まで性能を向上させることが求められていた。そのころ、技術研究所の副社長になっていた川本は、機会あるごとに
「ウソをつかないシステムにしてほしい」
と指示していた。

ウソをつかないとは、絶対に間違わないという意味だ。例えば、電卓が計算を間違えたら商品にならない。だれが見ても、その性能が一目で分かってしまうからだ。ナビゲーションシステムも同様で、お客さまは完全無欠を望んでいた。このことは、開発スタッフたちにとって大きなプレッシャーとなっていた。
この時期、中村は評価会の夢をよく見たという。川本の目の前で、現在位置が道路からどんどんずれてしまう夢だった。ハッとして目が覚める、そんな日が何日も続いていた。

*3年間の回り道を経てアナログからデジタルへ

1983年、先行するはずであったアナログマップ・ナビでも苦戦が続いていた。当初、LD(レーザーディスク)に地図を記憶させる構想であったが、共同開発先の事情が許さず、次善の策であるマイクロフィルムを使用していた。それが要件の一つである地図の自動切り替えを難しくしていたのである。

ところが1984年に入り、LDの共同開発が可能になり、遅れを取り戻すべく、開発の精力はアナログマップ・ナビへと傾けられていく。そして中村自身がアナログマップ・ナビのLPLになることで、デジタルマップ・ナビの開発は事実上、凍結されることになる。

しかし、この間にもデジタル化の波は押し寄せていた。1985年には、米国のETAK社が、地域の限られたものではあったが、デジタルマップ・ナビを発表し、中村たちを悔しがらせた。またその後、アナログマップ・ナビの商品化は中止される結果となり、スタッフたちの思いは複雑であった。

1987年、3年の回り道を経て、デジタルマップ・ナビの開発が再開された。もう一刻の猶予も許されなかった。早期に商品化するため、高精度ジャイロと高度なマップマッチングの組み合わせで、地図にない道を走った後もマップマッチングができるようにし、主要道路だけで成立するマップマッチングを目指すことになった。アナログマップ・ナビでの技術やスタッフたちの経験が、短期間での開発を可能にしていた。

そして1988年3月に、今までの基礎研究所(HGF)単独での開発から、栃木研究所(HGT)との共同開発が指示され、1990年に発売された2代目レジェンドにデジタルマップ・ナビは搭載されたのだった。
長く、紆余曲折のある開発であったが、目的地を見失うことなく走り続けたことが、カーナビゲーションシステムに革新をもたらすこととなったのである。

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エアバッグ・システム / 1987

エアバッグ・システム / 1987
手探りでスタートした独自開発

スルスルとダミー人形を乗せた台車が動き出す。その一瞬を見逃すまいと、スタッフたちの視線が一斉に台車に注がれる。そして時速30マイル。
「ドカーン!」。
大きな音とともにダミーが大きく揺れる。離れていても、衝撃が伝わってくる瞬間だ。

「よしっ!これならいいだろう」。
不安を飲み込み、自分自身を納得させるかのように、だれかがつぶやいた。だが、その期待はすぐに打ち消されてしまう。どうしてもエアバッグが膨らむよりも先に、ダミーが突っ込んでしまうのだ。目標の時間内にバッグが膨らんでくれない。その時間とは、わずか1000分の30秒。瞬く間だ。もう何度、こんな思いを繰り返しただろうか。毎回のことながら、期待する分だけ、ついバッグの膨らむ時間の判断が甘くなってしまう。それでもだれにも落ち込んでいる暇はない。目の前のハードルを越えていくためには、自分たちがやるしかないのだから。

1975年、Hondaはエアバッグ・システムの独自開発を本格的にスタートさせた。
「おい、この資料に目を通しといてくれ」。
開発責任者の岡田元浩はチームメンバーの本田潔に、1冊のレポートを手渡した。そこに書かれていたのは、バッグを展開する時の、あの『ボン!』という音の大きさを測定するテストについてだけであった。独自開発はいつも暗中模索の中から始まるのだ。

しかし、エアバッグ・システム開発に対する機運は高まっていた。アメリカ議会では、1970年に受動拘束装置(装着動作が不要なパッシブベルトやエアバッグ等)の義務付けが検討されて以来、度々、法制化の議論が行われてきた。そして、1972年にフォードが、1973年にはGMが、それぞれフリートテストを実施していた。安全では飯が食えないという時代は終わろうとしていたのである。

独自開発に当たって、Hondaでは併行異質自由競争主義が採られた。外気吸い込み式と全ガス式の二つが競い合ったのである。どちらもバッグを膨らませる第1段階はクリアしたが、最終的には機構のシンプルさで優る全ガス方式によって開発が進められていた。

――もっとガスの噴出効率を上げていかなければだめだ――。
台車衝突テストの結果を受けて、高圧ガスボンベの圧力は400気圧まで上げられた。もうここまでくると、既存の知識だけでは対応できない。自分たちで考え、試してみる他はない。

「新しい技術に挑戦する時、当然、知りたい情報を持っている人はいない。だからそれぞれの分野の専門家に聞くことはできても、システム全体として完成させていくには、自分たちで考えるしかない」(本田)。

開発スタッフたちは、専門家を探し出しては学び、何度も図面を引き直した。時には自らの手で溶接し、板金に取り組むことも度々であった。この間に衝突スピードは時速35マイルに引き上げられていた。そして1979年1月、3回目の評価会でようやく時間内にバッグを膨らませることに成功した。

*自らの手で見送った商品化

全ガス式のシステムは、出来上がってみると全体的にかなり大きなものであった。開発の段階では機能証明をすることが最優先であり、スタッフたちにもスペースを気にする余裕はなかった。この他にも、常に400気圧ものボンベを搭載していることの危険性、開弁装置の信頼性、太く固い配管などの問題もあり、このままでは到底、量産車に搭載できるとは思えなかった。

そこで1979年9月、量産車に対応する現実的な手段として、火薬の燃焼によってガスを発生させる火薬式インフレーターを使った開発が始まった。

もちろん、すんなりとは進んではくれない。ガス温度の高い火薬式では、バッグは膨らみやすいが、乗員を受け止める性能が低下するという問題が起きた。これは火薬式ではガスが高温になることで、分子運動が活発化することが原因であった。つまり全ガス式に比べて少ない分子でバッグを膨らませられるが、少ない分だけ受け止める性能が低下したのだ。結果的には、大型のバッグと強力なインフレーターに変更することで解決していくのだが、スタッフたちの試行錯誤は長く続いた。

そして1982年、エアバッグ・システムは、ようやく量産可能なシステムとして完成した。本格的なスタートからは7年の時間がたっていた。後は評価会で商品化が決定されるはずであった。ところが、この評価会で2代目の開発責任者である武田秀夫自らが、
「エアバッグそのものが社会的な認知を得ていない状況の中では、まだ、世に出すべきではない」
という提案をすることになる。

もとより安全にかかわる商品として、慎重の上にも慎重を期さなければならない。認知されていない状況の中では、使われ方一つを取っても不安があった。
また、お客さまの期待に反する結果が出れば、多大な迷惑を掛けることにもなる。性能的に優秀であると分かっていても、先鞭をつけることにはためらいがあったのだ。あるいは、開発者として、エアバッグ・システムとしての本質に届いていないという想いがあったのかも知れない。その本質とは、絶対的な信頼性である。

*NASAの技法に学べ

1982年末、開発チームはSRS(Supplemental Restraint System)、いわゆるシートベルトの補助拘束装置として商品化を目指した信頼性追求のチームとして再出発した。十数人いたメンバーは4人に減り、開発責任者も3代目の小林三郎に代わったが、開発への意欲は失われることはなかった。

「基礎となる技術は十分に学んできたし、機能的にも確立されている。後は商品性、信頼性を確立すればいいだけだ。今度こそ絶対に商品化してやろうと思っていた」(本田)。

しかし、エアバッグ・システムにおける信頼性の確立は、ある意味で機構そのものを開発するよりも難しいことだった。それはシステムが正常に機能するかどうかをテストできない『ワンショット・デバイス』だからだ。

どのように信頼性を求めていけばいいのか。開発スタッフたちは、その答えをNASAが実践する宇宙開発の技法に求めた。そして1983年9月、マクダネル・ダグラス社の宇宙部門(MDAC)の門を叩いたのである。
スタッフたちはMDACで、信頼性について技法や考え方など、多くを学ぶことになる。中でもFTA(Fault Tree Analysis…故障の木解析)は彼らの目を開かせた。

FTAとは、まず目的を明確にし、その達成を阻害する要件を洗い出すことで、問題点とトータルの故障確率を計算する手法である。
例えば、エアバッグの任務は何なのか。それは万が一、自動車が衝突した時に、確実に膨らんで乗員を保護することだ。では、その任務を阻害する事象は何か。一つにはバッグがうまく膨らまないことがある。さらにその事象を発生させる要因として、センサー・システムの不具合があり、バッグを含むモジュールの不具合があるというように続けていく。すると最後には部品単体にたどり着く。そしてこの解析を繰り返し、各々の故障確率を計算する。その結果、明確になった信頼性の低い事象に対策を打ち、トータルの目標値を達成していくのである。

このFTAにおいて、最も特徴的なことは、エアバッグの故障に入る前に、まず、社会の中での自動車という存在があり、その自動車が事故を起こした時にどうなるか、そういう非常に大きな概念から落としていくことにある。一つの考え方として、自動車が事故を起こした時には、相手のことも考えなければならない。エアバッグが故障したと言っても、条件の異なることがいろいろある。だから境界条件を明確にし、分けて考えていくことで、より適切な対策を講じることができるのである。

「最初のうちは、なぜ、こんな面倒なことをするのだろうと思っていた。しかし、MDACのスタッフが示した例を参考に、自分なりに何度もやり直していくうちに、FTAの意味が分かってきた」(本田)。

また、FTAとは逆に、ある部品に故障が発生した時に、システムに対してどのような影響を及ぼすのかを解析するFMEA(Failure Mode Effect and Analysis…故障モードの影響解析)も勉強し、信頼性の向上に明確な道筋を見出すことになった。

この他にも、設計はシンプルに、目標は明確にすること。目標を達成する手段を挙げ、それぞれの問題点を明確にすることなど、多くのアドバイスを受けた。そして改めて、信頼性に王道がないことを学んだのである。

*信頼性を1けた上げなさい

MDACで学んだ解析手法によって、エアバッグ・システムの信頼性は、99.999%(ファイブナイン)を達成していた。これは開発チームが目標としていた数値であり、わずか10万分の1という故障確率である。ロケットを打ち上げるために求められる故障確率が99・9%であることを考えれば、限りなくゼロに近いものだ。スタッフたちは自信を深めていた。そして、このファイブナインの信頼性をもって、1983年11月、再度の評価会に臨んだ。

ところが、再びスタッフたちの前に新たなハードルが現れることになる。当時、技術研究所の副社長であった川本信彦は説明を聞き終えると、こう答えたのである。
「エアバッグ・システムは信頼性がキーだから、もう1けた上げなさい」。
99.9999%(シックスナイン)の信頼性、100万分の1の故障確率にせよ、と言うのだ。つまりこうである。10万分の1の故障確率は取りようによっては、10万台に1台の割合で故障が発生することになる。何台のクルマを売るのかと考えれば、10万分の1では不十分ということなのだ。

これを聞いていた本田は
「随分、あっさりと言ってくれるものだ」
と感じながらも、そういう感覚の方が普通なのかも知れないと思っていた。
「シックスナインとは言っても、それは机上の計算だ。どこまでやっても、それだけの信頼性があるのかは、本当のところは分からない。しかし、信頼性向上の作業が全くの実りがないものならともかく、知恵を出して解決できるのなら、可能性のある限り努力を続けることが必要なのだと思う」。

そして、この99.9999%への挑戦が、さらに新しい『知恵』を生み出すことにつながっていった。

*シックスナインへの挑戦

開発チームではもう一度、システム全体の見直しが行われた。しかし、1けたとは言っても99.999%からの1けたである。その作業は精度と根気強さが求められた。プロジェクトルームの壁には、一面にFTAが貼り出され、スタッフ全員の手で部品や機構が一つずつチェックされていった。

スタッフたちが最初に取り組んだのは、SFP(Single Failure Point)を極力減らすことだった。SFPとは、単一故障がシステムに影響を及ぼす故障モードを言う。例えば、車両の前後に、衝突を感知するセンサーが2個ずつ取り付けられているが、もし一つのセンサーが故障してもシステムとして致命的な故障にならないように、これらを並列結合するのと同時に直列結合するといった改善が図られた。壁のFTAには、SFPの位置が赤い線で示されていたが、その数の多さに、まるで壁一面に血の雨が降っているようだった。

そして、この作業の中から、ステアリングホイールとステアリングコラム間の電気的接続に使われているスリップリングに、振動によるチャタリング【注】やごみかみなどによる、導電不良の可能性が指摘された。チャタリングの瞬間とセンサーのONの瞬間が重なる、ごくわずかな可能性である。この不安を解消するために、常時、導電状態を保つことができるケーブルを渦巻状に巻いたケーブルリールが開発された。
その採用に当たっては、対策を施したスリップリングとの信頼性が比較されたが、結果はどちらも同じレベルであった。この時、採用を決定させたのが、エモーショナル・コンフィデンス(情緒的信頼性)という考え方だ。これは数値には表せない信頼性を意味する。つまり、常時つながっている導電信頼性に勝る信頼性はないのである。

さらに、このケーブルリールでは、工場での組み付けにも配慮がなされている。なぜなら、中心に合わせて取り付けないと、ステアリングホイールを据え切りした時に切れてしまう恐れがあったからだ。そこで自動センタリング機構が考案され、取り付けやすく、しかも信頼性を損わない工夫がなされている。スタッフたちは工場へも足を運び、組み付けの現場を確認し、FTAに反映していったのである。

また、衝突テストは、現実のさまざまな場面を想定して繰り返して行われた。実際の衝突の中で、センサーやエアバッグがどのように作動するのか。例えばセンサーの性能確認では、衝突してトラックの下に潜り込んだ場合、縁石の上を通り越す場合など、幾つもの場面が試された。こうしたリアルワールドテストによっても、信頼性は高められていったのである。

【注】チャタリング…通常、機械などのビビリを指すが、ここでは振動による接点の導電不良を言う

*信頼性を飛躍的に向上させたトレーサビリティー・システム

1986年の春、信頼性の向上は最終段階を迎えていた。ラインで生産された100台のレジェンドを使って、実使用時の信頼性を確認する2回目のフリート(より実際を想定した)テストが実施されたのである。

このレジェンドには、システムの抵抗変化を計測する装置が取り付けられていた。これによってクルマの使われ方はもちろん、季節の変化や日中、夜間などの温度差によって、電気的なものがどう変化するのか、システムにどのような影響があるのかが詳細に調査された。そしてこのデータによって、これまで積み上げてきた信頼性が改めて確認された。

さらにこのレジェンドには、信頼性を飛躍的に向上させる、ある手法が盛り込まれていた。それは、すべての部品にバーコードを付け、そのデータを管理することで、どのクルマにどの部品が付いているのかが分かる、『トレーサビリティー・システム』である。
このシステムがあれば、万が一、発売後にエアバッグ・システムの部品や取り付けに問題が発見された場合にも、すぐにクルマを特定して適切な対応が取れることになる。

事実、1990年に不良インフレーターの存在が判明した際、トレーサビリティー・システムによって対象車がすぐにリストアップされ、わずか数日で部品交換が完了。国内対象台数は12台、費用は80万円であった。もし、このシステムがなければ、対象台数5万台に対応せざるを得なく、多くのお客さまに迷惑を掛けることになったはずである。

信頼性は極められた。そして1987年9月、日本初のエアバッグ・システムがレジェンドに搭載された。基礎研究を経、1975年に独自開発がスタートしてから、12年が過ぎていた。エアバッグ・システムは発売当初の予想を超えて普及が進み、今では標準装備が当たり前となった。それも、信頼性を極限まで追求してきた成果である。

信頼性は数字だけの世界ではない。その中には現場、現物、現実のあらゆる要素が盛り込まれている。そして、新しい技術を生み出そうとする開発スタッフたちの意欲が、その根幹を支えているのだ。

「開発を進めていくと、いろいろな壁があった。一つ壁を乗り越えると、次にまた壁ができる。それを解決していくことは苦労というより、喜びの連続でしたね。その代わり、随分いろいろな分野を勉強しました。火薬の燃焼理論や高分子資材の勉強、化学のパテントも書いたし、統計なんか嫌いだったけれど勉強せざるを得ない。世の中にない、新しい技術をやり始めたら、やっぱり最後は自分でやるしかないんですよ」(本田)。

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舵角応動型4輪操舵システム(4WS) / 1987

舵角応動型4輪操舵システム(4WS) / 1987

*FF車の後輪をもっと使えないか

1960年代、科学技術は飛躍的な進歩を遂げた。人々は人類初の月面着陸を果たしたアポロ計画に無限の夢を抱き、地上ではモータリゼーションの興隆に胸を踊らせていた。この時代、技術は輝く未来を約束するものであった。

しかし、1970年代に入ると、その反動とも言うべき問題が顕在化する。自然環境の悪化、交通渋滞、交通事故の多発、欠陥車事件の発生などである。こうした事態に、人々は危機感を抱き、さまざまな取り組みが展開された。その一つにアメリカ交通安全局(NHTSA…National Highway Traffic Safety Administration)が提唱したESV(Experimental Safety Vehicle…実験安全車)計画があった。

ESV計画とは、増え続ける交通事故に対して、自動車の安全を根本から見直し、事態の改善を図ろうという呼び掛けであった。これに呼応して、世界中の自動車メーカーが参加。ようやく4輪事業が軌道に乗り始めたHondaも準参加という形で、実験安全車の研究に取り組むことになった。

安全の考え方には『衝突安全』と『予防安全』の2通りがある。Hondaでは予防安全という観点から、操縦性や安定性、運動性能といったテーマが取り上げられた。すなわち、障害物を避けやすいことや、すぐに止まれることなどを実現する、機敏な動きができるクルマの研究が進められたのである。この研究活動では、後にパワーステアリングの開発につながるアイデアが生まれたり、ドライバーに遠心力がかからないようにするための油圧式サスペンション装置の開発なども行われた。

しかし、本来の目的である予防安全を実現するためには、もっと本質的に自動車の運動性能を向上させるアイデアが必要であった。そこで1977年の暮れになり、原点に立ち戻って、現行の自動車を基本構造から見直してみようという趣旨の下、ワイガヤが行われた。このワイガヤの中から、後の4WS開発につながるアイデアが生まれることになった。

そもそもHonda車はFF車である。このFF車の場合、前輪に対して後輪の果たす役割は少ない。ステアリングを切る、駆動する、ブレーキについても8割方は前輪が役割を果たしている。これに対して後輪は、真っ直ぐに走るために固定されている程度である。

また、駆動については4輪駆動という概念があり、ブレーキも4輪が使われている。しかし、ステアリングに関しては前輪しか使われていない、と意見が続いた。
「それなら、遊んでいる後輪をステアリングに参加させることができないだろうか」。
これが結論であった。Honda車がFF車であったことも幸いした。もし、このアイデアが実現できれば、きっと運動性能は飛躍的に向上するに違いない。そしてその可能性は、スタッフたちのチャレンジングスピリットをかき立てるに十分なものであった。

*アイデアを発展させた理論モデルの構築

和光研究所の第6研究ブロックでは、佐野彰一と古川修の2人が、ワイガヤの結論を受けて、その進め方を相談していた。

まだ選考検討の段階であり、人もお金も、そうはかけられない。その上、当時のHondaでは、数多くのプロジェクトが進められており、開発メンバーを集めることさえ大変なことであった。さらに、既存のクルマを改良して実験をするにしても、まだこの段階では、後輪を前輪と同方向に切った方がいいのか、あるいは逆方向がいいのかさえ分かっていない。4輪操舵の場合、制御する自由度が非常に高く、アイデアは出たものの、何から手を付ければ良いか分からない状態だったのだ。

そこでまず、4輪操舵の理論モデルを構築し、基本的な考え方を固めていく。その上で研究を進めていくことが考えられた。

「今までにないシステム、だれも運転したことのないクルマだから、考えるだけで面白い。そのフィーリングを想像するだけでも楽しい。このころは、仕事以外の時も、いつも4WSのことばかり考えていました」(古川)。

そして、この理論モデルの構築が、4WS開発において決定的とも言える基本原理を導き出すことになったのである。

4輪操舵という発想そのものは、決して新しいものではない。
かつてダイムラー・ベンツでは森林警備隊向けに、4輪駆動・4輪操舵のクルマを開発したことがあった。それは狭い山道でも小回りが利くように、後輪が前輪とは逆に切れるように設計されていた。しかし、山道では効果を発揮したものの、アウトバーンで転倒するトラブルがあり、量産化には至っていない。

また、日本国内でも、大型トラックの左折巻き込み事故が問題となった時期の運輸審議会で、後輪を逆に切ることで、より安全に曲がれるのではないかという質問がなされていた。そしてこの時にも、高速道路での走行が不安定になるという回答が記録されている。

古川がつくり上げた理論モデルは、奇しくもこれらの事実を裏付け、同時に4WS開発への明確な方向付けをすることになった。それは、『高速では同方向、低速では逆方向』に切った方が良い、という答えであった。

「俊敏にくるくる回れるクルマという概念だけでなく、きちんと計算してみると、それが解答だということが分かったんです」(古川)。

4輪をいかに操舵するのかという大きな観点を持ち、理論モデルを構築するというアプローチが、これまで実現されることのなかった4WSのアウトラインを明確なものにしたのである。そしてこの発見は、1978年に基本特許として認められ、4WSの開発を大きく前進させることになった。

*理論を実感させた実験車

Hondaが4WSの研究を開始したころ、同様の研究を進めていたグループがあった。芝浦工業大学の小口研究室である。同研究室では、前輪と後輪を自由に操舵することでアンダーステア、オーバーステアをコントロールする研究に取り組んでいた。もともと小口研究室とは、軽自動車の操縦性、安定性の評価を依頼していた関係があり、偶然にも、テーマが一致することを知ったスタッフは共同研究を提案。2人だけで進めていた研究に心強い味方を得ることになった。

また、小口研究室にはドラム式台上試験装置があった。これは、前後平行に設置されたドラムにパイプフレームの実験車を置いた装置で、ギヤボックスの歯車を取り替えることで前後輪の操舵比を変え、操縦性、安定性を自在に確認することができた。この装置によって、これまでの理論はデータによって裏付けられ、加えて後輪の最適な操舵比などのデータも手にすることができた。前述の特許出願の際にも、これらのデータは大いに役立ったのである。

こうした追い風を受け、短期間の内に研究は実車テストへと進み、1981年4月、鈴鹿サーキット西コースで初めての実走行テストが行われた。テスト車両には、2台のアコードの前半分を接合したクルマが用意され、前後の操舵を連結させるリンク機構は、小口研究室が手づくりで製作した。

「頭の中では多分いけるだろうと思っていても、実際には体験したことのない世界ですから、自分たちの中にも本当にどうなのかな、という不安はありました」(古川)。

テストの結果は、そうした不安をきれいに吹き飛ばした。テスト車は、まさに異次元の運動性能を証明し、理論を実感に変えてくれたのである。この結果を踏まえ、4WSは正式な開発がスタートすることになった。

*車速応動から舵角応動への転換

高速では同方向に、低速では逆方向に切れる後輪の制御は、当初、『車速関数4WS』と呼ばれる、車速に応じたアイデアで考えられていた。しかし、この方法では、同方向と逆方向に切ることを連続的につなぐため、ギア比の制御が必要になり、仕組みとして電子制御と可変ギア比機構を組み合わせたものを開発しなければならなかった。

複雑にすればできないことはないが、複雑過ぎるシステムは、生産の現場や商品として、さまざまな問題を生じさせる可能性がある。そこで、もっとシンプルなアイデアで実現することが検討され、それまでの車速に応じた考え方から、舵角に応じて可変という考え方への転換がなされた。つまり、ハンドルを切る角度に応じて、後輪を制御する『舵角応動型』のアイデアであった。

実際の運転を想像してもらえば分かると思うが、高速道路での車線変更などの場合、ハンドルを切る角度はわずかである。これに対して低速時、例えば車庫入れなどの際にはハンドルは大きく切られることになる。高速では同方向に、低速では逆方向に切れた方が車の運動性能を向上させることに重ね合わせれば、小舵角の場合には同方向に切れ、大舵角の場合には逆方向に切れるようにすればいいのである。

この考え方は、もともと1978年に取った特許の一つであったが、新しいクランク機構の発想がその実現を可能にした。このクランク機構とは、初めは同方向に切れ、あるポイントに達すると逆に切れるものである。大舵角の場合で説明すれば、ハンドルの切り始めに一旦、同方向に切れ、その後ハンドルの切れ具合に応じて逆に切れていくのである。

しかし、実用に至るには、まだ新しいアイデアが必要であった。問題は一つのクランク機構では、同方向も逆方向も同じ振幅でしかハンドルが切れないことだった。高速時にはせいぜい1、2度切れれば十分だが、低速の場合には5度程度切った方が効果がある。ところが1本のクランクでは、低速時の効果がそれほど発揮されなかった。2本のクランクを組み合わせるアイデアが考え出されたことで、電子制御などの複雑な機構を使わず、シンプルな機械式の機構が開発できた。

この4WSは、最初の評価会で高い評価を受けた。その効果とシンプルな機構は、当時、技術研究所の社長であった久米是志をも驚かせるほどだった。それは、問題が起きても冷静に原因を追求し、基本原理に従ってアイデアを重ねたスタッフたちの努力の成果であった。

*新しい概念の難しさ

人は自身に経験のないことに対して、多くの場合、懐疑的であり保守的なものだ。世の中にどのように訴求していくのか。新しい概念である4WSにとって、それは大きな課題であった。まして4輪操舵の効果は、具体的な数字で説明しにくい側面がある。操縦性、安定性を高めるといっても、実際に運転してみないと分かりにくい。研究が始まった当初は、社内でも半信半疑という状態であった。中には後輪は固定するべきもので、操舵などうまくいくはずがないといった意見もあった。4WSはD開発へと進み、LPLとなった古川は、こうした問題の解決をも図らなければならなかった。

D開発では、R研究では想像もつかなかった、さまざまな問題に直面した。

例えば、4WSは長いシャフトで連結されているが、工場のラインは非常に効率化が図られているため、無駄なスペースがなく、これがラインに入れられない。また、サスペンションアライメントでは、従来なら固定された後輪を基準として、前輪を調整すれば済んだことが、4輪操舵となると、車体を基準とすることになり、設備や作業工程の問題があった。

それが素晴らしい技術であっても、莫大な投資額では、商品コストを押し上げることになり、現実的なものとはなり得ない。製作所側としても、コストをいかに抑えていくかは、難しい問題であった。

ただ、こうしたやりとりの中に保守的な雰囲気があることを、古川は感じていた。そこで現実の問題に対応しながら、あるアイデアを実行することにした。
「まず、みんなにクルマに乗ってもらうことから始めよう」。
とにかくその効果を実感することで、4WSの必要性を認識してもらおうと考えたのである。
そこで古川は、社内に4WSの推進委員会をつくり、製作所やサービス部門のスタッフに4WSを体験してもらった。そして、それまで言葉でしか分からなかった、4WSの効果を実感することで、その後のコミュニケーションもスムーズになり、Hondaとして世に送り出そうという機運も高まっていった。

こうした方法は社内だけでなく、現地法人やジャーナリスト、そして認定機関などに対しても採られ、4WSに対する正しい認識を広めるために有効な手段でもあった。

*意地悪テストと現地適合性テスト

また、商品として市場に出た時、起こる可能性のある問題に対しての消し込みも徹底的に行われた。
市場では、実際にどんなお客さまが乗られるのか、どんな運転をされるのかは分からない。中には設計者の思いもよらないことが起こるかも知れない。その可能性がある限り、俎上に乗せられテストが実施された。

いわゆる『意地悪テスト』と呼ばれるもので、例えば、後輪がタイヤのリム幅と同じ幅の溝に落ちて、それを知らずにエンジンをかけ操舵した時に、ステアリング機能は大丈夫なのか。あるいは、北海道のような寒冷地域で、後輪が雪に埋もれ凍りついた時に、操舵して壊れることはないかというような問題についてまで、念入りに検証された。

さらに、ヨーロッパでの現地適合性テストや現地法人に対する試乗会なども、積極的に展開した。そうした中から、実走行での問題点やドライバーの感覚を採り入れ、より完成度が高められていった。
ある試乗会では、その性能を過信したドライバーがオーバースピードでコーナーに進入し、ガードレールを突き破るアクシデントに見舞われる一幕もあった。しかし、その評価は非常に高く、ヨーロッパすべての国から価値を認められ、スタッフたちに大きな喜びをもたらした。

そして1987年4月、世界初の舵角応動型4WSとして新型プレリュードに搭載され、自動車の新しい世界を切り拓くことになったのである。

*チャレンジすることの大切さを学ぶ

ワイガヤの中から生まれた小さなアイデアは、10年の時を経て、4WSという技術へと発展した。この技術において、Hondaが世界に先駆けることができたのは、理論モデルをつくり、基本原理を把握できたからだ。

「後輪を切るということが、どういうことなのか、最初につかめたことが非常に大きい。後はそれを具体化するために、アイデアを出し、課題を解決していった」(古川)。

そして、この理論モデルの価値は、現在も多くの研究者たちによって取り上げられていることによって証明されている。非常にシンプルで、最先端制御理論にのせやすいモデルであり、今日のサスペンション制御や、左右のブレーキ配分などの技術につながっているのである。その点で4WSの研究開発は、自動車に制御理論を持ち込む最初の土台となった。

そして、この研究開発を支えてきたのは、
「自分のやっていたものを世間に出し、評価してもらおうという思い入れ」(古川)
であった。

自分で目標を立て、アイデアを出しながら新しいことに向かっていく。すると困難な事態が起こり、それに対してまた、アイデアを出さなければならない。それも短期間のうちに、なるべく正解に向かって。最初は失敗することもある。しかし、チャレンジする気持ちによって、学ぶべきことは多い。そして、その技術が商品として、お客さまに評価されることは、技術者として非常に大きな自信にもつながる。

「4WSを開発している時には、自分が技術を育てているように思っていた。しかし今から振り返ってみれば、実は4WSによって自分が育てられていたように思えますね」(古川)。

4WSが切り拓いたのは、決して新しい走りだけではないのだ。

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VTECエンジン / 1989

VTECエンジン / 1989

*燃費とパワーを両立する可変バルブ

1984年3月、Hondaは次の時代の主役となるエンジンを開発するために、NCE(New Concept Engine)計画をスタートさせた。この計画の中で、具体的な課題として挙げられていたのは、低回転域と高回転域でのハイトルクの両立、リッター当たりの馬力の大幅な向上などであった。その答えとして、1985年モデルのシビック、インテグラのDOHCエンジン、1987年モデルのシティのSOHCセンタープラグエンジンが誕生することになる。

これらの4バルブエンジンを手掛けてきた、栃木研究所第1設計室の梶谷郁夫は、その開発の経験から、
「次のエンジンは、バルブタイミングの切り替えしかない」
という確信を持つようになっていた。

「4バルブエンジンは、高回転・高出力であることに意味がある。そのため小排気量の「エンジンでは、低回転域との両立が非常に難しい問題となっていた」(梶谷)。

例えば、低回転域でのトルクを上げるためにバルブ夾角を狭くすると、高回転時にタイミングベルトやバルブスプリングなどが持たないという問題が生じていた。そのため、開発スタッフたちは、低回転域と高回転域のバランスをいかに保つのかということに、多くの時間を費やしていた。それでもスタッフたちの努力によって、DOHC、SOHCエンジンは完成することができた。しかし、これ以上の高性能エンジンを開発していくためには、このジレンマを解決することが必要だったのである。

実はこの時、既にバルブタイミングを切り替えるアイデアが動き出していた。それは、NCE計画がスタートする前年の1983年1月に発足した燃費向上研究チームによってもたらされたものだった。
1982年末、Hondaの燃費向上の研究開発は、50MPG(Mile Per Gallon)という格段に高い燃費効率を実現しつつあった。これを受けて、さらに燃費を向上させる技術を模索すること、それが燃費向上研究チームに与えられた課題だった。

この模索の中で、スタッフたちは動弁機構に燃費向上の可能性を見出した。それは、吸・排気側それぞれに新たに高速専用のカム駒とロッカーアームを備え、低速時と高速時でカム山を切り替えることで、バルブタイミングを変えていくという考え方である。そしてこの機構により、エンジンの高効率化を図ろうという狙いであった。

この『バルブ休止プラス可変バルブタイミング機構』はNCE計画の中に採り込まれ、次世代エンジンの核となる技術として、基本構想の熟成が図られていった。
そして後に、1989年モデルのインテグラに搭載されたVTEC(Variable ValveTiming & Lift Electronic Control System )エンジンとして、新しい走りを実現することになっていく。

*リッター100馬力という夢のエンジンへ

「次世代のエンジン技術は何か」。
燃費向上の研究開発から生まれた可変バルブの技術は、研究所トップからの問い掛けにより、燃費とパワーを両立させる技術として開発されることになった。

そして、1989年モデルのインテグラに搭載されることが決まり、1986年11月、D開発(商品化に向けた開発)が指示された。

エンジン開発のLPLとなった梶谷にとって、VTECの開発は、まさにわが意を得たものであった。それはDOHCやSOHCエンジンの開発で経験したジレンマを解消してくれるだけでなく、将来、エンジンが進化するための基幹技術になり得る可能性を秘めていたからだ。

しかし、1990年代の新たな価値を持ったエンジンとして、インテグラに搭載されるには少し物足らない部分があった。それは馬力である。当初の計画ではリッター90馬力。つまり、1.6Lのエンジンでは約140馬力である。当時のDOHCエンジンは、既に130馬力を達成しており、その差はプラス10馬力であった。

そんな梶谷の気持ちを見通しているかのように、当時、技術研究所の社長であった川本信彦が声を掛けた。
「おい、どうせやるなら100馬力にしろよ」。

自然吸気でリッター100馬力。それは、当時の技術では困難とされていた数字である。それをあっさりと言ってのけた川本の顔には、技術者の表情が浮かんでいた。リッター100馬力、ネットで160馬力、8000回転のエンジンだ。

「分かりました。それを目標にします」。
そう答えた梶谷の中に、絶対に実現できるという確信があったわけではない。あったのは、
「どうせ難しい開発をやるならば、目標は高い方がいい」
というチャレンジングスピリットであった。

「それは夢ですよ。当時、普通のクルマはリッター当たり70から80馬力。それが一気に100馬力まで飛んじゃうわけですから。もちろん、その開発は並大抵のことではない。回転を上げれば、それだけエンジンに大きな負荷がかかるわけですし、量産エンジンの品質保証目標値をクリアして、市場に出てからも品質を保証していくには、かなり大変なことだと思っていました」。

VTECエンジンの開発に苦労が待ち受けていることは分かっている。しかし、だからこそやりがいのある目標が必要であった。160馬力、8000回転。まさに夢のエンジンへのチャレンジが始まろうとしていた。

*やりたくないなら降りてもらっていい

しかし、チームに戻った梶谷を待ち受けていたのは、スタッフたちのさまざまな問題提起であった。

例えば8000回転という目標値は、当時の1.6LクラスのDOHCの最高出力発生回転数6800回転と比較すれば、20%も増加する。これがエンジン各部にかかる慣性力となると、40%も増加するのである。当然、熱的にもかなり高負荷になる。この高回転の慣性マスダウンのためには、部品一つひとつの軽量化が必要になるが、そこには剛性が落ちて耐久信頼性の問題がつきまとうのが目に見えていた。いかにして実現するか、どのように展開するか。チームの中に、可能・不可能の大議論が巻き起こったのである。

しかし、それは当然のことであった。まだ見ぬ夢のエンジンである。それを実現するには、技術的に異次元の世界へ飛び込まなければならないのだ。
「優秀なスタッフほど先が見える。そこに実現できない可能性がある限り、やっぱり不安はあるんです」(梶谷)。

チームでは、毎日のように議論が戦わされた。そして3カ月が過ぎた。議論が十分に尽くされたと判断した梶谷は、100人を超えるスタッフたちを集めて宣言した。
「私はやる。大切なエンジンだから、やりたくない人は降りてもらっていい」。
もちろん、だれ1人として降りる者などいるはずがない。何だかんだと言っても、技術者ならやってみたいのだ。ただ、異次元の世界へ飛び立つ滑走路が必要である。梶谷もそれを分かっている上で、宣言している。100人からの大所帯を動かすにはタイミングも必要だ。時間をかけて議論をすれば、最後、そのベクトルは一つになる。世界最高のエンジンをつくるんだというチャレンジングスピリットを、この宣言が引き出したのだ。

*本物かどうかを見極めろ

VTEC機構を成立させるために、企画段階では、バルブタイミング油圧ピン切り替え動弁系、ロッカーアーム内蔵小型油圧タペット機構、高回転・高出力化のための軽量化技術など、投入しなければならない新機構や新技術は30項目にも及んでいた。だが、与えられた開発期間と開発戦力は限られている。すべてを達成することは非常に難しく、商品を完成させることに重点を置いて、細部仕様の設定や技術の成立性が検討されていった。

中には目標とする商品要件に対して、必ずしも必要とは思われない技術や、その技術に問題が起きることで、VTEC機構の開発自体に影響を及ぼすことが懸念される技術もあった。そこで開発チームは、評価会メンバーとの相談会を持つことになった。

開発チーム側は相談会で、適用中止提案項目を取り上げた。しかし、当初は押し問答が続き、平行線のまま結論が出ない。どの技術を使い、どれを使わないか、梶谷にも迷いは多かった。
「この技術は、本物なのだろうか」。
梶谷は自分の中で反問していた。それはよく、川本から投げ掛けられた質問だった。

「これまでにも、新しい技術をどうするか迷った時、川本さんに『それは本物なのか』と聞かれたことがある。それでハイと答えると『じゃあ、やればいいじゃないか』と一言で片付けられる。『本物か』と聞かれると答えに窮するんですよ。何が本物なのかを見極めるのは難しい。私は10年続けば本物だろうと勝手に考えていた。川本さんはもう少し違う意味でとらえていたように感じたけれど、私自身は、10年続く技術なら世の中に通用するものだと。それは全機種に拡大できる技術だという意味でもですね」。

結局、徹夜に及ぶこともあった相談会で、開発チームの要求は受け入れられた。大きなことを成し遂げようとする時には、その胎動も大きい。しかし、こうした議論がVTECを本物へと育てていったのである。

*不安と試行錯誤の中で

実際の開発は、当初の不安の通り、厚い壁に突き当たることも度々であった。
「これはできないかも知れない。目標を高くし過ぎた」(梶谷)
という不安が何度も頭をもたげた。

中でも、バルブタイミング・リフトとベルト荷重の両立は難しい問題だった。高回転になればスプリング荷重なども増え、すべてが、タイミングベルトにかかってくる。目標出力を達成するためには、避けて通れない課題であったが、その解決策はなかなか見つからなかった。加えて、低速時の同一バルブタイミング方式が、他社の特許のため使用できないことも判明。さまざま対応策が検討され、試行錯誤の結果、動弁系まわりの諸元をすべて変更し、その上でバルブ径、リフト、ポート形状を再検討することで出力の見通しを立て、コンビ・バルブタイミングの導入を決定した。さらに、高密度・高強度な焼結合金と薄肉形状による軽量なドリブンプーリを開発することで、慣性モーメントを10%低減。これによって、タイミングベルト荷重と出力目標の両立を可能にした。

また、高出力を得るために、従来型のDOHCエンジンの吸気バルブ径30mmを33mmへ拡大。バルブタイミングとリフトをレースエンジン並みに取ることで体積効率を向上させ、その出力特性を高速側に移動させた。さらに、吸入抵抗を低減させることで、160馬力/7600回転、レッドゾーン8000回転を達成することができた。

低速トルクの向上では、低速カムを従来型の35度より、ABDC(下死点後)20度/30度とすることで、吸気バルブ閉時期を早くすることを可能にし、体積効率を大幅に向上させた。これによって低速から高速まで広い範囲で体積効率が向上し、幅広いトルクバンドを実現した。

こうした技術が成立したのは、多くの新素材の使用によってであった。例えば、VTEC用のカムシャフトは、一つのボアに3個のカム駒を配するためカム幅が制約を受け、高面圧に耐えられることが不可欠である。そこで高カーボン・高クロームの新合金スチールを鋳造し、熱処理・表面処理を施した新開発のキャストスチールカムシャフトを採用。これは高剛性で、しかも限界面圧を40%も向上させた。

また、排気バルブには、ニッケル基超耐熱鋼にモリブデン、チタン、タングステンを配合した新開発材を採用。耐熱強度で30%、バルブ傘大径化とステム細軸化を可能とし、20%もの軽量化を実現することができた。
こうしたアイデアと努力によって、VTECの姿はようやく確かなものとなっていった。

*全機種への拡大を目指して

VTECはようやくその全容を明らかにしたものの、D開発にとってはここからが正念場である。それは絶対の確信を持って量産し、市場に送り出すために、機構や部品のすべてに対して保証しなければならないからだ。しかもこのVTECには、商品としての信頼性を確実にするだけでなく、
「全機種に拡大しなければならないんだという強い意志があった」(梶谷)。

VTECはインテグラだけで終わりではない。将来へ展開しなければならない技術である。当然、お客さまの期待にも応えなければならない。だから、市場では、どんな小さな問題も起こらないように仕様を決めなければならない。実際にそのための試行錯誤も繰り返してきた。開発がスタートした時、開発スタッフたちが最も不安を感じていたのは、実はこの保証についてであった。技術的な課題に加えて、複雑で切り替えのある機構を保証する難しさを知っていたからだ。

例えば10mmほどの太さしかない切り替えピンは、わずか数ミクロンの摩耗で作動に影響が出る。その世界は過酷で、繊細である。

「だから意地悪テストも徹底的に、やり過ぎと言われるくらいにやった」(梶谷)。
意地悪テストとは、お客さまが実際に使う以上に過酷な条件を設定し、機構の信頼性、商品性を徹底的に確認する作業だ。
タイミングベルト、カムシャフト、ロッカーアーム、切り替えピンなど、すべての部品に対して40万回という切り替え要件を設定し、あらゆるテストが繰り返された。
そして低速・高速バルブタイミングの挙動に対する負荷変動の解析が行われ、実用上では考えられない厳しい条件下でも、信頼性に問題がないことを保証することができた。さらに油圧系統と電気系統にはフェールセーフ【注】の考え方が加えられ、開発スタッフたちが当初抱いた不安を払拭して余りある、万全の信頼性を自らの手で構築することができた。

【注】フェールセーフ…システムに故障が発生した場合、代わりの装置やシステムを用意し、機能を保証すること

*次の基幹技術を育てるプライド

1989年4月、DOHC・VTECエンジンを搭載したインテグラが発売された。そしてVTECは、吸・排気バルブのタイミングとリフトを同時に変えることができる世界初の動弁系機構として、大いに注目を集めた。
高回転化による最高出力の飛躍的な向上とともに、アイドル安定性、始動性など、低速商品性との両立、そして低燃費化も実現し、世界中のお客さまに異次元の走りを提供する『夢のエンジン』となり得たのである。

「いいエンジンをつくるんだ、世の中をあっと言わせるんだという想い。そしてこの可変バルブの技術は、次の基幹技術であるという強い確信がチーム全員の中にあった。技術確保のために全力を尽くすんだという意識があるからこそ、困難な開発や地道なテストも乗り越えることができたと思う」(梶谷)。

さらにDOHC・VTECエンジンは、NSX、シビック、アコードにその適応を拡大。1991年のSOHC・VTEC、VTEC-Eを経て、1995年には、より効率的な出力コントロールを実現した3ステージVTECエンジンへと進化を続けている。

VTECはまさに本物の技術となった。そしてそれをつくり上げたのは、開発スタッフ一人ひとりのチャレンジングスピリットにほかならない。

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MEエンジン(G100・150・200・300・400)シリーズ / 1977

MEエンジン(G100・150・200・300・400)シリーズ / 1977

*平坦な道のりではなかった汎用事業への挑戦

Hondaの汎用事業への挑戦は、創業から4年後の1952年に既に始まっていた。そして、その製品づくりの原点には、2輪車の技術があった。Honda初の汎用エンジンとなったH型エンジンも、カブ号F型エンジンを改良したものである。2輪で培ってきた技術を活かすカタチで、汎用事業は展開されてきたといえる。

しかし、その道のりは平坦なものではなかった。2輪では世界に伍(ご)していける実績を誇っていても、汎用事業に関しては、いわば素人である。しかも汎用事業には、商品に対するお客さまの価値観の違い、多種多様な商品を必要とすることなど、2輪事業とは異なる複雑さがあった。また、汎用事業には『エンジン』と『完成機』という二つの方向性があり、その選択も事業展開に大きな影響を与えた。エンジンは単体としてOEM(相手先商標製品)に供給されるものであり、完成機は耕うん機などの商品群である。

Hondaでは初期は汎用エンジンのOEMのみであったが、1959年にHonda初の耕うん機・F150を発売して以来、幅広い分野で完成機開発を展開してきた。完成機をつくることによって、Hondaの汎用事業が、さらにお客さまの喜びと直結していく。完成機を購入したお客さまからのさまざまな声も聞きながら次の商品開発へ、新しい技術へとつなげていくことができる。

これに対してOEMに供給される汎用エンジンでは、それを使うお客さまの顔が見えにくい。
また、汎用事業の難しさは、お客さまの作業や使い方に応じてラインアップをそろえていかなければ、お客さまの期待に応えることはもちろん、販売店の経営を成り立たせることもできないという点にあった。それは、農業機械、発電機、船外機など、すべての仕事機(商品)に共通の課題であった。その結果、自ずと多機種少量生産にならざるを得ず、開発能力、コスト、販売力など、既存の専門メーカーと伍していくだけの体力を付けていくには、多くの時間が必要であった。

汎用事業を始めて20年。この間、汎用部門では事業部制へのトライなど、数々の施策を打ち出したものの、苦戦を強いられていたのである。特に完成機開発に関しては、その難しさに悩まされ続けてきた。
しかし、1970年代に入ると、こうした状況を一気に打ち破るための、新しい姿を求める空気が次第に広がってきたのである。

*どれだけ地べたをはいずり回れるか

「100万台売れるエンジンを開発せよ」。
それが汎用の開発スタッフに課せられた新しい目標だった。1973年、社長に就任した河島喜好によって打ち出された『三本柱構想』を受けての目標値であった。2輪事業の拡大、そして4輪事業への参入を果たし、伸び悩んでいた汎用事業にも、全社を挙げて取り組んでいこうという姿勢が示された。しかし、反面、そこには汎用事業継続への危機意識も多分に含まれていた。

「100万台?」。
この数字を聞いた開発スタッフたちは自分の耳を疑った。なぜなら、当時のHonda汎用製品の年間生産台数は、まだ20万台に過ぎなかったからだ。30万でも50万でもなく、一気に100万台である。だれもが驚き、そして、達成は不可能なことのように思えた。そうした驚きの中で、
「不可能な数字ではない」
と感じていた男がいた。プロジェクトリーダー代行に指名された畠山弘之である。
彼は
――確かに年間販売台数は20万台である。しかし、それは多種多様な完成機を積み重ねた20万台なのだ。むしろエンジン単体ならば、与しやすいのではないだろうか。100万台売るためのマーケットを見極めていけば、そこにアイデアはあるはずだ――
と考えた。

彼は完成機の事業展開の難しさ、そして、市場のニーズに的確に応えることの難しさを感じていた。しかし、一方では良いものをつくれば必ず売れるという確信もあった。良いものとは、お客さまにとって買う喜びのある商品であり、技術もアイデアもそのためにある。新しいエンジンの開発で最も大切なことは、
『汎用エンジン市場のニーズを的確につかみ、明確な商品要件を確立すること』
であった。また、それができれば汎用事業の明日にもつながっていく。開発メンバーたちが自らの足で市場を歩き回り、徹底して生きた情報を収集すること、つまり、どれだけ地べたをはいずり回れるかが、成功の鍵であった。

プロジェクトのメンバーには、汎用の枠を超え、2輪や4輪、そしてホンダエンジニアリング(EG)からもエキスパートが顔をそろえた。開発総責任者である研究所常務の新村公男の下、Hondaの総合力を活かす異例の体制が敷かれたのである。

ME計画はこうしてスタートした。ズバリMillion Seller Engineの名を冠したプロジェクトは、まさに『明日の汎用エンジン』への挑戦であり、プロジェクトメンバー全員が、この課題解決に全力で取り組むこととなった。

*ブリッグス社製エンジンとの違いを生む苦しみ

100万台という目標値が設定される以前の1972年ごろから、既に新エンジン開発のための模索は始まっていた。
当時、世界の汎用エンジン市場の規模は、およそ1000万台。この内、約800万台を米国のブリッグス社が占めていた。同社のエンジンは大量生産することによって、100ドルを下回る強力なコスト競争力を誇っていた。開発スタッフたちは市場で使われている現物を研究し、お客さまの声にも耳を傾け、自分たちがつくってきたエンジンとの違いを徹底して検討し、同エンジンに対抗するための『タマ』を探し求めた。しかし得られたのは、
「同じものをやっても、勝つ見込みはない」
という結論だった。つまり、ブリッグスエンジンとの違いを生み出さなければ、活路は開けないのだ。

ブリッグスエンジンはいわゆるホームユースに強く、安価である。Hondaのエンジンは、2輪のエンジンを原点にしている。
Hondaが考える『良いもの』は比較の上で高価になり、汎用市場ではなかなか受け入れられない。1万円で3年使えるエンジンと、3万円で10年使えるエンジンでは、お客さまは安価なエンジンを選ぶ。汎用市場は2輪や4輪とは価値観の異なる市場なのだ。

ブリッグスエンジンは市場での使われ方を見極めた、シンプルで非常に優秀なエンジンであり、当時のHondaでは、技術的につくることができなかった。仮につくれたとしても、Hondaのつくりの思想に合うものではなかった。

現状を打ち破るためには、商品力を格段に向上させる何かが必要であった。そこで1973年の9月には、CVCC技術の応用も検討された。環境に対する配慮が製品開発に重要な要素を占める時代になり、4輪車に続いて汎用エンジンにも、CVCC技術の応用が試みられたのである。環境に優しい汎用エンジン、それが他社とHondaとの『違い』になるはずであった。しかし、汎用エンジンの多くはサイドバルブ(SV)であり、CVCC技術の応用は難しく、期待したほどの効果は得られなかった。出力の大幅な低下などを理由に、結果的には採用が見送られることになった。

*開発の課題を明確にし、一つの舞台に並べて見せる

1974年の春になっても、新しいエンジンの姿は容易には見えてこなかった。しかし、ブリッグスエンジンの研究、CVCC技術応用の研究、そして徹底した市場調査などによって、そのイメージは一つの方向性を持ち始めていた。

このME計画で、畠山は自ら商品要件の研究を担当している。市場の求めているエンジンの商品要件を明らかにした上で、Hondaの技術力を発揮していくためには、開発の課題を明確にして、一つの舞台に並べて見せることが大切だと感じていた。

一つの舞台とは、お客さまの『買う喜び』である。汎用エンジンの使われ方は多種多様である。机上では考えられないことの方が多いかも知れない。そうした現状を一つでも多く知ることが、Hondaの技術力をより現実的に活かすことになる。そうすれば、結果も自ずとついてくるはずだ。
彼は自ら各地へ赴き、OEMの供給先も回った。これまで培ってきた汎用の経験と開発者の目、そして五感で、ミリオンセラー・エンジンの姿を追い続けた。まだ新しいエンジンの姿は見えない。しかし、
――100万台も不可能ではない――
という想いは、確かな手応えへと変わりつつあった。

そして夏。これまでの研究・調査の結果を目標要件としてまとめ上げるため、1カ月に及ぶ山ごもりが行われた。

「コストでもブリッグス社と競争できる領域はないか」
「価格はいくらに抑えられるか」
「高くても売れる市場はないのか」
「OEMが欲しがるエンジンの条件とは何か」
「量産性の見通しはあるのか」
「営業戦略はどうなっているか」
「Honda独自のエンジンにする具体策は」
等々、毎夜、遅くまで熱い議論が繰り返された。研究所のスタッフだけでなく、EGや営業のスタッフも議論に加わり、あらゆる角度から検討が重ねられ、ようやく目標要件が確立された。

まず、戦略として業務用市場を狙うエンジンであること。ブリッグス社と価格で競争をするのではなく、Hondaエンジンの特長である耐久性を活かせる市場への絞り込みが図られた。そして、開発コンセプトは『丈夫で長持ち、コスト2分の1』と決められた。
だれの胸にも、これだけの言葉では言い尽くせないという想いはあったが、大切なことは、問題点を洗い出し議論を尽くしたことで、スタッフ全員が共通の認識を持てたことだった。ようやく、プロジェクトを引っ張っていくための旗印が出来上がったのである。

*『丈夫で長持ち』とはどれぐらいなのか

「畠山さん『丈夫で長持ち』って、どれぐらい持てばいいんですか?」。
設計が始まると、何人かのスタッフが畠山のところにやってきた。具体的な基準がなければ設計に取り掛かれないというのだ。

『丈夫で長持ち』とは、具体的な数値の問題ではない。使い方、使う人間によって、それぞれ状況も感じ方も違ってくる。例えば、同じ靴を履いても、毎日歩く人、電車に乗る人、クルマに乗る人では、減り方も汚れ方も違う。つまり、その商品を使う人が、『丈夫で長持ち』と感じるようにすること。お客さまの感覚こそが基準であり、それが新しいエンジンの目指すべき方向性だった。

難問ではあったが、S・E・Dから集まったメンバーたちは、新しい技術に挑戦し、コストを抑えつつ、丈夫な構造、システムを実現していった。さらに、畠山はスタッフたちを集めてワイガヤを行い、市場での使われ方やお客さまの感覚について話し合った。

例えばワイガヤの中で、1番困ることはエンジンが焼き付くことだという意見があった。どんなに丈夫であっても焼き付いてしまっては意味がない。自動車もそうだが、頭では分かっていても毎日のことになると、なかなかオイル量をチェックできないのが現実だ。まして業務用であれば、使用者と管理者が異なる場合が多い。『丈夫で長持ち』という観点から考えれば、エンジンオイルがなくなっても焼き付かないことが重要になる。

ならば、焼き付く前にエンジンを止めたらどうか。そんな発想から、エンジンオイルが規定量よりも少なくなると自動的にエンジンを停止させる機能・オイルアラートが具現化した。もちろん、ただ止まれば良いというものではない。ウインチを使用している途中で止まってしまっては用をなさない。どれぐらいで止めればいいのか、試行錯誤によって新しい技術としてまとめ上げていった。

市場の声を反映した商品要件にこだわり、開発チームのワイガヤの中から生まれた発想は、他にもポイントレス点火などの新機構を生み出すことにつながった。

*『コスト2分の1』への挑戦

もう一つの『コスト2分の1』も難しい課題だった。どうすれば達成できるのかと悩んでいた畠山に対し、技術研究所の専務であった久米是志は、
「機能別に担当者を決める方法を採ったらどうか」
と助言した。

「例えば機能が20項目あれば、それを等分して担当者を決めるんです。タンク、キャブレター、クランク、ダイナモ、プラグ、ベアリングなど、どんどん割り振っていく。そして現状のコストは分かっていますから、タンクが800円なら『あなたはタンク400円』とやるわけです」(畠山)。

強引な方法であったが、成し遂げようとする目標そのものが当たり前ではない。常識を超えていかなければ達成することはできないのだ。彼自身、
「到底、半分にはならない」
と思うものも少なくなかった。例えばプラグなどは共通化を図ったり、1番売れているサイズにするなど、いかに安く購入するかを考える程度しかアイデアはない。しかも、せいぜい稼いで3、4%である。担当者は頭を抱え込んだ。各チームが最大限の努力をしてみても、ない袖は振れないのだ。

「そんな場合は、どこかへ行ってもらってくるんです。仲間はいっぱいいるんですから。自分で探して、他チームに頼み込んでもらってくればいいんです」(畠山)。

半分にすることが難しいものもあれば、容易ではないにしろ半分以下になるものもある。他チームに行ってもらってこいというわけだが、もちろんタダではない。そのチームが取り組んでいる『2分の1』に対してアイデアを出して、半分を超えた分をもらうということなのだ。一つの目標に向かって、全員の力をまとめ上げていく。こうした努力の積み重ねが、最終的には『ほぼ半分』という、驚くべき成果を実現することになった。

このコストの問題は、耐久性とのバランスの問題でもあった。Hondaエンジンの耐久性が高かった点については既に触れたが、最高のものをつくろうという気持ちが強すぎたことで、ある意味で必要以上の堅牢さであった。それがコストに跳ね返り、商品としてのバランスを欠いた面があった。それを『丈夫で長持ち』という要件を確保しつつ、『コスト2分の1』を実現していくのは並大抵の作業ではなかった。

そのためニードルベアリングをプレーンに改める大胆な改善や、実らなかったものの、フライホイールをプレス加工でつくるなどの挑戦が行われた。さらに開発の段階からEGが参加し、生産技術とつくりが一体となって進められたことも、コストの圧縮に大きく貢献した。

*Hondaの総合力を結集してつくり上げたMEエンジン

MEエンジンは1977年6月に発売された。そして5年後の1982年には、ついに年間販売台数・100万台を達成することができた。
市場に立脚した商品要件と将来の目標を見定めた開発への転換によって、汎用エンジンとしてのあるべき姿を明らかにした戦略が、だれもが信じていなかった成功をもたらした。そしてこの成功は、2輪エンジンからの脱皮を促し、汎用エンジンとしての独自性を切り開くことにもなった。その意味においても、MEエンジンは三本柱構想を受けて開発された商品にふさわしいエンジンであった。

また、開発の段階から営業やEGを巻き込んだことも、成功への大きな原動力となった。特に、EGが加わったことで、量産での問題点やコストの圧縮についてアイデアを出し合い、総合的に開発を進められたことが、MEエンジンを商品としてバランスの良いものにした。そこには、後のS・E・Dシステムに通じる考え方があったのだ。

MEエンジンは、まさにHondaの総合力を結集してつくられた、汎用にとって記念すべき商品であった。商品要件を重視した開発方法を築き、人をも育てていった点において、汎用事業の『明日』をつくり上げたエンジンであると言っても過言ではない。

「100万台が、読める目標だったらMEエンジンは生まれなかったと思う。とてつもない目標だからこそ、いろいろとアイデアも出た。新しい体制もつくった。ノーマルな目標ではないので苦労したけれど、100万台というより、100万人のお客さまに喜んでもらいたいという気持ちがあったからこそ、実現できたんだと思います」。
畠山はMEエンジンの成功を、そう締めくくった。

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ZEエンジン(GX110・140・240・270・340)シリーズ / 1983

ZEエンジン(GX110・140・240・270・340)シリーズ / 1983

*部品が語り掛ける過酷な環境・使用状況

タイの国土を縦断して流れるメナム川(チャオプラヤ川)。首都バンコクから遠ざかるにつれてロングテールをよく見掛けるようになる。ロングテールとは、船外機の代わりに汎用エンジンを載せた小さなボートだ。エンジンには長いプロペラシャフトが取り付けられていて、まるでトンボの尻尾のようにボートから突き出している。その姿からロングテールと呼ばれているのだが、タイに限らず、発展途上にある東南アジアの国々では、水上交通や漁をするための船として、人々の暮らしに欠かせないものだ。

「おっ、いたいた。おい、あのボートを追い掛けてくれ!」。
その声の先には、赤白のエンジンを載せたロングテールが走っていた。赤白のエンジンとは、1977年に発売されたMEエンジンのことだ。声の主はMEエンジンの開発でテストを担当していた山口嘉信である。彼は自分たちがつくったエンジンが、実際にどのように使われているのかを確かめるために、目の前のボートを追っていた。そこには、机に向かっているだけでは得られない情報があるはずだ。自分の目で確かめ、直接お客さまの声を聞くために、出張の合間を縫ってメナム川をさかのぼって来たのだ。

汎用エンジンは多様な使われ方をする。実際に使われている現場を知らなければ、優れた商品はつくれない。事実、MEエンジンの開発では、スタッフたちが世界各地を飛び回り、その情報を商品要件として明確にしたことによって成功した。彼らは技術者の目で見ることができる。

例えば、販売店では修理している現場をのぞく。それもドラム缶などに捨てられている壊れたエンジンや部品をガチャガチャとひっくり返すのだ。すると激しく摩耗したシリンダーが出てきたりする。オイルが砂でジャリジャリしていれば、もっとエアクリーナーを強力にする必要性が見えてくる。壊れた部品の一つひとつが、過酷な環境や使用状況を雄弁に語り掛けてくる。まさに現場、現物、現実。それが改良につながり、新機種のアイデアへと発展していく。

MEエンジン以降、汎用に携わるスタッフたちは、こうした市場調査を何よりも大切にしてきた。オーストラリアでは牧草地を歩き、アメリカではレンタルショップを回り、タイでは田んぼへも入った。言葉などできなくても、お客さまの使い方や、販売店に持ち込まれる修理を見ていれば多くのことが分かってくる。まさに市場こそが研究の場であった。さらに人々の暮らしの中に入っていくことで、自分たちがつくるエンジンでお客さまの”買って喜ぶ”を実現したい、という意欲もかき立てていったのである。

*Hondaでなければ駄目だと言ってもらいたい

MEエンジンはタイを中心に東南アジアでよく売れた。販売店では、
「並べなくても売れる」
ため、店頭にMEエンジンを置かない店が現れたり、
「赤白のエンジンをくれ」
というお客さまが多いため、製品のカラーリングを赤白に変更するメーカーもあったほどだ。しかし、すべてがうまくいったわけではなかった。OEM市場では現実の厳しさに直面することも少なくなかった。

MEエンジンは『コスト2分の1』の目標を掲げて、多くのスタッフたちが努力を積み重ねた結果、同じクラスの他社エンジンに比較して格段に低価格であった。汎用エンジンはまず、コストありきである。だれもがこの価格差は、Hondaにとって有利だと感じていた。しかし、実際には期待したほどには、成果は上がらなかった。

MEエンジン売り込みのため、開発スタッフたちも、国内のOEMメーカーを回った。しかし、返ってくる答えは厳しい意見が多かった。
「いくらエンジンが安くても、わざわざ載せ替えてテストをするにはお金がかかるし、面倒も多い。ウチではいりませんね」
「見た感じはいいと思うけど、ウチの機械に載るようにして持ってこなければ使えないでしょ。よそはみんなそうしているんだ」

時には雪の降る中でエンジンを回して見せたこともあったが、結局、事前の手応えは見事にうち砕かれてしまった。中でも、ある建設機械メーカーの答えは決定的だった。
「エンジンが安いと確かにウチの会社は儲かる。だけど完成機として市場に出た時、商品にこの価格は反映されませんよ。だから実際にエンジンを使われるお客さんには、Hondaであるメリットはないんです」
実際に現地を回り、自分たちの目で見てお客さまの使い勝手を考え、問題点を解決し、その上で価格競争力のあるエンジンをつくったつもりでいた開発スタッフたちにとって、この言葉はショックだった。

「私たちが目指しているのは、エンジンを実際に使うお客さまに満足していただける商品をつくること。そして次に買うときは『Hondaでなければ駄目だ』と言ってもらいたいわけですよ。Hondaの技術屋は、みんなそう思っているんです」(山口)。
それが、お客さまに伝わらない。しかもお客さまは安いだけでは満足しない、という答えを突きつけられたのだ。

MEエンジンが成功したことは間違いない。このエンジンの登場によって、他メーカーと同じフィールドで競争できるだけの力を付けることができた。だからこそ厳しい意見ではあっても、OEMメーカーも見てくれたのだ。しかし、競争に打ち勝っていくために、そしてお客さまに、
「Hondaでなければ」
と言っていただくためには、もっと決定的な違いが必要であった。
『差ではなく違いを生かせ』
という言葉を、だれもがかみしめた。そしてこの経験は、やがて始まるZEエンジンの開発につながることになる。

*SVからOHVへ、ZE計画がスタート

1980年10月、MEエンジンに続く第2弾として、コンシューマー(消費者)用エンジン開発の指示が出された。MEエンジンは業務用に的を絞って開発されたが、市場をさらに拡大するためには、コンシューマー市場でも地歩を確立する必要があった。そのため、この新エンジンでは年間300万台が目標とされた。

開発スタッフたちは、MEエンジンが売れたことによって大量に入ってくるようになった情報を分析し、よりコンパクトで、経済的で、メンテナンスフリーな新エンジンを目指した。そして、サイドバルブ(SV)エンジンの小型化・高性能化とオーバーヘッドバルブ(OHV)エンジン化の2本立てで、研究をスタートさせた。

折しも1970年代の石油危機の経験から、時代は省エネルギー化へと向かっていた。また、MEエンジンでの経験から、他メーカーにはない決定的な違いを実現するために、研究の方向性は、高出力で低燃費であるOHVへと次第に絞り込まれていった。そして1981年に入り、次期主力エンジンはOHVエンジンに決定され、芝刈り機と汎用エンジンにマッチした構成、コンセプトとなるエンジンの研究が指示された。

芝刈り機に関してはMEエンジンの以前から、特にアメリカ市場のプロのガーデナーの間でHondaエンジンの性能は高く評価されており、その期待に応え、販売を拡大していくためにも、OHVエンジンの採用は必要だった。ZE計画はこうして、汎用エンジンのZE01と芝刈り機のZE5の、二つのプロジェクトとしてスタートした。

*OHVエンジンのメリットとデメリット

当時、汎用エンジンのほとんどはSVエンジンであった。そこにOHVエンジンを投入できれば、大きな競争力を手に入れることができる。なぜならSVエンジンと比較して、OHVエンジンは高出力、低燃費、静粛でクリーン、さらに、耐久性や信頼性も高いからだ。しかし、これだけの性能の違いがあるにもかかわらず、SVエンジンが汎用エンジンの主流であり続けたのには理由がある。

それはまず、OHVエンジンではシリンダーの上部にバルブが付くために、サイズが大きくなってしまうことだった。SVエンジンを想定して規格化されている搭載寸法から、はみ出してしまっては、OEMの相手メーカーには受け入れてもらえない。いわゆる搭載適合性がなくては、汎用エンジンとして行き場を失ってしまうのである。

さらに部品点数が増えるために、エンジンの重量が重くなる上に、当然コストをも押し上げることになる。汎用エンジンにとって可搬性やコストは基本要件である。どんなに高性能化を図っても、基本の部分でデメリットを抱えてしまっては商品として成り立たない。そのためOHVエンジンを研究こそすれ、実際に商品化に取り組むメーカーはなかったのである。

特にOEMを基本とする汎用エンジン(ZE01)にとって、これは大きな壁であった。サイズ、重量、コストの問題をいかに解決するか。それがOHV化への技術的課題であり、ひいては、汎用エンジン業界の常識を打ち破ることへの挑戦でもあった。

*ためらわずにあるべき姿を追求しよう

ZE01のプロジェクトでは、部品共用による3.5馬力と5馬力の二つのエンジン開発が進められた。プロジェクトリーダーとなった山口は、自分自身の目で見て、学んできたことのすべてを、この新エンジンに活かしたいと考えていた。MEエンジンが成功したおかげで、お客さまのニーズもコンプレイン(不満)も分かってきた。そしてOHVエンジンは、これまでの課題を解決してくれるという確信もあった。コストに響かない限り、いろいろなアイデアを採り入れていこう。そんな思いに駆られながら、夜遅くまで自ら製図板に向かった。

プロジェクトが最初に取り組んだのは、サイズの問題だった。通常の汎用エンジンはエンジンの上に燃料タンクが載せられている。SVエンジンならそのまま載せることができるが、OHVになると、その間にバルブ部分のシリンダーヘッドがくるため、その分だけノッポになる。高さが増せばそれだけ重心も高くなり振動が強くなったり、作業機に取り付けた場合の取り回しにも影響が出てくる。燃料タンクを切り離せばガソリンを送り込む機能が必要になるため、できれば上にあった方がよい。そして何よりも搭載適合性の問題がある。SVエンジンが主流である時に、いくら性能が良くてもわざわざ規格変更してくれるOEMメーカーはない。Hondaはこれまでも搭載適合性で苦い経験をしているのだ。

そこでこの問題を解決するために、MEエンジンが利用された。すなわち、MEエンジンのシルエットを描き、その中にOHVエンジンの図面を引こうというのだ。もとよりMEエンジンのサイズは十分に搭載適合性が検討されたものである。要はこの中に入れ込めばよい。そしてシリンダーの位置を考えては描き、何度も書き直してようやくたどり着いたのが、シリンダーを傾斜させることであった。

ところが傾斜シリンダーのアイデアは技術研究所内では、すんなりとは受け入れられなかった。実は1966年に発売されたG25が水平に近い傾斜シリンダーであり、この開発では熱問題などで非常に悩まされた経験があったからだ。そのことを経験しているスタッフたちにとっては
「あの時あれほど苦労したのに、なぜまた傾斜させるんだ。垂直ではだめなのか」
という思いが強かったのだ。山口自身、G25の開発にはスタッフとして参加しており、その苦労は十分に分かっていた。
「しかし、搭載適合性のないOHV化は意味がない。汎用エンジンとしてのあるべき姿が傾斜シリンダーなら、問題があっても超えていくべきじゃないか。僕たちは技術的なことについて、既に学んでいるのだから、ためらわずにその経験を活かすべきなんだ」(山口)。

こうした議論が何度も繰り返された。そしてやがて議論は一つにまとまっていく。持ち前のチャレンジング・スピリットに火がついたのだ。そうと決まればフットワークのいい開発スタッフたちである。最適な傾斜角度を設定するために、傾斜地で耕うん機などを使用している山間地の農家を取材したり、テスト機による検討を重ねて、オイルアップしない限界値は25度であるという結論を導き出した。さらに搭載性、コスト、製造技術の精度アップなどを図るため、山ごもりが行われ、開発スタッフたちのチームワークによって、わずか3カ月で設計が完了したのである。

*使われ方を基準にした部品の集約化

OHV化によって部品点数が増加する問題、すなわち重量とコストの問題は、部品の集約化などによって解決された。これを実現するために、開発スタッフたちは数多くの新機構に挑戦していった。

例えば、SVエンジン並みのコストを実現するためには、OHVダイキャストヘッドやFCD(球状黒鉛鋳鉄)クランクシャフトが採用されている。OHVダイキャストヘッドでは、アルミの肉厚分布と冷却による熱バランスを追求し、かなりの軽量化を実現。FCDクランクシャフトでは強度を確保するために、フィレットロール加工や高周波熱処理後のインライン焼き戻し技術などが確立された。
また、従来は二つの部品で構成されていたキャブレターと燃料コックを、アルミダイキャストとして一体化させたり、燃料タンク本体とタンクステーを同時にカシメる、3枚同時カシメ接着タンクという画期的な手法が、スタッフたちの努力によって生み出されていった。

まさにS・E・D一体となっての努力とアイデアが積み重ねられた結果、OHVエンジンとして、通常ならば部品点数が約20%増加するところを、最終的にはSVエンジンであるMEエンジンよりも少ない部品点数とすることができたのである。

さらに、より使いやすいOHVエンジンにするためのアイデアとして、メカニカルデコンプレッション、ポイントレスのトランジスターマグネット点火なども採用されている。エンジンのスムーズな始動を実現するデコンプ機構については、パテントを回避するため試行錯誤が重ねられ、最終的にはHonda独自の技術を確立することとなった。

こうして、OHV化するための壁を越えるだけでなく、数多くの新機構を採用することで、高い次元での商品化が実現された。それはHondaの高い技術力と、汎用エンジンが実際の現場でいかに使われているのかをスタッフたちが学んできた成果である。単に部品を集約化するのではなく、お客さまの使い勝手に合わせて必要なものと省略していいものを判断していく。現地をつぶさに見て歩いた経験がここでも活かされているのだ。低コスト、軽量化、そして使い勝手の良さ。新しい技術への挑戦が、お客さまのメリットにダイレクトに結びついていることが、ZEエンジンをより価値あるものにしているのである。

*業界標準となったOHVプラス傾斜シリンダー

1983年1月、ZEエンジンシリーズとして3.5馬力のGX110と5馬力のGX140が発売された。汎用OHVエンジンの登場は、世界中のライバルメーカーたちを驚かせた。

OHV化による高性能、低燃費はもちろん、傾斜シリンダーによって全高が低くなったことで低重心、低振動というメリットも加わり、また、当初目指した搭載寸法よりも、さらに30%も小型化されたため、搭載機種のデザイン設計がしやすくなった。そのため、ZEエンジンは発売と同時に順調に販売台数を伸ばしていった。そして年間300万台という目標にも、あと1歩と迫り、今日のHondaの汎用部門を支える基盤商品へと成長した。

また、ZEエンジンの優秀さは、発売以降、OHVプラス傾斜シリンダーというコンセプトを世界の汎用エンジンメーカーがこぞって採用し、今や汎用エンジンのデファクトスタンダード(業界標準)になっていることでも証明されたと言える。

このOHVという技術だけで言えば、どのメーカーにもチャンスはあったはずだが、Hondaがその先鞭をつけることができたのはなぜか。
一つには、2輪・4輪で培ってきた高い技術力、そして高い目標に挑戦した開発スタッフたちの努力があった。そしてそれ以上に、お客さまの満足を実現しようというHondaイズムがあったからに他ならない。常に『買って喜ぶ』ことの実現のために、汎用エンジンとしてのあるべき姿を追求してきたからこそ、どこのメーカーも手を出さなかったOHV化に取り組めたのだ。技術も情報も、『世界のお客さまのため』にという理念があったからこそ、画期的なOHVエンジンを世に出すことができたのである。

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DREAM CB750FOUR / 1969

DREAM CB750FOUR / 1969

*グランプリマシンの直系

1966年の世界GPで、史上初の5クラス完全制覇を成し遂げたHondaは、翌年、世界GPロードレースからの撤退を決定した。次なる目標は、レース活動で得た技術を市販車の高性能化に活かすことだった。

当時、Hondaは国内で生産する2輪車の半分以上を輸出していたものの、アメリカなどの先進国で求められていた大排気量のスポーツバイクはなかった。また、1966年からアメリカの2輪車販売が低迷し始めたこともあり、アメリカン・ホンダ・モーター(以降、アメリカン・ホンダ)からは新製品開発の要請が寄せられていた。

1965年に発表したドリームCB450は、DOHC2気筒の高性能車で、CB77(305cc)の上級クラスという、アメリカン・ホンダの要請に応えて開発したものであった。当時の開発総責任者・原田義郎は言う。

「1960年のアメリカの大型2輪車マーケットは、年間6万台程度で、そのほとんどは英国製で占められていました。日本ではさらに小さく、月に数百台という市場に過ぎませんでした。量産を念頭において、日本とアメリカの両方で売れる、450ccクラスの2輪車をつくろうということになったのです」。

CB450は比較的売れたが、決定的な評判にはならなかった。アメリカのライダーたちは最高速だけで評価をするわけではなく、シフトダウンしなくてもレスポンシブルなトルクフィーリングが得られることを求めていた。もっとゆったりとオートバイを楽しみたいというライダーが多かったのである。

原田はCB450の市場状況を確認するため、1967年夏ごろ、アメリカへ飛んだ。そして、CB450がノートンやトライアンフの650ccより、いかに性能が優れているかを、アメリカン・ホンダのメンバーに説いた。しかし、彼らは、
「なぜおれたちが450ccに乗らなきゃいけないのだ。Bigger is better!!なのだ」
と、言って譲らなかった。

当時日本では、国産バイクでは650ccが1番大きく、需要も数%しかなかったため、原田はアメリカのマーケットに着眼した製品を開発しようと決断した。しかし、アメリカン・ホンダからは、とにかく大きければ大きいほど良いという漠然とした要望しかなく、原田は排気量の設定を決めかねていた。

そんな時、英国のトライアンフ社が3気筒・750ccの高性能車を開発しているという、確かな情報が入ってきた。これが契機となって、750ccのエンジンを持ち、出力は67馬力(ハーレーの1300ccが66馬力であったため、1馬力上回れば良いという考えから)とした大型バイクの構想は、1967年10月には、ほぼ固まった。

1968年2月に開発プロジェクトが約20人でスタートし、CB750FOURの設計に取り掛かった。
当時のHondaは、スーパーカブの爆発的人気で、2輪車の生産量は世界一となっていたが、このCB750FOURで、質と量を備えたオートバイメーカーになる計画を立てていたのである。
CB750FOURのライバルは、トライアンフ、BMW、ハーレーなどであり、これらに対抗できる性能と信頼性の確保が必要であった。

そこで、グランプリマシンの直系であることを直ちに感じさせる、4シリンダー、4本マフラーのエンジン構造を基調とし、アメリカ人好みのアップハンドルに仕立てることで、野性的、かつダイナミックなイメージを前面に押し出した。初めての大排気量車でもあり、量産化とメンテナンス性を十分考慮した技術が盛り込まれた。

*人間工学的配慮を盛り込んだ開発基本計画

開発基本計画は、単に出力特性を高めるばかりでなく、ハイウエーにおける連続した高速の長距離ツーリングを、より安全に、より快適にするために、人間工学的配慮を細部まで盛り込んだ構造とした。

そして、設計者、製作担当者たちの連携作業を円滑に遂行できるように、開発に当たっての技術指標を次のように定めた。

①ハイウエーにおける最高クルージング時速を140kmから160kmと想定し、他の交通車両と比較して十分な出力の余裕を持って、安定した操縦性が保てること
②高速からの急減速頻度の多いことを予想し、高負荷に対する信頼度と耐久性に優れたブレーキを装着すること
③長時間の継続走行でも運転者の疲労負担を軽減できるよう、振動、騒音の減少に努めるとともに、人間工学に基づく配慮を加えた乗車姿勢、操作装置とし、容易に運転技術に習熟できる構造であること
④灯器類、計器類などの大型化をはじめとした各補器装置は、信頼度が高く、運転者に正確な判断を与えるものであるとともに、他の車両からの被視認性に優れていること
⑤各装置の耐用寿命の延長を図り、保守、整備が容易な構造であること
⑥優れた新しい材質と生産技術、特に最新の表面処理技術を駆使した、ユニークで量産性に富んだデザインであること

これらの趣旨を徹底し、グランプリマシンの製作以来、蓄積されてきた膨大な技術資料を活用するために、電算機を導入し、開発過程の諸問題を集約した。これにより、試作期における企画の修正、設計変更、改造、テストなどの開発工程の効率を高め、短期間での量産ライン移行を綿密に計画することができた。

*2輪量産車初のディスクブレーキを装着

原田はアメリカに出張した折に、オートバイ用品店で、市販されているディスクブレーキを見つけた。それはHondaのCB450仕様だった。早速、このディスクブレーキを開発・製造しているロックハート社を訪ね、ディスクブレーキの在り方などについて討論し、一式の用品を買って帰ってきた。そして、ひそかに、これから開発する新機種にはディスクブレーキを装着したいと考えていた。

1966年10月のモーターショーの直前に、最後までどちらにしようかと迷っていた2台のブレーキ仕様を用意し、本田宗一郎に相談を持ち掛けた。

「従来型のドラムブレーキ装着車と、ディスクブレーキ装着車の2通りをつくってみました。ただ、ディスクブレーキは出来上がったばかりで、これからいろいろテストしなければなりません。来年の春を目指すのはちょっと自信がないんですが」
との原田の言葉に、
「ディスクブレーキに決まってるよ!」
との本田の一言で、CB750FOURはディスクブレーキ装着車としてモータショーに出展され、大反響を呼んだのである。

その後、市販までには、ディスクブレーキ装置に生じやすいパッド摩耗、異音発生などの問題点を徹底的に解析・究明することに、多くの労力と時間を費やした。しかし、CB750FOURの開発のキーワードである、”ハイパワーをより安全に”を貫くためには、必要なことだった。

本田は、1969年1月発行のホンダ社報124号の中で、CB750をつくった意図は何かという従業員の問いに、次のように答えている。

「(前略)昨年6月にスイスに行った時、公園にお巡りさんが白バイに乗ってきて、降りたんですよ。なんだ小さなオートバイに乗ってきやがったなあと思っていたら、なんとそれがトライアンフの750ccなんだよ。だから実際はでかいんだよ。それがどうして、そんなに小さく見えたかというと、お巡りさんがでかすぎるんだよ(笑い)。(中略)なるほど、これじゃ日本の感覚でオートバイを作っていたんじゃだめだわいなあ!と思ったんですよ。(中略)それで急に早く作れ作れとハッパをかけたわけですよ」。

CB750FOURがアメリカで発表されたのは、1969年1月であった。この年はラスベガスで、初めて全米の2輪ディーラーが一堂に会して、ディーラー大会が行われた。それは、1966年から低迷し始めた2輪販売の回復を期して企画されたもので、春のシーズンに先駆けて行われ、特に、日本からは社長の本田が出席した。同大会のハイライトは、CB750をはじめ、Z50、SL350などを中心とした新製品群であった。

「ラスベガスでのディーラー大会で、アメリカン・ホンダの川島喜八郎支配人が公表した発売価格は、1495ドルでした。アメリカでの大型バイクの価格は2800ドルから4000ドルでしたから、2000人のディーラーからは、その価格と製品に対して万雷の拍手が送られたそうです。そして売り出した直後には、1800ドルから2000ドルのプレミアムがついたと聞いています」(原田)。

その後、CB750FOURには注文が殺到し、年産計画台数であった1500台が月産台数になり、月産計画はさらに倍の3000台に引き上げられた。

*遊休設備をフル活用した大型オートバイの量産

1969年に入り、埼玉製作所(現、和光工場)で新機種・4気筒のCB750FOURのエンジンを、浜松製作所で車体を生産することになった。

埼玉製作所にはアメリカン・ホンダの技術者2人が、ユーザーの立場からの300項目に及ぶテストに参加するために来日していた。アメリカへの輸出を意識した期待の大きい商品であり、同国での他機種の拡販にも結び付けようとした、戦略機種でもあったからだ。

Hondaにとって初の大型機種であり、販売見通しを立てるのも難しいことから、各工場では最小投資で済む汎用遊休設備をフル活用することとした。そのため設備の活用に当たっては、改造やオーバーホールが必要だった。

これまでHondaはクランクシャフトに分割圧入方式を採用し、軸受けにはニードルベアリングを用いていた。しかし、CB750FOURからは、4気筒エンジンにはメタル軸受けを用いる、一体型クランクシャフトに変更された。埼玉製作所では、この生産経験のない部品を、どのような加工設備・工程編成で生産すべきかに苦慮した。まず、4輪メーカーを見学し、そこから得られた知識を参考にライン計画を始めた。

使い勝手の悪いラインで、1日に5台の生産がやっとという、苦しい状態で立ち上がった。しかし、製品は発売と同時に爆発的な人気を呼び、うれしい悲鳴を上げることになった。当初、日産25台の生産計画が100台以上に膨れ上がり、この売れ行きの誤算はバックオーダーを抱えるまでになった。
専用機を持たなかった砂型クランクケースの加工は量産に追い付かず、途中ですべて生産設備を更新して、ダイキャストの金型クランクケースに変更された。また、人海戦術の暫定ラインで増産に対応したりなど、徐々にラインを整えていった。

販売台数を急激に伸ばしていったCB750FOURは、1971年7月には車体の、10月にはエンジンの生産を鈴鹿製作所に移管した。
当時の鈴鹿製作所では、CB500の生産ラインは4輪工場内に設置されていた。しかし、ラインサイドは狭く、部品供給もスムーズにいかないなどの課題もあり、CB750FOURの移管を機に、長期的観点から2輪の車体組立ラインをL型から直線化し、環境・安全面の向上を図った。

一方、組織編成と作業者訓練については、4輪工場からの補充を前提に、HONDA1300やTNラインより、大型2輪生産のための要員を人選して組織化し、4輪との違い、特に外傷防止に対するきめ細かな訓練を実施した。結果、日程通り立ち上がり、品質・コストとも計画通りのものとなった。

*ナナハン・ブームを巻き起こす

Hondaの成功により、日本の他メーカーも、その後、750ccの大排気量スポーツバイクのカテゴリーに追随し、いわゆるナナハン【注】・ブームが巻き起こった。CB750FOURがナナハンと呼ばれるジャンルを築き上げたと言っても過言ではない。

また、同車はレース用車両としても、その力を存分に発揮したのである。
日本では1969年8月、技術研究所の社内チームが、発表されたばかりのCB750FOURを駆り、鈴鹿10時間耐久レースに出場。ブルーヘルメットMSCの隅谷守男/菱木哲哉組が1位、尾熊洋一/佐藤実組が2位と、完全勝利を収めた。

また、アメリカでは1970年3月に行われたAMAデイトナ200マイルレースで、名手ディック・マンの駆るCB750FOURで勝利を得て、同車の人気を不動のものとした。
「Bigger is better!!」と言っていたアメリカの2輪ライダーたちは、さらに大排気量のオートバイを欲していた。

1972年にはカワサキが900ccのZ1をアメリカに輸出して好評を得、大型車需要に拍車を掛けた。Hondaとしても、さらに魅力的な大排気量スポーツバイクの開発が急務となり、1974年、999ccのゴールドウィングGL1000をアメリカ市場に投入。当初は日本からの輸出車であったが、需要の増大に伴い、ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリングでの現地生産に切り替え、GL1100として、1980年5月に第1号車がラインオフした。アメリカでの高い評価を受けた同車は、Hondaの現地生産の発展に大きく寄与したのである。

【注】ナナハン…機密保持のために開発チームの間で言い交わされていた用語で、後に雑誌記者が、これを一般に広めた

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CG125 / 1975

CG125 / 1975

*想像を絶した発展途上国の2輪車事情

発展途上国向けの2輪車輸出は、1970年代に入ると、東南アジアの経済発展とともに急拡大していった。人々のニーズは、多人数乗り、過積載に対応できる、実用に徹した2輪車にあった。

この東南アジア市場を中心に、Hondaは4サイクル・OHCエンジンのCS90を1968年1月に、CB100を1969年9月に投入。対する他メーカーは100ccの2サイクル車を投入していた。メンテナンスの行き届かない東南アジア特有の状況から、Honda車は苦戦を強いられた。これを打破すべく、新たにOHVエンジンを開発。1973年3月にはS110として投入したものの、一向に好転の兆しは見えなかった。

1974年5月、現地で徹底した市場調査を行うために、発展途上国向けの2輪車開発担当となった稲垣剛史とデザイン担当の宮智英之助は、羽田を飛び立った。1カ月にわたり、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、イラン、パキスタンの主要都市で目にした現地の人々のオートバイの乗り方は、彼らの想像を絶するものであった。

「タンクの上に子供を、後ろには妻をというように、3~4人乗りはざら。中には野菜やニワトリ、豚まで積んでいる。満載の荷物を積んだリヤカーをけん引しているオートバイも走っていました」(稲垣)。

販売店の状態も日本とは全く異っていた。当時の販売店は、故障車の分解・修理の方が主業務であった。お客さまはバイクが壊れて、初めて修理に持ってくるような状態で、定期的に点検を行うというような考えは、当時の販売店にもお客さまにもなかった。

「オイルは、ドロドロになっても使っているし、ろ紙製のエアクリーナーエレメントは、ほこりとスコールで土壁のように固まってしまっているんです。ドライブチェーンは調整代いっぱいに伸び切ってしまい、チェーンケースに当たって擦り切れていたり、などなど。日本では全く考えられない事象に出くわすことの連続でした」(稲垣)。

4サイクルOHCエンジン車は、機構の複雑さゆえに、発展途上国での苛酷な乗り方と、当時の販売店のサービス力では、長所を生かせなかったのである。

*一夜で描き上げたエンジンの構想図

彼らが市場調査の結果、得た結論は、まずは実用的で耐久性がある2輪車、とりわけ、4サイクルでメンテナンスフリーのエンジンを開発することだった。

調査終了後すぐに、稲垣らは研究所の役員室で調査内容を報告した。報告を受けた久米是志(当時、技術研究所常務)は、
「三角定規とコンパス、方眼紙を用意してくれ」
と稲垣に言った。事情をのみ込めないままに、言われた通りのものを久米に渡して、稲垣は帰途についたものの、落ち着かなかった。
「久しぶりの家庭料理を口にした時に、あっと思い当たったんですよ。久米さんは新エンジンの構想を描かれるつもりなんだと」。

この夜、稲垣は、調査からの帰りの機中で考えていた、軽量ショートプッシュロッドのOHV直立単気筒エンジンの構想図を描き上げたのである。
翌朝、久米は予想通りに、エンジンのレイアウト図面を持って設計室に入ってきた。その図面には、OHVエンジンがフリーハンドであるにもかかわらず、美しく正確に描かれていた。稲垣も自分の構想図を提示した。

「お互いの図面を比較検討する中で、多くのことを学べました。結局、久米さんが『軽量ショートプッシュロッド構造はなかなか面白い案じゃないか』とおっしゃって、私の案が採用となったんです」(稲垣)。

*発展途上国の使い勝手を徹底追求

エンジンの基本構想がまとまり、1974年3月、開発チームが本格的にスタート。開発期間を約1年間と定め、発展途上国向けに、各国でノックダウン生産も可能な専用モデルの開発に着手したのである。

開発要件は、
①燃費・耐久性に優れた4サイクルOHVエンジンを搭載すること
②エンジン排気量は110cc、125ccの2種類とし、シリンダー配置は直立とすること
③スポーティーで夢のある外観デザインであること
④実用的な使い勝手を十分に踏まえた設計とし、メンテナンスも容易であること
というものであった。

「エンジンを直立OHV形式としたのは、S110のイメージを一新して、Hondaの2輪車のスポーティーイメージを再構築したかったからです。当時の発展途上国の人たちにとって、2輪車を購入することは一種のステータスであり、夢でもあった。そして、お金を蓄えて、ようやく手に入れた2輪車だから、長持ちしてほしいわけですよね」(稲垣)。

加えて、このOHVエンジンでは、高性能化とメンテナンスのしやすさを狙った軽量ショートプッシュロッドの採用、OHCエンジンの加工ラインとの共用化による生産性向上なども図られた。

フレームボディーも、熊本製作所での大量生産に適した鋼板プレス仕様と、各国でのノックダウン生産向けのパイプ仕様の2種類を開発した。パイプ仕様は大型プレス・大型金型を必要とせず、最少の投資で生産が可能であり、『小さく産んで大きく育てる』という、海外での工場立ち上げの原則にもかなったものであった。ダイヤモンドフレームには2から4人乗りにも耐えられる補強を行った。

ガソリンタンクはフラットな形状として、2種類を開発。上面の多様な使い方に対応できるようにするとともに、各国での拡販に寄与できるよう、色やストライプについても幾種類かを企画段階から準備した。また、シートもロングシートと、過積載にも耐えられるキャリア付シングルシートを同時開発した。

エアクリーナーエレメントは洗って再使用できる発泡ウレタン製とし、Honda初の2重エレメント構造を採用した。外筒はメッシュを荒くして1次ろ過機能を持たせ、内筒は20ミクロン以上のほこりを完全に清浄し、さらに20ミクロン以下のほこりもエレメントに含浸させたオイルで完全に除去できるようにした。これによって、エンジン寿命が延び、エンジンの信頼性が飛躍的に向上した。

その他にも発展途上国の使い勝手を考慮し、メンテナンスフリー、耐久性、生産性などの観点から、多くの新機構・仕様・製造方案が盛り込まれた。

*現地適合性に自信

1974年12月にタイで行われた現地でのS・E・Dメンバーによる会議と試乗会では、各国代表者からの好評を得た。
翌日、販売店でメンテナンス・組み付け性の確認を行った。事前説明を一切せずに、現地のサービスマンに分解・再組み立て・完成検査を行ってもらったところ、OHV新機構を含むシリンダーから上部の再組み立てを、20分ほどで見事に完了。エンジンも1発で始動した。

走行テストは、日本から計測器をタイに持ち込んで行った。完成間近のアジアハイウェイで、高速酷暑走行・測温を実施。バンコク市内での過積載走行、現地のガソリンを使ってのノッキングテスト、炎天下でのほこりを立ててのテスト走行など、
「想定されるあらゆる場面でのテスト走行を繰り返し、現地適合性への自信を深めていった」(稲垣)。

このようにして誕生したCG110・125は、1975年3月、まずタイ市場に投入されたのである。

*ベルギーからブラジルへ

1974年3月、ベルギー・ホンダ駐在から帰国して間もない深津賢輔(当時、KD技術室業務2課長)は、ブラジルの2輪車工場建設のプロジェクトを担当することとなった。

「ベルギーから送った引越し荷物がまだ日本に届いてなかったんですが、当時、室長だった鈴木宏さん(後にブラジル・Honda社長)から、『すぐにブラジルへ行け』と言われたんですよ」(深津)。

当時、外国部長だった吉澤幸一郎は言う。
「ブラジルの経済は1960年代後半から70年代を通して、ずっと高度成長が続いていて、いわゆる発展途上国の中の希望の星みたいに言われていました。それに、現地の駐在員から、2輪車の将来の成長性は非常に高いという意見が寄せられていた。だから、少々無理をしてでも、将来を考えて、中南米ではブラジルに生産拠点をつくりたいと思っていました」。

1970年代初頭、Hondaでは、海外での2輪車生産拠点を拡大すべく検討が進められていた。深津がベルギーから帰国した1974年には、ポテンシャルのある市場を見定めて、『需要のある所で生産する』というHondaのポリシーを実現するための取り組みが本格的に始まっていた。ブラジルの他にも、イタリア、イラン、ナイジェリアなど、多くのプロジェクトが発足していたのである。

ブラジルでのHondaのビジネスは1971年11月にHonda・モトール・ド・ブラジルを設立し、2輪車の輸入・販売を行っており、初代支配人として飯田治が赴任していた。
飯田はブラジル政府が外貨不足を理由に、完成車の輸入禁止を迫ってくるという懸念から、2輪車の生産工場をつくりたいと考えていた。川島喜八郎(当時、副社長)と吉澤の承認を取り付けて、サンパウロ近郊のスマレに、100万ドルで45万坪の土地を取得したのである。

1974年4月ブラジル工場建設プロジェクトが発足し、深津は事務局長として、サンパウロと東京を往復することとなった。工場の建設に当たって、吉澤は、
「ベルギーでの苦い経験から、最初は小さい工場をつくってくれるよう、深津さんたちに話しました」
と言う。

飯田と深津は、スマレの土地に工場を建設すべく政府との交渉を持ったが、部品の現地調達率(以降、現調率)や投資額など、あらゆる面で厳しい条件が課せられた。この地区は既に工業区域として機能していたため、競合相手の進出は歓迎されなかったのである。結局、スマレでの工場建設は1975年初頭に断念せざるを得なかった。

しかし、この土地には、取得から20余年後の1997年9月、2輪事業で得た利益を現地に再投資することにより、4輪車の生産工場が完成。シビックの生産が開始されたのである。

*マナウスでの工場建設を決断

スマレの計画が進行しているのと同時期に、マナウスのHonda製品のインポーターであるモト・インポルタドーラ社長のナタン氏は、飯田にマナウスでの工場建設を強く進言していた。あまりの粘り強さに、飯田と深津は1975年の初めにマナウスを訪れた。そこではナタン氏の熱心な説得と、カンペイロ・マナウス自由貿易港管理庁長官からの
「ここを工業化したい。Hondaが来てくれるなら大歓迎する」
との強いアピールがあった。

マナウスは自由貿易港でもあった。深津たちは現地に入って初めて知ったのだが、工場進出に対しては、事業税が10年間無税という恩典があり、現調率のステップも、サンパウロよりずっと緩やかであった。

「税制の恩典は、サンパウロからマナウスまでの部品や完成車の物流の不利を十分補って余りあるものでした。また、現調率の面から見ると、初期投資が少なくて済みますので、『小さく産んで大きく育てる』というHondaのポリシーにも合致するわけです」(深津)。

飯田はマナウスでの工場建設を決断し、深津は役員室の承認をもらうために東京に飛んだ。
フィジビリティースタディー(実現可能性の調査・分析)をした後、当時の専務会の承認を得、建設計画申請書を政府に提出した。大統領の認可が下りるまでには、通常1カ月かかるところを、ナタン、カンペイロ両氏の尽力により、非常に短期間で認可が下りた。

「彼らは、マナウスを発展させたいという年来の夢が、Hondaの進出によって実現すると思ってくれたんですね。彼らは、わざわざブラジリアの大統領府まで出掛けていってくれたと聞いています」(深津)。

1975年9月の認可直後には、工場の建設に着手したのである。

*初代工場長は34歳

ブラジルの2輪生産会社は本田技研が60%、モト・インポルタドーラが40%出資の合弁会社、モト・Honda・ダ・アマゾニア(HDA)としてスタートした。
ここの初代工場長を務めた加藤和平は、当時34歳、日本からの駐在者10余人も、ほとんどが20歳代であった。彼らは現地の建設業者とともに炎天下での作業を行った。大きなフォークリフトやクレーンがない中での設備据え付けは、現地の人の知恵も借りながら乗り切った。採用した従業員の中には、自分の名前を書くのがやっとという人も多かったため、加藤は作業標準表を全部、絵でつくるように指示した。

当時、ブラジルではフォルクスワーゲンのビートルが生産・販売されていて、4輪車が普及し、サンパウロ市内は高速道路網も発達していた。このような混合交通に十分対応でき、なおかつ、現地の人の好みも考慮した上で、東南アジアなどの発展途上国で発売されて間もないCG125が、HDAの生産機種として選ばれた。
1976年10月、HDAはCG125の量産を開始したのである。

若い駐在者たちの懸命な努力と、アソシエイトたちの向上心とがあいまって、アソシエイトとの間のチームワークづくりが進み、3現主義などのHondaの考え方が根付いていった。

「加藤さんたち最初の駐在部隊は、だいぶ苦労されましたが、その後のHDAの発展の確固たる基礎をつくってくれました」(深津)。

マナウスの工場の特長は、内作率が高いことである。
「ブラジルの部品メーカーは4輪主体であり、なおかつ、部品の生産工場はサンパウロに集中しているので、マナウスまでは約4500kmも離れているという地理的な不利がありました。そのため、日本(熊本製作所)では内作していないような部品も、マナウスでは、多くのお取引先の協力を得て、内作を推進しました」
と、ブラジルの研究所の2代目所長を務めた相澤勝弘は言う。

この研究所は現地の材料を使って、メーカーの製造上の要望をダイレクトに反映したCG125の図面づくりを行うことで、現調率の達成を大きく加速させた。また、ブラジル特有のアルコール燃料車の開発を行うなど、大きな役割を果たしてきた。

*高インフレ下での危機を乗り越えて

ブラジルでの経営は順風満帆というわけではなかった。途中、激しいインフレに見舞われ、1986年から翌1987年にかけては、CG125の販売台数も急激に落ち込んだ。加えて、価格統制令もあり、財務的にも追い詰められていた。

「マナウスの工場は、途中でギブアップしなければいけないんじゃないかとまで、ひそかに思ったことがあったんです」

と吉澤は言う。この時期、本田技研の副社長であった吉澤はブラジルに赴き、当時、ブラジル・Hondaの社長を務めていた深津とともに大蔵大臣を訪ね、価格統制によりモペットよりも安くなったCGの値上げを認めてくれるよう頼んだ。交渉は難航したが、最後に吉澤は、今までブラジルで得た利益は一度たりとも日本のHondaには配当せずに、ブラジルの工場に再投資してきた。それは、この工場を南米における重要な生産拠点とし、もっと本格的にこの工場から輸出をしたいがためなのだと訴えた。

「この時、大臣は初めてHondaの企業姿勢を理解してくださったようでした。この土地に根付いて企業を育てているのだと。大臣はその後、すぐにマナウスの工場を視察されて、割合スムーズに事が運びました。これはもう、事実の説得力だと思うんですね。私はこの時、Hondaの考え方の素晴しさを実感しましたね」(吉澤)。

CG125も幾度かの危機を乗り越えて、立ち上り後20年余を経た現在、98%の現調率を達成し、90%のシェア(ブラジル国内産車で)を占める人気モデルに成長。立ち上がり時は年産1万8000台だったが、今や年産28万台を超えるまでになっている。

CG125の生みの親とも言える稲垣は、ブラジル市場の次なる課題について、次のように言う。
「サンパウロは自動車文化が浸透しているから、クルマの流れが速い。その中にあっても威風堂々と走れるような大型バイクを投入することで、Hondaのブランドイメージをさらに高めていくこと。一方では、ブラジルから近隣諸国にも輸出できるような、CG125の半分ぐらいのコストでつくれるバイクを投入することで、底辺の拡大を図ることが、次代に求められているんだと思います」。

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ロードパル / 1976

ロードパル / 1976

*4人でスタートした開発チーム

1970年代の初めごろ、2輪車のマーケットは危機的な行き詰まりをみせていた。軽自動車の普及に加え、暴走族の横行に伴う2輪車のイメージダウン、そして、高校生を対象とした3ない運動などが、2輪車需要に大きく影を落としていたのである。

バイクの大衆化路線の代表と言われ、世界的な大ヒット商品となったスーパーカブも、誕生してから既に15年が経過。そのユーザー層も固定化、高年齢化が進み、これ以上の市場拡大が困難な状況に陥っていた。

このままでは2輪市場がさらに縮少していき、Hondaにも重大な影響を及ぼしかねず、企業の存続をかけて、スーパーカブに代わる新しい需要を生み出す製品の開発が迫られていたのである。
そんな時期、和光研究所で4輪車のATミッションの開発を担当していた後藤勇は、久米是志(当時、技術研究所常務)から、2輪部門への突然の異動を告げられた。

「私はバイクに乗ることもできないのですが……」
といぶかる後藤に対し、
「いや、だからいいんだ」
という久米の言葉が返ってきた。
この時、後藤は、
「バイクマニアでない素人の眼で、もう一度2輪市場を見直し、バイクの大衆化に対するきっかけを探れ」
という久米の意図を感じたのである。

何から手を付けたらいいかも分からない状態の後藤に、3人の強力なスタッフが付けられた。いずれも2輪の車体・エンジン・デザインにおけるエキスパートであり、かつ異才ぞろいのメンバーであった。
早速、4人による開発チームが組まれ、新しいコンセプトづくりがスタートしたのである。

*シャリイ開発からの教訓

チームの一員である神山幹弘は、2代目カブ、ダックスなど、ファミリー向けの小型バイクの分野で経験を積んできたベテランで、シャリイ(1972年発売)の開発責任者であった。
Hondaはスーパーカブ以降、市場開拓のためのトライをしていたが、その一つであるシャリイの開発に先立って、神山たちは女性の免許証保有比率が20%近くもありながら、10人に1人もバイクに乗っていない事実に着目。この女性ユーザーを何とか取り込みたいと考えた。

調査のために女性従業員を集めてカブに乗ってもらった際、
「重たくてスタンドが立てられない」
「キックスタートは駄目」
「スカートでは乗れない」
など、ほとんどの女性がカブへの不満を口にした。

このことから、『やさしい操作性と安心感』をテーマに、いくつかのプランが立てられた。要件を満たすためには、もっと車体を軽くする必要もあった。
しかし、当時はカブのエンジンを流用して、早く市場に投入するとの方針が出されていたため、ダックスのステップスルー版としてシャリイを送り出した。

企画から半年で上市されたシャリイは、当時としては難しいと思われていた女性ユーザーの大幅増を実現し、当初の目的は達成したものの、やはり、キックとチェンジなどに、多くの問題が残った。

「シャリイを開発してみて、女性のマーケットの大きさを実感した。カブは万能だと信じ込み、真剣になって市場開拓をしようという姿勢が、ともすれば、おろそかになっていた」(神山)。

*テープレコーダー片手に市場調査

1972年、2輪の新規需要をもう一度掘り起こす企画がスタートした。
後藤以下4人の開発チームがまず行動に移したのは、足を使っての徹底的な市場調査だった。

「街中では、どうして女性はバイクに乗らないのか?」。
後藤たちは手分けをして全国各地を観て回り、その理由を探った。坂道の多い駅前の駐輪場へ行き、テープレコーダー片手に生の声を聞いて歩いた。

「坂道ではバイクの方が便利なのでは?」
の問い掛けに返ってくる女性の声の多くは、
「危険。事故が心配。音がうるさい」
など、バイクに対する否定的なものばかりであった。

「思い切って、従来のバイクと切り離したイメージのものが必要だ」
と痛感したメンバーは、全員で部屋に閉じこもり、イメージスケッチを描きまくり、壁一面に貼りつけて議論を重ねた。

一方で、全く異なった分野(カメラや家電製品など)のヒット商品を分析し、商品開発のメカニズムを研究したり、人間の欲望にかかわる学習も重ねたりしたのであった。

*NC(ニューサイクル)計画発進

1973年夏、これまでの市場調査研究段階を経てまとめ上げられたのが、NC計画(ニューサイクルプラン)という企画構想であった。
それは、
①NC-0…パワードサイクル
②NC-1…自転車を吸収するニューバイク
③NC-2…カブを吸収するニューバイク
④NC-3…乗用車感覚のバイク
という4つのコンセプトに集約された。

そして、まず現実的で、しかも突破口を開くには最も身近なものということで、NC-1構想、つまり『自転車イメージのバイク』の開発がスタートしたのである。

1年にわたって、制約のない商品研究にチームとして取り組んできた成果について、神山は次のように言う。
「これまで、商品開発は研究所まかせであった。いきおい、お客さまのことを考える余裕のないままに、図面が先行してしまうのが実情だった。だからD開発(商品化に向けた開発)までの企画段階で、思う存分、自由にやれたのは非常に良いことだった」。

ノビオやシャリイで試みた、いわばカブの変形でないところに、もっとシンプルで軽くて自転車感覚のものが必ずあるはずだと、実現不可能なものも含めた『あるべき姿』の追求が続いた。

「できるできないでなく、あくまで、あるべき姿を追求せよ。技術は後から付いてくる」
という久米の言葉に後押しされつつ、努力すれば手が届く、実現可能な理想要件としてNC計画が立てられ、NC-1のスタートを見たのである。

*目標達成までとことんやり合う

開発に当たっては、まず全体イメージとして、エンジンを感じさせないデザインにこだわり、エンジンを中央に持ってきて、一見、自転車に見えるシルエットにまとめた。重量は女性が持ち上げられる範囲の25kg、価格は自転車2台分の5万円を目標とした。エンジンは重量やトルクを考えて、シンプルな2サイクルを、あえて採用した。2サイクルを嫌っていたおやじさん(本田宗一郎のこと)には、内緒で進めてしまった。

問題は始動方法であった。キックは女性には絶対に受け入れられない。セルモーターを使いたくてもコスト面で当然、無理。そこで、圧縮空気の応用、シート着席時の体重移動の利用、さらには火薬カートリッジ方式など、さまざまな試みがなされた。最終的には、後輪の逆回転でゼンマイを巻き、それを解除する力でエンジンを回す、『ウッドペッカー方式』を採用した。バイクを後ろへ移動させて始動させる動作が、キツツキの動きと似ていることからの命名であった。

しかし、この方法は評価会(1974年1月)の際、たまたま雪が積もってスリップして巻き上がらず、失敗。結局、ペダルを踏み込んでゼンマイを巻き上げる方式に変更した。

1974年4月、試作車を使い研究所従業員の奥さんたち15人を集めての試乗会を試みた。スロットルを開け過ぎて垣根に突っ込んでしまうという出来事などがあったものの、評価は良好で
「面白い」
「これ、いいわよ」
といった興奮気味の反応が大勢を占めた。後藤たちは、
「自分の手で動かすという、2輪の素晴しさに対する感覚は女性も変わらない。ただ知らなかっただけなのだ」
という、確かな手応えを感じた。

時を同じくして、開発システムの見直しに基づいたS・E・Dフローシステムがスタートした。開発時点から営業(S)、生産(E)、開発(D)の各部門が加わって、三者一丸となっての推進が初めて実践された。このやり方について、神山は言う。
「データの裏付けと、評価者を納得させるだけの実証が必要なため、時間がかかって、初めは戸惑うこともあった」。

営業部門も初期段階から加わって、商品イメージの構築とともに販促活動に取り組んだ。効果を最大限に発揮するために、イタリアの大物女優であるソフィア・ローレンを使った画期的なコマーシャルを打つことにした。
D開発スタート時点での目標は、年間36万台(初年度12万台)を売ろうという
「半端じゃない」(神山)
数字だった。コストも5万から5万5000円の販売価格で、利益10%という厳しいものだった。この要件を満たすために、結局、4次にわたる量産設計のやり直しをすることになった。
目標達成のために、エンジン、車体の各部門を集め、部品ごとに目標を決めて、その目標達成まではOKを出さないことにした。
「練馬の旅館に幾日も泊り込んで、資材と工場と設計の担当者の間で、とことんやり合った」(神山)。

目標をクリアするには、部品点数を切り詰め、カブの重量の6割ぐらいで設計していかないと不可能という状況の中で、徹底的に部品点数を減らすことを目指した。キーポイントの一つはユニットスイング方式の採用。エンジン、リアフォーク、ホイールを一体化することで、シンプルな構造となった。フレーム構造も極限まで簡略化し、できるだけ少ない部品で構成した。

これでも、まだまだ目標に届かず思い悩んでいた時、EGの生産技術部門が『炉中ろう付け方式』を提案した。これは、何百度という還元炉の中のコンベヤーにフレーム部品を乗せて流せば、全部、ろう付けされて出てくるというもので、サビも取れて、そのまま塗装に回せるといったアイデアであった。この方式で溶接コストの大幅な節減ができた。

この新しい方法はガソリンとオイルのタンクの一体化にも応用され、それはキャリアの下に収められた。電装部品も発泡スチロールを使い、シートの下に収納するなど、数々の徹底的な合理設計を実現した。

*市場は絶対死なない

1976年2月、バイクでもなく自転車でもない、新しいジャンルの乗り物、ロードパルが発表された。『ラッタッタ』のコマーシャルとともに街に出たロードパルは、その大衆価格、自転車代わりの便利さ、簡単な操縦性などが評判を呼び、予想を上回る多くのお客さまに喜んで買っていただけた。新規購入者の内、女性ユーザーが62.2%、30代から40代のユーザーが61%と、当初狙った客層の拡大を達成。このロードパルの爆発的なヒットは、ソフィア・ローレンのCMが話題を提供したことも、大いに寄与している。

翌年には本田宗一郎の提言で採用された自動巻きの始動機能を持ったロードパルLを、1979年には遊星ギア式2速ATによる走りの向上を図った改良型を投入するなど、ユーザーアンケートの結果を反映した改良を重ねていった。

年間30万台以上を売り上げたロードパルによってつくり出された、女性ユーザーという新しい市場の開拓によって、2輪車の国内需要は飛躍的に拡大。発売された年の2輪車市場は前年の113万台から130万台へ、翌年には162万台へと伸びた。

それは、とりもなおさず同車の大衆価格と軽い車体、優れた動力性能が、時代の要求を先取りした商品としての高い評価を受け、市街地の庶民の足として使われた証である。

しかし、このことは同時に、他社のファミリーバイクの進出を促すきっかけともなった。ステップスルースタイルのファッション性の高い商品が伸びていき、実用的な機能主体のロードパルに対抗するようになってきたのだ。

ロードパルは、1983年に生産を終了し、ファミリー層へのバイクの普及という大きな役目を終えた。しかし、1976年のファミリーバイクブーム、そして1980年以降のスクーターブームは、ロードパルの誕生なしではあり得なかったのである。

リーダーとして、ロードパルの開発にチャレンジした後藤は言う。
「女性をバイクに乗せるという、今では当たり前になってることが、当時の発想としてほとんどなかった。そのテーマに挑んでロードパルは生まれた。
市場というものは、絶対死なないものであると私は信じている。どんな時代でも、その時代に合ったニーズというものを真剣に掘り下げていけば、それは必ず見つかる。その中で絶えず商品を進化させていくという努力を継続していかなくてはいけないと思う」。

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シティ / 1981

シティ / 1981

*最初の衝撃

1980年のある日、当時、本社の販売促進部(以降、販促と略す)で4輪の宣伝を担当していた有澤徹のところに、2人の技術研究所・開発スタッフが訪れた。
「ぜひ、相談に乗ってほしい」
という彼らの強い要望を受けた有澤は、請われるままに和光研究所に同行し、機密管理の厳しい造形室に足を踏み入れた。

部屋に入り、すぐ右側に置かれた原寸大のクレイ・モデルを一目見た瞬間、有澤は強烈な、衝撃的とも言える感銘を受けた。この型破りで個性的なクレイ・モデル、開発記号SA-7こそ、研究所の若いメンバーが総力を挙げて創り上げたシティであった。

*開発メンバーの平均年齢27歳

1978年4月、
「80年代の省資源車の決定版をつくれ」
という指令を受けて、シティの開発はスタートした。

当時、日本はアメリカを抜いて世界一の自動車生産国になったものの、国内需要は低迷を続け、さらには乗用車の対米輸出自主規制が始まるなど、国内の4輪車市場はその厳しさを増している状況にあった。

従来の概念に当てはまらない、新しいカテゴリーのライト・ビークルを目指したシティの開発コンセプトには、

①既成のマーケットを超えた新しい需要の創造
②省資源、省エネルギーの社会ニーズに応え、特に若者ユーザーを目指した、個性明快なクルマ
③ユーザーの本物指向を満足させ、しかも新しいライフスタイルを提案する、基本性能の優れたクルマ
④クルマを生活道具と考える若者ユーザーに、オリジナルな発想で乗りこなしてほしいクルマ
⑤独創的なHondaにふさわしく、数々の先進性と国際レベルの大きなスケールを持ったクルマ

という5つが掲げられた。

これらのコンセプトの下、需要層と同じ感性を持つ、平均年齢27歳という若いS・E・Dメンバーが一体となり、彼ら自身が求めるクルマを、彼ら自身の発想、生き方に基づいて開発されたのがシティなのだ。

*クレイ・モデルを守れ

有澤に対する開発スタッフの要望とは、このSA-7のクレイ・モデルが、トップの意向で削られ(形を変えられ)ないように、販促の立場から守ってほしいという切迫したものであった。

SA-7との初体面で強烈なインパクトを受けた有澤は、
――ハードウエアがしっかりしていることは間違いない。そしていい意味でのHondaらしさへの回帰が感じられる――
という感触を持った。そして、
――とにかく、このクルマを、何としてもこのまま世に出さなくてはならない――
ことを痛感した有澤は、彼らの要望に、
「必ず知恵を出して応える」
と約束をしたのであった。と同時に彼自身、このクルマのユニークな個性に負けない、既成の枠を超えた広告・宣伝展開をしなければならないという決意を固め、直ちに具体的なイメージの構築に取り掛かった。

手始めは、トップマネジメントを含めた全社的なSA-7のプレゼンテーションへ向けてのレポートづくりだった。これまでの物(ハード)寄りの展開ではなく、感性で訴えるトーンで自由に表現することを基調とした。そしてSA-7から受けた強烈な印象を表現するために、鍵となる多くのフレーズとアイデアが次々と書きとどめられ、販促の若いスタッフに引き継がれて固められていった。この段階で、『トールボーイ』、『ライト・ビークル』、『ポケッテリア』など、後の広告展開の核となる重要なキーワードやキャッチフレーズが登場し、イメージが築かれていったのである。

*若者の意思が受け入れられ、GOがかかった

1981年2月、栃木研究所で行われたプレゼンテーションで、開発チームはハードウエアを、営業チームは販売関係のソフトウエアを、そして販促チームは広告・宣伝展開のイメージを、それぞれ説明した。

このとき有澤は、
「若いスタッフが、若者のために、既成概念を打ち破り具現化したのがSA-7である」
「広告・宣伝活動もこのコンセプトにふさわしい演出で展開していく」
「このSA-7に関しては若者にまかせてほしい」
と強く訴えたのである。

これを受け止めた側は、若い感性の持ち主と、豊富な経験を足場にして考える人たちの間で、肯定と否定の両極に分かれた。

しかし、慣習を打破し、組織・システムの摩擦にもめげず、それを超越するエネルギーを持った若者たちによって開発されたSA-7には、この時点で彼らの主張通りの決断が下され、有澤たちの描いた構想は実現へと向かって動き出したのである。もちろん、そこには首脳陣の大幅な権限委譲があった。

*マッドネスとムカデダンスで新しいチャレンジ

いよいよ本格的なイメージカタログづくりに取り組む。開発記号・SA-7は、既に有澤の頭の中にあった製品名・シティに置き換えられていた。そしてその後の広告・宣伝活動の基本コンセプトが盛り込まれたカタログが、スタッフたちの手で一気にまとめ上げられた。

ロゴマークは、都会(ビルの間)を走るトールボーイを意識した長体文字のCITYに、ビルのシルエットをアレンジしたものとした。話題性の訴求点を、当時、本社のあった原宿の街をイメージし、ファッション性と情報発信の二つの意味を持たせた、『シティはニュースにあふれてる』というキャッチフレーズで打ち出した。

さらに、広告イメージの表現としては、若者の感性を共有すべく、”リズム”にこだわり、音楽も若者らしい独自のものをつくろうと、新しいチャレンジを試みた。
「ニューヨークへ行ってミュージシャンを集め、シティバンドをつくろう」
という発想で、制作スタッフにニューヨークまで飛んでもらったりしたが、そんな中で、
「イギリスに面白いロックバンドのマッドネスがいる。踊りも面白い」
という情報を得た。日本では全くメジャーではなかったが、その特異さと新しさに引かれて採用を決めた。ところがこの企画がどうしても上層部の了解を得られない。
「面白い」
という一部の評価とは裏腹に、
「あんた、何考えてるんだ!」
と当惑の表情で再三の企画案が拒否された。

3度目のデモンストレーションの時、
「当初と変わっていないのなら、見る必要もない」
と渋る担当役員を、背後から抱えて無理やり見てもらう行動に出た有澤は、
「若い人は、いいと言ってくれてます。年寄りは駄目と言ってます。若者の2、3割の共感を得られれば、このクルマの目的は達成されます。Hondaの謳う若さという企業イメージでいきたいのです!」
と熱く訴えた。
「そうか、分かった。私が責任を持つからやりなさい」
という役員の言葉を聞いた時、思わず目頭を熱くしてしまった有澤は、
「ありがとうございます。頑張ります」
と答えたのであった。

役員の承諾を得た有澤たちは、マッドネスを日本へ呼び、録音、スチール撮影、CF撮影などを急ピッチでやり遂げた。滞在4日、実質2日半での制作であった。あの『ホンダ、ホンダ、ホンダ』の音楽に合わせたムカデダンスのシーンができた時、有澤は思わず、
「いいぞ!いいぞ!」
と心の中で叫んだ。
当時のHondaは年間販売台数30万台の壁が破れず、社内外とも沈滞した気運があった。有澤の気持ちの中には、この『ホンダ、ホンダ、ホンダ』で、みんな元気を出そうぜという願いを込めた意味合いもあったのである。

後日の全国営業所長会議の時、マッドネスの音楽が好評だったことに気を良くした有澤は、
「これをドリフターズのカトちゃん・ケンちゃんにやってもらえれば、世の中大いに沸きますよ!」
と口走ってしまったが、実際にCFが流れるようになった時、このことは現実のものとなった。さらには、学園祭やパーティーなど、日本中でムカデダンスと『ホンダ、ホンダ、ホンダ』のメロディーが流行をみせた。販促の話題性としては100%以上の効果を示したのである。

*発表会も型破りに

1981年11月に行われた発表会も、シティのキャラクターにふさわしく、型破りなものとなった。舞台は副都心・新宿のスーパーシティーに設置。社長の河島喜好をはじめ、役員全員には堅苦しいスーツの代わりにジャケットスタイルのラフな服装になってもらった。レーザービームと新しいサウンドを多用して、ショー的な演出をふんだんに盛り込み、カタログはセメント袋をアレンジしたものに入れて配られた。

マス媒体の展開でも、テレビやラジオのコマーシャルの他に、新しいアイデアの媒体を多用した。雑誌『シティ・プレス』の発行、ラジオの特別番組、大きな駅貼りポスターなどを次々に展開。さらに数々のノベルティーグッズの販売、そしてシティやモトコンポの展示用品をパッケージした12トントラックによる、『ムービング・スタジオ』の全国キャラバンを行い、販売店の展示会をサポートした。

トールボーイという個性的なスタイルと数々のアイデアに満ちた機能、新開発のコンバックスエンジンの優れた動力性能と低燃費、そしてシティとの組み合わせで同時発売された50ccバイク・モトコンポなど、今までにないユニークさと話題にあふれたシティ。
加えて、このハードウエア以上に強力に、既成の概念を打ち破って展開された販促活動。この両者があいまって、シティは発表と同時に、若者を中心として絶大な支持を得た。

1981年11月の発売以来、約2年間で15万台を販売、ピーク時には月販1万6000台を記録した。基本タイプのほかに、低燃費のEタイプ、ハイパーターボ、ボディーソニック、ハイルーフなど、次々に新しいニュース・話題を投げ掛けていったのである。

1980年代前半、世の中に強力なインパクトを与えたシティは、業界やマスコミ界で数々の賞の対象となった。同時に販促活動もデザイン賞や広告賞を数多く受けて、高い評価を得るとともに、広告界に大きな波紋を投げ掛けたのであった。

1986年10月、2代目の低全高シティの登場で、初代シティはその役割を終えたが、そのトールボーイのコンセプトは、Honda製品の主流として今も引き継がれている。そして、シティで展開されたHondaの販促活動は、その後も2代目プレリュードにおける『ボレロ』、ワンダーシビックの『ワンダフルワールド』など、常に新鮮で、話題性豊かな世界を提供し続けていったのである。

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NSX / 1990

NSX / 1990

*『座ぶとんエンジン』

1984年1月、新しい駆動形式を模索する基礎研究が和光研究所で始まった。当時のHondaは、M・M(マンマキシマム・マシンミニマム)思想の下、N360以来のフロントエンジン・フロントドライブ(FF)駆動形式を主流に、クルマづくりをしてきた。

しかし、今回の研究は薄型のエンジンを後部シート下に配置することで、居住性を確保しながらエンジンなどの動力機構を車体の中央にレイアウトし、操縦性の向上を図ることであった。通称”座ぶとんエンジン”を搭載したアンダーフロアー・ミッドシップエンジン・リアドライブ(UMR)の研究である。

同年2月、早速、開発チームは初代シティをベースにUMRの研究をスタートさせた。
実際に試作車を走らせてみると、FF車とは全く異なる運動性能を見せた。特に、走る・曲がるというハンドリング性能にメンバーは驚嘆。しかし、このUMR搭載シティは、性能面では優れている面が見受けられたものの、従来のFF車に対して技術的に高い商品性は認められず、開発は中止となった。

しかし、この研究で得られたハンドリングの爽快感は捨て難く、評価会で役員から、
「この運動性能を引き出すのに最もふさわしい形態の研究をしたらどうか」
との提案があった。そして、駆動形式の研究から、スポーツカーのように重心の低いクルマの運動性能へと、研究の方向転換がなされたのである。

「スポーツカーをつくりたい。開発者なら、みんなそう思っているんですよ。研究の方向性を変えたらどうかという評価会での提案は、そういう気持ちの表れだったんでしょうね」
と、LPLを務めた上原繁は言う。

そして、CR-Xをベースとした先行試作車(プロトタイプ)が製作された。1200ccから2000ccまでの4気筒DOHCエンジンを搭載しての研究が行われ、運動性能がさまざまな角度から検証されていった。

時を同じくして、1983年から一時休止していたF1にHondaが復帰。技術研究所では、スポーツカーをつくりたいという気運がいやが応にも高まっていった。このころになると、役員室からも本格的なスポーツカーをつくりたい、という話が出てきていた。

「FFの量産車とF1をつなぐ、Hondaのイメージを代表するクルマが欲しかったのだと思います。一方、アメリカン・ホンダ・モーターの販売店・アキュラチャネルからの期待もあったんです」(上原)

このような状況と、開発者の想いとが一つになり、本格的スポーツカーの研究が始まったのは、1985年秋のことであった。

*Honda独自のスポーツカー像

『Hondaを象徴するスポーツカーの資質とは何なのか』。
この命題の下、開発チームは検討を重ねた。その方向性はコンセプトチャートによって導き出され、新しいクルマのキーワードを形づくることになる。このチャートでは、パワーウエイトレシオ(走る性能)を縦軸に、ホイールベースウエイトレシオ(曲がる・止まる性能)を横軸に設定した。これに各社のスポーツカーのデータをプロットアウトすると、天の川のようなゾーンを形成することから、『天の川チャート』と呼ばれた。このチャートを基に数え切れない議論がなされ、開発チームは次のような結論に達したのである。

「われわれが求めるのは、人間の運転技術とクルマの性能が拮抗する、ミドル級でミッドシップのクルマだ。このクルマの運動性能を極限にまで高め、F1の領域に近付けたい」。

しかし、高度な運動性能のみを追求すると、軽量化やボディー剛性確保のためにキャビンが小さくなり、居住性が低下したり、ペダルのオフセットが大きくなったりして、人間に我慢や窮屈を強いる結果となる。これは、人間性を優先するHondaのクルマづくりとは相いれないものだ。高度な運動性能は、人間が快適・自在にクルマを操るという、あくまでも人間中心のヒューマン・フィッティングに裏打ちされていなければならず、さまざまな路面環境に対応する適合性も問われる。

「人間とクルマの性能が高次元でバランスされて初めて、新しい時代のスポーツカーになる。ここにこそ、他社にはないHondaの価値があるのだ」。
チームの意見が一致し、新しいスポーツカーのコンセプトが決定した。

*オールアルミ・モノコックボディーへのチャレンジ

1986年中ごろ、『天の川チャート』を基にしてプロトタイプⅠと呼ばれる試作車がつくられた。この時点では、ボディーの素材は鋼板とアルミの両方で検討が進められていた。しかし鋼板では、ミドル級でF1の領域を目指すという目標に、走りの性能が付いていけない。走りの性能を高めるためにパワフルなエンジンを搭載すると車体が重くなり、ミドル級の枠からはみ出してしまう。

また、従来のスポーツカーでは、快適性や安全性は犠牲にされがちであったが、このクルマには、パワーウインドーや全自動エアコン、トラクション・コントロール・システム、アンチロック・ブレーキシステムなどの時代にマッチした装備を付加したい。それには軽量化が何としても必要であり、その実現のために、世界初のオールアルミ・モノコックボディーを採用することを決めた。

車体のほとんどすべてをアルミ化したクルマは、今までなかった。アルミ合金は、現在実用化されている金属元素の中では最も豊富に地殻に埋蔵されており、かつ無公害の資源で、比重は鉄の3分の1である。また、さびに強くリサイクル性も鉄と比べて極めて高い。しかし、こうしたメリットがある反面、アルミには数々の問題もあった。鉄に比較すると成型や溶接に高度な技術が要求され、コストが高くなること、そして最大の問題は、アルミボディー専用工場をつくらなくてはならないことであった。

開発チームは、栃木研究所と和光研究所の間を度々新幹線で往復した。その車中で気付いたことは、新幹線もアルミでできているということであった。

「新幹線にまで普及しているアルミが、クルマに採用できないはずはない。問題があるなら、一つひとつ、つぶしていけばいいんだ」
と考え、アルミ材料メーカー数社に相談することとなった。

「オールアルミのクルマをつくりたい。ぜひとも、ご協力ください」。
この相談を受けた、神戸製鋼所をはじめとする材料メーカーは、半信半疑であった。アルミは、プレス加工や溶接加工が難しい材料であった。従来の量産車での使用も、ごく一部の部品に限られていた。そのアルミでクルマ全体をつくってしまおうというのだ。
――Hondaは本気なのだろうか…――。
材料メーカーの担当者たちは、なかなか信じることができなかった。が、Hondaの開発チームの説明は真剣だった。
「新しいスポーツカーをつくるためには、どうしてもアルミボディーが必要なんです」
という熱意が材料メーカーを巻き込み、
「やってやろうじゃないか」
という気持ちにさせていった。

今まで自動車用に使われていた5000系アルミ材と、強度があり外観品質性の高い6000系アルミ材を選び、外板材としての改良を重ねた。プレス、溶接、塗装と、各工程で要求される性能がHondaからの注文として次々に出される。それらをクリアするために、材料メーカーの開発担当者には胃の痛い日々が続いた。最後には自社工場の片隅に泊まりこんでの開発となったのである。

特にサイドシルの加工は問題となった。アルミは鉄のように絞りの深いプレス加工ができない。そこで600度に加熱したアルミを金型に入れ、そこから押し出しながら引っ張る成形で、ハニカム構造の高強度、高剛性のフレームをつくった。これがオールアルミボディーの強度を出すかなめとなったのである。

最終的には、車体の部位に応じて、5種類のアルミ合金材を使い分けることとなった。
こうした数々のチャレンジの結果、鋼板ボディーに比べボディー単体で140kg、車体全体で約200kgの軽量化に成功。クルマをこれほどアルミ化できるということに、材料メーカー自身が驚いたほどだった。

材料開発と並行して、オールアルミボディーのCR-Xが試作されたのは、1986年中ごろのことであった。このCR-Xを使い、アルミボディー車の可能性を検討した。次にプロトタイプⅠで、ミッドシップスポーツアルミボディーの基本骨格を研究。このクルマでテスト走行・衝突実験を行い、剛性の検討から、修理技術まで含めて確認を重ねた。そして、商品化を前提としたプロトタイプⅡがつくられ、内装や電動パワーステアリングを始めとする時代の最先端装備など、乗る人のフィット感や環境適合性などを考え、商品性を高めていった。

*ニュルブルクリンクでの苛酷なテスト

D開発(商品化に向けた開発)初期では、テスト車で約1カ月かけて鈴鹿サーキットを走り込んだ。
1989年2月、F1マクラーレンのテストで日本に来ていたアイルトン・セナに、開発チームはステアリングを託した。

「僕は、量産車については適切なコメントができるかどうか分からないが、何かやわい感じがするな」
と、セナはボディの剛性不足を指摘した。当時、剛性ではポルシェ、フェラーリのレベルを目標にしていたが、セナは一般のドライバーでは気付かない、わずかな差を読み取ることができた。この評価が引き金となり、4月には剛性の目標を上げ、テスト車を徹底的に走らせることになった。

その場所として選ばれたのは、高速サーキットとして著名な西ドイツ(当時)のニュルブルクリンク。かつてHondaがF1に初めて挑戦したゆかりのコースでもある。全長20.8km、最大高低差300m、200を超えるブラインドの多いカーブ。先の見えない森の中で、急激なアップダウンが組み合わさったコースは、クルマにはもちろん、ドライバーにも高い水準が要求される厳しいサーキットである。ここでは、日本では分からなかった弱点もはっきり見えてくる。世界一のスポーツカーを目指すクルマのテストには、これ以上ない最高の環境であった。

Honda・R&D・ヨーロッパ(HRE)の協力の下、サーキットから2kmほど離れたミューレンバッハに、ガレージと事務所を借りてワークショップを設営した。このように海外に滞在してテストを行うのは、日本の自動車メーカーでは初めての試みであった。

同地では、ボディー剛性の強化を中心に、さまざまな実車テストが繰り返し行われた。このような厳しいコースでは、人とクルマの対話のタイミングが遅れると、クルマとの一体感が薄れ、ドライバーがアクセルを踏めなくなるという。これは、ボディーの剛性が影響を与えるからだということが分かった。

現地と日本との間で話が通じない時は、現地で開発するというのが鉄則だ。各パートの設計者が助手席に同乗し、テストドライバーの評価を共有する。問題があればその場で補強を行う。今までの開発とは全く違うやり方だった。このような厳しいテストを繰り返さなければ世界一のクルマはできないということを、開発チームは身に染みて感じていた。

現地でのテストデータは、すぐさま日本の研究所に送られ、再びコンピュータで解析。最小の重量で最大の剛性アップが得られるよう、最適の形状を決定していった。

その結果、ニュルブルクリンクの実走テスト前に比べ、50%も剛性がアップしていた。約8カ月の歳月をかけて熟成した結果、スポーツカーにふさわしい運動性能と同時に快適性能も得ることができ、人間とクルマの一体感を実現したのである。

1989年2月、アメリカの第81回シカゴ・オートショーでは、真っ赤なスポーツカーが一段と注目を集めた。開発コードNS-X。Nはニューを、Sはスポーツカーを、Xは未知の世界を意味し、Hondaが自信を持って世に送り出そうとしている新しいスポーツカーのプロトタイプだった。

*新世代スポーツカー誕生

1989年6月、日本を皮切りとして、アメリカ、ヨーロッパ各地で試乗会がスタートした。

アメリカでの試乗会は、ラグナセカ・サーキットと一般路で行われた。ボディーとサスペンションの性能が問われるこの苛酷なサーキットに続いて、ヨーロッパでは開発のキーポイントとなったニュルブルクリンク周辺での試乗が行われた。

多くの人がクルマから降りるなり、走りの安定性と高い快適性との両立に称賛の言葉を惜しまなかった。中でも、アメリカのジャーナリストたちは、
「このクルマによって、スポーツカーの基準を変えなければならないだろう」、
「今までのクルマは過去のものになった」
と、数多くの先進技術を投入した新しいスポーツカーとして、NS-Xを評価した。開発チームのメンバーにとっては、開発の意図が完全に理解されたと、うれしさと自信が込み上げてきた瞬間であった。

「クルマは、人間と触れ合う機械。本当にいいクルマかどうかは、乗った人間が感動できるかどうかによるんです」(上原)。

NS-Xの誕生は、世界のスポーツカーが高性能と快適性の両立を目指すという、新しい時代を切り拓いたのである。

*夢を形にする専用工場

1990年5月、オールアルミボディーのスポーツカー生産工場として埼玉製作所栃木工場(現、栃木製作所高根沢工場)が完成した。

生産設備は、すべてが専用であった。その最たるものが、アルミのためのスポット溶接機である。アルミは電気を通しやすい上に熱伝導率が良く、鉄よりも板厚があるため、溶接に必要な電流が大きくなり、従来の溶接機が使用できない。当時、ボディーサイズのアルミをスポット溶接できる機械はどこにもなかったため、ボディーの開発と並行して、ホンダエンジニアリングで独自の溶接機が開発されていった。

また、人材の登用面でも、NS-XをつくりたいというエキスパートをオールHondaの各部門から公募するという、画期的な試みがなされた。ここでは、1日25台と生産台数が少ないこともあって、手づくりに近い、丹念なつくり方が要求された。機械を使って一度に大量の製品の精度を出す大量生産のつくり方に比べ、人間の持つ調整能力を最大限に生かしたつくり方である。アルミという素材が、すべての工程で人の手による仕上げを必要とするからでもあり、その分、つくる側の技術と責任も求められた。

また、工場自体もスタッフの力が活かせるよう、機械よりも人間を優先するシステムになっている。ベルトコンベヤーは1本も存在しない。ボディーを360度回転させることができる回転溶接台では、スタッフが車体の下に潜り込むような無理な姿勢を強いられることなく作業ができる。大量生産のシステムとは全く違う、新しいシステムが採用されているのである。

1990年8月、栃木工場のオープンハウス式典が行われ、社長の川本信彦は、
「NS-Xは独自の技術を盛り込んだ新世代の商品であり、Hondaの夢の一つです。そして、栃木工場はその夢を育む場所でもあります」
とあいさつを述べた。

1990年9月、国内での記者発表会が開催され、翌日、全国のべルノ店を通じて発売。プロトタイプの発表で既に知れ渡っていたコードネームNS-Xが、そのままNSXとして商品名になった。発売を待たずに注文が殺到し、3年先まで予約が入るほどの人気を博したのである。

*進化し続けるNSX

1991年6月、HondaのNSX担当チームはオーナーズミーティングを開催した。
スポーツカーをつくったからには、お客さまにその真の性能を知って安全に楽しんでいただきたい、という願いからこの催しは生まれた。このクルマを育てていきたいという開発陣の想いを込め、鈴鹿サーキットやツインリンクもてぎで今も開催されている。

カリキュラムは、開発担当者と特別講師による開発コンセプト、的確なコントロール技術の説明、NSXでのサーキット走行という1泊2日コース。開発担当者とお客さま、そして、お客さま同士のコミュニケーションも深まるミーティングとなっている。このミーティングを通じて、開発という立場を離れ、お客さまの目の高さで物事を観ることの大切さも分かるようになった。このミーティングから得られたお客さまの要望などは、1992年に発表されたNSXタイプRに採り入れられていった。

開発当初の基本コンセプトを受け継ぎながら、ドライビングスポーツの新しい方向性へのアプローチを続け、NSXは今も進化を続けている。

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オデッセイ / 1994

オデッセイ / 1994

*大きなミニバンをつくってほしい

1990年8月、91年型レジェンドの立ち上げで狭山工場に長期滞在していた小田垣邦道(当時、技術研究所CE)のもとに、技術研究所から1本の電話が入った。用件はアメリカ向けの大きなミニバンをつくってほしい。具体的にはレジェンドのV6エンジンを積んだ大きなミニバンを、アメリカに新工場をつくって生産してほしいというものだった。これは、アメリカン・ホンダ・モーター(以降、アメリカン・ホンダ)社長の雨宮高一からの強い要望でもあった。

早速、開発チームとして20人前後が集められた。小田垣は開発LPLとなり、1990年9月、5、6人のチームメンバーと共にアメリカに飛び、約1カ月間、アメリカにおけるミニバンの使われ方について、徹底的に調査をした。

「アメリカでは、より高級なクルマに乗りたいという価値観から、自分の使い勝手に合ったクルマに乗りたいという考え方にシフトしてきていた。そのクルマ文化に大いに共感を覚え、絶対にHondaもミニバンをつくるべきだという思いを強くしました」(小田垣)。

当時、アメリカで売られていたミニバンは約2万ドルだった。Hondaが新工場をつくり、レジェンドのV6エンジンを搭載すると、試算では3万ドルもの高額なミニバンになってしまう。何とか安くできないかと考え、4気筒のアコードのエンジンを使うことも、別案として検討した。そんな時に、このミニバン開発は正式な中止宣告を受けた。

「私としては命令は聞きました。しかし、中止すべきではないと思います」。
アメリカのミニバンニーズを満たすクルマをつくりたいという信念を持っていた小田垣は、本社の開発総責任者と40分間も電話で話をしたが、平行線のままだった。
チームメンバーもまた、続けるべきだと強く思っていた。それは拡大しつつある米国市場を、自分たちの目で観ていたからであり、ミニバン文化を日本に輸入すべきだと思っていたからでもあった。

その年の暮れからは、業務指示外で秘密裏に開発が始まった。社長と商品担当役員、技術研究所のトップらが、開発の継続を暗黙のうちに認めてくれていたことが、せめてもの救いだった。
チームメンバーは、さまざまなレジャーやスポーツの現場に出掛けては、クルマの使われ方を観て、話を聴いた。

「お客さまがほしいのは何なのか。それを見極めて、これでなくてはと言っていただけるような、他では得られない価値をつくれるかどうかが勝負だと思っていた」(小田垣)。

*イメージはパーソナルジェット

オデッセイ(開発機種記号・PJ)のイメージをパーソナル・ジェットと定めたものの、いつまでたっても格好の良いデザインができなかった。小田垣はいら立ち気味に、デザイナーになぜできないのかと詰め寄った。するとデザイナーは、
「3列もシートがあるクルマなんて、所帯じみててカッコ良くできないよ」
と、真顔で反論した。

小田垣は、3列目のシート全部を床下に収納し、フラットフロアとすることにより、カーゴスペースの多様化を考案した。
1番こだわったところは、ウォークスルーだった。

「アメリカで多くのミニバンに乗って、すごくいいと思ったのは、ウォークスルー。景色のいい所などでは、席を簡単に移動できる。新幹線でも、席が空いている時は自分の好きな席に移動したりするでしょ。だから家族新幹線型にしようと思った。これも他では得られない価値。だから絶対やってやろうと思ったんです」(小田垣)。

そのためには室内高はどれくらい必要なのか、発泡スチロールでつくってみた。まず、お客さまにとって室内高1.2mが絶対必要であることを確認。乗り降りしやすいように床は低ければ低いほどいい。そうすると工場のラインでも流しやすい。それらを基に、クルマ全体の大きさをシミュレーションした。
次の課題は、このクルマをつくってくれる工場を探すことだった。

*狭山工場の決断

小田垣は鈴鹿製作所、埼玉製作所・狭山工場、アメリカのホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)にファクスを送った。
『正式なプロジェクトになっていない企画ですが、Hondaにとってつくるべきクルマだと思います。が、新工場を建設すると、投資もコストも過大になって成立しないことが分かりました。お客さまに必要なスペースを維持し、生産ラインの変更を最小限にして成立すると思われるパッケージをつくってみました。貴製作所での生産検討をお願いします』。
HAMと狭山工場から、可能性があるかも知れないという返事がきた。

「バブル経済が崩壊して、セダンは全体的にシュリンクしたものの、逆にRVは拡大基調にあり、Hondaが持っていないカテゴリーでした。また、埼玉製作所に特化して言うと、2年先、3年先を見ると、狭山工場のナンバーワンラインの空洞化は避けられない状態にありました」
と、オデッセイの導入計画初期から、狭山工場でEPLに就いた関根浩は言う。工場と従業員の活性化のためにも、新しいクルマを導入すべきだと、下島啓亨(ひろゆき)(当時・常務取締役埼玉製作所長)が判断したのである。

「つくり側の要件は、乗用車工場の特性を最大限に活かすこと、品質が均一であること、投資は最小限に抑えること、そして、既存設備の有効活用を図ることでした。そのためには、技術研究所が出してきた設計図通りではつくれない。クルマそのものにも手を付けさせてもらう必要があったので、技術研究所部門と一緒になって取り組みました」(関根)。

ボディーサイズは既存機種と比較すると大型で、ボディー重量も重いため、各工程ごとに改善項目をすべて洗い出すことから始めた。それらに基づいて、関根は全ラインを歩いて、1件1件、現場で自らが確認を行い、改善項目をつぶしていった。その結果、大幅な投資削減が可能となったのである。

投資額をまとめた関根は、投資審議会にかけるために生産企画室へ足を運んだ。室長からは、
「関根、おまえ、このクルマの開発を止めることを提案しろ。こんなクルマをつくったって売れないぞ」
という意見も出されたが、最終的には、専務の大塚伸之に承認をもらった。関根は、
「狭山工場で生産するかHAMで生産するかは、まだ正式な回答をだれも出してくれていません。HAMにいつ持っていかれてもダメージが小さくて済むように、2カ月ごとに進捗状況を見て、最小の投資許可を得るために、何回でも来ます」
と大塚に言った。
「おまえのやり方は汚い。投資額が大きければ、もっと削れって言えるけれど、2カ月に1回ずつ持ってこられたら、そうも言えないな」
と、大塚は冗談交じりに言いながらも、詳細にわたる評価を行った。
関根は、何としてもオデッセイを狭山工場でつくりたかったのである。

HAMとは何度もせめぎ合いがあった。狭山工場が断れば、すぐにでもアメリカへ持っていかれそうな状況が、最後まで続いていた。バブルの崩壊、円高基調、景気の低迷、関税25%問題(USミニバン)などで、世の中の状況が不透明であったことも大きな背景にあった。

*営業が求めていたクルマと技術者たちのつくりたかったクルマ

狭山工場でオデッセイ導入に備えた設備投資などの話が進んでいるにもかかわらず、国内営業の理解は得られなかった。
当時のワンボックスカーは7割がディーゼル車だった。国内営業は、他社と同じ、スライド・ドアのワンボックスタイプを欲っしていたのだ。現実に、お客さまをそういうクルマに取られていたからである。

「安全・環境に無関心な時代のクルマはディーゼルかも知れない。しかし、これからの真のファミリーカーはこのクルマなんですと、少し手前みそみたいなことを言っていた。このクルマをつくったら世の中変わりますよ。とにかく早く出すべきだ。このクルマは既存工場で、既存設備を使って、アコードの部品を使って、最小投資で、最短期間でつくれる。だから、ぜひつくらせてもらいたいと、一生懸命言ってきました」(小田垣)。

しかし、なかなか理解してもらえなかった。小田垣たちチームメンバーはあきらめずに、次のプレゼンテーションの手法を考えた。分かりにくいコンセプトを全部、漫画に置き換え、室内のシートはすごく簡単に可変できることなど、どういう場面でどのように使えるかを説明した。

総合戦略会議や特別報告会などでは、会場の一角を間借りして、4分の1の外観モデルと、発泡スチロールでつくったパッケージングの実寸大のモデルを置いた。1人でも理解者をつくるために、乗ってみてもらいたかったのだ。

また、この時のプレゼンテーションでは、用途別シリーズにまとめ直した。いくつかのシミュレーションの中で、営業幹部たちに1番納得してもらえたのは、
「ゴルフバッグは4つ積めますよ。人のバッグの上に乗せなくていいんです。ゴルフ場の玄関につけても、送迎車に間違えられませんよ」
という説明だった。

全体の反応としては、社長の川本信彦はすぐに共感してくれたが、北米営業部は、アメリカのミニバンと比べてサイズもエンジンも貧弱なこのクルマに、あまり興味を示さなかった。日本の営業幹部も、いわゆる従来のワンボックスと違う内容に、難色を示した。

*明確なビジョンを強く持って、逆境を乗り切る

技術研究所の中でも多くの困難があった。例えば、小田垣の出張中に、
「緊急の図面があるとかで、人が抜かれています」
という連絡が入ったこともあった。帰って大げんかして取り戻した。正式な商品ラインアップに乗っていない機種開発には、超えなければいけないハードルが幾つもあった。

ある時、技術研究所専務の萩野道義が、
「とにかく走る実車をつくろう、そうすればきっと分かってもらえる。ただし、メンバーは現状のままアンダーグラウンドで」
と助言をしてくれた。
開発実務を担当する常務の平松竹史に、
「20人の手勢でクルマをつくらせてください。今ある工数でつくりますから」
と小田垣が説明し、了解を得た。1991年4月16日のことであった。

20人のメンバーで1台のクルマをつくった。流麗なボディーラインに2輪のヘッドライト、アクティのテールランプを付けたものだった。当時は、国内4輪販売の立て直しが最優先課題だったので、右ハンドルでつくった。この実車を使って、チームは営業部門の説得を開始した。

「セダンの感覚で乗れて、室内の広いクルマというのは、やればできるんです。アメリカのミニバン文化を、日本にも輸入すべきです。このクルマは国内4輪販売の立て直しに有力な武器となります」。

少しずつ味方は増えてきた。それでもまだ、国内4輪営業は手を挙げてくれなかった。そんな中、アメリカン・ホンダに売り込みに行くことにして、この実車をアメリカへ持ち込んだ。
1990年8月に最初の開発指示が出た時は、アメリカ向けのミニバンをつくれというものだった。その時の構想からは小さいものとなっていたが、アメリカでも存在価値があるという自信を持っていた。

1992年1月10日、ロサンゼルスでの夜の試乗にやってきた雨宮は開口一番、次のように言った。
「このチームはだめだよ。日本を向いてやってるんだもの」。

実車が右ハンドルだったからである。しかし、とにかく運転してもらうことにして、小田垣はその横に乗り、ここまで生き延びるのがいかに大変だったかを説明した。

「右ハンドルにしなければつぶされていました。でも、アメリカにも絶対に有力な武器になると思うので、ぜひ応援していただきたいんです」(小田垣)。

アメリカから帰ってしばらく経ったある日、開発チームにうれしい知らせが届いた。アメリカン・ホンダが月5000台の販売台数を計画してくれたというのだ。国内はともかく、販売台数の多いアメリカン・ホンダが販売計画を出してくれたことで、オデッセイのプロジェクトは、ようやく本格的な動きになっていった。

「簡単にできると、いい物はできないんじゃないかと思います。僕らチームメンバーは明確につくるべきものが分かっていたし、戦い方も分かっていた。明確なビジョンがあり、時代が味方してくれたから、逆境も乗り切れたんだと思います」(小田垣)。

*3チャネルで同時発売、増産への対応

幾つかの荒波を乗り越えて、1994年10月20日、オデッセイは発表された。会場で商品開発の説明を行っていた小田垣は、
「チームのみんなが…」
と言った時、涙があふれてくるのをこらえられなかった。

オデッセイはこれまでにない3チャネル同時発売という方式を採った。全く新しいジャンルで多目的車であることから、車名も変えず、一気に市場への浸透を図ったのである。

社内の大方の評価とは裏腹に、ジャーナリストやお客さまからは、大変高い評価を得た。その年の日本カー・オブ・ザ・イヤー特別賞と、RJCニュー・カー・オブ・ザ・イヤーという、2大タイトルを獲得。1997年9月末には、発売36カ月で30万台を突破した。これはシビックを上回る最短での達成であった。

「オデッセイの開発当時は他社の二番煎じかとも言われましたが、ユーザーの立場に立った開発コンセプトを実現したことで、市場に受け入れられたんだと思います。常にお客さまの立場に立ったクルマづくりが大事だと再認識しました」(関根)。

オデッセイは当初、日産341台で生産をスタートした。この時期には、まだ、市場も好転の兆しは見えず、ラインの稼働率も低かった。そのため関根は、市況・生産量に合わせたステップアップ投資をすることを約束。と同時にライン生産能力(1100台/日)を一部抑える(1050台/日)提案もした。

市場の好評に伴って、増産に次ぐ増産となった時、関根は約束していたステップアップ投資を実施した。その推進力となったのは、現場の若い人たちだった。彼らは、一つずつ自工程の改善項目を洗い出し、3現主義でその改善に取り組んだ。結果、最小の投資で、急激な生産増が可能となった。

「生産台数の増加に伴って工程を見直し、改善のネタがいろいろ出てきた。これらを彼らの手で全部つぶしていった。自工程は自分たちで改善する。この自発型への仕事の変革によって、現場の一人ひとりが問題意識を共有化し、達成感や働きがいを味わったと思いますよ」(関根)。

*北米向けのオデッセイがラインオフ

1998年9月30日、カナダのホンダ・オブ・カナダ・マニュファクチャリング(HCM)に新たに完成した第2生産ラインで、北米向け専用に開発された新型ミニバン・オデッセイのラインオフ式典が行われた。8年前、小田垣たち開発チームがつくろうとした、アメリカのミニバンニーズを満たすクルマが、ついに誕生したのだ。

「あの時、雨宮さんは、『アメリカ市場では明らかにセダンが衰退してきている。ミニバンやSUV(スポーツ・ユーティリティー・ビークル)・ジープタイプのクルマがきちんとつくられていないと、Hondaが生きていけない時代がくるんじゃないか』という想いを強く持っていらっしゃった。シビックとか、アコードとか、極めて強い商品を持っていて、安穏としていられる状況だったのにもかかわらずです。アメリカでのミニバン構想は発生しては消えていた。今回、4回目のトライで本当の意味でのミニバンができました」(小田垣)。

生活創造車・オデッセイの誕生で、これまでにない新しい乗用車カテゴリーが生まれ、そこに他社も追随してきた。オデッセイは間違いなく、お客さまが望んでいたクルマだったのである。
小田垣は自らの信念を、
「工業エンジニアの喜びは、1人でも多くのお客さまに喜んでいただけること。この1点に尽きると思います」
と語る。

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電気自動車・Honda EV PLUS / 1988

電気自動車・Honda EV PLUS / 1988

*それは太陽光へのチャレンジの議論から始まった

――ソーラー(太陽光)パワーで走る電気自動車(以降、EV)か。こんな代替燃料車が走り回る時代も、遠くないかも…――。
1987年11月にオーストラリアで開催されたワールド・ソーラー・チャレンジ(以降、WSCと略す)の初代優勝車、米国・GM社製のソーラーカー・サンレーサー号の紹介記事を見て、荒木純一(第1世代EVのR研究〈基礎的研究〉プロジェクトLPL)は、そう感じていた。

折しも技術研究所のRテーマ担当マネジャー数人が集まり、21世紀のクリーン・エネルギーの時代や、いつかは来るであろう石油資源枯渇の時代に向け、何を学ぶべきかを議論していた会議の席上でのことだったが、出席者の考えは皆、荒木と同様のものだった。
この会議では、種々の話題が議論された。エンジン車と比べて部品点数が少ないことに着目し、EVを世界中のどこでも製造しやすいクルマとして提供することの検討や、商品を通じた環境保全へのさらなる取り組みとしての燃費向上、排出ガスの低減など、内燃機関に関する技術向上の必要性が再確認されたのも、この会議だった。

「代替燃料の中で本命視されていたのは電気でしたが、Hondaは電気パワー・プラント(動力装置)をつくった経験がなかった。さらに言えば、当時は代替燃料車の研究自体も十分になされていない状況。だからEVづくりに挑戦することになった。同時にWSCへの参戦も、レースという過酷な環境下でのチャレンジで、その技術を速く手の内に、との観点から検討されたのです」(荒木)。

こうした議論に端を発し、HondaとしてのEVのR研究は1988年4月、総勢たった4人という極小プロジェクトでスタート。基礎研究が開始された。

*百十数人の企業プロジェクトにまで発展

調査を開始して分かったことだが、EVは第1次・第2次石油危機を契機に、国内・外の数社によって既に商品化されていた。いずれにしてもHondaはEVでは最後発だった。
そこでメンバーは議論し、
「『EVに長く取り組んできた他社は、それまでやってきたことに縛られながら開発を進めるだろう。ならば、われわれは現在の最高で最先端の技術を利用し、開発をスタートさせよう』と結論付けたのです」(荒木)。

この発想は、EVの主要な構成要素は、日本が最高の技術力を誇る自動車と電気製品だ、という自負から出たものであった。

ところが当時、世の中のEVは、ゴルフカートか遊園地の乗り物程度で、ガソリンと比較したバッテリーのエネルギー量は2けたも小さい。充電時間も長いなど、内燃機関と比べ、クルマで使用した場合の利便性は圧倒的に劣っていた。また、技術研究所でもEV関連の技術を持った人材は皆無で、メーカーの人たちと技術的な話すらできない状況だった。

EVの大きな特徴はモーターとバッテリー。ただし、原動機としてのモーターは、クルマの部品で使われているものとは全くの別物だ。当時、EV用として搭載可能な小型で、高出力・高効率なモーターは、世の中にはなかった。

もう一つの要素のバッテリーでも、当時、クルマの主エネルギーとして使えるのは、鉛酸タイプのものしかなかった。あるメーカーからは、『次世代型の新たなバッテリーを開発する場合、4年は必要』と聞き、うすうす感じていた”電気化学分野の進展には時間を要する”という状況に、メンバー全員ががく然としたこともあった。

――でも、何もなしでは始まらない――
とメンバーは考え、CR-Xをベースにした改造車でEVを製作。ボディーのアルミ化やガラスのアクリル化で軽量化を図り、記念すべき1号車が産声を上げた。

そんな中、1990年10月、2・4・汎の全領域にわたる技術研究所のトップ・マネジメント・ミーティングが開催されていた。これは、21世紀に向かう最後の10年間で、技術研究所全体をどういう技術の方向性に導くべきかについて、種々のテーマについての情報を収集した上で議論し合うもので、当然、2年前からプロジェクトをスタートさせたEVに関するテーマも含まれていた。EVのD開発(商品化に向けた開発)プロジェクトのRAD(開発総責任者)を務めた平松竹史も、この会議に出席していたが、
「EVの開発を本格的に進めるべきと再確認したのは、まさに、この場でした」
と言う。さらにこの会議では、さまざまな外部要因がEV開発の重要性を高めていることを印象付けた。例えば米国での排出ガス規制強化への動き。1970年12月に発効したマスキー法による大気浄化の効果を懸念する声が、1980年代の後半に入って高まり、CARB(カリフォルニア州大気資源局)による規制なども含めて全米で大気清浄法改正への気運が高まった。また、1990年代に入ると米国の石油輸入量が国内生産量と逆転。国防・経済上の観点からも、省エネルギーに向けた法規制化への動きも出てきた。

「こうした動きは予兆で、世界への波及が考えられた。人、そして社会の価値観の大きな変化に合わせ、従来、Hondaの核としてきた技術の改良に加え、それに代わる技術の開発にも取り組もうと考えたのです」(平松)。
1990年11月、その2カ月前に制定されたCARBによる規制法を包括する形で、米国のZEV規制法【注1】が公布。1998年からの施行が決定された。Hondaはこうした動向も視野に入れつつ、1991年初めにはEVを重要な戦略機種と位置付けた。そして本格的な開発に着手するため、HGW、HGT、HGA、HGB【注2】、HGHの各研究所から、多岐の職種にわたる人材、百数十人を企業プロジェクトとして集結させたのである。

【注1】ZEV(Zero Emission Vehicle<無公害車>)規制法…米国・カリフォルニア州で自動車を販売するメーカーに対し、一定の台数(今回は総販売台数の2%)のEVを販売するよう義務付ける法律

【注2】HGB…朝霞北研究所

*『(こんなクルマ、)穴掘って埋めちまえ』

本格的なプロジェクトはスタートしたが、寄せ集め部隊で、ほとんどのメンバーはEVの知識など全くなく、予想通り、当初はまとまりのない集団となった。

「メンバーについては、それぞれの専門性を持った、個性豊かなメンバーが集まって、まとまりにくかったのです。そんな中、当時のEVには技術的な限界があって、どんなクルマにまとめ上げるかで悩みました」
と、パワー・プラントのテスト担当PLの鈴木健三は苦笑する。

そして、大プロジェクトとして初めて、シビック3ドアをベースに、試作車の製作が始まった。時間との戦いで、モーターやバッテリーについては市販品を流用しての製作となった。ほとんどのメンバーには初めての試みであり、苦しみながら生み出したEVだった。そして、1991年7月、同車はメンバーの目の前で、きちんと走った。

――何だ、結構、走るじゃないか――。
全員に安堵の表情が広がった。ところがLPLの荒木の顔は見る見る真赤になった。

「その時、『これがクルマか。一体、何をつくっているんだ。(こんなクルマ、)穴掘って埋めちまえ』って、思わず怒鳴っていましたよ(笑い)」(荒木)。

それから、およそ2時間にわたって荒木はその真意を説明した。それは同車が、”経験がないことに妥協したクルマ”であると一見して分かったからだった。

「さまざまな試みをプロジェクトでは繰り返す以上、1台1台が次のステップへの、いい意味での経験とならなくては。経験につながらないクルマなら、つくらない方がいい。なぜ、もっと思い入れを持って取り組まなかったのかが残念だったのです」(荒木)。

全員が悔しさの中にあった。しかし、そのことは、知恵や工夫を生む原動力となった。パワー・プラント設計担当PLの鈴木茂は言う。
「指摘を受けた、『バッテリーをなぜ、よりEVに適した仕様にしないのか』という課題について何度も検討を重ねた結果、EV用としての自由度がさらに高いバッテリー形状・サイズをメーカーさんに提案でき、メーカーさん同士の連合会で承認され、最終的には世界的な標準となりました」。

ZEV法施行までは、まだ、時間がある。
『妥協のない、いいEVを創ろう』。
これが、EV開発の新たな目標となった。

*世界一のEVを目指し、いよいよD開発へ

R研究ではEVに必要な新しい要素技術【注】を一つずつマスターしてきた。特にガソリン車ではエンジンそのものともいえるモーターと制御装置については、内製化を進めることとなった。求めるモーターは、最高効率で作動するものである。その実現のためには当時、大型としてはあまり一般的ではなかったDC(直流)ブラシレスモーターを採用した。

「シミュレーションから、最も効率的だったのがこれ。Hondaはこれに集中し、徹底的に効率を高めていったのです」(鈴木茂)。

一般的ではないという不安はあったが、初めてできたモーターは予想を上回る出来となった。さらに数年間のトライ&エラーを繰り返し、EV用として仕上げていったのである。また、当時、いくつかのモーターを使っていた日本の同業他社も、期せずして、すべてが同モーター形式を採用。Hondaの選択の正しさを証明した。

ここまでで要素技術のほとんどはマスターできたとして、1992年6月、D開発としてスタート。経営トップからは、全くの新しい乗り物であり、”クリーン、静か、滑らかな異次元の走り感の表現”、”先進的であること”の二つをテーマに、『世界一のEVにすること』、との命題が与えられたのである。

【注】要素技術…新技術・システムを成立させるために必要な個々の技術・システムのことで、EVの場合は次のようなもの
①原動機交換による新技術・システム
・駆動用モーター
・バッテリー(2次電池)
・モーターコントローラー
・エアコンシステム
・電動アシストパワーステアリング
・12ボルトバッテリー用充電器
・ブレーキシステム
・回生制御システム
・トータル制御システム
②法規適合
・衝突安全性能(重量増加対応)
・デフロスター性能
③追加専用技術
・充電システム
・電気安全システム
・暖房システム
・電波(電磁波)障害対応

*13万kmに及ぶ実走行テスト

D開発のスタート時点でも、テスト車として公道を走れるEVはシビック・シャトルの改造車だけで、走行距離も40kmから50kmと、実用には程遠い状況だった。また、バッテリーによる重量増に対する衝撃対策にも、めどが立っていなかった。

また、メンバーを含めた技術研究所内でのEV開発についての啓蒙活動には、平松や、D開発への移行後に4輪車のR研究のマネジメントを担当することとなった荒木が奔走した。と言うのも、『EVは値段が高い上に、重くて走らないのでは商売にならない』、『石油はなくならない』、『第2期のF1活動も休止したのに、なぜ今、EVを開発するのか』といった意見が大半を占めていたからだ。しかし、環境問題を理解してもらうための取り組みは、研究所からオールHondaへと、徐々に成果を挙げ、その後の業務推進にとっても大きな手助けとなった。

一方、米国の主要電気・電子メーカーを回り、活用できる技術はないか、実際の技術レベルはどの程度か、についても手分けをして確認。米国生産の可能性も検証した。これは、EVが従来の自動車産業における技術領域だけでは成立しないクルマだったからだ。

そうした中、『世界一のEV』というコンセプトを研究するためのテーマとして、1993年の東京モーターショーへの出展車・EV-Xを製作。同車はショーカーと言えども、ムービングモデルであった。また、実際の市場データ収集のため、シビックを改造したCUV-4も製作。米国カリフォルニア州の電力会社と契約し、2年間の実走行テストを1994年から開始した。

D開発プロジェクト・LPLの松本謙次は、
「Hondaのアメリカでの商売は非常に大きい。中でも州単位のシェアは、カリフォルニア州ではHondaが1番。そこに住む方々が法規制で困っているようなら、Hondaとして貢献すべきだと考えたのです」
と言う。このため、D開発への移行時点で、HondaのEVはメーン市場をカリフォルニア州に、生産規模を年産約300台に設定した。

しかし、実走行テスト前には、電気安全対応などを万全にする必要性があった。例えば、バッテリーボックス内に自然界で発生し得る何十倍もの負荷を掛け、強制的に発生させた大量の水素ガスを爆発させて、車内外の安全性を確保できるか、といったテストが繰り返し行われた。

「ハード面での設定を一部変更【注】し、日・米の法規はすべてクリアする要件も設定して、実走行テストに臨みました」(松本)。

ところが、実走行テストでも、さらに一つの課題が生じた。使用した鉛酸バッテリーがシミュレーションとは異なり、夏場には1、2週間も放置されると、急激に劣化してしまうのだ。人によって、さまざまな使い方をすることからも、当時既に、メーカーさんとの『共創』によって開発を進めていた新バッテリーである、ストレスに強いニッケル水素バッテリーへの転換の必要性が、ここで明確になったのである。

「ニッケル水素タイプの実用化へのめどは立ったものの、これからが始まりでした。バッテリーは化学反応。サイエンスとエンジニアリングの融合したもので、発明の要素を含んでいるからです」(平松)。

約2年にわたる米国での実走行テストは、ホンダR&Dノース・アメリカ、アメリカン・ホンダ・モーターのモニター車を含めて10台が投入され、延べ走行距離8万マイル(13万km)にまで及んだ。こうした苦難を経て、ようやくEVとしての基本骨格が整ったのである。

【注】ハード面での設定を一部変更…具体的な内容は次の通り
①総電圧…240ボルトを288ボルトへ
②モーター…40kwを49kwへ
③ミッション…トルコンレス3ATを一速固定比減速へ
④バッテリー…鉛酸バッテリーをニッケル水素バッテリーへ

*試作初号車でゴーサイン

実走行テストと並行し、メンバーは米国に飛び、想定したお客さまに対する地道なダイレクトインタビューを幾度となく実施していた。そこでは、地球環境保全に深い理解を示す多くの米国人に出会えた。

「EVを通じてのHondaの環境への取り組みに共感してくださる皆さんがいることが、どれほどの勇気を与えてくれたことか。今でも私は、This car is right for me. I’m doing the right thing. (このクルマは私にぴったり。私は正しいことをしている)という米国人の言葉を忘れません」(松本)。

一方、それまでの研究成果と実走行テスト、そしてダイレクトインタビューから得た数多くのデータが反映されたEVの試作初号車は、1995年12月に完成した。

「EVらしいボディーデザインにするために悩みました。だからと言って、EVを改造車ではなく、専用ボディーで世に出すことしか考えなかった。思い入れが強かったことと、『改造車で』、なんて言ったら、『おまえは本気か』、と経営トップにけ飛ばされると思っていましたから…」(松本)。

専用ボディーはコスト高になりがちだ。しかもEVは少量生産が前提である。D・E部門が一体となり、品質の早期見極めと熟成を図った上で、試作車の初ロットから大物部品で恒久金型を導入した。そして、EG製のモーター、栃木製作所高根沢工場(以降、高根沢工場)製の車体と併せ、Hondaの総合力を生かしたEVとして生み出されたのである。

1996年1月、できたてのHonda製EVの試乗を終えた当時の社長・川本信彦が、
「ゴーだ。よし、やろう」
とメンバーに告げると、当時、副社長だった吉野浩行は、
「完成したなら、すぐに発表しなさい。それも、日・米同時に」
との業務指示を与えたのである。

――時間がない――。
プロジェクトメンバーは即、日・米の二手に分かれて、クルマとしてのさらなる熟成を図った。そして、1996年4月、日・米同時に技術発表が行われたのである。

*EV時代到来の予感

1997年4月、一つのクルマのラインオフ式典としては異例の、テレビ局5社、新聞社10社が詰め掛ける中、高根沢工場でHONDA EV PLUSがラインオフ。従業員が運転する同車の上でくす玉が割れると、報道陣のカメラのフラッシュが一斉にたかれた。

HONDA EV PLUSを製品として育て、商品化した松本は、さらなるEVの技術的向上を目指して次のように語る。

「バッテリーをはじめ、まだまだ課題は残っています。一方で、金額を度外視しても太陽電池を屋根に貼り付けるなど、少しでも地球環境保全に取り組もうとされている方々は確実に増えてきている。また、学校では環境問題への教育が盛んで、この世代がクルマを買う年齢になる5年から10年後には、クルマに環境や安全といったものが標準装備されていなければならないでしょう。
そこには確実に、EV時代到来の予感があるのです」。

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携帯発電機・E300 / 1965

携帯発電機・E300 / 1965

*手軽に安心して使える携帯発電機をつくれ

1963年ごろ、汎用部門は耕うん機・船外機に続く発電機関連商品の充実を模索していた。そして、当時の一般家庭における電化製品の普及と、レジャー時代の到来といった時代背景に見合った製品として、携帯発電機の開発が求められ、それによる新しい市場の構築が期待されたのである。

かつてHondaは、需要に先行して、小型の携帯発電機・E40を開発した。その小型軽量で防音型パッケージの携帯発電機には、さまざまの画期的な技術の粋が込められていたが、商品化には至らなかった。

この開発を通して蓄積された技術をベースにして、E300は企画された。出力300ワットで、”小さく、軽く、静かであり、そしてあくまでも使いやすさを重視した発電機”にこだわって、その開発がスタートしたのである。

*エンジンを、いかに小さくするか

1963年10月、設計部門に在籍し、技術研究所労組の書記長を務めていた小山幹夫に、E300のエンジンを含めた機能部分の開発が指示された。彼は、携帯発電機用のエンジンにかかわる設計から試作推進に至る作業に、1人で挑むこととなった。

最初の課題は、エンジンをいかに小さくするかということだった。そのためにはサイドバルブエンジンで、極力、小さくする(50cc)ことで実現することにした。

難しい問題として頭を悩ましたのは、クランクシャフトの出力側は発電機が占めるため、エンジンコントロールのすべての機能を片側に収めねばならないことだった。
マグネットローターを回転軸に付けねばならないし、発電機を一定回転に保つ回転制御ガバナー、そして始動のためのリコイル・スターターなど、とにかく全部を一つの軸に付けねばならない。さらにはマフラー、イグニッションコイル、クーリングファンの配置など、それらをいかにコンパクトに効率良くまとめるかがポイントだった。

*試作のプロにとことん絞られた

労組の仕事との両立を図らねばならなかった小山に、この仕事はさまざまの試練を与えた。
図面はなんとかこなしたものの、この図面で一体どうやって試作品をつくるのかが分からないような状態からのスタートだった。そんな時に試作の現場に立ち合えたのは、彼にとって大きな収穫であった。

すべてを自分1人でやっていただけに、計算や製図などの誤りにより、試作品がうまくつくれないことも何度かあった。クランクケースの抜き勾配を50分の1で図面にした時のこと、木型のベテラン担当者に、
「この勾配では砂型鋳物は抜けない!」
と指摘された。
「若気の至りというか、素人考えで反論したものだから」(小山)
ベテラン担当者の逆鱗にふれてしまい、
「おまえは鋳物のことを分かっていない!」
と、丸1日にわたって図面が真っ赤になるまで直された上、木型を前にして鋳物の理論や設計図上での指示方法の教示を受けたこともあった。

それだけに、自分の設計した最初の試作エンジンがようやく出来上がり、性能テストのベンチへ持って行って回した時は、
「火が入った時の、あの感動は今でも忘れられない」(小山)
ものであった。

*本田とにらめっこ

ある日、小山がいつものように図面に向かって四苦八苦していた時、ふと後ろからの視線を感じて振り向くと、そこに本田宗一郎が立っていた。そして、いきなり図面に手をかけると、引きはがして屑かごへ捨ててしまった。
「こっちもしゃくにさわったもんだから」(小山)、
お互いにしばらくの間、にらめっこが続いた。そして本田は、
「なぜクランクケースをこんなにでかくするんだ!ボルトは中でなく外へ出せば体積が小さくなるだろっ!」
「こんな小さなエンジンに、何でこんな長いクランクシャフトをつけるんだ!分割にしろ!」
と、二つの指摘をするやいなや、さっと立ち去ってしまった。

前者の指摘は、まだ外観を含めた全体のコンセプトもなく、キュービックデザイン(フルカバー)になる前の段階で、少しでもむき出しのエンジン部分の見栄えを良くしようと、締め付けボルトが外へ出ないようにクランクケースの形状を考慮したことによる。

後者の場合、確かにこの片持ち分割クランクシャフトの発想は生産性やコスト面で有効であり、コネクティングロッドも一体化できるなどの利点はあったが、実際に採用してみた結果は、いくらトライしても、たわみが出たり、打音などの技術的な問題を抱え、量産段階にまで引きずってしまったのであった。

*3カ月で固まった基本レイアウト

当時、耕うん機の担当をしていた畠山弘之は、1964年の春、E300のパッケージの設計を命じられた。彼は直ちにコンセプトづくりに取り掛かり、
「およそ3カ月ぐらいでレイアウトしたと思う」
という短期間で図面を仕上げた。

彼が”持ち歩き”という機能を考えたとき、最初に頭に浮かんだ形は”アタッシュケース”のイメージだった。しかし、この形では運ぶ時と使う時で上下の位置が変わってしまい、燃料の供給方法などに問題があり実現できなかった。造形室の佐藤允彌との共同作業で、キュービック形のものにそのイメージは固まっていった。

「マーケットを調べてもこの類の前例が全くといっていいほどなかった。競合もないし、決まったスタイルといったものもなかった。だから、逆に制約のないところで、自由な発想で取り組めたと言える。そのころはS・E・Dシステムもなければ、市場調査も今のように精度が良いものではなかった。でも、とにかく”いいものをつくれば売れるんだ”という意気込みだけは強かった」。

*若い女性ユーザーも意識した本田の提案

一方で、本田のこの携帯発電機に対するこだわりも強く、幾つもの注文が畠山にぶつけられた。
「底の方もきちんとしろよ。見えない部分にも気配りを忘れるな!」
「だれが見ても安心感の持てる、機械を感じさせないフィーリングを出すんだ」
「音は小さく、振動は抑えろ!」
など、その注文は細かいところにまで及んだ。

「本田さんは新しいアイデアをどんどん出してこられた。E300に対する関心は高く、”世の中にないものをつくって勝負したい”という気概はこちらにも強く伝わってきました」。

出来上がったキュービックデザインに対して、本田から
「取手部分が長すぎないか?。男女2人で持った時、お互いの手が触れ合う程度にしたらどうか」
という意見が出たことがあった。ユーザー(特に若い女性)を意識した配慮を見せたアドバイスではあったが、燃料供給のため、構造上どうしても実現できない部分もあった。

細部のデザインも”やさしいイメージと使いやすさ”にこだわり、スイッチ類もすべて丸いノブにした。特にスイッチとコックの機能を一つにしたものは、まるでラジオのボリュームノブみたいになった。ネジの頭部は極力、表に出さないように工夫を凝らしたが、これも、
「機械的なものを抑えて、使う人に安心感を抱かせるように」
という、本田の言葉にこだわったからにほかならない。

*商品化へ向けて立ちはだかった壁

試作段階を終え、商品化への段階からは、研究所の造形、設計、試験の各部門、そして浜製の生産技術部門の各担当者が配属され、チームを組んでの量産準備に入った。

しかし、この段階でも思わぬ問題が出てきて、その対応に苦労を強いられることとなった。中でも、分割クランクシャフトと無調整連続運転、そしてリアクターの3つの問題が、チームメンバーの前に大きく立ちはだかったのである。

分割クランクシャフトに関しての打音の問題は、この段階でも解決されず、量産では一体型に変更せざるを得なかった。

無調整連続運転に関しては、燃焼室へのカーボンの堆積による出力低下という課題があった。量産に入る時の要件は、無調整300時間に定められており、この問題は50ccから55ccへのボアアップとスキッシュ型燃焼室ヘッドの採用で、クリアすることができたのである。

発電機部分での課題は、定電圧維持のためのリアクターが熱によって断線することであった。これは定電圧装置のコイルを巻く材料の樹脂が、熱で変質してコイルの断線を招き、発電機そのものが駄目になるというやっかいなものであった。これには浜松製作所の生産技術(電気)のエキスパートである北村道治たちが、小山と一緒に発電機の製作担当メーカーとの交渉を行ってくれた。最終的には熱硬化の少ない注入樹脂の採用によって、解決を見ることができた。

量産図面が浜松製作所へ出図されてからは、トラブルの解決に懸命に飛び回る毎日が続き、
「ようやく、量産にこぎつけた」
というのが小山の実感であった。そして何よりも、異領域の人たちの得意技を活かしたチームワークと熱意があったからこそ、新商品の誕生が可能になったことを学んだのである。

*世界中で愛用されたベストセラーE300誕生

1965年1月、片手で持てる画期的な携帯発電機・E300が発売された。

「携帯できて、何にでも使える発電機という商品としての自信はあったが、何に使えるの?と聞かれると、漠然と”幅広い用途で使える”としか言えなかった。つまり、必ずしもユーザーがはっきりと見えていて商品化したものではなかったんです」。

発売当初の心境を、畠山はこう振り返る。しかし、E300は当初の予想以上の大きな規模で需要が伸びたのである。それは、祭りや縁日などの夜店の照明用としての需要が一気に全国的に広がったことによるものだが、
「つくる側も、売る側も新しい分野に猪突猛進、短時間に突っ走った。そして、それぞれの分野の努力で思わぬ結果が出た機種だと思うんですよ」。

その後E300は、そのコンパクトなデザインと使い勝手の良さが相まって、次第に世界中のさまざまなシーンで幅広く愛用されていった。販促のユニークなTVコマーシャルなどの効果で国内市場も拡大され、累計50万台を記録する汎用製品のベストセラー商品としての地位を築いた。その基本コンセプトは、その後のデンタシリーズに受け継がれ、現在も脈々と生き続けている。

「E300の開発の中に、自分の経験のあらゆるものが全部凝縮できた。もののつくり方も、設計の立場も、テストのあり方も、すべて理解できるようになった。この体験はその後の2輪や4輪などの、すべての仕事に活かすことができました。E300を世界中の街角で目にし、さまざまな生活の中に溶け込んでいるのを見ると、本当に良い商品の開発に携わることができたんだなと思いますよ」(小山)。

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歩行型芝刈機・HR21 / 1978

歩行型芝刈機・HR21 / 1978

*刈機を開発し、世界市場へ汎用を拡大させる

1953年のH型エンジン以来、T型、VN型と、Hondaの汎用エンジンは着実に進化して、完成商品としてもF150(1959年)、E40(1964年)やポンプ、船外機と完成機分野への進出を図ってきた。

1963年には、本格的にフランスへ耕うん機の輸出を開始し、汎用商品の海外戦略も積極的に展開してきていた。しかし、高品質で耐久性にも優れたHondaの汎用製品は、市場で高い評価を受けながらも、コスト競争力では必ずしも満足されず、海外での市場を拡大するには至っていなかった。

この高品質を維持しつつ、価格的にも世界市場で認められる、競争力の優れた新エンジンとして1977年に発売されたのが、MEエンジン(G150・200)であった。大きな期待を込めてME(ミリオン・エンジン)と名付けられた同エンジンには、文字通り汎用商品100万台販売を目指し、Hondaの第3の柱としての汎用の基盤を築くという大きな目標が与えられていた。

1970年代、世界の汎用市場は2000万台(年間)、その中でグリーン市場(芝刈機市場)は850万台を占めており、魅力と期待に満ちあふれた市場であった。

当時のHondaの汎用部門は、国内とフランスだけで完成機ビジネスを展開しており、フランス以外のヨーロッパやアメリカには、ほとんど販売拠点を持っていない状況であった。30万台に届かなかった汎用商品を、100万台以上も売らなければならないということは、これらの未開拓地域を含めた全世界に、Hondaのネットワークを築くということだ。そして、そのネットワークづくりのための商品として、大市場を持つ芝刈機の開発が大きな役割を担うこととなった。

*まず、芝を知ることからスタート

MEエンジンへ投入する新技術のR研究(基礎研究)が一段落し、ほっとしていた1975年夏、小鹿野武雄らの開発チームに対して芝刈機の開発指令が出た。彼らにとってはもちろん、Hondaにとっても、芝刈機の世界はほとんど未知のものであった。彼らは、
――芝のない国・日本のHondaが、芝のある国の芝刈機メーカーが林立する世界になぜ出ていくのか――
と、戸惑いつつも、直ちに行動に移った。
――芝刈機って何なのか。Hondaの芝刈機はどうあるべきなのか――
を原点に立ち返って考え直し、徹底した調査からスタートすることを決意。

「1人の技術者として、ハードだけでは行き詰まってしまう。芝刈機に求められるものは何か。その疑問をクリアしないと企画までなかなか結び付かない」
という意識が彼らに強く働いたのである。

小鹿野らは、芝そのものの学習から取り掛かり、芝の歴史から、その種類、世界中の分布状況などを学んだ。と同時に、芝刈機については、他社機やカタログなどから技術的な部分を調べ尽くしたが、どうしてもユーザーの気持ちまでを含めた、人と芝刈機の関係を埋めることができなかった。
そんな時、
「芝刈機の実態を現地の気候風土の中で肌で感じてこい」
という技術研究所長(当時)・百田紀一からの指示を受け、直ちにアメリカ、およびヨーロッパへ渡って、机上の調査ではつかめない部分を観て回ることとなった。1976年2月のことであった。

*世界各地の芝を引き抜いてサンプリング

小鹿野らはイギリス・ドイツ・フランス・スイス・そしてアメリカなど、芝刈機市場の国のほとんどを観て回り、メーカーや販売店の実態、メンテナンスの実情などを探って歩いた。と同時に、現地で催される展示会にも足を運び、既存の商品情報を収集した。

さらには、ユーザーが年間何時間使うのか、芝の面積はどのくらいで、だれが、どう使うのかなどを調べて歩いた。パリ近郊やロサンゼルスでは、販売店で紹介されたお客さまの庭の芝、コテージ、道端の芝までを引き抜いてサンプルを収集するなど、各地の芝の特性を調べることにも没頭。さまざまな角度から、芝刈機という商品の要件を固めていった。

各国を一通り回って帰国。直ちに技術研究所ではプロトタイプの試作が始まった。同時にテスト地探し、性能評価方法なども含めたノウハウを積み重ねる作業が、ほぼ1年間にわたり続いた。完成したプロト機が現地に適合するのか、どう評価されるのかを確認するために、1977年6月、小鹿野はテスト担当者と共に再度渡欧。今度は、各地域ごとに異なる芝の条件に適合させるための部分改良の作業が、さらに続いたのである。

*Hondaブランドの重さに新たな決意

欧米各地を回った彼らは、改めてHondaというブランドのすごさを感じた。現地法人の人について販売店へ行くと、Hondaが来た、ということでどこでも歓迎され、有益な調査を行うことができた。Hondaの2輪車専門店の人から、商売に直接関係のない芝刈機のユーザーを紹介してもらったこともある。

その中で彼らは、2輪・4輪の築いたHondaブランドに対するお客さまのイメージを決して汚すわけにはいかない、そして、10年、20年満足して使っていただく芝刈機をつくらなければと、痛感したのである。

2輪・4輪の専門店で売るのと異なり、芝刈機の場合は家庭用のローン・アンド・ガーデンマシンとして、幾つかのメーカーの製品を売る共販の形態が、欧米の一般的なスタイルとなっている。アフターサービスも十分行われてはいなかった。

しかし、お客さまに、2輪や4輪並みの満足をしていただくためには、アフターサービスの充実した専門店で売ることが望ましい。廉価品ではないが耐久性があり、ちょっと部 品を交換すれば半永久的に使っていただける商品を扱う店。そういう質の高い専門店のネットワークで、高品質な芝刈機を販売することにより、初めて汎用商品もHondaの高品位のイメージを保つことが可能なのではないか。この考えは小鹿野の中で確信となっていったのである。

*自宅に芝を植えて実証。難問クリアの繰り返し

芝刈機はHondaにとって未知の商品開発であることから、開発の初期段階には内外からさまざまなプレッシャー(意見や圧力)が開発チームに振り掛かった。
チームメンバーは、それらの一つひとつの難問に対して、実証を基に説得する作業をしながら、図面を仕上げていかなければならなかった。
例えば、
「椅子を付けて乗りながらやれば、楽でいいじゃないか」
という意見には、事務所の椅子をくっ付けたものをつくって実演し、この構造がいかに不安定で、大きな刃のある芝刈機には安全面で不適切であるかということを納得させた。

また、刈り取った芝を詰める袋がすぐいっぱいになることの解決策として、
「マフラーの熱で芝を燃やしたり、枯らせたりして詰めろ」
という指示には、芝そのものの水分が90%以上なのだから、その水分を蒸発させるだけで膨大なエネルギーが必要であることを、数字で示して説得した。

中には、
「芝は、将来、バイオテクノロジーによって伸びないものができる。芝刈機なんて無用のものになるのに…」
という言葉さえあった。
この時、小鹿野は家の狭い庭に伸びやすい芝と、少ししか伸びない芝・姫高麗の2種類を植えて観察した。季節が巡って芝が伸びてきたが、姫高麗は子供の足跡が目立ち汚いのに反して、伸びやすい芝ではそれを刈るという行為の中に、
「人間にとって自然とのかかわりの中で感じる、ある種の気持ち良さ、清々しさ」
を体感。伸びない芝では全く味わえない、この喜びがある限り、芝刈機は絶対になくならないという確信を持つとともに、逆に開発に対しての大きな自信を持ったのである。

「いろいろな意見に対して、自分たちが自信を持って説得できるように、足で調べたり、勉強したりして実証していきました。こうした一つひとつの積み重ねを、結果に結び付けていったんです」。
検討を開始してしばらくたった1975年後半のある日、本田宗一郎から、
「カバーに樹脂を使え」
という指示がきた。小鹿野は、
「芝刈機のエンジンをかける時は、その反動で本機が浮き上がることがあるので、カバーに足を掛けて始動することが多い。そのため、樹脂だとへこむし、そうすれば中の刃がカバーにぶつかって危険です。値段は安いが安全性の面で、樹脂は駄目です」
と説明し、断ったことがある。

しかし、16年後の1991年には、アメリカのGE社がアルミに近い強度を持つ樹脂を開発。芝刈業界では、Hondaが最初にカッターハウジングへの実用化に成功している。
「あの時には、改めて本田さんの着想力のすごさを実感させられました」(小鹿野)。

全体的な基本構造がまとまった段階で、他社を超える性能、例えば、アメリカのメーカーが、お客さまの要望に応じかねているようなところにHondaが応えていけば、必ず受け入れられるという部分にターゲットを絞った。それは、
①隣家にも気がねなく使える”音”、
②積極安全思想に基づく”安全性”、
③女性にも楽に使える”操作性”
を持った高級機を目指すというものであった。

マフラー音を消すために、マフラーそのものをデッキの中へ入れる試みをしたが、熱がこもって芝刈機を停車した所の芝が枯れてしまい、失敗に終わった。また、刃の回転で跳ね飛ばされた石から足を守る仕組みづくりに苦心したり、刈り取った芝の送り込みや、寝ている芝まで起き上がらせて効率良く芝を刈るためのバキュームアクションという機能に工夫を凝らしたりと、さまざまなトライが行われ、やがて完成されていった。

安全性に関しては、世界で初めてのBBC(Blade Brake Clutch…ハンドルから手を放すと自動的に3秒以内に刃の回転が停止する)機構の搭載で、当時の技術レベルでは不可能と思われていたこともクリアし、アメリカの法律制定・CPSC【注】安全基準の引き金になるなど、他社を大きくリードすることができたのである。

【注】CPSC……Consumer Product Safety Commissionの略。米国の政府機関、消費者製品安全委員会のこと

*販売目標30万台を達成

完成したHonda初の歩行型芝刈機・HR21は、1978年8月、音が静かで圧倒的な始動性を誇るバーチカルエンジンを搭載し、抜群の作業性能と安全性、耐久性を持った高性能・高品位の芝刈機として、アメリカをはじめとする海外市場へ投入された。そして高い評価を受けて好調に売り上げを伸ばし、シリーズ化された1985年には33万台の芝刈機ビジネスに成長した。

30万台を全世界で売るということは、例えば、アメリカとヨーロッパでそれぞれ15万台として、各々の販売ネットワークは1500店に相当する販売店の誕生につながることになる。

「このことは、汎用の戦略目標となった販売チャネルづくりの完成という、営業さんの大きな努力があってこその実現でした。
LPLとしてその後、約30機種の汎用製品の開発をやらせてもらってきたが、芝刈機での多くの困難との対決経験が、数々のノウハウとして蓄積され、以後の運搬機や除雪機などの開発に活かすことができた。また、MEエンジン搭載のHR21が順調に伸びたことが、次のZEエンジンの誕生へ発展することができたのだと思う。
自分としては、(こんなに多くの開発を)よくやらせてもらったなという確かな実感があります。そして仕事を通して、設計してブツをつくる前段階で、周辺情報をよく知ることの重要さを認識させられたことなど、(自分自身も)開発者として大きく変わったと思いますね」(小鹿野)。

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ミニ耕うん機・F200『こまめ』 / 1980

ミニ耕うん機・F200『こまめ』 / 1980

*ミニ耕うん機の開発は長年の夢だった

1970年代後半、Hondaが1兆円企業の仲間入りを果たし、週休2日制を導入したころ、日本全体は高度成長期に当たり、世の中には”ゆとり”を求める兆しが見え始めていた。

このころ、汎用部門がHondaの第3の柱となり得るかの命運をかけて完成したMEエンジンが立ち上がった。その100万台構想を受けて、G100エンジン搭載商品企画の一つであるミニ耕うん機の開発指令を受けたのが、齋藤軍二であった。彼は入社以来、主に中・大型の耕うん機の開発を担当してきた。

30歳代で初めてLPLとしてミニ耕うん機の開発に携わった齋藤は、もともと汎用(耕うん機)をやりたくてHondaに入社したという経歴を持っていた。それもクボタやヤンマーなどのやっている、大型の業務用のものでなく、あくまでもアマチュア的・ホビー的なものにこだわっていた。彼にとって、このミニ耕うん機の開発こそ、長年の自分の夢をかなえる絶好の機会となったのである。

世界的に見ても農業の先細り感が進む反面、家庭菜園などへのニーズが膨らむといった傾向が見え始めていた。
一方、Hondaでも芝刈機(HR21)への進出に伴って、ローン・アンド・ガーデン販売網が構築されつつある時期でもあった。

こういった背景を踏まえて、齋藤はミニ耕うん機に対しては農業用途を捨て、『アマチュア・ホビーガーデン用の入門機』という基本コンセプトを固めた。スコップやクワからの移行者をターゲットにした新規ユーザーの獲得という、明確な狙いも定まったのである。たまたま身近にいる人が家庭菜園をやっていて、常々、
「小さくてかわいい耕うん機があったらいいね」
という声を耳にしていたことも、齋藤の気持ちに弾みを付けていたのである。

小さくてもバリバリ働くことが大きな要件

海外に市場を求めての先行調査も行った。ターゲットとして、まず農業大国であるフランスを訪れ、さらにヨーロッパ各地からアメリカへと足を延ばした。フランスは、耕うん機など農業機械の市場としてHondaとのかかわりも深く、情報の収集には事欠かなかった。ディーラーを回って、特に小型商品を対象にした市場の状況を探った。パリの農業ショーでは、バーチカルエンジンに関しての貴重なヒントをつかんだりしたが、ミニ耕うん機の市場における可能性に確信を持てたのは、アメリカでのことであった。

アメリカの特に東部では、フラワーベッドを耕すためのミニ耕うん機の市場が存在することは確かめられた。しかし、市場の大きさとしては、やはり芝刈機と除雪機がメーンであって、ミニ耕うん機は、どの店でも片隅に置かれている程度で、ほとんど着目されていない状況であった。このころの齋藤が考えていたミニ耕うん機は、”入門機”という意識があまりにも強く、土を耕す性能は程々で良いとされていた。このレベルの耕うん機はやっぱりアメリカでは駄目で、市場はフランスにしかないのかなと感じ始めていた時、当時のアメリカン・ホンダ・モーターの汎用部門責任者であった金沢輝昌の一言が、齋藤の迷いを吹き飛ばしたのである。それは、
「どんなに小さな入門機であっても、仕事の機械であることを忘れてはいかん。見かけによらず、バリバリ仕事のできる能力を持つことが、商品としての大きな要件だよ」
という言葉であった。

この一言に触発された齋藤は、帰りの飛行機の狭いエコノミー席で”バリバリ仕事のできる、見かけに似合わぬ性能を持つ”耕うん機づくりのリポートを書き上げた。そして、この時点でミニ耕うん機の開発に確固たる自信を得て、本格的に走り出したのである。

*スタイリングにこだわり、バーチカル機構を採用

エンジンがあってミッションがあり、そしてハンドルが付くという、従来の耕うん機の基本構造で絵をいくら描いても、今までのスタイルの枠を出ない。そのまま小さくしただけでは、家庭菜園用というホームユースの世界には受け入れられるはずもなかった。

従って形態そのものの基本を、とにかく家庭用品的なイメージにしなくてはならないという結論が出た。齋藤はパリの農業ショーでヒントを得た、ある耕うん機の姿を思い起こしていた。

それはイタリアのメーカーのミニ耕うん機で、あまり注目されることもなく会場の片隅にポツンと置かれていた。2サイクルのバーチカルエンジンからシャフトが下に伸び、ウオームギアでロータータインを回す簡単な構造とつくりで、使い勝手も性能もそれほど良いとは見えないマシンであった。

しかし、齋藤はそのスタイルに、従来のベルト掛けの耕うん機とは一線を画す、強いインパクトを受けたのであった。この時、既に齋藤の頭の中では全体のイメージが出来上がっていたのだ。
最終的な基本構造は、バーチカル機構を用い、エンジンの下にミッションとロータータインを構成する”タテ型”に決定した。全体的には大型耕うん機にはない、かわいいコンパクトなスタイリングを目指すこととなった。

*遊星ギアはロードパルの技術を応用

開発に当たっては、目指すスタイルを具現化するためにも、従来のエンジンとトランスミッションをベルトでつなぐ方法は使えない。そこで着目したのが、遊星ギアの採用であった。減速比を30対1ぐらいに落とさねばならないが、ベルトとギアの方法では難しいところでも、遊星ギアなら可能となる。しかし、その精度の問題が壁となっていた。精度を高めると、どうしてもコストが上がってしまうのだ。
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遊星ギアを応用した減速機構には、Hondaの2輪や4輪のさまざまな技術が採り入れられた

当時、朝霞研究所ではロードパルが出て、その派生機種に遊星ギアを採用していたが、やはり同じ問題を抱え、その解決策として、ギアをコストの上がる工作機械で削らずに、プレスで打ち抜く方法を編み出していた。齋藤は早速その技術を学ぶために、何度も朝霞研究所に足を運んだ。また、車軸(タイン軸)の逆回しを可能にするベベルギアについても、コスト対策には埼玉製作所和光工場の4輪部門の専門家の知恵を借り、精密鍛造技術を用いて対処することができた。この他にも2輪のブレーキシステムをクラッチ機構に応用するなど、当時開発された2輪や4輪の新技術を各所に用いて、新機構の成立を図った。

Hondaの場合、2輪・4輪・汎用と、技術面でのすそ野の広さが大きな利点となっていることを、齋藤は実感させられた。コストダウンにつながるさまざまな技術や情報を、幅広く得ることが、問題解決の大きな要因となったのである。

本体のデザインにも力を入れた。エンジンのカバーには鉄板の代わりに樹脂を採用。色も赤と白のコントラストを強調して、
「今でも新鮮に見えるし、2輪や4輪と並んでも見劣りのしない」(齋藤)
ものとした。

耕うん機に付き物のアタッチメントについても、従来のものとは異なった仕様にした。別売りが一般的な作業部分を、初めから付けた”完結商品”としたのである。
このミニ耕うん機のお客さまはアマチュアであること、そして、作業は単機能(土を掘り起こすだけ)の商品要件を満たすためのものであり、面倒なアタッチメント管理の問題も、これで解決した。

*『こまめ』発売!予想を裏切る快調な売れ行き

試作品が出来上がってテストを繰り返し、1980年2月に、ようやく量産の立ち上がりを迎えたが、問題はその市場性だった。いくら”ゆとり”の時代が見えてきたとはいえ、実際にこんなものをつくって世の中に受け入れられるのか、齋藤は自信が持てなかった。営業に見せても、
「こんなオモチャじゃ」
と相手にしてもらえないありさまだった。当時の大多数の感覚としては、耕うん機はあくまでも農業機械としてのものがすべてであって、家庭菜園用としてのマーケットは、まだ念頭になかったのである。

企画のスタートからほぼ1年が経った3月、齋藤をリーダーにエンジン、ミッション、フレーム、そしてデザインの各エキスパートが、心血を注いで開発したミニ耕うん機・F200『こまめ』は上市された。が、国内販売は試験販売という形でのスタートだった。当時の新商品の販売目標は、どれも”ん万台”という時代に、当初はたった2000台という数字であった。
「まるで売る気がないのと一緒だった(笑い)」(齋藤)。

ところが、いざ発売してみると、目的である家庭菜園用を差し置いて、一般農家向けに『こまめ』は売れ出した。農家の裏で、お婆ちゃんが小さな畑を耕したり、土地持ちが草取りなどに使ったりして、4月、5月と、ものすごい勢いで売れ出したのである。6月ごろ、あまりの売れ行きに販売店調査を行ったが、販売店も、
「なんで売れてるか、ちっとも分からない(笑い)」
という状況だった。

当時の汎用・国内営業部長の宮田勝が付けた『こまめ』というネーミングも、かわいくて効果的だったし、2年目に販促の打ったTVコマーシャルや、国内営業の”土・日農業で売り出そう”という企画も当たって、当初の目的である家庭菜園用としての市場も次第に伸びていったのである。

トラクターイメージを排除して、手軽にパッと持ち出してパッと使えるところが受け入れられたと、齋藤たち開発メンバーは確信した。そして何よりも開発時に最も重点を置いたコンセプト通りに、見かけ以上の仕事をバリバリする『こまめ』であったのだ。重心が作業部分の上に乗っているし、回転も早い。だから、ものすごく効率が良くて、耕した後にすぐ種をまけるといったところに、『こまめ』の真価が発揮された。

同年、パリの農業ショーでも発表されて好評を博した『こまめ』は、発売初年度に3万8600台の売り上げを記録(輸出と国内が半々)し、ピーク時には国内のみで年間5万台が売れたという、ベストセラー商品に成長したのである。

『こまめ』は発売から18年経った今でも、海外を含めて年間2万台の販売を維持しているロングセラー商品でもあるのだ。加えて、『こまめ』の登場は、今までミニ耕うん機に見向きもしなかった大手の農業機械メーカーの参入をも促した。
ミニ耕うん機は急激な販売増となり、1982年には13万台という大きな市場をつくり上げたのである。

*技術屋冥利に尽きたユーザーレターの山

『こまめ』の開発を完了した齋藤が、
「それこそ技術屋冥利に尽きる」
と感じ入ったのが、大量のユーザーレターであった。自分の所に回ってきた、それらのすべてに、
『素晴らしい商品を開発してくれてありがとう』
の文字があふれていた。さまざまの苦労が報われたことが、売り上げ以上に、この一言で実感させられたのだ。

「チャレンジするというのは、最初にチャレンジする目標を、いかに高く掲げるかですよね。それは理屈じゃなくて、個人としての、人間としての想いなんだよね。機械がやってるわけじゃないんだから。
例えば市場を歩いている時、人の話を聞いている時、ピンとくるものがある。はいずり回って苦労してやってるうちに、『あ、これだ!』というものがある。それが目標となって、それを具現化するために、いろいろやっていくというプロセスが非常に大事で、技術屋の成長はそれをやらなきゃ駄目だと思うんです。
それは、ただやりたいものをやると言うのではなく、つくって、売って、お客さんに喜んでもらって、認めてもらうということ。目標を考えるというのは、そのためにやるわけですからね」

と、齋藤は技術屋としての熱い想いを語るのである。

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ものづくりの本質を追求するHondaの生産技術

ものづくりの本質を追求するHondaの生産技術

ものづくりの本質を追求するHondaの生産技術

本田宗一郎は、「いい品質の製品を、たくさん、安くつくりたい」という夢を持っていた。
Hondaの生産技術は、この夢の具現化に向けた最適な生産方法の探求に始まる。
それは、自らの意志の入った機械づくりからスタートし、つくりの本質を追求していく中で、素材から高品質な製品をつくり出す技術、一度の装着で多くの加工を行い工程の集約化を図る短いライン編成、そして、生産効率とフレキシビリティの両立を狙った生産システムなど、Hondaの生産競争力を高める独自の生産技術を生み出しながら、大きく発展してきたのである。

1962年6月、全国ホンダ会の会員に軽4輪スポーツカー・S360と軽トラック・T360を公開。同年9月には、埼玉製作所・白子工場にある工機部門を独立させ、新たに工機製作所が発足した。
1964年5月、Hondaは埼玉県の川越・狭山工業団地に、4輪車の専用工場となる狭山製作所の建設を開始。これに伴って、同年11月、工機製作所は狭山に移転し、狭山製作所・工機工場として発足。同時期には全社のプレス金型製作部門を集約・拡充し、狭山製作所・金型工場が発足した。

1967年、狭山製作所・N特別計画室溶接チームの構想に基づいて、工機工場は総合ボディー溶接機(GW)を開発。この溶接機はその形から軍艦GWと呼ばれた。
1969年、HONDA1300のボディー溶接システムとしてスライドGWが開発され、鈴鹿製作所に設置された。翌年には狭山製作所に溶接専用治具の自動チェンジ機構を備えたスライドGWが導入され、両製作所で同機種を流すことが可能となった。

1970年9月1日、狭山製作所第2工場を独立させてホンダ工機(株)を設立。同社は独立を契機に、Hondaの生産段取り部門として、常に革新的な生産技法を生み出す役割を担っていくことになった。
1971年9月1日、狭山製作所第2工場の造型、設計、金型などを中心とした段取り部門と、PGを統合して車体技術工場(BE)が発足した。
1974年7月1日、Hondaは生産技術・段取り部門の結集による拡充・強化を図るため、ホンダ工機(株)と生産技術部(車体、加工、塑形の各技術室)を統合し、ホンダエンジニアリング(株)(EG)を設立した。

1979年1月、冷間鍛造技術を活かした独自の等速ジョイントSBJ・EGIを開発し、Hondaの4輪生産に必要となる全数が内製化された。
1980年7月、4輪ボディー溶接の新システムであるSMGWを開発し、鈴鹿のNo.2ラインに設置した。さらに、年末には英国BL社にホワイトボディー生産システムを技術供与した。
1981年12月、EGで開発を進めてきたモジュールトランスファーマシンシステムは、浜松製作所の大型2輪ラインのエンジン加工設備として立ち上がった。
1982年11月、HAMにプレス金型と溶接ラインの最新設備を設置。米国での4輪生産第1号車・アコードセダンがラインオフした。
1988年5月、鈴鹿製作所において、塗装工程を大幅に集約した高効率塗装ラインシステムが稼働した。

1984年8月、EGは生産技術開発力の強化に伴い、オリジナルツールの内製化事業拡大を図るため、研削・切削ツールの専門工場として、EG川越工場を発足した。
1990年9月、EGの機能拡充と、さらなる飛躍を目指し、栃木技術センター(EG-T)を設立した。

1985年5月、EGの出先機関として米国支店を設置。北米生産拠点の量産設備の安定稼働を目的として、設備の改善・改良を含めたエンジニアリング活動をスタートした。同支店は1988年4月に、EGA(HONDA ENGINEERING NORTHAMERICA,INC)として現地法人化された。
1988年5月、Hondaのアジア地域における本格的な生産体制の実現に向けて、タイ・ツーリングオフィス(EG-B)を設立した。
1988年10月、EGの出先機関として、Hondaの欧州における量産工場の安定稼働を目的に、設備改善などを中心に活動するユーロオフィスを設置。同オフィスは1990年5月に、EGE(HONDA ENGINEERING EUROPE Ltd.)として現地法人化された。

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ホンダエンジニアリング設立 / 1974

ホンダエンジニアリング設立 / 1974

*競争力のある製品づくりに向けて

1950年代に入ると、Hondaは既に2輪車のトップメーカーへの道を歩み始めていた。1953年5月には大和工場(現、埼玉製作所和光工場)が稼働し、同年7月には白子工場を含め、埼玉製作所として発足した。また、翌1954年には浜松の葵工場(現、浜松製作所)も操業を開始。
どちらの工機部門も、その初期は合理的な機械加工をするために、治具の製作や機械の専用化改造などを担当していたが、次第にその機能を拡充してきた。2輪車・ドリームやベンリイを中心として機種の広がりを見せた1956年ごろには、エンジンのシリンダーヘッドやクランクケースなどの箱物と呼ばれる部品を加工するために、独創的な機械を開発するまでになっていた。

そして、1956年6月には埼玉と浜松の共同プロジェクトチームにより、1台で多機種生産ができるような、高精度・高効率の加工機械・HUM(Honda Universal Machine)盤が企画された。HUM盤は箱物加工において、多機種生産ができないという従来の弱みを、多軸の刃具(ギャングヘッド)と治具とを一体ユニットとして一度に交換することで可能とし、精度安定性が高く、段取り換えが5分で完了できる画期的な機械であった。HUM盤は1957年に発売されたドリーム・C70と、1958年に発売されたベンリイ・C90の生産に合わせて6台が製作され、その能力を発揮した。

「当時は、Hondaのものづくりの考え方を理解してくれる一般の工作機械メーカーが少なく、価格や納期も思うようにいかないことが多かった。本田(宗一郎)社長は、『加工機械を自らつくらないと競争力のある製品づくりができない』というお考えでした」
と、田邉 博(当時、浜松製作所生産技術課付)は言う。

さらに、Hondaは生産の形態を、ドリーム・C70とベンリイ・C90の生産段取り計画から大幅に変えた。

当時の加工ラインは、工程を分割することにより各工程の作業を簡単にし、ラインのスピードを上げて量産メリットを狙うのが常識とされていた。しかし、この方法は同時に、機械の作業内容は単純になるものの、ラインは長くなり、生産台数の変動による稼働率の低下や機種変更への対応ができないといった問題もはらんでいた。
そこで、Hondaでは1工程の中に多くの加工工程を入れる『ワンチャッキング多方向同時加工』を採用。工程を集約して加工ステーションを少なくしたのである。

この機械はその後、ベンリイ・C90の生産に合わせて製作された4方向水平ターン専用機をはじめとして、スーパーカブの量産用として製作された5方向ドラムターン専用機へと発展していくのである。

*工機製作所の誕生

1958年7月、埼玉製作所において商品化されたスーパーカブ・C100は、8月の発売と同時に爆発的な人気と売れ行きを示した。

スーパーカブの人気は、1959年になっても需要が生産を上回る勢いで続き、ついに生産量は月産1万5000台に達し、埼玉・浜松両製作所の生産能力を超える状態となった。

このような状況下で、本田と専務の藤澤武夫はスーパーカブの多量生産と新しい生産拠点づくりを決定。同年9月には三重県鈴鹿市の旧海軍工廠跡地に21万坪の新工場用地を購入し、新工場の建設に着手した。翌1960年4月には鈴鹿製作所として操業を開始。Hondaはスーパーカブの増産により、順調に2輪車メーカーとして業績を伸ばしていった。

Hondaではこれまでも、スーパーカブの相次ぐ増産に対応するため、埼玉製作所白子工場を工機部門の拠点として内外から人材を集め、専用機の設計・製作能力の強化を図ってきた。生産機種と生産量の拡大とともに、強化と拡充が続けられた白子の工機部門は、Hondaの製品づくりに最適な加工機械の製作を第1の目的とし、1962年9月に工機製作所として独立した。

「加工機械・設備づくりの基本的な考え方は、Hondaの生産競争力を高めること。極端に言えば、Hondaでしか使えない加工機械で良いということであった。『何にでも使える機械などはつくってくれるな』と河島喜好(当時、埼玉製作所副所長)さんからは言われていた。この言葉の中には、少ない投資で効率が良く、他社からは買えない機械をつくりたいという考えも含まれていたと思う」
と、鈴木茂正(当時、工機第1設計課長)は言う。

1962年10月、Hondaは東京晴海で開催された第9回全日本自動車ショーにHondaスポーツ・S360、S500、そして軽トラック・T360を出品した。当時、日本経済は高度成長期の入り口に立ったばかりであり、2輪車の分野で世界市場を席巻し躍進を続けていたHondaが、新しく提示した4輪車に世間は高い関心を寄せた。

工機製作所では4輪車の生産に向けて、4輪エンジンの主要部品で、1番工程の多いシリンダーヘッドの加工機械について検討を進めていた。設備製作では2輪車の生産設備を使って4輪車の生産をするために、少ない生産スペースの有効活用を図ることが重要であった。

本田はロータリー形式の設備を考えており、工機製作所ではワンチャックで専用機7台分の加工工程をこなすロータリーマシンを完成させた。この機械は、ワーク(工作物)をセットした作業者が手元に戻ってくる加工済みのワークを確認することができる点で、本田の理想とする『人の働き甲斐』を追求したものでもあった。

1963年6月に入ると、埼玉製作所で軽トラック・T360の生産を、8月には浜松製作所でHondaスポーツ・S500の生産を開始した。鈴鹿製作所では両機種のシャーシとボンネットカバーなどのプレス部品を生産し、両製作所に供給した。
さらに、1964年3月には浜松製作所において、S600の生産が開始された。S600の生産に当たっては、高出力、高回転エンジンのギヤ音防止に向けて歯車精度を高める必要があった。工機製作所では、専用機の設計・製作のほか、高精度機械の研究も進めていたが、S600の量産に間に合わせるために、技術的にも世界のトップ企業であるスイスのライスハワー社に歯車研削機(以降、歯研機)の発注をしたのである。しかし、納期が間に合わないことから、10台を限定製作するための技術提携を結び、Honda・ライスハワー歯研機を完成させる。

このように工機製作所は4輪車の生産に伴い、2輪車のエンジン部品の機械加工設備に加え、4輪車の設備も手掛けるようになっていくのである。

*狭山製作所の稼働と4輪車生産体制の確立

東京オリンピックが開催された1964年、国内経済は今までにない2けたの驚異的な成長を記録し、これ以降、日本は急速にモータリゼーション時代へと移行していく。

Hondaでは、埼玉、浜松、鈴鹿の各製作所に分散していた4輪車生産が限界に達し、本業の2輪車生産にも支障をきたすようになり始めていた。本田と藤澤は、同年2月に工場用地として取得した埼玉県の川越・狭山工業団地に4輪車専用工場の建設を決定。狭山は技術研究所や埼玉製作所とも近く、既に工機製作所が1963年9月に工機特別計画室を発足させ、本格的な工場建設の準備を進めていたことも好都合であった。

本田はこれまでのクルマづくりを観てきて、
「オモチャの自動車のように、一体成型でつくれないものか」
と、関係者には語っていたが、この時、既に本田の頭の中には独創的なクルマ・N360のイメージが描かれていたのである。

それを実現するためには、大型のプレス部品やプラスチック部品を生産する塑型材工場と、そのための金型を設計・製作する金型工場も必要であった。また、プレス工場で発生するスクラップも外に運び出さずに、
「そのまま鋳物部品にしてしまえ」
と、本田は考えていたのである。
しかし、4輪車生産を拡大するには、4輪車の組立工場を早期に建設し、埼玉・浜松から4輪完成車組立を移すことが先決であった。

1964年5月に入ると、Hondaは4輪工場(現、埼玉製作所狭山工場)と工機工場の建設を開始した。同じころ、4輪車の大型部品の内製化に向けて、金型工場を建設するための特別計画室も発足。建物や機械設備の計画が進められた。そして、同年11月には白子から移設された工機製作所が、狭山製作所・工機工場として稼働する。一方、金型工場の建設も急ピッチで進められていった。また同月には浜松製作所から4輪工場に生産設備が移管され、12月からはS600の生産がスタート。狭山製作所は、4輪工場、工機工場、金型工場、そして管理事務所で構成されることになった。

さらに、1965年3月になると、狭山製作所・4輪工場ではS600に続き、同クーペの生産が開始され、4月には軽トラック・T360、T500が埼玉製作所より移管された。
また、同時期に金型工場では、大きな金型が加工できる金型加工機械や、ダイスポッティングプレス、トライプレスなどの据え付けを完了し操業を開始した。金型工場では手始めにS600クーペの金型などを手掛けたが、本格的な取り組みは、N360の金型づくりから始まることとなる。

一方、埼玉製作所は1965年8月に入ると、次期新機種となるライトバン・L700の生産に向け、車体開発センターを発足させる。ライトバンとはいえ、Hondaにとってボックスタイプの乗用車は初めての試みであった。車体開発センターの主な目的は、L700の生産立ち上げに伴う不具合対策と、4輪車の骨格となるプレスや、溶接を含めたボディーづくりについての本格的な量産化の仕組みづくりにあった。

L700は同年9月の発表後、月産1000台の生産が計画され、Hondaでは4輪業界での地歩を固めるに当たって、タイミング良く出荷することが重要であると判断。翌1966年1月にはその生産を狭山製作所に移管することを決定する。これに伴い埼玉製作所は、狭山製作所で生産する4輪車のエンジン生産を担当することになっていくのである。

さらに、同年10月には狭山製作所で組織変更が行われ、工機工場は第1工機工場、金型工場は第2工機工場と改称された。第1工機工場では、4輪車生産の本格化に伴い、従来のエンジン部品の加工設備に加え、ボディーアセンブリーのための溶接組立治具や、溶接設備の設計・製作を手掛け、着々とその機能の拡充を図っていく。

1966年4月に入ると、狭山製作所内には塑型材工場建設と、生産準備のための特別計画室が発足し、工場の建設が開始される。プレス工場には、当時としては超大型のボルスターサイズ(プレスに金型をセットできるサイズ)4500mm×2200mm・出力1200から700トンの複動メカニカルプレスを頭とするタンデムラインが設置された。

4輪などの深い絞りを必要とする大物プレス部品は、ダブルアクションプレス機を第1工程に配置し、反転機によりワークを反転させて次工程に流すことが常識とされていた。Hondaでも当初はダブルアクションプレス機を使用していたが、N360以降の機種からはシングルロード化を進め、反転機をなくしたライン構成を採用していく。

さらに、機種の段取り換えに伴う金型交換では、プレス稼働率アップのための時間短縮に取り組み、独自のダイチェンジ技術を生み出していく。大型プレスを活かした大物一体成形や左右部品のセット取り技術は、その後、国内の自動車業界にも広く普及していくことになるのである。

また、プラスチック工場には、当時世界最大といわれた型締力3300トンのインジェクションマシンなどが設置され、鋳造工場には5トン/Hの熱風式キューポラと高圧造形ラインを設置することによって、ブレーキドラムの鋳造から機械加工、塗装完了までの一貫体制が採られたのである。

このように、N360の生産開始に向けて着々と生産準備が進められ、おのおのが稼働を開始する。
狭山製作所は本田の独創的なクルマづくりを具現化するために、他の製作所にはない特異な機能を持った製作所として生産活動を開始。4輪車メーカーとしてスタートしたばかりのHondaにとっては、生産設備やクルマづくりの技術、また、ノウハウの蓄積などの面から大きなメリットも期待できた。

*N360の生産に向けて

狭山製作所がその機能を拡充していく中で、1966年4月に発足。がN360立ち上げの生産企画を担当するN特別計画室は、4輪工場の一角に拠点を置き、技術面や質・量・コストなど、管理面での計画も着々と進めていった。

第1工機工場(旧工機工場)では、N特別計画室と連携してサブ・アセンブリー溶接機群と、その容姿から軍艦と呼ばれたメーン・アセンブリー総合溶接機などを開発し、狭山の4輪工場に設置する業務に取り掛かった。

その溶接機は、2輪車の生産設備を使って遮二無二生産してきたボディーづくりの経験と反省から、ボディーの精度と生産性を上げるために、一体成型の大型パネルによる構成を活かしたものとなった。これがベースとなり、以降、Hondaの4輪車生産における溶接機は、機種変更にも容易に対応できることと、工程短縮による生産性の向上を目指して発展していくことになる。

そして、同年11月には狭山製作所において、N360の量産体制の確立と、新機種のスムーズな立ち上げのための大きな布石としての組織変更が実施される。

4輪工場は第1工場、第1工機工場は第2工場として、第2工機工場(旧金型工場)は第3工場と改称。特に、第3工場は、プレス、プラスチック、鋳造の工場建設が終わって稼働体制に入った特別計画室を吸収して、塑型材の量産部門としての機能も併せ持つことになる。これによって第3工場は、HONDA1300(以降、H1300)以降の新機種から大型プラスチック部品の金型の設計・製作も行うようになっていくのである。

*ボディーづくりへのチャレンジ

急速に進むモータリゼーションの中にあって、最後発メーカーのHondaが4輪車メーカーとしての地歩を確保するためには、商品開発から生産までのリードタイムの短縮や、立ち上がりロスと、新機種投資の低減を図ることが必要であった。それは、競合他社に対して競争力を強めることを意味する。そのためには、4輪車のボディーづくりの技術を早急に確立しなければならなかった。

ボディーの良否はプレス金型の精度にかかっていると言っても過言ではない。中でも成型技術のノウハウを必要とする大型プレス金型の設計・製作には、経験の少ない第3工場にとって難しい課題も多かったが、トリミングに盛り刃方式を採り入れるなど、新しい技術にも挑戦していった。

また、金型をつくるためには、ボディーの形状を正確に把握することが必要であった。技術研究所からはクレイモデルを100mmピッチで計測した数値と、一体外形線図が出図されていたが、第3工場では金型工場としてスタートした時から、これらのデータから外形のスタンダードモデル(SM)をつくり、それを詳細に読み取ってボディー形状を数値化し、正確な線図を作成する作業を進めてきた。パネルの内板は、外板の形状と板厚から追い込んでSMの数値・線図を作成した。金型の形状加工には、SMを石膏で反転複製した倣いモデルが用いられた。また、線図や数値は、溶接治具のガバリやパネル検具などにも利用され、やがて完成車のボディーに取り付けられる外装・内装部品を製作するための基準としても提供されるようになっていった。

こうして第3工場には、ボディーの3次元形状をSMの数値・線図として再現するための独自の技術機能が生まれていくのである。これらの作業には多くの工数を必要としたが、それをコンピュータによって処理する技術開発も並行して進められた。このような形状数値化の技術は、数年後にはHonda独自のCAD・CAMシステムの開発とともに、モデルのいらないNC加工へと発展していくことになる。同工場が培ってきた独自技術は、技術研究所の近接地域にあるという立地条件も重なって、新機種開発における両者の連携の必要性がますます高くなり、作業の範囲も度合いも次第に深まっていった。

このような経過から、鈴鹿製作所で生産されるH1300のボディーづくりに関しては、第3工場で設計・製作されることが決定し、その後、新機種のボディー金型の設計・製作は、生産が予定される製作所と関係なく、同工場が引き続き担当することで、全社的な金型段取り部門としての役割を担うことになるのである。

また、Hondaライフの開発からは、SM作成の段階で製作されたモックアップモデル(樹脂製の実体モデル)が技術研究所に提供されるようになる中で、技術研究所ではモックアップモデルが実車に近い外観に仕立てられ、デザインのリファインと商品の熟成に役立てられるようになっていく。さらに、試作型の開発も積極的に進められ、量産品に近い品質の試作パネルを技術研究所に提供できるまでになっていく。これは、技術研究所の開発業務にとっては有力なバックアップになると同時に、第3工場にとっても、図面に生産性を織り込んだり、事前に成型技術上の問題の解決を図るなど、リードタイムの短縮と量産立ち上げをスムーズにするためにも役立っていくのである。

*新機種生産準備プロジェクトチームの移り変わり

1967年3月、Hondaは軽乗用車・N360を発売した。多くの課題を克服して発売されたN360は、その高性能と低価格から発売3カ月にして、軽自動車届出台数のトップに躍り出るほどの人気車種となった。

同年4月、Hondaでは鈴鹿製作所4輪工場の建設と、軽トラック・TN360の生産準備を担当する4輪特別計画室が発足。各生産部門からは技術分野ごとのエキスパートが特別計画室に入り、生産段取りの準備がスタートした。5月から開始された建設はわずか5カ月という驚異的な速さで進み、同年10月には同車の生産が開始された。

1968年に入ると、鈴鹿製作所では4輪工場のTNラインに並行して、小型乗用車・H1300の生産準備が着々と進められていった。

H1300は、世界でも例のない、独創的な”一体構造二重壁空冷方式(Duo Dyna Air Cooling)エンジン”を掲げ、本田がその開発から陣頭指揮を執ったHonda初の小型乗用車である。同車の最高速度175km、出力96馬力という性能は、当時としては並外れた高性能セダンであった。

その心臓部となるエンジンの生産については、4輪エンジンの生産を担当していた埼玉製作所の機械加工担当スタッフが主体となって参画。研究所と生産性や図面仕様について打ち合わせを行い、エンジン部品の機械加工ライン構想や設備計画を立案し、狭山製作所・第2工場や鈴鹿製作所のメンバーとの連携の下に準備を進めていったのである。そして、1969年5月には、鈴鹿製作所においてH1300の生産が開始された。

しかし、H1300はライン生産が開始されても設計変更が多く、そのフォローのために技術研究所から鈴鹿駐在部隊が編成され、長期滞在をしながら設計変更を行い、生産ラインは24時間体制で対応するという状態であった。

一方、このような状況の中で、鈴鹿製作所では、同年6月になると次期新機種となるHonda・Z360の生産準備のために、各分野のエキスパートが集められ、PGと呼ばれるプロジェクトチームが発足した。PGは研究所や狭山製作所の工機・金型などの段取り部門と密接な連携を図るために、その拠点を狭山製作所の一角に置き、生産性や生産ラインの構想・設備計画・投資・コストなどについて検討を重ね、生産準備を進めていった。Z360は量産試作によってスムーズな生産立ち上げの確認を行うなど、最終段階を迎えていたが、狭山、鈴鹿両製作所における生産機種の関連性などから、急きょ、その生産は狭山製作所で行われることに変更された。

Hondaでは新機種の生産を担当する製作所が、車体開発センター、N360・特別計画室、TN360・4輪特別計画室などのプロジェクトチームを、その都度編成して生産準備に当たってきた。しかし一方においては、これまでのやり方では仕事の継続性がなく、機種立ち上げの技術的ノウハウが十分には蓄積できないという課題が生じており、技術者の専門性をより有効に活かすためのマネジメントの確立も必要になり始めていた。PGの発足はその施策の一つでもあった。

1970年8月に入ると、Hondaは各製作所に生産技術グループ・HTG(Honda Technical Group)を発足させた。
HTGは、資格制度(1968年発足)により育ってきたエキスパートの専門性を活かすため、製品開発とタイアップして新しい生産方式を創造し、生産設備・生産手法を新しいものに変えることを目標にした。また、それぞれのテーマについては、本田の直接指導を受けて多くの分野で成果を挙げた。
しかし、HTGは1973年11月に発足した新技術部がその役割を引き継ぐことで発展的に解消し、技術者は原籍に復帰することになっていくのである。

*ホンダ工機の独立

1970年9月1日、Hondaは狭山製作所第2工場を独立させてホンダ工機株式会社を設立した。

ホンダ工機は全社の生産段取り部門として技術開発に主体性を持たせ、エキスパート集団にふさわしい独創的なアイディアにより、常に革新的な生産技法を生みだすための部門として設立されたのである。初代社長には本田が就任。独立を契機として、ホンダ工機は社内向けの生産設備の開発・供給のみならず、安くて良い品質の外注部品を確保するため、協力メーカーへの専用機、汎用機の販売、およびリースのほか、一般市場向けの外部販売も行うことになった。

「ホンダ工機を独立会社にしたのは、自由に新しい加工方法を考え、それに適した機械を本田技研のためにつくるということ。また、外部への販売もできる専用機メーカーに育ってもらいたいという考えがあったわけです。
将来は単なる工作機械メーカーではなく、新しい加工方法や生産技術の経験を活かし、さらにシステム化したもの、言うならば『エンジニアリング』を考えていかなければならないという構想がありましたね」
と、当時、本田技研専務であった河島喜好は言う。

ホンダ工機は4輪生産の本格化に伴い、同年12月には4輪車の総合溶接機の自動治具チェンジ機構を開発し、狭山製作所でのライフステップバンの生産に合わせて少量生産用の総合溶接機・GW(General Welder)の治具を、さらに、シビックバンの立ち上げでは、スイング式GWを投入していくのである。

このように独自の設備を開発する一方で、ホンダ工機は新しい生産技術システムの検討も進めており、1972年初秋には欧米の主要産業の『生産技術調査』を実施。この時の調査は、自動車会社、工作機械メーカー、計測器(センサー)メーカー、燃料噴射メーカー、さらには、シンクタンク、コンピューターメーカーなどを含め四十数社にも及んだ。

特にアメリカでは、同国を代表する工作機械メーカーで、NCマシン群を組み合わせた規模の大きなフレキシブルラインの稼働状況を、さらに、世界的に有名な自動車会社の最新組立工場では、既に稼働していた産業用ロボットを見学している。

日本における産業用ロボットの研究は、1967年に米国のAMF(American Machine & Foundry)社から『バーサトラン』という名称で初めて紹介されたロボットからスタートし、日本の自動車産業では1970年から導入されていた。

ホンダ工機でも1973年2月に、Honda初のロボットHRB600を独自に開発した。このようにホンダ工機では時代の動きをとらえ、新しい生産システムや生産技術の検討も積極的に進めていったのである。

*BEの発足と生産準備システムの確立

1971年2月、Hondaは世界が注目した画期的な低公害エンジン・CVCCを発表。社会的には、安全・公害などに対する関心の高さから、単に高性能・高品質だけでなく、消費者個々の好みに応じた、多種多様の商品が求められるようになってきた。

このような状況の中で、狭山製作所では同年9月に組織変更が行われた。ホンダ工機の独立に伴い、第3工場から改称した第2工場は、プレス・プラスチック・鋳造などの塑型材量産部門を第1工場に移管し、造型・設計・金型などを中心とした段取り部門と、ライフの立ち上げを行ったPGを統合し、新たに車体技術工場・BE(Body Engineering)として発足した。

BEは、独自のボディー形状再現技術や金型の設計・製作に加えて、ボディーづくりの技術集団と溶接機やフィクスチャー(溶接機能を持った治具)の設計・製作を担当するホンダ工機と連携を図り、ボディーづくりについての全社的な役割に専念することになった。そして、ボディーづくりの全領域にわたってHondaの生産体質を強化し、競争力を確保するために積極的な技術開発にも取り組んだ。また、研究所の商品開発のステップと並行して新機種立ち上げの生産準備システムの確立を図る中で、製作所との連携作業を展開するようになっていくのである。

車体技術工場の受け持つ生産準備システムとは、
①生産までのリードタイムが短いこと
②生産性と商品性が両立されること
③量産立ち上がりのトラブルが少ないこと
④立ち上がり費用やロスがミニマムであること
⑤新機種ごとの生産設備投資が少ないこと
という要件を、より高いレベルで効率的に具現化することにあった。

そのために研究所との連携作業による試作などを通じて、量産時に予想される技術的な問題については、設備や生産技術面での対応を行うとともに、研究所への提案によって、問題を事前に解消しておくことが必要であった。

また、生産部門と連携して、生産体質上の課題を解消するために、生産方式や設備・ライン構想を提案し、金型や溶接治具・機械設備などを提供することによって、目標要件の達成を具体的に実証することに努めた。

さらに、工場内にミニラインを設置し、生産部門に引き渡される直前の金型や、溶接設備を使っての量産試作も行っていった。この作業では、生産現場のリーダーも参画して、新しい設備に対し習熟を図りながら、実際の生産に必要なメンテナンスやマニュアルづくりなどの準備を進め、量産立ち上げに問題のないことを確認したのである。

生産準備システムの確立により、量産立ち上げにおける各段階の評価会には、製作所の責任者、本田技研の担当役員も参画した。このようにして製作所のボディー生産体質は、新商品の立ち上げやモデルチェンジを重ねるごとに改善され、時には思い切った革新につながることもあった。

車体技術工場は、まさしくBEと呼ばれる通称の通り、ボディーづくりのエンジニアリング部門として、Hondaの4輪車の生産にとって欠くことのできない存在となった。

このように新機種の立ち上げにおいて、車体の生産準備システムが定着していく中で、エンジンについても同じようなアクションが行われていた。特に4輪車のエンジン生産を担当していた埼玉製作所には、熱処理・鋳鍛造・ダイキャスト・機械加工・組立など、エンジン関係の技術者集団が置かれ、それぞれの領域で技術開発に当たっていた。

その中でも、エンジン部品の機械加工については、この集団の機械加工グループが、加工方法の開発や生産ラインの構想に当たり、研究所との間で生産性や図面仕様の検討を重ねながら、機械設備の設計・製作を担当する工機部門と連携し、生産準備を進めてきた。新機種の生産準備を進める上で、BEとの対比から、機械加工グループ、あるいはホンダ工機と機械加工グループを合わせてEE(Engine Engineering)と呼ばれることもあった。

*新らしい時代を見据え、ホンダエンジニアリング設立

Hondaを取り巻く情勢は、新製品開発に向けた企業間競争の激化などから一段と厳しくなりつつあった。この厳しい中で成長の実を挙げていくためには、商品開発の多角化を図り、生産性とフレキシビリティーの両立を高いレベルで実現する必要があった。さらに、専門家集団の総合的機能強化など、従来以上に企業努力が必要とされてきたのである。

このような背景から、Hondaは1973年3月に新技術部を発足させた。車体技術工場は埼玉製作所和光工場の技術者集団とともに、新技術部の中で生産技術部門を構成することになったが、同年11月の組織変更で生産技術部として独立した。それは、Hondaが国際的な生産企業として発展していくために、積極的な生産技術開発による生産体質の強化と、生産競争力の向上が必要とされたからである。

1974年に入ると、Hondaは従来の海外における他社への技術供与や、KD、合弁の積極的展開から、新たにHondaグループとしての体制づくりを、国際的な観点から考えなければならない時期に差し掛かっていた。

一方、商品面では国際競争力の決め手となるコストや品質の強化とともに、商品の多様化も重要課題となってきた。これらの動きに対応するためには、協力工場を含めたオールHondaの生産体質のフレキシビリティーを高めることが急務となっていた。それは、1956年7月に藤澤が『社長の構想』としてホンダ社報の中で語っているが、Hondaが2輪車生産の拡大期より持ち続けてきた考えであり、常に設備のフル稼働を目指して数多くのチャレンジを積み重ねてきたのである。

この時期、2輪・4輪・汎用製品を持つHondaが厳しい国際競争に生き残るためには、各市場の変化に対して俊敏に対応できる生産体質の構築が、今まで以上に求められていた。

このような状況の中で、Hondaは生産技術領域における段取り部門の結集が必要と判断し、同年7月1日にホンダ工機と生産技術部とを統合して、ホンダエンジニアリング株式会社(EG)を設立した。
EGはオールHondaのニーズに応えるため、次の3点を主に追求していくことにした。

①常に諸情勢の変化と企業ニーズを予測し、生産技術、および生産手段の開発によって、新しい商品開発と生産体質の改革・改善を可能なものとする。
②新機種の生産や、KD、合弁工場を含む新工場の建設、さらには協力工場の体質改善などのための省人投資などの機会に、競争力の高い生産手段をタイミング良く生産部門に提供し、併せて質・量・コストについての目標達成を保証する。
③生産・販売企業が世界的な競争状態にあることから、常にその生産手段は前進的であり革新的であることが要求される。そのニーズに応えるための生産技術開発における努力と集積を基に、オールHondaの一環としての役割を果たす。

さらに、オールHonda諸機能の関連として、魅力ある商品の開発を技術研究所が受け持ち、生産手段の開発と具現化をEGが担当する。そして、効率的な生産と販売の展開は本田技研が担うというシステムが構築されたのであった。

*
Hondaの生産競争力確保に向けて

EGの役割は、Hondaの生産競争力を確保するためにニーズを先取りして、生産技術の研究・開発によって得られた成果とノウハウを蓄積し、生産ラインや加工方法の構想を提案して、金型や機械設備の提供によってそれを実証することにある。

また一方でEGは、研究所との共同作業の中で、商品図面の生産性を高めるための提案だけでなく、Hondaの生産戦略展開にとって必要であれば、商品の構造や機能部品についても、生産技術に立脚した開発に取り組んできた。その成果はHonda製品の多くの面に活かされ、商品性を高めることに役立っている。

例えば、Hondaの4輪車はフロント・ドライブを売り物としているが、その生産には、Hondaと取り引きをしていた国内の部品メーカーT社の等速ジョイントが不可欠であった。それは、英国企業の特許によってライセンス生産されており、小型車の駆動がフロント・ドライブに移るにつれ、Hondaの生産は、数量確保とコスト維持の面でも、T社の生産能力によって制約を受けかねない情勢になった。Hondaでは埼玉製作所和光工場が、冷間鍛造塑材の提供によって応援する形を採っていたが、それでは間に合わず、塑材から機械加工、完成組立までを支援することになり、EGがその生産を担当することになった。
これがきっかけで、EGでは埼玉製作所で長年蓄積してきた冷間鍛造技術を活かして、特許にも抵触せず、機能的にも優れた独自の等速ジョイントSBJ・EGI(ストレート・ベル・ジョイント、EGインボードジョイント)を開発。Hondaの4輪車生産に必要となる全数を、埼玉製作所真岡工場(現、栃木製作所真岡工場)で内製化したのである。

等速ジョイント開発の過程では、ウルトラ研削の技術も生まれた。この技術によって軸物部品の研削能力は、従来の3倍の能力増となり、Honda全体の生産が増大していく中でも新たな投資をすることなく、既存機械の改造により対応することができた。特にカム研削や難削材のバルブシステム研削では、設備投資やスペースについて大きな効